憲三が「森の家」を離れ、帰郷した水俣の地で『高群逸枝雑誌』を発刊すると、美しい花に引き寄せられるチョウのように、多くのたよりが舞い込み、一方で、大学の学生や教員たちがしばしば訪ねてくるようになりました。しかし、必ずしも、歓迎されるべき訪問者たちばかりではありませんでした。この手術を挟んで、その前年から亡くなるまでの約四年間、憲三は、身体的のみならず、精神的にも大きな困苦を抱えてゆきます。主としてそれは、この時期の外部からの高群逸枝巡礼者たちによってもたらされました。
連載最後となる「題未定――わが終末記 第九回」が掲載された『高群逸枝雑誌』(第一六号)の発行から四箇月が立った、一九七二(昭和四七)年一一月一三日、詩人の秋山清が、自宅を訪ねてきました。このことにつきましては、次の年(一九七三年)の六月に思想の科学社から上梓されます、秋山の『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』に詳しく、そこからの引用をもって、構成したいと思います。
「橋本さんはいますか」 「どなたですか、身体がわるくてあまり人と会わんようにしているのだが――」 と機嫌のよくなさそうな返事の後で、彼は部屋の中の寝台から起き上がる気配だった。私が名をいって紹介状を差し出すと、彼の気むずかしい顔もいくらか和らぐかに見えた1。
憲三は、以前秋山が『日本読書新聞』に書いていた自叙伝「小組のへそ」を読んでおり、そのことや渋谷定輔の『農民哀史』のことなどが話題になり、いよいよ本題に入ります。秋山は「『高群逸枝全集』から何故に、アナキズムの立場から書いた多くの論説が脱落させられたか、それを敢えてしたのは、本人の意思か、本屋の要求か、橋本憲三自身の意向によるものか」2を、遠慮することなく憲三に問いました。それに対して憲三は、概略このように答えました。「あれらを書いた時期、まだ彼女は未熟だった。本人も自分のその頃書いたものをそのように見ていたらしく思う。それらしいことが『火の国の女の日記』にも書かれてあったと思う。要するにそれから以降の研究が主ですから」3。この返事は、「現在高群逸枝に集まっている強い注目の中には、あの頃の論説を重く見ているところからのもの」4に起因しているものもあるのではないかと確信する秋山を必ずしも満足させるものではなく、さらに秋山の質問が続きます。「『婦人戦線』の諸論文、『女人芸術』誌上のマルキシズムとの文学論争、さらにはそれ以前の、たとえば『婦人公論』誌上で山川菊栄ととり交わした恋愛論争などを、単行本として刊行するか、全集の別冊としてでも出すことはどうか。私はそれをすすめますよ」5。この提案に対して憲三の反応はこうでした。「いや、私は肥後モッコスですから、一度きめたことは――」6。「何が肥後モッコスだ!」――出そうになった言葉を自身で引き取りました。秋山の真意は、「昭和三、四、五、六年ごろ、アナキズムを拠りどころとして展開した高群逸枝の論争、主張、啓蒙などの活動が、未熟な時期であった、という主観的な判断から、その人の生涯の業績の中でオミットされていいものか、ということ」7でした。帰り際、憲三は秋山に、『高群逸枝雑誌』に何か寄稿するように示唆したようです。それを受けて、翌年(一九七三年)の二月一七日、秋山は、憲三に宛てた手紙という形式をとり、採否は一任するとしたうえで、「全集の編集にたいする私の不審や疑問について、率直に問いただす文章を送った」8のでした。長文です。一言に要約するとその内容は、「全集」と称しながら、なにゆえに、とりわけ逸枝自身が編集者として責任をもつ『婦人戦線』に書いたアナーキズムを拠り所とした彼女の論文が、未熟な時期に書かれたものであったという理由から削除されたのか、その正当性を「全集」の編集者である憲三に直接問い、それら一連の論考のもつ歴史的重要性を指摘するものでした。さっそく憲三は、二月二一日にその返信をしたためます。
お原稿一読しました。結論から申しまして、これは取捨をおまかせくださった寛大なお心にあまえてご指示どおり急ぎ返送させていただきたいと思います。 原稿には私と見解を異にするところがあまりに多く、私が責任者となっている雑誌に掲載することでお説を私が認めたと誤解されることをさけたいのです。ご了承をお願いします9。
それでは、この返信のなかで憲三が書いている「私と見解」とは、どのようなものだったのでしょうか。さかのぼること七年前の一九六六(昭和四一)年、「森の家」で「全集」の編集と校正に精を出していたとき、同居していた道子に、憲三はこう自身の考えを開陳しています。
全集とは何でしょうね。全集をどう規定するか。選集という形もあるでしょう。ある基準でいえば、彼女の全集はこの二倍でも足りないくらいです。全集を出す意味について僕は彼女と対話するのです。 つまり彼女のみていた真理、この真理でもって、彼女は孤絶したこの家の外の世界に貢献したといえばいえる。それに到達するまでの、彼女にいわせれば紙クズ。彼女によって否定されたものを全集にとりあげることは、彼女をはずかしめ、僕もはずかしめを受ける。これは僕の法治主義です10。
憲三の立場に立てば、女性史学という学問の存在にかかわる啓示に先導されて、つまりは、すべからく人類が到達しなければならないひとつの大きな真理に導かれて、自身の大衆運動の戦線に幕を閉じ、いっさいの来客を断って「森の家」の書斎に独り恒久に蟄居した、まさしくそのときこそが、高群逸枝が学者として蘇生復活する瞬間であり、それ以前に彼女の身辺にみられたものは、そのために必要とされた、いわば産湯の残り湯であり、使用済みの布切れであり、これを「全集」に所収することは、清が濁によって、つまりは、清書された玉稿が書き散らされただけの紙クズによって混濁させられることを意味し、それを認めれば、「彼女をはずかしめ、僕もはずかしめを受ける」ということになるのでしょう。これが、編集者としての高群逸枝の業績についての評価であり、「全集」編集の方針となるものでした。しかし、そうした思いは、アナーキズムに関する論考が「全集」から欠落していることに不満を示す秋山には理解してもらえず、その手紙から四箇月後の六月、秋山の『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』が世に出るのでした。それをおそらく見たであろう憲三が、そのとき、いかなる心的状況に陥ったのかは、裏づける資料もなく、想像するしかありません。
あえて憲三の立場に立って想像するならば、このようになるのではないでしょうか。著述物はすべて逸枝と自分の「合作共著」であり、自分と逸枝は「不離合一」の身にあり、それであれば、自分が編集した「高群逸枝全集」は、事実上の「自選集」であり、ふたりの気持ちを十全に酌み取って取捨選択した作品集である以上、何人といえども、それについて余計な口出しをするのは慎んでほしい――。憲三のこころのなかは、このようなものであったにちがいありません。
「全集」の編集に際して、憲三は、「彼女のみていた真理」こそがすべてであり、それ以外のものは「紙クズ」同然であるという考えに立っていました。そして、編集作業を振り返って、こうもいっています。
全集の編纂は厳密な手続きと根気のいる仕事だった。第一資料あつめ。第二選択、第三排(ママ)列、第四原本整理。これらの作業には程度の差こそあれ欠漏・不合理・不自然等がつきまとって編者をくるしめるものがある。全集ということばにもこだわりがないとはいえない。たとえば、世に網羅主義の全集はあってもおそらく網羅しつくした全集はあり得ないだろう。選集ということばもあるが、これも現実には代表作の意味よりはむしろ便宜主義を語っていると思う。私は主著主義をとることで自分を納得させた11。
ここからわかりますように、逸枝の「全集」を編むに当たって憲三は、「主著主義をとることで自分を納得させた」のでした。これが、アナーキズムに関する論考を「全集」から除外した理由でした。したがいまして、「『婦人戦線』の諸論文、『女人芸術』誌上のマルキシズムとの文学論争、さらにはそれ以前の、たとえば『婦人公論』誌上で山川菊栄ととり交わした恋愛論争などを、単行本として刊行するか、全集の別冊としてでも出すことはどうか」という秋山の提示する提案など、到底憲三の立場からすれば、受け入れられるものではありませんでした。憲三にとって、秋山の来訪と、次の年の『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』の発刊は、破棄すべき「紙クズ」に火がついたことを意味し、まさしく、「彼女をはずかしめ、僕もはずかしめを受ける」ような火事現場となったのでした。
これが、病床にあった憲三を苦しめたことは、想像に難くありません。しかし、これだけではなく、さらにもうひとつの火災が続くことになるのです。それについては、稿を改め、次章の「瀬戸内晴美と戸田房子の小説のなかでの憲三中傷」に譲りたいと思います。
(1)秋山清『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』思想の科学社、1973年、8-9頁。
(2)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、9頁。
(3)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、同頁。
(4)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、同頁。
(5)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、10頁。
(6)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、同頁。
(7)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、11頁。
(8)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、156頁。
(9)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、同頁。
(10)石牟礼道子「最後の人 第六回 序章 森の家日記6」」『高群逸枝雑誌』第6号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1970年1月1日、27-28頁。
(11)橋本憲三「『火の国の女の日記』の後」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、11頁。