中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第四部 詩人逸枝の上京と憲三による「略奪」帰郷

第一一章 憲三の逸枝「略奪」と弥次での二度目の新婚生活

一九二一(大正一〇)年六月の一五日と一七日、逸枝は、『日月の上に』(叢文閣)と『放浪者の詩』(新潮社)のふたつの詩集を、二日違いでほぼ同時に上梓しました。前者は、逸枝の前半生を扱った長編の物語詩で、出京後に寄宿した軽部仙太郎家の一室で書かれたものです。後者は、憲三との城内校で新婚生活の終焉から出京までの「感情革命」を通して表出された詩群で主に構成されていました。この二冊の処女詩集をもって、逸枝は、堂々の詩壇登場を果たします。そこへ、事実上の夫である橋本憲三が、学校の茶摘み休みを利用して東京の逸枝を訪ねてくるのです。逸枝はこう書きます。

彼は休みの期間が過ぎるとすぐ帰るはずだったが、私をみるなり、たちまちひょう変して、私を略奪する気になったらしく、故郷の南の海岸にいって一年くらい二人だけでのんびりくらしてみないかといい出した

結果的に逸枝は、この憲三の申し出を受け入れます。

 私は……大正九年の秋出京し、世田ヶ谷満中在家の軽部家に寄宿し、親切な宿の人たちや美しい自然にかこまれて勉強し……[翌年の]四月には処女作が発表され、六月には二つの本が出版されるといったような幸運にめぐまれていた。そこへ夫が球磨から出てきて、そのまま弥次へつれて行ってしまったのである。このとき出版元の新潮社の人が、「いまがいちばん人気の立っている大事な時だから都落ちなどはしないほうがよいが」とひきとめてくれたが、私はそれを夫にいえないほど、こういう場合には優柔不断で、ひとがよろこぶことなら、すぐに曹大家の「女誡」にいうように「曲従」する性格があった

父親の勧めを拒むことができず、気が進まない師範学校へ入学するときも、また、四国巡礼の旅の途中で出会った伊東老人の発案に順応し、自分の思いを押し殺してふたり旅をするときも、そしてさらに、自分が憲三に送った過去の私信を巡っての城内校で体験した「はずかしさと腹だち」を隠して、「黙って見のがすことにした」ときも、逸枝は、「曲従」という用語を使って、そのときの自身の行動様式を表現しています。逸枝にとってその語は、「優柔不断」と同義語で、思ったことをはっきりと相手に伝えられない、主体性や判断力を欠く自身の性格を指し、自分の欠点として認識していました。

「曲従」という言葉のもつ、その印象からすれば、自分の意に反して、他者の威圧に完全に屈服することを示しているように受け止められそうですが、この場合も、新潮社の人などの助言に従ってこのまま東京にいるのがいいか、憲三の誘いに乗って帰郷するのがいいか、自分では判断がつかない迷いの状況にあって、憲三が下す結論に従って、東京を離れる結末に至ったことを言い表わしているものと思われます。もし憲三の提案を断わり、そのまま東京生活を続けることになれば、「心の自由さはだんだんむしばまれ……もはや林の中の思索も、散歩すらも可能でなくなった」であろう結果が出現するのは明白です。逸枝にしてみれば、訪問客のあしらい方も知らないこうした状況で、本当に次の詩作ができるのでしょうか。かといって、熊本に帰り、憲三が示す八代の弥次海岸での生活は、城内校での経験から考えて、必ずしもこころ躍らせるようなものではなかったでしょう。物事にかかわって自分で適切な判断ができず、勢い、すべてを受け入れてしまい、その結果混乱に陥るという自らの性格からして、逸枝はこのとき、即決も即答もできなかったものと思われます。しかしながら最終的には、憲三の、ある意味での支配力と、逸枝の、ある意味での依存性とがうまく合体して、熊本への帰省という合意へふたりは到達したのでした。

逸枝は、「エゴイズム」も「曲従」をも越える、両者間に働く宿命的な「不離の愛」について、次のように語ります。

思えばKのエゴイズムも、私の曲従も、そのほとんどが必至的に行動されたもので、その主たる動機は両者の不離の愛-それは宿命ともいえる-にあることが考えられてよかろうと思う

また、このときの「都落ち」について、逸枝は、こうも説明します。

「いまがいちばん人気の立っている大事なときだから都落ちなどはしないほうがよいが…」
 とひきとめてくれたがKは強引に実行に移してしまった。
 そうなると私は例のように優柔不断となり、曲従するのだった。……この曲従癖は、感情革命をへても、やはりその場になると変わっていないことが実証されたのだった。まして、彼に会えば、曲従を通りこして一体化の理想が目をさまし、その理想の前には名誉も地位もあったものでなかった

このとき、逸枝にしてみれば、詩人としての「名誉も地位も」たとえ横に置いてでも、憲三との愛がすべてであったようです。したがって、逸枝から、一種の被害者意識ともいえる「曲従」意識が消えるのは、「エゴイズム」も「曲従」も、その根底には宿命ともいえる「両者の不離の愛」が存在していることに気づいたこの時期か、あるいはそれよりのちの、さらに「両者の不離の愛」が強く認識されてゆく過程のなかにあってのことではなかろうかと推量されます。

あたかもこの「両者の不離の愛」的状況を先取りするかのような詩が、『放浪者の詩』にありますので、以下に紹介します。

二人は今も遺る瀬なく
愛し合つてゐるのだけれど
こんなに暗い顔をして
睨み合つて暮らしてゐる

だがその戀しい妾の戀人は
優しい聲で妾に恁う言つた
僕は貴女をお友達にして
あの地平線まで歩いて行きたいと

もう貴女を可愛いとは思ふまい
そして尊い人だと思ひたい
そして二人で仲よく手を取り合つて
静かにお話をしませうと

逸枝が描く詩の世界と同様に、実際にここに至って憲三は、逸枝のことを、「可愛い」人を越えて「尊い人」とみなしていたにちがいありません。次も、逸枝の文です。

出京したKはそうした独占欲を発揮して、一本の手紙で学校の方はやめ、六月末には私をつれて都落ちした。軽部家では親類の人たちをも呼んで、心のこもった別離の宴を催してくれた」

東京を離れるに際して、「僕は貴女をお友達にしてあの地平線まで歩いて行きたい」「そして二人で仲よく手を取り合つて静かにお話をしませう」という思いが、おそらく憲三にあったでしょうし、逸枝はそれを信じたものと思われます。「『日月の上に』は叢文閣の出版で二千部(印税一割二分)、『放浪者の詩』は新潮社の出版で二千五百部(印税七分)」でした。前者の定価が壹圓五十銭で、後者の定価が壹圓七十銭でしたので、前者からは三六〇円の、後者からは二九七円五〇銭の印税があったことになります。憲三は学校を辞め、もはや収入がありません。主としてこの合計六五七円五〇銭の金子が、旅費とこれからの生活費に充てられることになったものと考えられます。

 渋谷駅から汽車に乗り、品川で乗りかえ、翌日熊本駅を通過してなつかしい木原山を左窓に見ながら松橋駅につくと、私はしきりにいまは墓となった母、隠棲している父、かしづいている弟妹たちを思って、涙が頬をつたって流れおちるのをどうすることもできなかった。私は母の墓前にぬかづいて、母の遺言にしたがって、臨終にも葬式にも帰らずに努力してなった二つの詩集を献じて、その霊を、心からなぐさめたかった

しかし、それはかないませんでした。もし払川に行けば、おそらく自分たちの結婚式のことや、母親の初盆のことや、父親の離職の祝いのことなどが話題として持ち上がってくることは十分に想像されるところで、憲三には、そうした堅苦しく、また無味乾燥な俗務にはとても耐えられないという思いがあったにちがいありません。もっとも、一方の逸枝にしても、一度は覚悟を決めて家を出た以上、いまだ一年も立たずに舞い戻ることにはためらいがあったでしょうし、村固有の俗世のしきたりや慣習も、できれば避けてとおり、ふたりだけの静かで自由な二度目の新婚生活を楽しみたかったものと思われます。逸枝はいいます。「彼としても実家に顔を出した後に払川にも行きたいとは思っていたらしかったが、いずれにしても私は覚悟をきめて、だまってKの心にまかせる態度をとった」

果たしてこれもまた、憲三の「エゴイズム」と逸枝の「曲従」との、無言のうちの併存の一例とみなすべきでしょうか。それとも、状況をすばやく察知した憲三の、逸枝を守るための「温情」に、黙して逸枝は従ったと解すべきでしょうか。おそらく、この二面が、微妙に交錯していたものと思料します。

まずふたりは、憲三の実家に数日滞在します。この間に憲三は、勤務校での退職の手続きや残務整理に当たったものと思われます。次にふたりは、親や姉から準備してもらった生活用具をもって、引き返し八代に向かいました。ここは、両人がはじめて会った思い出の場所でもあります。憲三と逸枝はこの地の金剛村弥次海岸で新しい生活に入る予定にしていましたが、着いてみると、受け入れの準備ができていないことがわかり、急きょ、小舟で対岸にある日奈久温泉に渡り、新築されたばかりの大きな旅館に宿泊することになりました。「二人はそこにいわばハネムーンともいうべき数日をおもいがけなく送ったのだった」10。その後に落ち着いた弥次の家は、「もと船乗りだった人が陸に上がって建てた隠居屋で……私たちが専用したのは、まわりえんをもった奥の八畳の間だった」11。古びていて屋鳴りのする、少し気味の悪い家でした。しかし、「あくまでおだやかな青い海のかなたに天草の島々がみえ、夕陽の輝くなかを大漁旗をかかげた魚舟が沖から帰ってきて」12、自分たちの家の前を通り過ぎてゆく光景は、感動を誘いました。

七月三〇日、『九州日日新聞』一面の「新刊紹介」は、逸枝の『放浪者の詩』を取り上げ、こう報じます。

「日月の上に」を發表して一躍詩壇に出でたる著者の最初の詩集である[。]大膽に奔放なる著者の才は全面に流るゝの趣きがある[。]

この記事を読んだ、払川で余生を送る逸枝の父の勝太郎は、おそらく歓喜したことでしょう。その少し前のこと、「日月の上に」が『新小説』掲載されたおりには、「稿料がはいったとき、さっそくその中から若干のものを故郷の父にささげた」13ほどに、逸枝は、父親への孝行を忘れないでいたのでした。他方、昨年の八月、逸枝が出京するとき、母の登代子は、「出世しなはりえ」といって娘を励ましました。その娘の詩集が「新刊紹介」に掲載されたのです。生きていれば、これを見て母親は、どれほどまでに晴れがましい気持ちに浸ったことでしょうか。

いよいよ城内校に続く、二度目の新婚生活が、ここ弥次の海岸ではじまりました。逸枝は、ここでの仕事について、次のように書いています。「弥次生活八ヵ月の間に、私は『美想曲』のほかに、『朽ちたる城の姫』という二百枚の長篇詩を書いた。これは新潮社に送って出版承諾の返事をもらったが実現しないうちに震災などがあって惜しくも行くえ不明になった。東京の雑誌にも毎月何か書いていたが、そのいくつかは、『私の生活と芸術』『胸を痛めて』、『黒い女』等に収められている」14。おそらくひとりとして邪魔をする者もなく、東京にいることを考えれば、ここでの仕事の方が、より順調に筆が進んだものと考えられます。

八月一六日、『九州新聞』(四面)は、「野のトリトンの唄」を表題とする五連からなる詩を掲載します。その前言に逸枝は、「此の近作をなづかしきわが肥後の人々に捧ぐ」と書きました。前述のとおり、ちょうど一年前の八月三日と四日に、『九州新聞』は、逸枝の一一連からなる「辭郷の歌」を連載しました。その最後の連は、「ては古里よ/ほんにさよならさよなら/ほんに妾の愛しい古里よ」で終わっていました。逸枝のこのときの「都落ち」は、ある意味で、まさしく凱旋帰郷だったのです。

続く八月二二日に、八代町正教寺において、八代非歌人社の夏季短歌会が催されました。出席者は三八名でした。八月二六日の『九州日日新聞』(六面)を見ると、「八代非歌人社 夏季短歌大會」の見出しのもとに、次の憲三と逸枝の短歌も掲載されています。

病む妻を静かにおきて心虚し夕べの小家月未だ出でず  橋本憲三
火の國の火の山に來てみわたせばわが古里は花模樣かな 高群逸枝

ここで注目されてよいのは、憲三は「病む妻」を詠い、逸枝は、四国巡礼のおり阿蘇を通過するときに詠んだ旧作を発表していることです。このことは、この日逸枝は参加しておらず、つわりに苦しんでいた可能性を示唆します。といいますのも、次のような逸枝の記述が残存するからです。「この家にきてほどなく妊娠の身となり……悪魔主義の夫が出産をよろこばないことは、既定の事実のように思われたし……妊娠のことは口にも出せず、ひとりで苦しむほかはなかった。そのうえ私たちは、はやくも無一文となり、すでに餓死をまつばかりの状態とさえなっていた」15

逸枝だけではなく、憲三の体調も悪くなります。「秋のはじめごろから彼はまたもや神経衰弱におちいり、正坐することもできないほどになり、寝転んだり、いらいらと歩きまわったりすることが多くなっていき、なんだか生きる力や意思さえ失った」16あり様でした。しかしその一方で、「私が熱心に勉強しているのを親しくみたり、また私が無心に思索しながら庭先などをうろついているのをみたりしているうちに、そうした私に〈不思議な魅力を感じた〉そうで、しだいに私の押しつけ原稿もよろこんで見るようになったのだった。……こうして彼はついに毒舌と賞讃とで私の成長をたすけてくれるようになっていったのだった」17

憲三の体調悪化も、経済的余裕を失い、その結果栄養不足に陥ったことが原因だったかもしれません。しかし、別の観点に立てば、憲三の体調不良の要因は、逸枝のつわりを自分の身に引き寄せた、ひょっとすると疑似のつわり、つまり「クーヴァード症候群」だった可能性も否定できません。これは、妊婦への強度の同情や共感といった感情移入によって発症するといわれており、もしそうであれば、このことと、逸枝の執筆行為について「不思議な魅力を感じた」このときの憲三の心的状況とをあわせて考えるならば、逸枝のことを、「可愛い」人を越えて「尊い人」とみなすようになる最初のきっかけが、ここにあったのではないかと思われます。言い換えれば、ふたりの男女の新たな関係が、ここ弥次での共同生活の環境のなかから偶然にも派生したことになるのです。

城内校での最初の新婚生活が結果として逸枝にもたらしたものは、「感情革命」でした。それは、詩の形式においては、定型から破調への開眼であり、他方、女性の生き方においては、依存から自立へ向かおうとする解放感覚の芽生えでした。すでに詳述していますように、その導火線となったのは、「Kが押しつけた『沈鐘』を読んだこと」にありました。つまり、詩作と生活感情の側面において逸枝が獲得したものは、まさしく両者に共通する「自由」だったのです。そしてこの事例の場合、その「自由」は、いまだ制度や常識に汚されていない、太古の野に遊ぶ純真な乙女が身につけていたであろうと考えられる「自由」の類でした。逸枝が、失われて久しい、自由な旋律に乗せて歌を詠じようとするのも、女性の生き方それ自体に自由を求めようとするのも、疑いもなくそれは、自身の遺伝子にいまだ残存する、原始女性がかつて備えていた「自由」の再生行為だったのではないかというのが、私の思考するところです。

一方、弥次での二度目の同居生活において憲三が新たに感得したものは、述べてきたとおり、逸枝の妊娠におそらく感情移入しては、自身の肉体に変異を覚え、逸枝の詩作行為を見ては、その点に自己の関心を集中するようになったことでした。子を宿すことと言葉を紡ぐこと――この両者に共通する産出行為のもつ神々しさと不思議さに、ここへ来て憲三は、目を見開かされたのでした。のちに憲三は、逸枝について、「強烈な野生の女、内部に過剰なまでに原始の血を受けた女、という一面は多少あるかもしれない」18とも、「バケツ一杯の水を一、二メートルの外井戸から運ぶことすら困難したようであった」19とも書きます。そしてまた、弥次海岸での生活については、逸枝は自分の書く原稿を「『しゃりむりKに押しつけて』などと書いているけれども、これは彼女の心理状態を語っているのみで、私にはしゃりむり押しつけられたという実感などまるでない」20と述懐します。明らかにこのとき、憲三の身に「個体変異」が起こっているのです。そうであれば、これまで憲三の性格の一側面として言い慣わされてきていたサーニズムも悪魔主義も、弥次生活のこの時点をもって、もはや溶解の方向へと向かうことになったと推断してもいいのではないでしょうか。城内校での最初の新婚生活は妻たる逸枝の内において、それに続く弥次での新婚生活は夫たる憲三のなかにあって、まさしく相手の固有の存在が思わぬ引き金となり、その結果「感情革命」が成し遂げられたのでした。こうして、夫婦それぞれが「感情革命」を体験することにより、徐々に夫婦の枠組みが整ってゆきます。

それでは、「愛の結晶」とも呼べる自分の妊娠を、逸枝自身、実際のところ、どう思っていたのでしょうか。待ちに待った懐妊を心底喜んでいたとは思えません。喜びよりもむしろ、戸惑いや違和感の方が大きかったのではないかと思われます。といいますのも、すでに引用により言及していますように、かつて逸枝は、憲三へ宛てた手紙のなかで、「子供を考えることは恐ろしい。妾は母としての資格はない。第一子供といふものを初めにどうすればいいのか心配です」とも、また、別の手紙のなかでは、「あなたがもし妾を愛して下さいますならばあなたと妾との二人きりの世界に住みたい……そのためには二人の間の子どもさへも厭はしひ。二人でゐたい。二人つきりで」とも、書いているからです。

「そんな頃のこと、ある日嘘のように、夫が私の妊娠に気がついた。すると意外にもかれに生きる力がよみがえったらしく、起き上がって東京に帰るといいだし、旅費をつくりに一勝地の父母のもとに出かけた」21。逸枝の出京に際しては、旅費として憲三は逸枝に一〇〇円を渡し、その後逸枝が東京で暮らすあいだは、生活費として月々三〇円を送りました。おそらく夫としての責任感がそうさせたのでしょう。今度は両親のもとに金策に走ります。このとき憲三に、父親としての自覚が芽生えていたものと思われます。こうした憲三の行動から判断しますと、妊娠を喜んだのは、どちらかといえば、妻の逸枝よりも、むしろ夫の憲三の方だったにちがいありません。さらに加えるならば、逸枝は、憲三のことを、自身に「曲従」を迫り、本人の意思に反して都落ちを強いた「略奪者K」22とも、上の引用のように「悪魔主義の夫」とも、辛辣に形容しますが、しかしそれは、幾分過剰な虚飾であって、実際には、すでに紹介している逸枝の詩にあるように、「二人で仲よく手を取り合つて静かにお話をしませう」と逸枝を促す、憲三の誠意がそこにあった可能性もまた、排除することはできないものと思われます。別の見方に立てば、そうした虚飾的で批判がましい言い回し、それ自体が、逆に、逸枝一流の憲三へ向けた幾分屈折した愛情表現であり、さらに裏を返せば、優柔不断者に備わる別形の他者同定であるようにも受け止めることができるのです。

年が明け、一九二二(大正一一)年を迎えました。この前後にふたりは、婚姻届を出すことに合意したものと思われます。「払川の父にはとうとう帰省ができなかったお詫びと、結婚のゆるしを乞うてやった。父は寛大に受け取ってくれて、すぐに書類を送ってくれ、私たちはその手続きをすました」23。ここに憲三と逸枝は、晴れて法的に認められた夫婦になったのでした。

それからほどなくして、「奥付」にある二月五日を発行日として金星堂から逸枝の『美想曲』が世に出ます。「東京から私の第三詩集『美想曲』の印税が届くのをまって」24、ふたりは弥次の家を引き払い、那良口の憲三の実家に行きました。ここでの様子を、逸枝はこのように書いています。「Kの父母の家で私は激烈な急性大腸カタルにかかった。……義父から与えられた塩漬けの野猿の肉汁をのむと不思議に下痢はとまった。そこで帰京のしたくをすると、こんどは義母や義姉が私の腹部に布を巻いてやりながら、もう臨月に近いのではないかと心配してくれる」25。腹帯を着けてやる一方で、義母のミキと義姉の藤野は、生まれてくる赤子の肌着やおむつなどの準備にかかわって、女としての気遣いを見せたにちがいありません。そしてまた、安全のために、できれば女手のあるこの地で産むことを勧めたかもしれません。しかし逸枝に、東京での出産に逡巡はありませんでした。「決断は私にかかっていたので、私は、『大丈夫です』といって、Kをうながして、汽車に乗り込んだ」26

「この都のぼりは、いまから思うとユーモラスでもあった。Kはバスケットのなかに義姉たちが弥次の自炊生活のためにくれた世帯道具をいれて何くわぬ顔で提げていたし、私は袷と羽織だけはどうやら新調したけれど、コートもショールもないさむざむしたかっこうだった」27。憲三は、妊婦の逸枝に代わって、おそらく弥次に引き続き、東京でも自分が炊事することを自覚していたのかもしれません。それにしても、逸枝の出で立ちでは、春が近いといえども、懐具合と相まって、寒さがこたえたにちがいありません。しかし、それ以外にも大きな難事が待っていました。「関門海峡を連絡船で渡ると、下関発東京ゆきは発車寸前のところで、長いホームを駆けていく」28事態になったのです。呼吸が止まりそうになりながら、何とか乗り込んだものの、「車中はたいへんな込みようで……胎児の頭に人がぶつからないように必死になって防衛した。幸い、隅っこに荷物に独占された座席があったので、Kが交渉して私を割り込ませてくれたのだった」29。こうした難局に遭遇しながらも、憲三と逸枝の夫婦は、「三月のはじめには世田ヶ谷の軽部家に舞いもどった」30のでした。

(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、190頁。

(2)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、217頁。

(3)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、192頁。

(4)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、191頁。

(5)高群逸枝『放浪者の詩』新潮社、1921年、33-34頁。

(6)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、191-192頁。

(7)前掲『今昔の歌』、216頁。

(8)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、192頁。

(9)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(10)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、193頁。

(11)前掲『今昔の歌』、218頁。

(12)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、192頁。

(13)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(14)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、195頁。

(15)前掲『今昔の歌』、219頁。

(16)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、193頁。

(17)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、194頁。

(18)橋本憲三「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1971年4月1日、32頁。

(19)同「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、34頁。

(20)同「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、36頁。

(21)前掲『今昔の歌』、220頁。

(22)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、191頁。

(23)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、195頁。

(24)前掲『今昔の歌』、220頁。

(25)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、195頁。

(26)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(27)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(28)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(29)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(30)前掲『今昔の歌』、220頁。