遍路を終えて、一九一八(大正七)年一一月二二日に払川の両親のもとに帰った高群逸枝は、この後どう過ごしたのでしょうか。逸枝は、このように書いています。
まもなくまた、元の杢阿弥になってしまっている自分を見い出すことになった。私は、もう二十四歳になっていたが、あいかわらず、年齢を知らない娘だった。それに払川の家は俗世間には遠くて私をすぐにあるがままの野生の子にした。……私のあたまは神秘な霧につつまれ、心は一年前の「霊の恋」がよみがえった。私はKが「うわごと」と名づけている言葉のふたしかな空想にみちた手紙を性こりもなくまた書き出したのだった1。
このとき書かれた、「Kが『うわごと』と名づけている言葉のふたしかな空想にみちた手紙」の類は、「第五 長恨記」の題のもと、『恋するものゝ道』に全八信が収められています。第一信には、こうした記述があります。逸枝は「郁子」の名を使っています。
十一月三十日。山にて、郁子。……今、後の丘で小鳥が歌つて居ります。何といふ今日は美日なんで御座いませう。……白雲が頭の上を流れます。何處まで流れて行くことでせう。――歸りました。……お達者でいらつしやいますか2。
年が明けました。この間憲三は、冬の休みを利用して、一本の小説を書いていたものと思われます。この作品は、一九一九(大正八)年の一月七日の『九州新聞』六面に、「山を越えて(小品)」と題して登場します。主人公である「私」のこの地での唯一の友である「小さん」が、山を越えて「私」の家を訪ねてきました。およそ一年ぶりの再会でした。「小さん」は、「私」が机の上に飾っていた写真を見ると、これが「花枝さんですね」といいました。「花枝」が逸枝であることは、疑いを入れないでしょう。ここから、物語がはじまります。二回目の「山を越えて(二)」は、一週間後の一月一四日の七面に掲載されました。そのなかに、「小さん」と「私」の会話部分がありますので、その前後を含めて、以下に引用します。「小さん」は、憲三と同じく『少数派』の同人で、社会主義者であった小山勝清がモデルではないかと思われます。
私は吃驚(びつくり)したやうに彼を見て、そして寫眞を見た。私は此の頃殆ど彼女を忘れてゐた。 『……たしか毒藥だつたさうですよ。しかしいさといふとき女は逃げてね、かういつたんです、死ぬことは止(よ)しませう。そして私達は生きませう。つてね』 『つまり遊戯(いたづら)だつたんですね』 『男を食ひ歩くんですよ、きつと魔物に違ひない。……どうです近頃は。』 『……』 『早く突き放しておしまひ……毒婦つていふ氣がしますね』 私は苦笑した。 『もう止して下さい、でないと私は腹を立てますよ』 彼は素直に黙つた、私も黙つてゐた。
「小さん」が「私」に語った「たしか毒藥だつたさうですよ。しかしいさといふとき女は逃げてね」の内容は、真実であるかどうかは別にして、四国巡礼の旅に出る前に、逸枝に血書を送りつけてきた一青年との心中未遂のような事件が念頭にあるのでしょう。この会話が、実際に憲三を訪ねてきた友人が口にした言葉であるのか、憲三が、小説という虚構空間を利用して、自分の思いを「小さん」なる人物に語らせているのか、それもわかりません。しかし、小説とはいえ、憲三がこう書いている以上は、憲三の胸の内には、逸枝の優柔不断さに対する激しい嫌悪感と、その一方で、何とかそれから目をそらそうとする、ある意味での希望的否定感とが渦を巻いていたものと思われます。この「山を越えて」は、第三回が一月一五日の七面に、第四回が一月一六日の七面に、そして第五回が一月一七日の七面に掲載されて、完結します。最終回「山を越えて(五)」の終盤には、「私」がかつて住んでいた家に泊り、そこで夢を見る場面があります。
『花枝』と小さく言つて私は眼を閉ぢた。 青年の手にギラリと短刀が光つたと[たん]、女は仰向けに倒れた。眞赤な血潮が踊りを踊つて流れる……。
この夢は、何を象徴するものなのでしょうか。血書を逸枝に送った青年の熱い思いを自分に投影して再現しているとも考えられます。もしそうであるならば、一種の無意識的な嫉妬心の現われにちがいありません。
するとそのとき、かすかに心優しい声が聞こえてきました。文は、こう続きます。
『お茶をいれました』 私は眼を開けた。お母さんだ。 昔のまゝのその優しい聲をきくとはじめて心の空虚が満たされたやうな氣がした。 私は夜は久しぶり子供のやうに安らかに眠つた。
言い寄る男を決して拒絶しようとしない花枝(逸枝)、他方、いかなるときも自分を迎え入れてくれる母親――憲三はふたりの女性を、見事な対表現でもって語っています。潜在的な劣等感のようなものがここに集約されているのかもしれません。そして、続く次の文で、この物語は終わります。
三日の旅から歸つて來たとき、私の住居はちつとも變つてはゐなかつた。唯花枝の手紙が待つてゐた。その封筒は恰度妄想に見た女の心臓から流れ出た血汐で染めたのではないかと思はれる程赤かつた。(完)
ふたりが事前に示し合わせていたのかどうかは判然としませんが、この時期、憲三が「山を越えて」の執筆に精を出す一方で、逸枝もまた、「愛の黎明」に取り組んでいました。逸枝の「愛の黎明 一、告白」が『九州新聞』七面に姿を現わすのは、「山を越えて(五)」の五日後の一九一九(大正八)年一月二二日のことでした。その日から休載なく四日間、「愛の黎明 二、第一の戀人に」(一月二三日七面)、「愛の黎明 三、第二の戀人に」(一月二四日七面)、「愛の黎明 四、第一の青年に」(一月二五日七面)、「愛の黎明 五、第二の青年に」(一月二六日七面)が『九州新聞』に連載されてゆきます。最終回の「愛の黎明 五、第二の青年に」の末尾には、「八、一、八、」と擱筆日が記されています。そこから判断しますと、逸枝は、憲三の「山を越えて」の初回が掲載された翌日の一九一九(大正八)年一月八日に脱稿したことになります。かくして一九一九(大正八)年の新年一月、『九州新聞』を舞台に、憲三の「山を越えて」と逸枝の「愛の黎明」が、競演することになったのでした。憲三は、この月の一〇日に二二歳の、逸枝はこの月の一八日に二五歳の誕生日を迎えました。
さて、五回にわたって連載された「愛の黎明」ですが、「愛の黎明 一、告白」は、自身の考える愛についての独白に近いものとなっています。「――樣」あるいは「――さま」という見出し語で、形式的には四節に分けて構成されていますが、特定の人物を念頭に置いて書かれたものなのか、広く一般的な読み手が想定されているのかは、判断がつきかねます。内容的には、ある種空想的な「人類愛」ないしは「平等愛」を語っているように読めます。それでは「愛の黎明 一、告白」のなかから、注意を引く語句を選択して、以下に並べてみます。
――樣 お芝居を書いてゐるのぢや無いかなんて、一方では呆けてゐるんで御座いますのよ。 ――様 私は、生涯獨身です、生涯孤獨です。……おゝ!粛然たる「愛の黎明」 私は正に愛の、女神で有る。 私の胸には感激の烈しい涙が音を立てゝ流れてゐる。 ――さま でも、私の恁うした「愛」が、(世の中のすべてを、一切平等に愛しようと願ふ「愛」が)既に地上の人々――殊に若い幸福な人々――に取つては、如何に忘られ勝ちなもので有るかと云ふ事に就て私は少しも悲しいとは思ひませぬ。 のみならず、私は、さうした凡ての人々に取つて一つの隠れ家で有りたいとさへ望んで居りますので御座います。 ――さま 私の「隠れ家」は地球上で最も安全な最も幸福な――に違ひありません。私は逃げ込んで來る罪人や負傷者・・・・恁うした私の友人や元氣よく訪づれる秀才、佳人・・・・恁うした私の友人に對して常に温い食べ物と美しい灯りとを用意する事に忠實で有らねばなりません。
続く「愛の黎明 二、第一の戀人に」、「愛の黎明 三、第二の戀人に」、「愛の黎明 四、第一の青年に」、そして最後の「愛の黎明 五、第二の青年に」は、明らかに特定の男性に呼びかける文になっています。「第一の戀人」は、間違いなく憲三でしょう。そして「第二の戀人」は、逸枝に血書を送った青年を指すでしょう。しかし、「第一の青年」と「第二の青年」については、その詳細は不明です。おそらくは、逸枝の書く「娘巡禮記」を読んで共感を抱いた男性なり、四国巡礼の途中で知り合った男性なり、そのような人物だったのではないかと考えられます。
逸枝の「愛の黎明」からおよそ一年半後、憲三は、『九州新聞』に「末人像(まつじんざう)」を連載します。これは創作文ですので、そのすべてが真実かどうかはわかりませんが、このなかに、こうした一節を読むことができます。
『正直に書きますと』と彼の女は更に筆を繼いだ。 『妾を熱愛すると云ふ人が今三人ゐます。…… 古河さんは貴女によつて生涯は決められたと申されます。田代さんは自殺をはかられたそうです。古河さんには数年後お目にもかかりお便りもいたしませうそれまでご無礼いたします、と申し上げて置きました。妾はさう思つたのです。田代さんには濟度し難い妾を告白した手紙を上げて置きました。最後にもう一人の方は大分縣の人です。散々にうらまれてつい泪ぐむ妾の弱さをお許し下さい、せめて手紙だけはと思つてさう致しましたが、苦しいことです[』]。 『御熟考下さいませ。あなたは果してこんな狂奔な熱烈な常軌を逸した妾に御満足が御出來で御座いますか。且つ妾は非常に醜婦で御座います[』]3。
ここに登場する「古河さん」という人物は、「愛の黎明」における「第二の戀人」その人であるにちがいありません。名を古河節夫といい、その約二年前に、『九州新聞』に「彼と民子の話」を連載していました。いうまでもなく「民子」が逸枝で、内容は、逸枝が四国巡礼の旅に出る経緯にかかわる「彼と民子」の身の上話として成り立っています。
勿論此の實生活の壊滅のみが民子の旅立ちの全原因ではなかつた。それは惑溺を恐れつゝ猶戀の惑溺の息詰まる樣な混濁した深地へ何らの反抗力もなくずるずると没落して行く自分等の未來が恐ろしかつたからであつた。醜悪な汚汁の樣な生活を根本から開拓したい欲求からであつた。それは二人の境地がそれを証明してゐた4。
続く二回目の「彼と民子の話」は、このような文ではじまります。
彼が彼女と肉に墜ちてから、基督敎徒の彼女は悲痛な煩悶におちた。民子は泣いて彼に縋つた。彼は何時もの凝然として動かない瞳をもつて民子を眺めて居た5。
後年逸枝の回想するところによると、親元を離れて熊本に出たものの、生活難にあえぎ、「仕事を求めたり、クラーク牧師を訪ねたりした」6ことがありました。しかし、明らかなことは、決して逸枝は、古河がいうごとくの「基督敎徒」ではありません。そこから推断しますと、「彼が彼女と肉に墜ちてから」という口上もまた、古河の創作あるいは妄想に類するものだったにちがいありません。いよいよ逸枝の巡礼の旅がはじまります。彼はそれに付き添います。「民子と彼を乗せた俥は朝早くこの町を過ぎた。二人は郊外に出た時俥を捨てた。二人は黙つて歩いて行つた」7。そして、ふたりは草原に座ると、そこで別れの言葉を交わすのでした。
『ではこれで別れやう』これを云ふ事は彼にとつて非常な苦痛であつた。…… しばらくして民子は幽かに震へて叫んだ。 『ね、あなた、妾を忘れないでね――あゝ別れませう』 彼は無言で立ち上がつた。それ以上聞くことは苦しかつたのだ。 『ではさやうなら』 『さやうなら。ね、妾屹度歸つてまいりますわ、きつと』 彼はもと來た方へ歩き出した8。
おそらくこの場面は真実に近いかもしれません。もっともこれには、逸枝の性格の本質的部分が投影されているように感じられます。といいますのも、同じく後年、逸枝は、自分の性格上の欠点を、こう説明しているからです。「私は対人関係ではひじょうに弱く、いつも相手の意に逆らうことをおそれ、あいまいで、優柔不断な点があった」9。資料的にはほとんど何も残されておらず、逸枝にとってどのような関係の人物であったのかはよくわかりませんが、おそらく、「古河さん」以外の「田代さん」という人も、「大分縣の人」も、「相手の意に逆らうことをおそれ、あいまいで、優柔不断な」おつきあいの範囲にあっての交際相手だったのではないかと思料します。
「愛の黎明」のなかの三人の男性と、「末人像」のなかの三人の男性とが、必ずしも同一人物であるという保証はありません。しかしながら、いずれにせよこのとき、憲三を含む四人の男性に逸枝が囲まれていたことは明らかです。「一切平等に愛しようと願ふ『愛』」にとっては、自身の「隠れ家」に駆け込んでくる人たちに「常に温い食べ物と美しい灯りとを用意する事に忠實で」なければならないのです。「古河さん」も「田代さん」も、「大分縣の人」も、そのような逸枝の「愛」を頼って迫ってくる人たちだったのでしょう。
幼いころの逸枝には、尼寺への入門願望がありました、そしてまた、貧児院への嫁入り願望もありました。「一切平等に愛しようと願ふ」逸枝の恋愛上の風土が、観念を越えて、現実世界にあって、こうした願望の芽を育んでいたのかもしれません。もっとも、いずれも不首尾に終わりましたが――。
逸枝は、この「愛の黎明」を書いているとき、自分が幼少期を過ごした地域に残る、結婚にかかわる次のような習俗を思い出していたにちがいありません。のちに逸枝は、その遺俗について、こう語っていますので、ここに紹介します。
お祭の夜には 若い男女の 自由恋愛がゆるされる 若い衆はくじびきして 女をきめる 女はすなおにお化粧して それを待っている と「日月の上に」のなかで私は歌っているが、このように集団婚のなごりもみられた。従わない女がいると、小野の小町ではないかと親たちまで心配した。男が女に通う妻問婚も、若い衆の男女関係としては、よくのこっていた。女の家では、顔もしらない忍び男のことを、うちの婿どんなどといって黙認していた。そしてこのような例の多くは、子供が生まれそうになるのを機会に嫁入り婚となって結ばれていた10。
逸枝の周りに遺存するこうした実俗があったにせよ、四人の男から思いを寄せられたこのときの逸枝が、実際に、こうした太古の集団婚の状態にあったとはとうてい考えられませんが、かといって、そののちに『戀愛創生』(萬生閣、一九二六年)の出版が続くことを考えますと、いっさいの制約のない大自然のなかにあって、「愛の女神」を巡って繰り広げられる自由な男女の恋愛に逸枝が憧れていた可能性までも、完全に排除することはできないような気もします。つまり、ここで逸枝が書こうとしているのは、自分個人の「愛の黎明」を越えた、人類全体にとっての「愛の黎明」だったのかもしれないのです。しかしそれは、あくまでも、いまだ消え去ることのない逸枝の体内に残存する、のちに引用により紹介するところの「センチメンタルな感情に氣をとられて了ふ傾向」の一断面でしかなく、実際問題としては、次のような憲三の言辞を待たなければなりません。のちに憲三は、逸枝の筆になるこの「愛の黎明」を、かく位置づけたのでした。
これはひとくちにいえば私の聖女説を裏書きするものです。それには大前提が一つあります。彼女は絶対に肉的交渉をもっていないということです。私は生涯それを持ったのは一人(私)だけだと思っています。 しかしこの前提を無いものとすれば、下卑た言葉でいえば彼女は大淫乱者であるととられるおそれがあるものです11。
他方、抽象的な表現ではありますが、のちに逸枝もまた、愛や結婚についての自身の見解を書いていますので、以下に書き留めておきます。
女にも多夫本能がないわけではないが、それは一夫性と同様に純潔なものであるべきで、ある特定の男を踏み台にしての多夫関係、いわゆるよろめき関係は、女にとってはある場合の過誤でしかなく、本質ではない。多夫なら原始の女性のように婚姻制を廃絶した自由な境地でのそれであらねばならない。人類の歴史があるいはそれに向かって進化していくだろうことは考えられるが……12。
ところで憲三は、「山を越えて(二)」のなかで、友人の「小さん」に花枝(逸枝)のことを「男を食ひ歩く……魔物」とも「毒婦」とも形容させています。一方逸枝は、「愛の黎明」のなかで、自身のことを「愛の、女神」と呼んでいます。ふたりは、それぞれに相手の文を読んだものと思われます。憲三は、臆面もなく「女神」を自称する逸枝に何を感じたでしょうか。その一方で、逸枝は、自身に「魔物」や「毒婦」の言辞を浴びせた憲三の表現に何を読み取ったでしょうか。どちらかといえば、こころの底にわだかまりとして残ったのは、逸枝に対する憲三の不信ないしは不満だったようです。『恋するものゝ道』に集録されている、この時期の逸枝から憲三に宛てて出された書簡類が、そのことを例証します。擱筆日や投函日は記載されていません。『恋するものゝ道』の「第五 長恨記」に所収されている第二信に、こうした記述を読むことができます。
妾はたしかに言葉と、文字と、それから發謄する湯氣のやうなセンチメンタルな感情に氣をとられて了ふ傾向を有つてゐるやうに思ひます。氣をとられると云ふよりも、全くその場合、それ自身にすつかりなり切つて了ふ。屹度これは不安定な、不健康な感情かも知れません。妾はたしかに感情の陶治を怠つて來たと思ひます。それに妾は考へると、多分にニヒリズムをもつてゐるらしく思はれます13。
この一節は、逸枝自身による自己分析です。「センチメンタルな感情に氣をとられて了ふ傾向」は、逸枝の本質部分かもしれませんが、「多分にニヒリズムをもつてゐる」とは、憲三の性格にあわせようとしている迎合的表現にも感じ取れます。この第二信には、こうした文も見受けられます。
驚くべき無方針、驚くべき無思想の一刹那、一瞬間にのみ、妾は全没した。行きつまる處は死より外にない。どうせ死ぬ、これから發した一切の虚無、衝動であつたらしいと考へるとき、妾は今、今、悚然たる戦慄を感じないわけには參りません14。
文面は、「悚然たる戦慄」の真っただなかに、いま逸枝の身があることを例証します。そこから判断しますと、この第二信が書かれたのは、「愛の黎明」の最終回が『九州新聞』に掲載された一九一九(大正八)年一月二六日からあまり時間を置かないころのことではないかと考えられます。さらに、この第二信は、こう続きます。
妾はなまじいに手紙を上げたり、お話を交へたりした、いろいろな人人に對して、實に重い負債を感じます。第一、無鐵砲な、無方針な行は、あらゆる方面と、場所と、思ひ出とに今もうづき止めぬ痕跡を印して居ます15。
これを読むと、憲三以外の三人の男性との関係が、いまや逸枝にとって「重い負債」となっていることがわかります。また、この第二信のなかには、次のような自虐的な文言も認められます。「妾はたしかに氣狂ひかも知れません。いえ、白痴・低能兒・そうです、妾は低能兒のやうに思はれます」16。「愛の黎明」では自身を「女神」と呼び、この手紙のなかでは自分を「氣狂ひ」「白痴」「低能兒」とみなす逸枝の、この落差を憲三は、どう受け止めたでしょうか。憲三からの返信は残されていないようですので、想像するしかありません。
次は、第三信からの引用です。
四面楚歌――。 妾は内的にも、外的にも、全く孤獨となり了りました。父母の家をすら辭さなくてはならぬと心ひそかに決心して居ります17。
「四面楚歌」とは、おそらく内的には、「穀潰し」という無言の圧力の存在を指しているのでしょう。そして外的には、すべての男性との関係を断ったことを意味するのでしょう。逸枝にとって残されている道は、憲三と結婚して嫁に行くか、女工などの職を求めて家を離れるか、出家して尼になるか、さもなければ、子守りか飯炊き女として奉公に出るかしかないのです。この第三信は、さらにこうした言葉で結ばれています。「かりに妾が、今あなたを戀します、と申しましたら、それはあなたにとつて不幸な言葉だと存じます。また間違つたことです。お手紙下さいまし」18。
おそらくこのとき、憲三は、返事をしなかったか、あるいは、実に素っ気ない返信だったにちがいありません。第四信は、実に次のような記述ではじまります。「若き寡婦になりました。妾は最早完全に孤獨です。……此のまま、この體で、妾は必ず生涯を、と思つて居ます。それは、妾に與へられた唯一の自由です。例へ四面楚歌であるにしても、強い誘惑、烈しい迫害、覺悟の前です」19。そして第六信には、「三月一二日頃出立いたします」20の文字が、続く第七信には、「さて、旅に出ると云ふ日が近づきました。無論確然とは解りませんが、ここ二十日のあとか二十五日のあとかでせう。それについてあなたにお會ひすると云ふこと、それを妾は樣々に考へました」21の文字が並びます。逸枝はこのとき、どこへ旅をしようとしているのでしょうか。四国への旅から帰ったばかりというのに、今度は、憲三のもとに押しかけることを考えているのかもしれません。
加えてこの第七信には、殺気立った言葉も挿入されています。「あなたに對して、妾はあなたを殺し果たしたいまでに愛して居りました。あまりに烈しく――そしてあなたが到底妾のものでないと知ることが深くなるに及んで、妾は夕暮れのやうな寂しさを感じ始めました」22。このなかの、「妾はあなたを殺し果たしたいまでに愛して居りました」の文言は、憲三が「山を越えて(五)」のなかで使った「青年の手にギラリと短刀が光つたと[たん]、女は仰向けに倒れた。眞赤な血潮が踊りを踊つて流れる」の語句にあえて重ね合わせ、自分への愛をいま一度覚醒させようとしているようにも読むことができます。それでも、憲三の逸枝に対する態度は、かたくななまでに冷徹だったようです。自分に向けられるあまりにも情熱的で空想的な、憲三にいわせれば「うわごと」もどきの逸枝の言説に、もはや憲三はついてゆけず、それどころか、無情にもそれが、重荷になっていたのかもしれません。
次も第七信からの引用です。「要するに妾は理性の上から見て、あなたと戀をしないでゐることを最もいいことだと思つてゐます。が、感情はさうではありません。……例へおたよりは絶えてゐても、妾はあなたを深く信じ且尊敬いたします」23。憲三からの返信は一向に届きません。残るのは、理性を越えた、押さえ切れなく噴き上がってくる熱情のみです。そしてこの手紙は、こう続きます。「あなたは『愛してゐる』といふあなたの眞心を一寸もみせて下さらない。それが妾には悲しい」24。
続く第八信が、憲三のもとに届きました。それには、「家を出ることは駄目になりました。兩親に知れました。夢中になつて旅に出たいと企てましたけれど、あとからあとから裏切られて了ひました」25。そこで逸枝は、羊飼いの仕事をすることを考えました。それについては、このような文言で表現されています。「妾は山の中にバラツク風な小屋を建てて、牧羊をしようかと思ひます。美しい處です。場所も選定しました。……まるで閑静な別世界です」26。かといって、憲三への思いを捨て去ることはできません。次の語句が、この第八信の終わりの言葉です。「あなた。此の上泣かせないでください。妾は眞心深くあなたの御幸福をお祈りいたして居ります。妾は人に愛される資格・價値をもつた女なので御座いませうか。妾はこのごろ特につくづく思ひます。妾は愚劣だ。妾は恐らく愛されなかつた、愛される價値は妾にはなかつた・・・・。唯、妾の誠實を疑はないで下さいまし」27。
この全八信で構成される「第五 長恨記」を読むと、もはやこのとき、憲三は、逸枝のこころから遠く離れた存在になっていたことがわかります。ひとつの原因は、ほぼ間違いなく、逸枝が「愛の黎明」のなかで書いた複数人の男性との恋愛関係にあったものと思われます。ところが、急転直下、ふたりが交わす手紙のなかで、結婚のことが話題に上るようになるのです。何がそうさせたのか、詳細は不明です。したがいまして、想像に頼るしかありません。憲三の偏屈なわだかまりが逸枝の熱愛によって幾分氷解し、代わってそこから、逸枝の置かれている「四面楚歌」的な状況へのなにがしかの同情心のようなものが、そのとき生まれ出てきたのかもしれません。あるいはまた、「あなたが恋しい」とか「あなたにお会いしたい」とかいう言葉を織り込みながら連日のように手紙をよこす女をむげに拒絶するわけにもゆかず、それであれば「まあ行けるところまで行きましょう」といった気持ちがいまだ潜在的に持続していたのかもしれません。
風が吹けば飛ばされてしまいそうな、弱々しいきずなであったにちがいないと想像されるものの、それでも、双方の思いの一致がようやくここへ来て出現したのでした。時期は、「愛の黎明」の連載終了からおよそ二箇月が立った三月下旬のことではないかと推量されます。
(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、159頁。
(2)橋本憲三『恋するものゝ道』耕文堂、1923年、137-138頁。
(3)橋本憲三「末人像(七)」『九州新聞』、1920(大正9)年9月7日、4面。
(4)古河節夫「彼と民子の話(一)」『九州新聞』、1918(大正7)年10月26日、7面。
(5)古河節夫「彼と民子の話(二)」『九州新聞』、1918(大正7)年10月27日、7面。
(6)高群逸枝『愛と孤独と』理論社、1958年、40頁。
(7)古河節夫「彼と民子の話(三)」『九州新聞』、1918(大正7)年10月28日、7面。
(8)古河節夫「彼と民子の話(四)」『九州新聞』、1918(大正7)年10月29日、7面。
(9)前掲『愛と孤独と』、49頁。
(10)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、90-91頁。
(11)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 上』朝日新聞社、1981年、194頁。
(12)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、163-164頁。
(13)前掲『恋するものゝ道』、140頁。
(14)同『恋するものゝ道』、141頁。
(15)同『恋するものゝ道』、同頁。
(16)同『恋するものゝ道』、142頁。
(17)同『恋するものゝ道』、146頁。
(18)同『恋するものゝ道』、148-149頁。
(19)同『恋するものゝ道』、149頁。
(20)同『恋するものゝ道』、150頁。
(21)同『恋するものゝ道』、153頁。
(22)同『恋するものゝ道』、154頁。
(23)同『恋するものゝ道』、155頁。
(24)同『恋するものゝ道』、156頁。
(25)同『恋するものゝ道』、157頁。
(26)同『恋するものゝ道』、157-158頁。
(27)同『恋するものゝ道』、158頁。