橋本憲三と高群逸枝が八代駅に近い宿ではじめて会ったのは、旧暦の七夕祭の前夜に当たる一九一七(大正六)年の八月二三日でした。この日が、ふたりにとって生涯忘れることのできない記念日となりました。
憲三と逸枝の共著による『山の郁子と公作』が一九二二(大正一一)年七月に金尾文淵堂から出版されると、翌年(一九二三年)の四月に憲三の『恋するものゝ道』が耕文堂から世に出ます。一九二二(大正一一)年は、実質的なふたりの東京生活がはじまるときで、生活に余裕はなく、これらの仕事は、憲三が語るところでは、「金取り仕事」1にほかなりませんでした。しかしながら、『山の郁子と公作』の後半部分の「公作へ郁子より」は、逸枝から憲三への手紙で構成され、『恋するものゝ道』にあっては、序篇の「七夕前夜」が憲三によるふたりの出会いにかかわる小説で、それ以外の残りの本文は、すべて逸枝から憲三に宛てて出された手紙によって構成されており、これらの書簡類は、出版の目的からして、幾分創作の手が加えられている可能性もありますが、最初の出会いから出京までのこの時期のふたりの関係を知るうえでの貴重な資料となっています。
それでは、『恋するものゝ道』の「第一 青春の始めの日に」(全三七信)から部分的に断片断片を適宜引用して、ふたりが実際に会うまでの逸枝の心情を再現してみたいと思います。日付は記されてありません。
[第一信] 妾の住んでゐます在所は、山の峽間の淋しい村なんで御座いますの。……月が出ました。だんだん光が深くなつて參ります。 [第三信] 妾はいま斷崖に立つてゐる――妾の眼下は涯知れぬ暗黒の谷底です。 [第五信] ね、月の夜に二人で山に上つたらどんなに嬉しいでせう。 [第七信] 妾はあなたをお信じ申し上げることを、あなたに首肯していただきたいばかりに、希ひ、悶え、泣くので御座います。……妾は七才の春から母に就いて……古文を學ぶことになりました。……妾の憧憬は、紫式部と袈裟御前とで御座いました。……操ということが妾の胸にどんなに尊く響いたことで御座いませう。 [第九信] 寫眞を差し上げます。これは今の妾とはあまり肖てはゐません。またすぐにとつて差し上げます。あなたにわるく思はれたら悲しい。 [第十三信] ああ、戀ひしいあなた! 戀ひしい戀ひしいあなた! 妾はいつお目にかかれるでせう。 [第十八信] 今、妾の心は白紙ですの。娘の妾は騎士のあなたによるのですの。妾の敎育は、あなたのお手によつて。右も左もあなたのみ心のままに。 [第二十信] あなた。あなたに憤られたなら、妾がどうして生きて行かれませう。……おこらないで下さいな。あなたに一寸でもおこられては、それこそ死ぬ程かなしいので御座いますもの。 [第二十一信] お寫眞を見るたびに、あなたの着物をお縫ひした人を妬みますわ。妾にだつてそれは出來ますわ。またお料理だつて稽古しますわ。また妾は音樂家でもあるのですわ。 [第二十四信] ほんに今會ひたい。會つて、み胸に顔をあてたい。あなたをたよりにしてゐます。妾のこの切ない燃ゆる心を、あなたは知つてゐて下さるの。何だか無情ないわ、あなたは。 [第二十九信] こんな晩にかうして佇んでゐるとかなしくなりますの。……いつまでも月を見て、歌つて、思つて、泣いてゐる妾を御想像下さいまし。妾はもうこのまま、この清い月を眺めて死んでしまひたいとさへ思ひますの。 [第三十四信] 明日から松橋に行きますわ。今夜はきつと眠れないわ。 [第三十六信] 今日は二十二日なの。あと一日。もう今になると羞かしさが一杯なの。どうして、この羞かしさをとり除いたらいいの。お目にかかつたら妾何と云つたらいいの。きつと、きつと何も云へないわ。 [第三十七信] 二十三日。あはただしい、仄かな朝が來ました。……これがたぶん最後の・・・・お目にかかるまでの・・・・手紙で御座いませう。追つつけ俥が、參る筈で御座います。苦しさを通り越して、今はうつとりしてゐます2。
自己紹介や近況報告というよりも、明らかに内容は、いまだ会ってもいない男性への熱烈な恋文、さらにいえば、愛の詩文となっています。とりわけ、ここで注目されていいのは、[第十八信]の「妾の敎育は、あなたのお手によつて」と[第二十四信]の「あなたをたよりにしてゐます」です。ここに、逸枝の主体性の欠如なり、依存心の強さなりが、無自覚の内にあって表出されているように思われます。
こうした内容の手紙を受け取った憲三は、それについて、どういう思いをもったのでしょうか。『恋するものゝ道』には、憲三から逸枝へ宛てた書簡は所収されていませんので、そこから判断することはできず、推測するしかありません。おそらくそのころの憲三のこころの背後には、幼い妹を不慮の事故で亡くした虚しさや、視覚世界の半分を喪失したがために進学を断念せざるを得なかった悲しみや、胸部疾患により就職が遅れた苦しみが複雑に混在していたものと推測されます。そしてそれらが要因となって、積極的に憲三をして読書や執筆へと向かわせ、思想傾向も、ある程度このときまでに形づくられるに至っていたのではないかとも思われます。そうした状況のなかにあって、逸枝の「妾の敎育は、あなたのお手によつて」という言葉も「あなたをたよりにしてゐます」という言葉も、いまだ憲三のこころには響かなかったにちがいありません。
そのころの逸枝は、憲三について、こう認識していました。
ところが彼は、帝政ロシア末期のゴンチャロフの『オブローモフ』(稀代のなまけ者)や、アルチバーセフの『サーニン』(ローマン的恋愛をきょくどに軽蔑して肉欲のみが男女関係の真相だと信じている男)といったようなものにかぶれ、また日本の自然主義文学の『泥人形』(正宗白鳥)、『蒲団』(田山花袋)等以来のエゴイズム性にも共鳴し、友人には札つきの社会主義者もあるといったような境遇にあり、一種の作家志望者でもあったので、私との恋愛事件も、彼にしてみればいわゆる好個のネタでもあったわけだったろう3。
その一方で逸枝は、センティメンタルでロマンティックな性格と、唯心論的な思想傾向をもつ、いまだ都会化されていない「野性そのままのしらたま乙女」を自認していました。
これにたいして私は、文学を知らず、まったく彼とは対蹠的なロマンチックなひたむきな野生そのままのしらたま乙女であり、この点で彼の嘲笑を買うものが、じつにたぶんに私にはあったのだった4。
およそ週に一便の頻度で約八箇月間、手紙のやり取りが続きました。そして、ついに逸枝は、「戀ひしい戀ひしいあなた」に会う機会をもつことになるのです。そのときの状況を、本人はこう記しています。文中の広田兼八は、父親勝太郎のかつての教え子でした。
大正六年八月二十日から、私は松橋で開催された夏期講習会に出るために、払川の家を出て、松橋町の隣部落の昔なつかしい久具六地蔵の広田兼八家に行って宿泊した。そしてそこからKとれんらくして二十三日の午後、二人は八代駅で、はじめて相見ることになった。その日は七夕祭の前夜にあたっていた5。
一方憲三は、その日の出会いを、こう回顧します。
私はホームの出口からややはなれて彼女を待っていました。彼女は一番最後に出てくるという打ち合せで。二人はすぐわかって歩みより一礼しました。一と言も発言なしです。そして私が歩み出しました。宿は先着の私がもう取っていましたが、その前を素通りして球磨河畔に行きました。そこでも大方無言です。私から何か二言三言はいったと思いますが、彼女の答えとともに覚えていません。河原はひろく、大榎の密林で、樹下はくらく、河原の上空は降るような星月夜でした。抱擁を一回しました。それから宿に行きました。離れの鍵の手の一室でした。ぎこちなくごはんをたべて、やすむ段になって女中が寝床をつくり蚊帳をはってくれました。二人は中にはいりましたが、彼女は着物をかえず、一隅に坐したまま動こうとしません。こうして一夜をおくりました。ほんとうの話です。「手記」の「対立」はこのことです。朝がくるとごはんもたべず、かえりの切符を落としたまま彼女は帰りました。このときは私は駅まで送りました。が、ホームに入ることは拒まれました6。
このなかで憲三は、「手記」のなかにある「対立」について触れています。「手記」は、日付からしてその翌日に書かれています。しかし、実際にこの「手記」が発見されたのは、ふたりが結婚してのちのことでした。そのなかに「対立」という表現があります。それでは、その「手記」を以下に再現します。
一九一七(大正六)年八月二十四日 昨夜は人間の普通の概念と見かたでは表現することのできない女性に出合った。彼女は異様に美しかった。はっと心を躍らすものがあった。その特徴は、けがれを知らないその瞳にあらわれていた。彼女は強いていえば、やっと十七歳か十八歳の女学生にみえた。彼女は石のように黙し、かたくなっていた。それをみると、不意に男性の変な潜在意識のようなものが自分を突き動かし、そんな彼女を押しもんでみたい気がするのを感じたが、自分はやっとそれを抑制した。そして自分もまた石のように彼女と対立していたが、その時間はむしろ短かったのに、いつのまにか夜明けがきた。すると、自分と彼女とのこの奇妙な対面は、彼女の飛鳥のような疾走で終わりを告げた。あっというまに、彼女は汽車に乗って行ってしまったのだ。自分はこの娘と生涯結びつけられるだろう宿命を直感した。そしてなぜかわれにもあらずせんりつを禁じ得なかった。 これは自分の二十年の生涯にはじめて与えられたいわば運命の恩恵とでもいうべきものかも知れない。この恩恵を生涯けがさないことを、ここに正直に誓っておく。
(橋本憲三の手記)7。
実際は、「対立」というよりも「対峙」や「対面」に近いものでした。その「対立」の夜が明けて、逗留していた広田家にもどった逸枝は、聞かれるままに昨夜のことを話すと、憲三は逸枝の振る舞いに驚いて帰ったにちがいないということになり、そこで、心配になった逸枝は憲三に電報を打ちました。憲三の薄れがちな記憶によると、おおかたその文面は、「お目にかかりたくて明日、……一勝地駅に参ります。おゆるし下さいませ」8というもので、「とっぴな、勇気のある女性と思いました」9と、憲三は堀場清子に語っています。
翌日憲三は、待ち合わせの一勝地駅のホームにいました。そのときの憲三の様子を、逸枝はこう回想します。
大きな麦わら帽子をまぶかにかぶり、兄からの借り着のそでの長いゆかたとセルの袴も、前の日よりは上手に着こなしていたようで、なかなかの美青年にみえた。ふり仰ぐたびに近眼鏡を光らせ、肩をすこしそびやかしているところも、知的で好ましかった。物ごしもりっぱで、私を川岸のこぶのある古木の並木道に導いたが、そのとき白っぽい夕霧の底から、球磨川の轟音が耳をつんざいたのが、いまも忘られないロマンチックな若い日の印象となっている10。
憲三は、「このとき接吻をいちどしました。根っこの地上まではびこった大榎のもと、球磨川の瀬(何とかの瀬というのですが忘れました)音、轟々たる中で」11。こうして三〇分ほどの散策と会話を楽しんだあと、逸枝は、「満足して帰りの汽車に乗った」12のでした。
逸枝は、払川の自宅にもどると、「永遠の愛の誓い」を文にして憲三に送りました。その内容は、次のようなものでした。
私はあなたへの永遠の愛を誓います。私に不正な行為があったら、あなたの処分にまかせます。あなたのお手紙はたいせつにしまっています。恋しいあなたよ13。
しかし、憲三は、すぐに返事を書くことはありませんでした。しばらくしてから届いた憲三からの返事は、次のような内容で、逸枝の気持ちを茶化し、踏みにじるものでした。
この世には永遠というものはありえない。瞬間のみがある。まあ行けるところまで行きましょう。あなたが僕の手紙をたいせつにしてくれるのはありがたいが、手紙というものは時の拍子で書くものだから、あとで恥をかくから焼いてくれ14。
それまで逸枝は、愛というものを「永遠説」のもとに夢想していました。ところが、憲三が思い描いていたものは「瞬間説」だったのです。逸枝はいいます。「二十三歳のこんにちまでにすこしの疑いもなく持ちつづけていた愛の『永遠』の観念が根本からくつがえって『瞬間』のそれへと切りかえられることには、ひじょうな苦悩と体験、時間などがまだこのとき必要だったとしても、私はわるびれずこれを受容することを決意して、その第一歩を踏み出すことをためらわなかったのだった」15。
憲三が「瞬間説」を唱えれば、逸枝は、自身の「永遠説」を放棄してでも、憲三の「瞬間説」を受け入れようとします。憲三と逸枝のその後の歩みを特徴づける、憲三が唱導者であり、逸枝がその受容者である、そうした男女の関係の「その第一歩」がここにあったのでした。
逸枝は、こうした関係を「曲従」や「優柔不断」といった用語を使って、自分と父親との関係にすでに見出していました。これよりのちのしばらくのあいだ、今度は憲三と自身との関係に対して、逸枝は、このふたつの用語のみならず、「奴隷根性」といった用語でもって表現することになるのです。主体性の欠如あるいは依存心の強さと、表裏をなす観念でした。
(1)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 上』朝日新聞社、1981年、16頁。
(2)橋本憲三『恋するものゝ道』耕文堂、1923年、15-53頁。
(3)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、128頁。
(4)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(5)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(6)前掲『わが高群逸枝 上』、19-20頁。
(7)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、128-129頁。
(8)前掲『わが高群逸枝 上』、24頁。
(9)同『わが高群逸枝 上』、同頁。
(10)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、130頁。
(11)前掲『わが高群逸枝 上』、26頁。
(12)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、130頁。
(13)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(14)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(15)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、131頁。