中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第一〇部 憲三の「高群逸枝全集」の編集と石牟礼道子との同居

第二六章 道子の前半生と逸枝の『女性の歴史』との遭遇

石牟礼道子(旧姓吉田)は、一九二七(昭和二)年三月一一日、白石亀太郎を父とし、吉田ハルノを母として、亀太郎が当時建設事業に携わっていた熊本県天草郡宮野河内において出生しました。それから数箇月後、一家は、八代海(不知火海)を挟む対岸の水俣町に帰ってゆきました。亀太郎は吉田家の婿養子でした。ハルノの両親が松太郎とモカで、道子が物心ついたときのモカは、すでに精神に異常をきたしていました。石工である松太郎には、「おかねさん」と呼ばれる妾があり、そのことが主な誘因となって発症したようです。道子は、母のハルノよりも、祖母のモカの膝に抱かれて育ちます。

彼女は、私をひざの上にのせて頭をさすりながら、しわぶくようなやさしい声で、
 どまぐれまんじゅにゃ泥かけろ
 松太郎どんな地獄ばん(ばい)
 おかねがまんじゅにゃ墓たてろ
 どこさねいたても地獄ばん
 こっちも地獄
 そっちも地獄
と呟いていました

続けて道子は、さらに自分の家の複雑さについて、こう語ります。

 おさな心にも祖母のうたの意は心にしみてわかりましたし、松太郎とはわたしの祖父、おかねさんは祖父の権妻だと近所の小母さん達が教えますし、松太郎と祖母の間にわたしの母と(母)の妹、松太郎とおかねさんの間に母の異母妹、弟とがいてこのような家のムコになった父とがみんな同居しているありさまはちょっとした人間図絵でした

道子はのちの文においては、「おかね」ではなく、「おきや」という呼び名に置き換えて使っているのですが、その「おきやさま」について触れた箇所がありますので、以下に引用します。

 祖父とその妾おきやさまとの間に生まれたみすずと兼人の二人だが、まるでこの世に来たことを申しわけないとでも思っているかのような生前であった。わたしの両親は、いわば胎ちがいの妹と弟とを何くれとなく気にかけて面倒をみていた。本妻が狂女であったことに気を兼ねていたのだろうか、この二人はそれとなくへり下っている様子があって、それがいじらしかったのかもしれない

このころ吉田家は、石屋として水俣の栄町通りに居を構えていました。『石牟礼道子全集』別巻に所収されている「わたしの栄町通り」(石牟礼道子自筆絵地図)によると、この通りには、風呂屋、髪結い、豆腐屋、飲食店、米屋、仕立て屋、遊郭、染物屋、鍛冶屋などが並んでいました。橋本憲三の姉の藤野と妹の静子が経営する商店も、この通りにあり、道子の家とは目と鼻の近さでした。「橋本家は食品をまかなう卸問屋で、お酒や炭俵、米麦、砂糖などを扱っておられた。小さい時には、お使いで黒砂糖などを買いに行っていたものだ」と、道子は振り返ります。

藤野と静子が最初に店を開くのは、一九三三(昭和八)年の秋、水俣町古賀町においてでした。店は繁盛し、その後栄町に移ります。したがいまして、栄町通りで静子と道子が顔をあわせるようになったのは、静子が二三歳、道子が六歳のころのことだったのではないかと思われます。そのころ高群逸枝は、夫の橋本憲三の助けを受けて、東京の「森の家」で女性史研究の緒につきます。そのようなわけで、まだこのときの道子にあっては、藤野と静子が、高群逸枝の義理の姉妹であることなど、知る由もありませんでした。

道子の祖母のモカは、「おもかさま」と呼ばれ、父の亀太郎がとくにそうであったように、周りから大事にされていました。しかし、道子が回想するところによると、「どういう気持ちで徘徊するのかわかりかねるが、おもかさまは時々、人さまの家の前に立って、ひとり言をいう癖があった」。ひょっとしたら、橋本商店の前に立って、何やらぶつぶつと口走る「おもかさま」の姿があったかもしれません。そうした「おもかさま」を引き取りにゆくのは、亀太郎やハルノだけではなく、幼い道子に課せられた大事な仕事でもありました。「気狂いのばばしゃまのお守りは、私がやっていたのです。ばばしゃまは私のお守りをしてくれていました。……ばばしゃまは雪のふる晩はとくに外に出たがり、疲れはてた母たちが寝ると、私はばばしゃまを探しに出ます」。道子はまた、こうも書きます。「私も栄町の表通りを、裏返しにした着物を着て、裸足でよその家の前に立って、何か呟いている祖母を連れ帰しに行ったことがたびたびあった」

栄町には、「末広」という遊郭がありました。遊女たちは「おもかさま」をやさしく扱っていました。あるとき、「末広」でひとつの事件が起こりました。以下は、道子の回想です。

 末広はじまって以来の器量よしのぽん太さんが殺されたというので、起きぬけに飛んでゆくと、半畳位血のしみこんだ畳が、夕方になると首白粉を塗って彼女が腰かけていた番台に、立てかけてありました。……
 番台に並んでいる淫売のひとたちは、並はずれてみんなやさしく陽気そうで、私も大きくなったら淫売になってやろうと思っていました

道子にとって栄町での生活は、そう長くは続きませんでした。八歳ころのときでした、祖父の松太郎が事業に失敗したことにより家が傾き、「差し押さえ」という苦難に遭遇したのです。そこで家族は、水俣川の河口にある当時「とんとん村」と呼ばれていた集落へと住まいを移します。粗末な小屋のような家でした。渚に出て魚介類や海藻といった海の幸に親しむことはできたものの、近くには火葬場や伝染病を扱う病院もあり、ここは、住むには決していい環境ではありませんでした。

道子の父の亀太郎は、精神を病み目が不自由な義理の母親である「おもかさま」には、とても愛情を示す人でしたし、そののちに道子が結婚したおりには、自力で家を建て与えてもいます。道子は、こう回顧します。父親は、「水俣川が氾濫するたびに集めておいた流木や、この町で一番先に乳牛を飼っていた人からゆずられたという材木を持ってきて、掘っ立て小屋まがいの新居を手作りで建ててくれたりした」

しかし亀太郎は、家族からは恐れられる一面ももっていました。

 父は酒乱な上、泣き上戸でしたが、栗飯と茶碗が飛び散って、母が裸足で外に飛び出たあと、こわれた火鉢に「ちょく」という焼酎瓶を据え、「ミッチン、われや、このお父っちゃんにつきあうか」といって、冷たい盃をぶるぶるこぼしながらつきつける。私は……好かん、と思いながら、フーンと鼻で返事して、その盃を何べんも受けました。夜市で見たこわい「地獄、極楽」の中のやせた「餓鬼」たちが青い舌をたらんと出している、それを思い出し、父に似ていると思ったのです10

精神錯乱の母に酒乱の夫――道子の母親のハルノは、「大変な苦労をしながら、没落した家を天性の明るさで支えてきた」11と、道子は語ります。後年のことになりますが、亡くなる一週間くらい前、道子がそれに触れると、ハルノは、悲痛な表情になり、こう答えました。

 なんの苦労じゃろか。あたいが十歳時分の頃じゃった、おもか様があのようにならいましたのは12

そしてしばらく無言が続き、そのあとハルノは、こうつなぎました。

 子供の頃は遊びにも行かず、泣き狂うて彷徨さまようおっ母さまの手を取りながら、あたいの方が親にならんばと思いよった。はた織りの名人と言われよったがなあ13

道子は、このようにいいます。「こういう家庭の中で育った私にも、狂気の血が伝わっているに違いない」14

一九四五(昭和二〇)年八月、日本は終戦を迎えます。そのとき一八歳の道子は、小学校の代用教員をしていました。そして二年後、結婚話が持ち込まれます。そのときのことを、次のように道子は、述懐します。「結婚はまとまった。……家にいると弟たちの邪魔になりはすまいか、また口減らしをしなければ、という思いもあり、弟の友人というのが何よりありがたくて、ゆく気になった。……いまひとつ思ったのは、吉田姓であるよりも石牟礼姓を名乗った方が、ペンネームのようで面白い。……父は並々ならず石を尊敬していたから、石牟礼弘という弟の友人と式を挙げることになった」15。嫁入りに際して、父親の亀太郎は、道子にこう言い渡しました。「おなごは三界に家なし、というたもんぞ。いったん嫁にいったならば、二度とわが家に戻ってくると思うな」16。これを聞いた道子は、「わたしは強い衝撃を受けた」17とも、「わたしは大混乱に陥った」18とも、書いています。「おなごは三界に家なし」を、「子ども時代には親に従い、嫁いだあとの生活では夫に従い、夫を看取り年老いたのちは成人した子に従う」という意味に解すれば、女には安住の地はどこにもなく、現世は地獄、死したのちにやっと極楽にたどり着くことになります。このとき、女の生涯とは何なのかと、道子が疑問と怒りを感じたとしても、無理のないことでした。

そうしたこともあって、道子にとって結婚は、決して胸躍る出来事ではありませんでした。このように道子は述べています。

 いわば私ははじめから妻というものになる気持ちはなく、その相手方を主人というものにする気もなかったようです。多分私は、かの女性ホルモン欠乏症愛情疾患の第二期的病状を呈していたのだと思うのです。愛情って何よと、私はうわごとをいいつづけました19

それでは道子は、弘のことをどう呼んでいたのでしょうか。「十二年間一緒に暮らしている男の人のことをほかの人に、私はちかごろうちの先生は、というようです。ためらいためらい、そういってみるのです。その前はあの子のお父さんがとか、万やむを得ない場合はごくまれには「あの、シュジンが」といってしまいますが、いった直後、顔から火の出る思いがいたします」20。道子の夫の弘は学校の教師をしており、結婚翌年の一九四八(昭和二三)年に、長男の道生を道子は出産していました。「うちの先生」と呼ぶ自身の夫について、道子は、このようにも描写します。亀太郎が娘夫婦のために新居として小屋をつくるとき、弘も手伝っていたようです。

……若い父親は流木などを拾い集めて、三人の小屋をたて、もともと貧乏な私はその小屋を……ひそかに気に入ってもいたのです。でも小屋の中の生活はそういう訳にはゆきません。自分の目ざしているモラルと、彼の目ざしているモラルがなかなか接近しません。両方のモラルが接近しないというより、私は自分のモラルを満たしてくれない相手を憎みはじめていました21

この時期、道子の苦悩は深刻でした。「田舎の嫁の一人としての疑問から始まって、代用教員を体験したり、化粧品や靴下を売ったり……そういうことをしながら思っていたことは、自分が今の世に合わないということだった。近代とは何か、という大テーマがわたしの中に根付きつつあった」22

一九五二(昭和二七)年、熊本市で蒲池正紀が主宰する歌誌『南風』の会員になります。次の一首は、そのころ投稿した道子の作品です。

狂えばかの祖母のごとく緣先より
けり落とさるるならんかわれも

この自作について道子は、このように解説します。

 この祖母が青竹をもって全身をふるわせて叫びだす時、祖父はおどり出して行って祖母をけり落とすのです。祖母は如何にも悲痛に、チクショウになれ、チクショウになれえとしぼるようにいうのです。私はそれで、人間が一番呪われた状態になるのは、チクショウというものになるのだとおそろしく思ったものです23

別の箇所で道子は、この作品について、次のようにもいっています。「これは私の二十代はじめのころの一連の作品で、この一連をちいさな短歌同人誌に出したとき、同人達はなんだかぎょっとして、批評の対象外の作品と思ったらしく沈黙した」24。そして、こう続けます。「日常的風詠が出されているサロン風の場所に、このような歌を持ちこんだのは……ゆき場がなくて……魂が吐血した状態だったにちがいない」25。さらに言葉が展開します。「この祖母も祖母の怨恨の元凶であった祖父の臨終もわたしが看取り、暫くするとこんどは弟が、精神病院から帰ってすぐに、汽車にひかれて死んだ。私の家系には狂死が多いのである」26。亀太郎とハルノの夫婦は、道子を長女として、そのあとに三人の息子とひとりの娘を設けますが、このとき鉄道事故でいのちを落としたのは、道子にとってはひとつ違いの弟のはじめでした。一には、三歳に満たない幼子がいました。そのときその童女は、「霜の立ちこめる枕木の間をかがみかがみ……文字どおり紅葉の掌に、死んだばかりの父の足の小指おゆびを拾いあげ、ちいさなエプロンのポケットに大切そうにおさめた」27。痛ましい弟の自死は、水俣湾の周辺の漁村で多くのネコ(猫)が死に、原因が不明のまま中枢神経疾患の患者が散見されるようになる年からおよそ五年が立った一九五八(昭和三三)年の晩秋のことでした。道子は書きます。

……おなじく前後して自殺したふたりの友人たちや、わが家系につらなってくるものたちの、かなしい微笑が浮かんでは通る。
 後年、凄惨きわまる図絵がくりひろげられる水俣病事件史の中をゆくことになった。その経過の中で窮死した父を含めて、このものたちの微笑に、わたしは導かれていた。その生と死とをふたたび生き直しながら、自分の中に狂気の持続があることを、むしろ救いにも感じていた28

一方で、水俣病の事件が社会に認知されるようになるなかで「窮死した父」の胸の内を、その娘は、次のように、なぞってみせます。

 彼は自分の足がふるえる時ふと汽車にひかれて死んだ息子の、千切れた足を思い浮かべる。忘れかけていた娘のことを想い出す。親不孝者どもめ。彼は娘は嫁にやってからアカがかってきて、奇病のことなんかを書いているらしい長女のことを思う。親はどげん世間のせまかか。……呉れた娘に、白石亀太郎は、野垂れ死しても、世話にはならんぞ。会社に弓ひいたりなんのして29

引用文中の「アカがかってきて」というのは、道子の日本共産党への接近を意味するのでしょう。入党は一九五九(昭和三四)年です。しかし、翌年には離党します。「奇病」は水俣病を指し、「会社」は、水俣病の原因企業とされる、新日本窒素肥料株式会社を示します。

弟の死は、道子にとって大きな衝撃だったにちがいありません。しかし、自身もこれまでに、未遂に終わりはしましたが、一度ならずもその経験がありました。三度目は、結婚直後のことでした。『評伝石牟礼道子――渚に立つひと』の著者の米本浩二は、「八八歳の道子に三度の自殺未遂について聞いた」30。それに対する返答は、次のようなものでした。

死にたかった。虚無的な気持ちが小さい頃からありました。なぜ死にたいか。ひとつには、この世が嫌いでね。今も嫌いですけど。よく我慢して生きてきたなと思う。悲しい。苦しい。それを背負ってゆくのが人間だと思う。嫌でたまらないから、ものを書かずにいられないのでしょうか31

すでに引用で示していますように、「自分が今の世に合わない」という思いが、道子の心の底にうごめいていました。自殺への誘惑も、そのことにおそらく起因していたのでしょう。しかし、まだ生きている。それでは何を力としてこれから先、生きてゆけばよいのか――道子はそう自問したにちがいありません。そしてその問いは、「ものを書かずにいられない」という、強い衝動を道子にもたらしたものと思われます。かくして道子は、自分の悲しみや苦しみを全身から吐き捨てるかのように、他方でその気持ちを、他者の同じ状況に柔らかく重ね合わせるかのように、ものを書く作業に入ってゆくのでした。いわば、「我慢して生きる」ことの代償行為としての文筆活動が、ここにはじまるのです。しかし、死の誘いから生の延伸へとうまく接合させるには、どうしても必要なものがありました。それは、「生まれ変わり」あるいは「生き直し」にとって必要不可欠な、生存能力の再獲得のための祭儀としての装置でした。道子にとってのその祭祀舞台は、どこからもたらされ、どのようなかたちをとりながら構築されていったのでしょうか。これから述べるように、見る限り、高群逸枝との衝撃的なこの時期の出会いと、「森の家」での橋本憲三とのおよそ五箇月に及ぶ生活とが、まさしくそれに相当するものであったのではないかと、理解することができるのです。では、高群逸枝との石牟礼道子の衝撃的な出会いの場面から描写をはじめてみたいと思います。

水俣病の出現と拡大、『サークル村』の創刊と参加、弟の死、日本共産党への入党と離党――これが、おおまかな一九五〇年代後半における道子の足取りです。労働者をつなぐ「表現」の場として、炭坑のある筑豊の地で谷川雁や上野英信、森崎和江らによって創刊された文芸雑誌が『サークル村』でした。谷川雁も同じ水俣の出身でした。この雑誌の創刊は、一九五八(昭和三三)年九月で、その二箇月後の一一月に弟を鉄道事故で亡くします。道子は、自分が置かれているこのころの状況について、こう書きます。

サークル村に参加することと、入党することは、いまだ書かれざる近代思想史がどうであれ、私にとっては突然湧いてきた美学でした。いえ、すべて混沌の内部にいつもいて引き裂け、つぎなる混沌を生みだす民衆のひとりとして私はそこにいました32

道子はさらに、こうも書いています。

私はサークル村に入っててちょっと書いたり、谷川雁さんがやっておられた大正行動隊に行ってみたりしていました。短歌をやめかかっていたので、別な表現を獲得したかったのです。そのころ、自分を言い表せるものが何にもないと思って、いろいろ悩んでいました。結婚とは何ぞやとか。そして表現とは何かと33

そこで、道子の足は、図書館へ向かうようになりました。水俣には、淇水きすい文庫と呼ばれる、徳富蘇峰が寄贈した図書館がありました。館長の中野普は、本や文献といったものにまるで知識がなかった一家庭婦人に、噛んで含めるように、一から十までを教示しました。最初は郷土史についての古い文献に関心をもつ道子でしたが、しばしば通ってくる道子に対して館長は、特殊資料室の書物を自由に閲覧できるように便宜を図りました。ここに、まさしくひとつの大きな出来事が待ち受けていたのです。道子は、そのときの衝撃を、このように文字にしています。少し長くなりますが、省略することなく、書き写します。

 それまでの家庭生活にくらべてあまりに世界がちがうのに圧倒され、特殊資料室の大書架に誘われてたたずむうちに、ふと夕日の射している一隅の、古びた、さして厚ママのない本の背表紙を見たのである。「女性の歴史・上巻・高群逸枝」とある。われながら説明のつかぬ不可思議な経験というよりほかないが、夏の黄昏のこの大書架の一隅の、背表紙の文字をひと目見ただけで、書物の内容については何の予備知識もないのに、その書物がそのとき光輪を帯びたように感じられた。つよい電流のようなものが身内をつらぬいたのを覚えている。そのため、しばらくその書物を手にとることがためらわれた。ややあって、なにかに操られるような気持ちでそれを手にとるとかすかな埃が立った34

時は「夏の黄昏」という。高群逸枝が亡くなるのが一九六四(昭和三九)年の六月です。であれば、このときの『女性の歴史』(上巻)との出会いは、逸枝が亡くなる前年の、つまりは一九六三(昭和三八)年の夏の出来事ということになります。「ハットして読みふけりましたが、興奮しましてね。かねてから私が思っていることに全部答えてある。それですぐ高群逸枝さんに手紙を書きました。そしたら逸枝さんは一カ月くらいして亡くなられました」35

道子が逸枝に宛てて手紙を書いたのが、逸枝が亡くなる一箇月ほど前であるとしますと、一九六四(昭和三九)年の四月か五月ころになり、道子は三七歳になっていました。逸枝が、「森の家」に入居し、女性史研究に着手するのも、三七歳のときでした。ふたりの女性の再出発の時期が、偶然でしょうが、重なります。道子の文に、このようなものがあります。

 一九六ママ年冬、私は三十七歳でした。
 ようやくひとつの象徴化を遂げ終えようとしていました。
 象徴化、というのは、――なんと、わたしこそはひとつの混沌体である――という重たい認識に達したのでした。いまや私を産みおとした‶世界″は痕跡そのものであり、かかる幽愁をみごもっている私のおなかこそは地球の深遠というべきでした36

この一文を、地球の起源に由来する、いまだ混沌体として現存する自分を含めての人間、とりわけ性を司る族母、そして混沌世界を描く文筆家――このことへの道子の自覚の第一歩として読むことも可能かもしれません。逸枝宛ての道子の手紙は、それを象徴するものであったはずなのですが、残念ながら、残されていないようです。後年、本人は、このような内容のものであったと回想します。「ともかく私のふだん思っていること、一番悩んでいること、一番つらいことに、逸枝さんのこの本は全部答えてくださっています、感謝しましたとか……まだお尋ねしたいことがいろいろあるとか、こんな本を読んだのは生まれてはじめて、と書いたと思います」37。道子が記憶するところによれば、橋本憲三は「逸枝と二人で、あなたの話を、ちょこちょこしておりました」38という。これは、このとき出された手紙のことだったかもしれませんが、『詩と眞實』(通巻第百六十四号)に掲載された道子の「石の花」のことだったかもしれません。「石の花」は、「テレビ劇のための試作」という副題がつけられていて、筑豊のボタ山に生きる人たちを扱ったものです。発行日は、一九六二(昭和三七)年一二月二五日です。「石の花」について、道子は、このように書いています。「同じ時期、この夫妻は、ある同人雑誌にはじめて書いて『石の花』と題してのせた、まるでなっていない戯曲のつもりのものを読んで話題にしていられたということだった。その雑誌はわたしがお送りしたものではなく、たぶんその雑誌の発行者が同郷の先人に敬意を表して、森の家に定期的に送っていたものだった」39

以下の文を読むと、図書館での偶然の邂逅が、いかに強い心的衝撃を道子にもたらしたかがわかります。

そのような出遭いが、水俣病問題とほぼ同じ時期におとママれて、わたしは、自分自身で名状しがたい何ものかに、突然変異を遂げつつあるのではないかという予感がしてこの頃内心異様な戦慄に襲われ続けていたのである。必然の時期が訪れたのだと言えなくもないのだった40

高群逸枝の書物に遭遇したことは、決して単なる偶然ではなく、道子の生きづらさを感じる深刻な苦悩が引き寄せた結果だったのかもしれません。であれば、確かに道子にとって、生まれ変わって生き直すための、このときが「必然の時期」だったということになるでしょう。それ以降、異様な戦慄を覚えながら道子は、自身が名状しがたい何か別物に大きく変貌するにちがいないという予感を抱き続け、煩悶の時を過ごすのでした。

(1)石牟礼道子「高群逸枝との対話のために(2)まだ覚書の『最後の人・ノート』から」『無名通信』No. 5、1968年3月、5頁。

(2)同「高群逸枝との対話のために(2)まだ覚書の『最後の人・ノート』から」『無名通信』No. 5、同頁。
なお、その後この文が所収される、石牟礼道子『潮の日録 石牟礼道子初期散文』(葦書房、1974年、216頁)においても、また石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』(藤原書店、2012年、432-433頁)においても、松太郎の権妻つまり妾の名は、「おかね」ではなく「おきや」に置き換えられています。

(3)『石牟礼道子全集・不知火』第六巻/常世の樹・あやはべるの島へほか、藤原書店、2006年、592頁。

(4)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、297頁。

(5)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、59頁。

(6)石牟礼道子『潮の日録 石牟礼道子初期散文』葦書房、1974年、51頁。

(7)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、305頁。

(8)前掲『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、68-69頁。

(9)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、211-212頁。

(10)前掲『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、71頁。

(11)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、304頁。

(12)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、同頁。

(13)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、304-305頁。

(14)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、305頁。

(15)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、208-209頁。

(16)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、210頁。

(17)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、同頁。

(18)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、同頁。

(19)前掲『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、54頁。

(20)同『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、47頁。

(21)同『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、55-56頁。

(22)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、259頁。

(23)前掲『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、63頁。

(24)同『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、255頁。

(25)同『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、同頁。

(26)同『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、同頁。

(27)同『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、256頁。

(28)同『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、257頁。

(29)同『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、82頁。

(30)米本浩二『評伝石牟礼道子――渚に立つひと』新潮社、2017年、68頁。

(31)同『評伝石牟礼道子――渚に立つひと』、同頁。

(32)石牟礼道子「高群逸枝との対話のために(1)まだ覚え書の『最後の人・ノート』から」『無名通信』No. 3、1967年9月、2頁。

(33)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、436-437頁。

(34)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、12頁。

(35)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、439頁。

(36)前掲「高群逸枝との対話のために(1)まだ覚え書の『最後の人・ノート』から」『無名通信』No. 3、1頁。

(37)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、440頁。

(38)同『最後の人 詩人高群逸枝』、439頁。

(39)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、13頁。

(40)同「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、同頁。