中山修一著作集

著作集28 余滴を集めて――橋本憲三研究  橋本憲三の生涯――ひとりの「フェミニスト男子」の誕生経緯

第三部 憲三と逸枝の婚約と城内校での新婚生活

第八章 逸枝の家出と城内校での新婚生活

橋本憲三との約婚から三箇月が過ぎた一九一九(大正八)年の七月二六日、高群逸枝は、大阪に向けて家を出ました。道連れの妹の栞は、一九〇二(明治三五)年一一月の生まれですので、このときまだ一六歳でした。

なぜ向かう先が、大阪なのでしょうか。『大阪朝日新聞』の学芸欄を担当する柳澤を頼ろうとしたのでしょうか。それにしても、働く場所も決まっておらず、そしておそらく所持金もわずかであっただろうと思われる、そうしたなかでの、姉妹ふたりによる大阪行きは、たとえこれまでに、熊本で女工勤めの経験をし、四国では無銭旅行の体験があったとはいえ、やはり、「よそ目には無茶とも思われる」、逸枝特有の「奇行」だったように感じられます。しかし、この「奇行」も、それに続くさらなる「奇行」によって挫折します。逸枝は、こう書きます。

妹を熊本の旅館において、九州相良の城下ちかくの城内校につとめているKのところに、しばらくの別れを告げにいったのが不覚で、私はくぎづけにされてしまい、妹は家にひきもどされた

憲三は、前年の一九一八(大正七)年三月に、尾崎尋常小学校から城内尋常小学校へ移動していました。そこへ逸枝が現われたのです。人吉駅での再会でした。憲三の語るところによると、そのときの逸枝の服装は、「銘仙の矢絣に黒っぽい紫色の木綿(たぶん)の袴に黒い靴、髪はお下げにして、つば広の麦わら帽子でした」。この夜ふたりは、城内校の宿直室で結ばれます。柴田道子は、こう書いています。

 甘く激しい初めての夜があけ、Kがみちたりた気持で目ざめると腕の中に逸枝はいない。はっとして飛び起きると彼女は枕元に放心したように座っている。昨夜かしたKのゆかたをきちんとたたんで膝の上においている。……
「どうしたのですか。」
 Kは逸枝の肩を強くひきよせ、ゆすぶった。彼女は泣かんばかりにうろたえて、答えにならない。機敏なKは、事情をすぐのみこめた。Kのかしたゆかたを昨夜の抱擁で汚したのであった

憲三は逸枝を、人吉駅から汽車に乗り、八代駅まで見送ることにしました。柴田の文は、さらにこう続きます。

 Kは逸枝のことを、何をしでかすかわからないと考えながらも、この人の出発を引き止める力は自分にないことを知っていた。Kが彼女にわかれを告げて、八代駅で下車すると、後から彼女も何もいわずにとことことついておりてくるのだった。……
 Kは逸枝をとどめることもできず、二人がかつて最初の出会いをした思い出の地八代に、その夜は一泊し、とうとう翌日も逸枝はKと別れがたく共に城内校に帰ってくる

姉の逸枝がそのまま憲三と城内校で生活をはじめるならば、残された妹の栞は、どうなるのでしょうか。柴田の文には、「熊本の旭館に一人残してきた妹の栞は、払川の父に手紙を出して引きとらせる。父は使いを出して栞をむかへにやった」とあります。栞はこのとき、姉を責める言葉さえ見出せず、両親にあわせる顔もなく、茫然自失の状態にあったものと思われます。他方、父親勝太郎の、ふたりの娘に向ける激怒の感情は、推測するに余りあるものがあります。いうなれば、逸枝の身勝手と無分別とによる、こうした家族の犠牲を踏み台にして、憲三と逸枝の新婚生活はその幕を開けるのでした。

正確な時期はわかりませんが、ふたりの新生活がはじまると、憲三は、自分の家族に逸枝を紹介するために、人吉駅からひとつ八代に寄った那良口駅の近くにある実家に連れてゆきました。父親の橋本辰次は、すでに「結納」のときに面識がありました。母親のミキ、加えて、もしそのとき兄弟姉妹全員がそろっていたとすれば、憲三の兄秀吉、姉藤野、それに弟の武雄と袈義、妹の静子とは、これが初対面でした。逸枝は、このときのことを、こう描いています。

義父は長髯をたれた偉丈夫で正義の人、寛容の人であり、義母は私の母と似た愛そのものの人だった。その他にあたたかい兄姉弟妹たちがいた。私はKにつれられてこの家をたずねると、すぐにとけこんでしまった。この点で一生を通じてひじょうに幸福だった

とりわけ「一生を通じてひじょうに幸福だった」のは、妹の静子の存在でした。逸枝は、静子を、こう描写します。

 お母さんの叡智と美しい容姿は、妹(静子)がそっくりうけついでいるといってよいが、ちがうところは、妹には近代的知性がくわわっていることであろう。この妹は、私が嫁したときは九歳の少女であったが、成長とともに、私のふかい理解者になってくれた

しかし憲三は、両親から必ずしも信用されていなかったようです。「末人像」のなかで、こう語っています。

 私と彼女とは云ふまでもなく兎に角双方の親達の保證と祝福の許にエンゲージしてゐた。しかし私が自分の兩親から一向信用せられて居らぬのと、彼女がその兩親から全く満足されて居らぬのとはたしかに明瞭な事實であつた。
 私の父はすつかり自分には飯を食ふ魂がない、と決めてゐた。そして母は悲しげに自分は本と討死する氣でゐるのだ、と思ひ込んでゐた

「飯を食ふ魂がない、……本と討死する氣でゐる」と両親に思われていた憲三でしたが、それでもこのとき、近いうちに逸枝と出京することを、憲三は親に告げたものと思われます。さっそくなじみの『人吉時報』が、「橋本憲三氏の結婚」の見出し語をつけて、ふたりのことを記事にしました。

豫て本社の社友として雄健の筆を揮ひつゝある山江村橋本憲三氏は今回女流詩人として柳澤健氏等の推奨を受けつゝある才媛高群逸枝嬢と約婚したるが、近く手を携へて上京する由

続いて『人吉時報』は、「二人の唄」と題して憲三と逸枝の短歌を五首ずつ掲載します。次は、それぞれの最初の一首です。前者が憲三の歌で、後者が逸枝の作です。

君を得む
犠牲を多く払ひたる
我に頭をひとつ擲らしめ、

あい添ひて
余りに明き二人
夕陽の径を斑々と10

さらに九月一四日には、『大阪朝日新聞』(五面)において、「泪にぬれて」と題された逸枝の短歌一〇首が掲載されました。以下は、その最初の一首です。

空の青、泪にぬれて獨り、夕陽映ゆ、丘にし仰げば

この一〇作品に対する謝金ではないかと思われますが、逸枝のもとに、金五円の為替が届きました。ちょうどそのときのことです。かつて逸枝の四国巡礼の際に同行していた伊東宮治老人が、豊後から払川を訪ね、その足で山を越え、逸枝に会うために城内校にやってきました。そこで逸枝は、「その金は私のはじめての『原稿料』で、私はそれを薩摩から宮崎にまわって大分に帰るおじいさんのわらじ銭に提供したのだった」11

さて、この歌にありますように、逸枝はこの時期、「泪にぬれて」いたのでしょうか。逸枝は、この新婚生活を、こう歌に表わしています。

またも月日は過ぎた
妹は郷里に引き取られ
妻は夫の許で
夫の愛に溺れてゐる

妻は灯を點けて
夫の帰りを待つてゐる
風はさびしく吹き募り
星も消えて仕舞つた

微笑み給ふな
わが人よ
泣いて妾が待つてゐた事を
あなたは笑ひで買ふおつもり?12

逸枝は、憲三の仕事の帰りを待ちます。しかし、憲三は、その間の寂しさもつらさも、そして、逸枝が理想とする愛のかたちも、理解していないようです。

憲三の机の上には、次のふたつの座右の銘が記されていました。

1 食うことは恥辱だと思え
2 恋愛は負担のないものであるべきだ13

後者について憲三が逸枝に語ったところによれば、「女房との関係は負担だらけで、子どもを生んだり、家庭を維持したりせねばならない。ここにはもう恋愛はない。だから真の恋愛にちかいものは娼婦との関係だけだ。金を払うことをのぞけば、そこには子どもや家庭の負担はないというものだった」14

逸枝は、これについて、こう付言します。

この説によると、彼はあいかわらず瞬間恋愛説の持主だということがわかった。
 ところが私ときてはむかしの永遠恋愛、絶対恋愛、一体化恋愛に逆戻りしており、なかなかKとの間に歯車が合わない。口ではいわないけれど、心では私は寂しがっている15

そして、「心では私は寂しがっている」その情景を、逸枝は、以下のように歌に託して表現します。

妻はまた憂鬱になつてきた
して此のことが
尊い人を不快にしやしないのかと
くよくよ案じ煩つた

尊い人は静かに
妻を打ち眺めた
妻は臆病になつて
おどおどした16

逸枝にとっては、毎日が「おどおどした」衝撃の連続であったようです。逸枝は、このときの生活について、このように書いています。「Kのエゴイストぶりは私にもよくわかっていたし、それがまた私をひきつけるものでもあったが、それにしても城内校での彼の私への虐待ぶりは、ちょっと想像にあまるものがあった」17。それでは、その「虐待」とは、どのようなものだったのでしょうか。以下は、逸枝が書く、そのときの憲三の言説の一部です。

「おれが毎日通っている人吉の夏期講習会には、すばらしいべっぴんがいるので、おれはせいぜい頭にチックでも塗りたくっておめかしして行くんだ」18

「おれは肉感的な女がすきだ。この本に出ている『沈鐘』(ハウプトマン)の森の姫に扮したドイツ女優のようなものがすきだ。第一に森の姫そのものがすきだ。それにくらべるといわゆる貞淑な鐘匠の妻は恋愛の対象としては型がふるい」19

 彼は理想的な妻の像を、「金持ちの若後家」に発見した、と私にいって聞かせた。彼女はたぶんあらゆる点で負担にならない存在でありうるだろうから、と20

憲三にとって、外的要因がもたらす「負担」が、最も忌避すべきものだったようです。憲三の性格は、自分の内面への他者の侵入を拒み、安定した内的世界に身を置くことに喜びを感じる、そうした性格だったものと思われます。こうした姿勢は、逸枝の目にはエゴイズムと映りました。加えて、逸枝の目に映ったのは、憲三の悪魔主義でした。これは、虚構の物語への陶酔や夢想の世界への飛翔を嘲り笑うものでした。互いに理想を語り合い、絶対的愛を共有しようとする逸枝の心的側面と、憲三が持ち合わせるエゴイズムと悪魔主義とは、どうしても噛み合わず、ついつい憲三は逸枝に対して、暴言を吐くようになります。「彼は私のことをよく低能児といった。あらゆる暴言がそこからほとばしり出た」21

憲三は、小説「山の郁子と公作」のなかで、最初に八代で逸枝に会ったときの感想を、このような、友人との会話文で表現しています。

 彼等が最初に會つた時、彼女は蟲のやうな女であつたが、その翌日には「滅茶滅茶に會ひに參ります」と電報を打つて彼を驚かした。
「どんな女です?」彼の友人が笑ひながら訊いた。
「気狂ひです。」彼も笑ひながら應へた。
「美人ですか?」
「愛らしいが、一寸愛されぬ女です。」22

このとき逸枝は、妹を宿に残すや、唐突にも城内校の憲三のもとに飛び込んできました。逸枝の直情径行的な振る舞いに直面した憲三は、上記の会話内容とほぼ同じ感情を再び逸枝に抱いたのではないかと想像されます。

逸枝に浴びせる暴言は、さらに、暴力へと発展してゆきます。「Kの暴力は、私にとって生まれてはじめてといってよいほどのおどろきだった。しかしいちばん私にとって心配になったのは、これによってKをノイローゼにおとしこむことになりはしないかということだった。彼はこんな場合、みていられないほど、青ざめ、おそろしい目つきになり、手をぶるぶるふるわせるのだった」23

逸枝は、「Kの暴力は、私にとって生まれてはじめてといってよいほどのおどろきだった」と書いていますが、泥酔した父親が母親に振るう暴力を目にして逸枝は幼少期を過ごしていますので、決して「生まれてはじめてといってよいほどのおどろき」というわけではなかったものと思われます。違っていたのは、憲三の暴力には、その結果、「ノイローゼにおとしこむ」危険性が内在していたことでした。自分に向けられる暴力への恐怖、憲三が陥りかねない精神機能喪失への不安――かくして逸枝は、確実に居場所を失ったものと想像されます。それに加えて、さらに決定的な出来事が起こりました。少し長くなりますが、憲三と逸枝の行動のちぐはぐさをよく表わしている箇所ですので、逸枝の文からそのまま引用します。

 はやくここを出て払川に帰らなければならないと思いながら、見えなくなった妹の手紙や私の写真などをさがしていると、書物箱の中から、私のKへの最初からの手紙の幾束かが、番号札をつけてころがり出た。よくみると、彼はこの生まの手紙をつかって小説を書こうとしているらしい。後に説明されたところによると、それはかなり長い作品になるはずだった。東京で本にしたときには手紙は分離された。
 私は彼が自分の手紙は私に焼き捨てさせながら、私の手紙は当人に相談もなくかってに利用するのが理解できず、しかもこの手紙は創作に組みこまれるほどととのったものでなく、もちろん公表などすべき性質のものでなく、はずかしさと腹だちで、顔から火が出るおもいだったが、もし私が彼に文句をつけたら、彼のせっかくのでき上りつつある構想はぶちこわしになるだろう。Kの創作欲にも水をかけることになるだろう。そう考えて黙って見のがすことにした24

この文に続けて、逸枝は、こう書きます。「Kのエゴは私の曲従と反比例して募った。それに私も、この一時期ほど、自分の持っている欠点をバクロしたことはなかった」25。この言葉は、憲三が自分の気持ちを前面に出せば出すほど、それに反比例して逸枝の思いは縮小し、いつしか逸枝は、意に反しそれを受け入れる側に立たされてしまうようになることを意味しているのでしょう。そしてそれを、「自分の持っている欠点」と理解しているのです。

それにしても、「私は彼が自分の手紙は私に焼き捨てさせながら、私の手紙は当人に相談もなくかってに利用する」憲三の身勝手さには、確かに目に余るものがあります。おそらくこの新婚生活にあって、逸枝は「曲従」の連続にあったにちがいありません。しかしその一方で逸枝は、井戸の水を汲み、薪を割り、炊事をしたり、風呂を沸かしたり、掃除をしたりすることは、ほとんどできなかったものと思われます。そうした現実世界の仕事から目をそらせ、他方で、気の赴くままに夢世界に遊び、憲三の内面秩序を破壊する逸枝の独断的で自己中心的な行動に、常に憲三はいらだっていたものと推量されます。それに耐えて必死に抵抗するがごとくにして、憲三の暴言と暴力は生まれ出たものと考えられます。逸枝も、そのことに気づくと、それなりに得心がゆきました。こう逸枝は、書きます。

 決心がついてみると、Kの毒舌や暴力も、私の欠点も、それらのすべてが、彼と私とのくいちがいからきたものばかりだったので、ただ私は知らないこととはいえ、Kのところに侵入し、さんざん彼を手こずらせ、ずうずうしくも大きな損害を彼に与えたことを心から詫びて、帰郷することにした26

逸枝は、自身のよって立つ境地も、そして自尊心も、ずたずたに傷つけられてしまいました。他方憲三は、自分が住む純正な心的世界に土足で踏み込まれ、忍耐の限界に達しました。かくしてもはや、この新婚生活の継続は不可能となりました。

「さよなら。私をおゆるしください。私ののこしたものはみんな捨ててください。私は悲しいのです。恋しい人よ」27と書き残すと、逸枝は、「大正八年一一月のある日の朝まだき、城内校を出て、人吉駅から汽車に乗った」28のでした。「松橋駅でおりて、砥用街道を歩き、瀬戸山越えをして、払川の家に帰りついたときは、もう夜だった。父母と弟妹たちはあたたかく迎えてくれた」29。三箇月と数日ぶりの再会に、家族はみな「あたたかく迎えてくれた」かもしれません。しかし、母親の許可を得ていたとはいえ、妹を道連れに家出を決行したこと、そして何よりも、ひとり幼い妹を旅館に置き去りにしたまま、婚約者とはいえ憲三のもとに走ったことは、父を怒らせ、妹の恨みを買ったにちがいありません。さらに加えて、村人たちが浴びせる冷たい視線も笑い種も、ともに甘受しなければならなかったものと思われます。『九州新聞』に連載された「肥後が生んだ唯一の女流詩人【下】」に目を向けると、こうした記述に出合います。

永い放浪の旅から歸ると彼女は約婚の人と同棲することゝなつた、それは球磨郡の山奥で教鞭を執る橋本憲三と言ふ人である。彼女は殆んど郷家を脱け出すやうにして愛人の許に走つた、然し甘美な生活は暫く續いたかと思ふと彼女の胸には戀愛以外に匿し難い憂鬱が芽を擡げてきた、それに正式な結婚も濟まして居ないから一先づ故郷へ歸れとの切なる父母の慂めに従つて厭々ながら年禰村へ歸つてきた、村人は『それ見たことか家出娘が歸つてきた』と散々陰口を利いた、良いことをしても噂、悪いことをしても噂、――彼女は今にどうするかと心に決した」30

妹と連れ立って家出をし、それを断念するや、一転して自身の新婚生活に入り、すると今度はそれをも放棄して再び家を出て、最終的には振り出しにもどって実家に帰るという、まさしく「家出中家出」を逸枝は演じたのち、ついに「今にどうするかと心に決した」のでした。――それは、詩人となって東京に出ることでした。しかしその前に、憲三には「神経衰弱」という病の症状が現われ、逸枝には、「感情革命」の大波が押し寄せてくるのでした。

(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、162頁。

(2)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 上』朝日新聞社、1981年、282頁。

(3)柴田道子「逸枝さんへ2――編集室より――」『高群逸枝雑誌』第21号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1973年10月1日、27頁。

(4)同「逸枝さんへ2――編集室より――」『高群逸枝雑誌』第21号、同頁。

(5)同「逸枝さんへ2――編集室より――」『高群逸枝雑誌』第21号、28頁。

(6)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、162頁。

(7)高群逸枝『愛と孤独と』理論社、1958年、86-87頁。

(8)橋本憲三「末人像(五)」『九州新聞』、1920(大正9)年9月4日、4面。

(9)「橋本憲三氏の結婚」『人吉時報』、1919(大正8)年8月15日、3面。

(10)「二人の唄」『人吉時報』、1919(大正8)年8月25日、8面。

(11)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、166頁。

(12)高群逸枝『日月の上に』叢文閣、1921年、222-223頁。

(13)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、163頁。

(14)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(15)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(16)前掲『日月の上に』、225頁。

(17)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、163頁。

(18)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、165頁。

(19)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(20)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、169頁。

(21)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、165頁。

(22)橋本憲三・高群逸枝『山の郁子と公作』金尾文淵堂、1922年、23-24頁。

(23)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、169-170頁。

(24)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、168頁。

(25)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(26)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、170頁。

(27)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(28)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。

(29)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、171頁。

(30)「肥後が生んだ唯一の女流詩人【下】」『九州新聞』、1921年4月17日、5面。