中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第二部 逸枝の放浪と憲三の作家活動

第五章 逸枝の退路を断っての四国巡礼の旅

その旅路のあらましと出で立ちは、おおかた次のようなものでした。

 熊本から大分、別府をとおり、船で四国の八幡浜にわたり、菅笠に金剛杖、白のおいずるに三衣の袋、巾二寸の札ばさみ、という型どおりの姿で、土佐、阿波、讃岐、伊予と逆打ちをして、故郷に帰るまで約半歳、四国にいたのが、夏から秋への百日ばかりであったが、この無銭旅行は、私には得るところが多かった

出発の前日、逸枝は憲三に手紙を書きました。「明日より四国八十八ヶ所の巡礼の途につく。おひづる、笠、杖、草鞋、紫の振りの袂もなかなかにさみしく、野越え山越えゆく旅の巡礼姿をおしのび下さいまし」。それに対する憲三の返事は、「丈夫なズロースをはいて行きなさい」というものでした。

他方で、出発するに当たって逸枝は、お金の無心をしました。「私は九州日日新聞社の社会部長宮崎さんを訪ねて、巡礼記を書くということで金十円也をもらった。陸の上は物乞いしてゆくはずだったが、四国にわたる豊予海峡の船賃だけは必要と考えたからである」。「娘巡禮記(一)巡禮前記」が『九州日日新聞』に登場したのは、一九一八(大正七)年六月六日の朝刊三面でした。書き出しは、こうです。「どんな心持で巡禮を思ひ立つたか夫れは私自身でさへ一寸では解らないが左は社内宮崎先生に宛て書いた手紙の一節である、此れに依つて私と云ふ者がどんな者で有るか極めて一小部分で有つても理解して下さる事が出來たら幸甚である」。いうまでもなく逸枝にとって、「汚辱の沼を脱出して、漂泊の旅をつづけることにより、『いかに生くべきか』の問題を解決したいのが、この旅行のねがい」でした。

この旅について、のちに逸枝が晩年に書いた『今昔の歌』から断片断片を拾い上げ、以下に、順次、構成したいと思います。

私は豊予海峡を渡るまでは、この雨具を買っただけで、ほかには一銭も支出しなかった。日が暮れると門に立って一宿を乞い、翌日は握りめしをもらって出かけた。もちろん断られたこともあるが、その場合私はけっして言葉をくりかえさず、次の門に立ったのである。幾日めかに、故郷肥後とわかれる峠に立った。
 「火の国の火の山にきて見わたせばわがふるさとは花模様かな」
 私の安住をゆるしてくれない払川、汚辱の沼熊本よ、さよなら。私はかならずしも故郷に帰る日を期していなかった

「ふるさとは花模様」であろうとも、自身は絶望の境地にありました。「私の安住をゆるしてくれない払川」とは、いわゆる「口減らし」を意味するのでしょう。他方、「汚辱の沼熊本」とは、自身が身につけてきたセンティメンタルな唯心論やロマンティックな詩心を許容しない都会の冷酷な思潮を指すのでしょう。さらにもうひとつ、逸枝のこころに寒風となって吹き荒れていたのは、いうまでもなく、球磨の山奥の教師、憲三の存在でした。加えて、極貧がもたらす絶望的な日々も。

ゆく道は険しく、もう生きてもどれないかもしれないという覚悟を胸に刻み、かくして逸枝は、悲壮感漂うなかにあって原郷「火の国」に別れを告げたのでした。ところが、坂梨を出て豊後に向かう途中で、ひとつの出来事に遭遇します。歩き疲れた逸枝が、道端で休んでいると、横に置いていた笠のなかに、店から出てきた猫が入り、眠ってしまったのです。そのすべてを見ていた店の女主人は、逸枝と目をあわせるや、同時に笑ったのでした。物乞いの身の逸枝は、嫌がられると思い、店に入るのを遠慮して石垣の所で休んでいたのですが、乞食と店主という異なる身分の立場を越えて、笑いを共有したことに、逸枝は強く胸を打たれたのでした。

……猫の子によってひきおこされた一瞬間の両者の笑いは、それらの関係を越えた純粋なものであったとおもう。言葉がすこし飛躍するが、私はこのとき人間性の善と、その自由な発露をさまたげている世俗的なものの存在を感じ、いっさい障害物がのぞかれるなら、人間は惜しみなく愛し合うものだということを知った。この人間性への本質的な信頼と、それを生かす方向への出発ということが、ここで私に直観的に把握されたのだった

犬飼の手前にある中井田という部落で日が暮れたときのことです。家から出てきた老人から声がかかりました。「一間きりの、仏壇以外にはなにもない住いで、欠けた椀に飯を盛り、味噌のおかずで夕食をふるまわれた。この人は七十三歳、名は伊東宮治、針とあんまを業とし、信心家の一徹者として、その界隈に埋もれて敬愛せられていた人だった」。その夜伊東は、逸枝が観音の化身であるとの夢を見たようです。伊東は、逸枝とともに四国八十八箇所を回る境地に達し、ひとり旅を望んでいた逸枝もそれに「曲従」し、これにより、それ以降、ふたり相並びての巡礼者となり、遍路行がはじまりました。旅がはじまると、こんなことがありました。

 おかしいことであるが、私の杖に触れると病気がなおるといって、遠近からそれらの人びとが押し掛けてくるようになり、そのなかにはじっさい奇蹟的によくなったものもあった。……犬飼や大分、別府等からまで訪問者があって、つたない書や短冊なども書かされたりした。こうして期せずして老人の路金をいくらかでも助けることにもなった

「四国遍路には、順打ちと逆打ちの二つがある。つまり番の寺の順をたどるか、逆をゆくかのちがいだが、おなじ道ながら逆打ちのほうは上り坂がけわしく困難だという。私は老人をいたわって、順打ちを主張してみたが、かれは一も二もなく逆打ちの苦行をえらんだ。私はもうここで完全にこの一徹者の老人の意思に屈服した自分を見いだすことになった。ただし、かれの主観では、かれは私の従者であり、護衛者であり、だからつねにその礼をとった」10のでした。

伊東老人は目が不自由でした。出し入れの際、財布から銭を落とすこともしばしばありました。しかし逸枝は、すべての会計をこの老人にまかせ、介入することはありませんでした。また、「人家のあるところでは修業というものをした。修業とは、門に立って、物を貰うこと、つまり乞食である。貰うものは米、麦、などであるが、これは遍路宿で現金にかえることもできた」11。しばしば野宿もしました。伊東老人がへばったところが野宿の場所になりました。「室戸岬の断崖の下では、砂浜の上に泊って、あやうく夜なかに波にさらわれようとしたことなどもありました」12。そして、いよいよその時が来ました。「大正七年十月十九日、私と伊東老人とは、私たちの最後の寺、結願の寺、四十四番の大宝寺にもうでることができた」13のでした。

この漂泊の巡礼行にあって、逸枝は憲三に旅の便りを送りました。『恋するものゝ道』の「第四 漂泊行」に、このときの手紙が集められています。全一八信の構成です。それでは、そこから適宜部分的に抜き出して、逸枝のこころを占めていた旅情の一端を再現してみたいと思います。差出日は記されてありません。

[第二信] 六月ママ日。今、菊池の大津といふ所にゐます。明日は外輪山を突破して、阿蘇から大分へ。
 漂泊、という感じが沁沁と――未來はまるで解りません。唯、現在に生きて行くばかり、さびしい時には人を思ひ、身を思ひ、讀書し、沈思し、山に上つて笛を吹きます。
 御便り時々はいたします。
[第五信] 今日から四國へ参ります。何卒何卒御身御大事になさいまして下さいまし。七月九日。
 赤きものは赤くあれ。
 黒きものは黒くあれ。
 今や心恬然としてここに在り、敢へて恬怖も、不安も、寂寥も無し。
 今宵乗船わけもなく微笑まれつつあり。
 生か?
 死か?
 來るもの、そはわが問ふ處ならず。
[第十五信] 妾はあなたを深く切に尊敬いたして居ります。唯、遠く離れてありたい。妾は唯つつましく、唯さみしく、唯やさしく、唯機を織り、衣を洗つて、世を過ごして行きませう。その外に道はありません。妾にはその外に何の慾望もなくなりました。妾は温順な父母の子として、優しい弟妹の姉として、生涯を果てようと決心いたしました。
 あなた。
 一目お會ひしたう御座います。またおたよりはいつまでも許して下さいまし。妾を察して下さいまし14

憲三はいいます。この間「返事はかならず書きました。行手の先々の寺気付で出せるようになっているのです」15。もっとも憲三は、逸枝が巡礼に出ているあいだ、逸枝への返信だけでなく、小説執筆にも精を出していました。それは「太陽へ」という題をもつ小説で、七月九日の『九州新聞』(七面)に第一回が掲載されると、第二回(七月一〇日七面)、第三回(七月一一日七面)、第四回(七月一二日七面)、第ママ回(七月一七日七面)、第五回(七月一八日七面)、第六回(七月一九日七面)、第七回(七月二一日七面)と続いて、第八回(七月二三日七面)で完結します。最終回の最後の一節はこうです。

 急にあたりがパツト明るくなつた。
 太陽が上つた。
草木は光の方へ一齊に手をさしのべて、互いの生の歓喜を歓び歌つた。
 彼は胸の痛みも何も彼も打ち忘れて、子供のやうに、兩手を高く上げて、太陽へ――郁子へ走つた。――(完)――

この一節は、のちに橋本憲三と高群逸枝の共著『山の郁子と公作』(金尾文淵堂、一九二二年)に再録されます。

他方で憲三は、この時期の心情を、小説という形式だけでなく、以下のように、短歌の形をとって言い表わしました。

石ひとつ森の彼方に投げて見ぬまこと月夜は静かなるかな
たまさかに友の便りのある時は山はかなしとかへしするなり

前者の作は、一九一八(大正七)年九月一二日の『九州新聞』六面に開催された「人吉短歌會」からの一首です。そのときの短歌会について、記事はこう語っています。「開會前になると雨はすつかり晴れた。つづいた、球磨の山脈がくつきり青の肌へをあらはしたもの心地がよかつた。互選詠草六十首。入選歌より高點順に批評にうつる」。

後者の作は、一九一八(大正七)年一〇月一九日の『九州日日新聞』七面の「明けゆく路社詠草」を構成する五首のなかの一首として掲載されました。

この二首のなかに、逸枝と離れて独り山に住む、憲三のこころを覆う寂しさのようなものが表出されていると解釈することも、可能かもしれません。

およそその一箇月後、一一月二三日の『九州日日新聞』は、巡礼姿の写真とともに「巡禮娘歸る」(三面)の見出しでもって、逸枝の帰郷を報じます。その記事には、こう記されていました。「本年六月初め熊本を出發した巡禮娘高群逸枝女史は四國八十八ヶ寺の札所札所を首尾よく打ち納めて廿日夕刻無事に帰熊した(寫眞は本人の巡禮姿)」。帰熊すると、そのあと逸枝は、「十一月二十二日に払川の父母の家に帰った」16のでした。そしてその地で、「娘巡禮記」の最終回の原稿を書きます。それは、一二月一六日の『九州日日新聞』(三面)に「娘巡禮記(百三)」として掲載され、末尾は、以下のような文字で結ばれていました。

飛ぶものは飛べ、去るものは去れ、流れむと欲さば流れよ、消えむと欲さば消えよ
何事もただ其儘に――
――十一月二十八日娘巡禮記完稿――

巡礼の出発に際して、逸枝は「かならずしも故郷に帰る日を期していなかった」と書いていますし、完稿の最後のこの語句に目を向けると、「飛ぶものは飛べ、去るものは去れ、流れむと欲さば流れよ、消えむと欲さば消えよ」の文字が並びます。いのちに限りがあるように、愛にも限りがあるのです。確かなものは、いまここにある「瞬間」、それだけなのです。巡礼のはじまりと終わりに当たっての、これらの逸枝の文言から判断しますと、結果としてこの巡礼は、逸枝をして自身の愛の「永遠説」を遠ざけさせ、憲三の「瞬間説」に近づけさせたようにも感じられます。しかし、果たしてこれにより、ふたりの愛の距離は縮まるのでしょうか。

(1)高群逸枝『愛と孤独と』理論社、1958年、42-43頁。

(2)橋本憲三『恋するものゝ道』耕文堂、1923年、121頁。

(3)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 上』朝日新聞社、1981年、160頁。

(4)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、139頁。

(5)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(6)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、194頁。

(7)同『今昔の歌』、199頁。

(8)同『今昔の歌』、195-196頁。

(9)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、143頁。

(10)前掲『今昔の歌』、196-197頁。

(11)同『今昔の歌』、197頁。

(12)同『今昔の歌』、同頁。

(13)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、156頁。

(14)前掲『恋するものゝ道』、121-133頁。

(15)前掲『わが高群逸枝 上』、189頁。

(16)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、158頁。