中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第一部 橋本憲三の青年期と高群逸枝との邂逅

第二章 逸枝の出生と「しらたま乙女」時代

突然にも「球磨の一青年K」から同人誌参加を勧誘するはがきを受け取った、代用教員として払川尋常小学校に勤務する高群逸枝という人物は、いかなる経歴をもつ女性だったのでしょうか。以下に、それまでの来歴を短くまとめてみたいと思います。

『高群逸枝全集』(第一〇巻/火の国の女の日記)において逸枝が記述するところによれば、父の高群勝太郎は一八六三(文久三)年に生まれ、母の登代子(旧姓は大津山)は一八六四(元治元)年に生まれています。ふたりはともに、肥後国(現在の熊本県)においてそのいのちが授けられました。長じて勝太郎は、小学校の教師となり、最初の赴任地が御所尋常小学校でした。一八八七(明治二〇)年のことです。その同じ年に、勝太郎は登代子と結婚します。その後、一八九三(明治二六)年に勝太郎は磯田尋常小学校に転任すると、年が明けた一八九四(明治二七)年の一月一八日の午前一時か二時ころ、高群家に女児が産声を上げます。すでに死産や早産で子を亡くし、とりわけ観音信仰に厚い両親は、初観音の縁日(正月一八日)に生まれたことをことのほか喜び、かくして逸枝は、両親から「観音の子」と呼ばれ、大事にされて育ってゆくのでした。

ある日の夕方、ひとつの出来事が起きました。逸枝は、こう回想します。

 ある夕方、どうしたのか、お化けのでる裏山をよじのぼっていた。たぶん、夕月の光にさそわれたのだろう。雲が膨らんで、ほうと飛んだ。私は帰ることを忘れた。村では「神隠し」にあったというので、たいへんな騒ぎだったという。……
 この幼い私の冒険の意味は、私自身にもちょっと不可解なものであるが、それが私の生涯を支配した未知への好奇心・探求心の一つの芽ばえであったことは、うたがいなかろう

六歳になった一九〇〇(明治三三)年の四月、逸枝は、父親の勝太郎が校長を務める久具尋常小学校に入学しました。久具校は寄田神社の境内にありました。のちに、「望郷子守唄」の歌碑がここに建造されることになります。

学校生活がはじまると、父親とは、教師と生徒の関係にありました。また、同じ級友同士にあって新たな関係も生まれました。家庭生活では経験できない、複雑な人間関係がそこにはありました。逸枝は述懐します。「ここらから対人関係での私の自己抑制が内部的に宿命づけられ、いわゆる優柔不断、曲従の性格が形づくられていく」

逸枝の母の登代子は、村の娘たちに裁縫を教えていました。また、自分の娘には、物語を聞かせて、楽しませました。

母は地蔵さん、観音さん、お月さんの話が得意で、私のあだ名を「かぐや姫」などともつけてくれた。私が成長して娘になったころのことであるが、窓から母と二人で、冴えわたる満月をみていたとき、母が「この世はきたないので、いつかは忍びきれなくなり、みんなを捨てて、月の世界へ行ってしまうのではないか」などと私に冗談ともつかずいったこともあった

こうした幼いときの体験が、その後に行なう詩作のイメージの源泉となった可能性もあります。十数年後の一九二一(大正一〇)年に公刊される逸枝の最初の詩集が『放浪者の詩』であり、『日月の上に』なのです。

さらにその母親は、学問も娘に伝授したようです。

その母は、凡そ妾が見ました世の多くの母親の中で、すぐれていちばん讀書が好きかと思はれました。母の父は漢學者だつたさうで、それが自然母にも傳はつてゐるので御座いませう。
 そこで妾はやつと七歳になつた春から、母に就いて外史、十八史略、源氏物語などを學びました。かうした習慣が、次第に世の中を遠ざけて、いつしらず窓の子になつたので御座います

そののち逸枝は、世間から身を引き「森の家」に閉じこもると、詩人から女性史学者への道を邁進してゆきます。窓からは富士山が見え、日に一〇時間書斎の机に向かい、片袖だけが日焼けするほどの勉学でした。まさしく「窓の子」の完成形ということができます。

いま、熊本市立図書館には、逸枝の手製による『十三才集』(一九〇七年作)、『愚文集』(一九〇八年作)、『落寞日記』(一九一二年作)、加えて『四角集』(製作年不明)と『少女集』(製作年不明)が所蔵されており、当時の逸枝の心象風景をかいま見ることができます。筆跡や内容などから判断しますと、『少女集』も、『十三才集』とほぼ同じ時期か、やや少し遅れてつくられたのではないかと思われます。そこから一文を選び出してみることにします。

操高くて 野に住まむ事は いつ枝が只の一つの望なり。
我は清からん事を思ふ。みだらなるをいむ。汚らはしきを悪めり。
操なき女は獣類ぞ。處女たる我身は厳格なる處女として
静かに父母君様に仕えまつらんとぞ思う。……
操、厳かなる操の下に いつ枝は清く住まんとぞ思ふ。
すべて清きを希ふ乙女なれば。

こうしたなか、一九〇八(明治四一)年三月、逸枝は下益城北部高等小学校を卒業すると、いよいよ実家を離れ、熊本に住む母方の大叔父である隈部家に寄寓し、九月より、壺東女学校に通い始めます。ここは、熊本師範学校へ入るための予備校として機能していました。

師範学校に入るのは逸枝の希望ではなく、父親の勧めによるものでした。逸枝はそれに逆らうことはできず「曲従」します。翌年(一九〇九年)の春、逸枝は師範学校の女子部に入学します。しかし、逸枝に脚気の病が襲います。授業への欠席が目立つようになります。学校から退学通知書が届いたのは、一九一〇(明治四三)年の暮れのことでした。このときの逸枝の心境は、次のようなものでした。「ああ病弱の敗残児何の用にか立たん。これも運命か。いな不甲斐なければなり。咄咄!不運児いな貧弱児」

年が明けた一九一一(明治四四)年一月、「不運児いな貧弱児」たる逸枝は一七歳の誕生日を迎えました。おそらくお祝いどころではなかったでしょう。「私は……師範退学後の絶望的状況にあって心の根拠をも見失おうとしていた。何よりも苦しかったことは、愛の心が弱まり、孤独という冷酷な事実に直面したことにあったと思う」。逸枝にとってこの年は、何にも属さない、悲哀に満ちた浪人生としての一年でした。しかし、別の観点に立てば、この年は、逸枝にとって極めて重大な意味をもつ一年でもありました。

この年、都会では大きな出来事が起こりました。捏造された「天皇暗殺計画」を理由に、社会主義者や無政府主義者の二六人が前年に逮捕されると、翌年の一九一一(明治四四)年一月、大審院は、逮捕者全員に有罪の判決を言い渡し、『平民新聞』を創刊した幸徳秋水を含む一二人に対して、大逆罪での死刑が執行されたのでした。いわゆる「大逆事件」です。死刑の犠牲者のなかに、同郷の新美卯一郎と松尾卯一太がいました。ふたりとも、熊本県尋常中学校(一九〇一年に熊本県立中学済々黌に改称)の卒業生でした。のちに逸枝が述べているように、この事件が、自身がアナーキズム(無政府主義)へと向かう遠因となるものでした。

もうひとつの出来事は、この年(一九一一年)の九月、平塚らいてうの手によって『青鞜』が創刊されたことでした。『青鞜』第一巻第一号所収の「元始女性は太陽であつた。――青鞜發刊に際して――」は、次の言葉ではじまっていました。らいてうによる文です。

 元始、女性は實に太陽であつた。真正の人であつた。
 今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。
 偖てこゝに「青鞜」は初聲を上げた

『青鞜』の創刊、そして「元始女性は太陽であつた」ではじまる発刊の辞は、のちの逸枝が告白しているように、らいてうをもってして自分の妣(母)とみなすきっかけとなる事件でした。そしてまた、逸枝が「母系制の研究」へと向かう大きな原動力となるものでもあったのです。

『青鞜』創刊のちょうどそのころでした、逸枝は、熊本女学校の福田令寿校長に、四年への編入試験を受けさせてほしい旨の手紙を書きました。校長からの返事は、翌年の春に受験するようにとのことでした。こうして一九一二(明治四五)年の四月に逸枝は、熊本女子校の四年次に編入します。ちょうどこのとき弟の清人も、済々黌に入学し、専念寺という隠居寺にふたりで下宿して通学することになりました。しかし、ここでも教師との折り合いが悪く、一年間の在籍ののち翌年(一九一三年)の三月に、逸枝は自主退学するのでした。

退学の道を選んだ逸枝は、熊本市内での生活を離れ、両親が住む佐俣の実家に帰郷しました。同時にこのとき、末弟の元男も済々黌に入学し、逸枝に入れ替わって、兄弟ふたりで、専念寺に寄宿することになりました。

勝太郎は、逸枝が教職につけるように上司に働きかけたり、逸枝本人も教員検定の試験を受けてみたりもしましたが、思いはかないませんでした。しかし、職につかないまま、惰眠をむさぼるわけにもいかず、また、ふたりの弟の学費を援助することも考えなければならず、逸枝は働きに出ます。就職先は、鐘紡紡績工場(鐘ヵ淵紡績株式会社熊本支店)でした。当初は、清人と元男の住むお寺から通勤しましたが、工場は朝が早いため、寄宿舎に入りました。しかし、ここでも逸枝は居場所を見つけることはできませんでした。工場を退社したのは、年を越した一九一四(大正三)年の三月中頃でした。逸枝は振り返ります。「とにかく、四ヵ月余の女工生活だった。そして、日給十三銭では、もちろん弟たちへの学資援助の目的も達せられずじまいだった」。のちに『九州新聞』は、逸枝への聞き取りを踏まえて、退社の経緯について、このように書きます。

女工になつたことが、故郷の父親に知れると、父親は火のやうに怒つて彼女を呼び戻した、そこで彼女は詮方なく故郷に歸つて代用教員となり濟ました、然し不安と、不満と、反抗とは常に彼女の胸に鬱積して、毎日退屈な日を送つた

鐘紡紡績を辞めた逸枝は、両親の住む佐俣へ帰ると、佐俣から四キロくらい離れた西砥用小学校の代用教員として働き始めました。西砥用小学校の勤務は二箇月ほどでした。六月の中旬、逸枝は、父が校長を務める佐俣尋常小学校へ移ります。翌一九一五(大正四)年の四月、逸枝の父の勝太郎は、払川尋常小学校へ転任し、一家もその地に移動します。払川は佐俣よりさらに山に入ったところにありました。次の年(一九一六年)、逸枝も、父親の払川校に転じます。「球磨の一青年K」から同人誌参加を促すはがきを逸枝が受け取ったのは、代用教員として払川尋常小学校に勤務していた一九一七(大正六)年の年が明けた初春のことでした。ここから、橋本憲三と高群逸枝の文通がはじまります。

(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、27-28頁。

(2)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、40頁。

(3)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、30頁。

(4)橋本憲三・高群逸枝『山の郁子と公作』金尾文淵堂、1922年、225頁。

(5)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、125頁。

(6)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、97頁。

(7)らいてう「元始女性は太陽であつた。――青鞜發刊に際して――」『青鞜』第1巻第1号、1911年9月、37頁。

(8)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、115頁。

(9)「肥後が生んだ唯一の女流詩人【中】」『九州新聞』、1921年4月16日、5面。