中山修一著作集

著作集11 研究余録――富本一枝の人間像

第一編 富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す

第七章 転向を誓う
     ――そうした化粧の乙女を見たいと希つて、夜な夜な街を歩く

一九三三(昭和八)年八月の検挙をひとつの境として、一枝の書く文章から政治色が消え、座談会の集録記事での発言、新聞のコラム記事、それに加えて、特徴的なことに、特定の女性についての人物評が増えていった130

一九三四(昭和九)年の秋季皇霊祭の日(現在の秋分の日)の午後、『婦人画報』の企画により、平塚らいてうの夫の奥村博史のアトリエを会場として、奥村家の家族(四名)と富本家の家族(五名)、それに洋画家の安宅安五郎の娘の良子も加わり、「家族會議」が催された。安宅安五郎は、一枝の妹の福美の夫である。奥村家の長女曙生と富本家の長女の陽は、成城学園の小学校で同学年であったが、ともに成長し、曙生は小学校は成城、女学校は自由学園、そしていまは東洋英和の幼稚園師範科に通い、陽は小学校も女学校も成城、日本女子大学を中途退学後、いまは文化学院の高等部に在籍していた。この日の「家族會議」は、「今日は曙生ちやんや陽子ちやんの職業や結婚に對するお考へをうかゞひその考へ方の基礎になつていゐる敎育、學校敎育や家庭敎育も一應檢討し、一方お父樣お母樣の御意見もうかゞひ度いと思います」131という、記者からの導入の言葉ではじまった。座談会の内容は横に置くとして、特筆すべきは、その座談会の終わり方である。以下のような一枝とふたりの娘の言葉のやり取りで終わっている。何か締まりの悪い幕切れの観は拭えないだろう。

富本夫人 お母さんなんか何時も自分は母親の資格がないと思つて――。

陶子 お母さんつたら何時もあんなことを云ふんだもの――。

陽 さう云はれたら子供はどうすればいゝの――。

記者 ではこれで――どうも色々有難うございました132

すでに述べているように、大和時代、一枝は、このときと同じように、「自分は母親の資格がない」ことをしばしば口にしていた。この座談会での最後の発話は、そうした意識が一枝から消え去っていないことを示している。こうした言葉がもたらす子どもたちの困惑は、極めて大きいものがあったにちがいなかった。

母親に対する困惑は、翌年(一九三五年)の『行動』(第三巻第三号)の三月号に陽が寄稿した「明日」にもよく表われている。これは、自伝的な小説の形式をとっており、「瑛子」が陽自身であろう。そのなかに、このような表現箇所がある。

 二十いく年か前、「新しい女」と世間からはやされた女達の、なかでもジャアナリズムが持ちあげた代表的數人のうちの一人を瑛子は母にしてゐた。そのペンネエムが男のやうな變つたものであつたせいか、その時代のひとを親に持つ友達から瑛子は「あなたのお母さんは×××吉とおつしやつたんですね」といふやうにきかれる事がたびたびであつた。……女學校の若い國語の敎師が授業中、瑛子の母のことを矢張りきき嚙りのまゝにふりまはす時など瑛子は消え入りたいほどの思いであつた。……男ものゝと間違ふやうな着物にセルの袴といふいでたちでそこいら中をのし歩いてゐたといふその敎師の言葉で母の姿を想像して情けながる瑛子に同情する友達もあつた133

この「明日」を読む限りでは、「瑛子」は、教師が発する言葉を聞いて、かつて母親が衣装や筆名に表わした異性性に当惑はするものの、しかし、そうした性別表現が明示する母親のセクシュアリティーに関する問題にまで思いが至っている様子はない。

さらにその年の暮れ、『讀賣新聞』の記者の質問に対して、陽は、母親(一枝)については、「とても女らしい人で、割合に氣が弱く臆病で想像とは反對です……ある點まで判つてそこから先が判らない……[若いころ]あんな出發をした人が今は決して新らしい人でないことは瞭りしてますね」と答え、両親(憲吉と一枝)については、「ああ云ふ懸け離れた特別な人達が普通の結婚生活をして家庭を共にするのは難しいのぢやないかと思ふんです」と語り、そして自分については、「私なんかいゝ貞淑な世話女房になれゝばいゝと思ひます、反動なのかも知れませんわ。だからものを書くのも自分のためにもなり、好きも好きでやるので決して職業的にする氣はありません。結果的に同じことになつても心持の上ではね」と話している134

次の年の、一九三六(昭和一一)年の『婦人公論』三月号に目を向けると、座談会とは異なる、これまでにない新しい形式の企画が掲載されている。「働く婦人と離婚の問題」という課題に対して、司会の嶋中雄作が、出席している一二人の婦人を順に指名して、即興的に感想を述べさせるという形式であった。参加者の一二名のなかには、今井邦子、宇野千代、奥むめお、市川房枝が含まれていた。一枝は六番目に指名された。与えられた課題についてのこのときの一枝の返答の一部は、次のようなものであった。まず、妻として。

私はやつぱり自分の夫が、たとへばシヤツのボタンが れてゐたりすることは自分の恥だと思ひます。それから しは になつたハンカチをポケツトから見つけた時にはやつぱり自分の恥だと思ふんです135

母親としては、あるいは家族の一員としては、どうだろうか。

それから子供に對しては、自分としてはおそらく一杯の力でやつてるんです、子供に淋しい思ひをさせたくないといふことで。もちろん私は仕事をもつてゐなかつたものですから、たとへば小説を讀むとか、ちよつとしたものを書くとかいつてもそれはすべて家の中だけで出來たことですから、さう皆さんの思つてゐらつしやるやうな苦しみはなかつたんですけれども、それぢや家の中で自分が家族の一人として、妻君としてちやんとやつているかといへば、どこか自分は變つた人間で、なにか申譯ないやうな氣持ちが終始してゐるものですから、そういふ點でいつも變な氣持ちになつてばかりゐたんです136

上のふたつの引用から読み取れることは、良妻賢母にかかわる一枝の全き精神であろうか。しかし、「どこか自分は變つた人間で、なにか申譯ないやうな氣持ちが終始してゐる」という言葉に隠されている内容は、何だろうか。自分のセクシュアリティーにかかわることであろうか。具体的には何も伝わってこない。続けて一枝は、このようにいう。「子供に對しては一生懸命で、自分の夫に對しても一生懸命で、それで濟めばいゝんですけど、その上自分に對しても一生懸命というやうな氣持ちがいつもついて廻つてゐる。これを捨てきらうと思つてどれだけ苦労してきたかわからないんですけど、どうしても殺しきれなくて……」137。一枝が「殺しきれなくて」心身にいまだ宿している願望や欲求のようなものとは、一体何なのであろうか。本格的な小説を書くことであろうか。あるいは、マルクス主義のことであろうか。ここからは特段何も読み取れない。しかし、続けて一枝は、このようにいう。「……といって、それぢや他のものを少々削つたらよかろうと思ふんですけれども、それがさつき言つたやうにボタンが一つ除ててゐても自分の責任のやうに思ふと來てるもんですから今はもう首でも縊らなきや始末がつかないやうな氣持で……」138。ここまで読むと、「殺しきれなくて」と一枝がいっている言葉の意味は、実は、女性が女性を愛する性的指向のことではないかとの思いが一瞬脳裏をよぎる。つまり、「ボタンが一つ除ててゐても自分の責任のやうに思ふ」気持ちが邪魔をして、「自分に對しても一生懸命というやうな氣持」、つまり「殺しきれなくて」自分の心身を強く支配する性的指向に、素直に向き合うことができないいらだちを暗に告白しているのではないだろうか。もしこの判断が正しいとするならば、小説執筆の願望も、マルクス主義への憧憬も、いずれもこの段階で、すなわちプロレタリア文学の衰退と軌を一にして、一枝の心身から消えかかっていることを意味するであろう。裏返していえば、確かにこの時期あたりから、積極的に女性を求め、愛し、支える一枝の姿が、さらに一段と際立ちはじめるのである。「首でも縊らなきや始末がつかないやうな氣持」を自覚しながらも……。

すでに安堵村時代に一枝は、一九二一(大正一〇)年の『婦人公論』四月号(六四号)に、公開状というかたちをとって、歌人としての白蓮のあり方に疑問を呈する「伊藤白蓮氏に」を書いているので、個人を対象とした批評文の事例は確かにある。しかしながら、千歳村に移ったのち、とりわけ検挙体験以降のこの時期に至ってからは、一転して一枝は、特定の女性についての印象や作品を好意的に紹介する機会を多くもつようになった。たとえば、「福田晴子さん」(『婦人文藝』一九三五年一一月号)、「宇野千代の印象」(『中央公論』一九三六年二月号)、「仲町貞子の作品と印象 手紙」(『麵麭』一九三六年二月号)、「原節子の印象」(『婦人公論』一九三七年四月号)などがそれに相当する。

それでは、各誌に掲載された人物評について、以下に簡単に紹介しておきたい。『婦人文藝』に掲載された人物評のタイトルは誤植されて「福田時子さん」という表記になっており、また同号の目次を見ると、「福田晴子氏」となっている。入稿時の実際の一枝の原稿はどうなっていたのかわからないが、ここでは「福田晴子さん」という題で表記しておきたい。ちなみに、この号には、福田晴子による「文藝時評」も掲載されている。「福田晴子さん」のなかで、一枝は、三年前の正月の初対面のときに、福田に次のような言葉をかけたことを書いている。「あなたは文藝批評家になられるといい。あなたの書かれるものには躊躇と饒舌がない。總括的にいく場合とかく機械的に出たがる女の惡い點があなたにはないやうに思へる。ものを書く女の中にあなたのやうな人は一寸見当たらない」139

一枝は、『中央公論』の「宇野千代の印象」で、「ウソつきのウノさん」とか「ウノさんはイケナイ ひと 」とかいって自己を侮蔑する宇野の、その本質部分に存する、あるがままに生きる美質をほめる。「私が宇野さんに正直さを感じるのは、嘘をついても、人に迷惑をかけても、いくど別の男のひとと暮しても、夫婦でないのに寝ても、拵へごとでない氣がして、その宇野さんとは別に、ひどく誠實で、自己反省の強い宇野さんが感じられてならない」140

『麵麭』に掲載の「仲町貞子の作品と印象 手紙」は、仲町に宛てた手紙形式による一文である。仲町が訪ねて来たときの印象について、一枝はこう書いている。「あなたは静かな方でした。あなたは日本の女の人ではないやうな皮膚や眼や眉をもつてゐらした。私は、普通から見て癖をもつ人間にいつも好意をもつたりひかれるせいか、あなたの髪のかたちまでよく覺へてゐます」141

『婦人公論』に寄稿した「原節子の印象」は、原の美しさを絶賛する言葉でもってはじまる。次は冒頭の一節である。「原節子の美しい顔と美しい整ひをもつからだを見て、何か書かねばならないことは、夢で見た美しいひとのことを想ひ起して書くことがむつかしいことと同じだ。生れながら美しいひとは、得難い寶石で、どこをどんなにほめてよいか、それはただ人の心をうつとりさせ、眺めてゐるだけで充ちたりる」142

それでは、自分の顔については、どうか。「原節子の印象」が掲載された翌月の『婦人公論』に「私の顔」(写真と文)と題した一枝の一文を読むことができる。自身の顔について一枝は、次のような思いをもっていた。「つまらない顔です。私は、自分の顔に確信がないので、寫眞をとることが嫌ひです。凸凹のすくない平たい顔といふものは、陰影がなくてつまらないものです。色艶のわるい、お洒落なんかしてもし甲斐のない顔で、濃い長い睫毛も、微笑を浮べるにいい、そんな唇ももつてゐません」143

この一九三〇年代後半に書かれた一連の女性評は、その論調において、安堵村時代に書かれた「伊藤白蓮氏に」とは明らかに大きく異なる。たとえば一枝は、白蓮をこう評していた。「私は、あなたを、實にあはれな人だと思ひました。苦しいだらうと思ひました。あなたは何故生きてゐらつしやるのですとききたくなりました。あなたは死んでゐられるのか、生きてゐられるのか、わからないのです」144。この「伊藤白蓮氏に」が書かれた一九二一(大正一〇)年は、一枝は必死に自分のセクシュアリティーと闘っていたときである。それだけに、他の女性の言動にも厳しく、妥協のない批判的な視線を浴びせたのであろう。しかしこの三〇年代後半に発表された女性評を読むと、どれもが肯定的であり、それぞれの美点を最大限に賞讃しているのである。ここから考えられることは何か。理性や宗教、夫の助言などの周りの価値に自分のセクシュアリティーを合致させようとする虚しい苦闘を放棄して、持って生まれた自分のセクシュアリティーをそのまま容認する――そうした自分へと、すでにこの時期、百八十度転換してしまっていたのではないだろうか。「不良心」で「不徳義」で「不道徳」なる自己はもはやいない。あるのは、あるがままの自己、ただそれだけである。それを例証するかのような文が、次の文章である。一九三八(昭和一三)年一一月に双雅房から『新装 きもの随筆』が発行された。そのなかに、長谷川時雨、宇野千代、福田晴子、佐藤俊子を含む多数の執筆陣の随筆に交じって、一枝の「春と化粧」を見出すことができる。擱筆日は「十二年四月」とある。そして、以下に引用するものが、最後の一節である。

 私は化粧を否みはしない。却つて化粧せぬことを嫌ひさへする。しかし、化粧といふものは、いよいよ美しくするためのものである。或ひはむしろ、缺點を覆ひ、美點を一層に補ふものだといふ方が、本當かも知れない。流行の如何ではないのである。それに、流行といふものは、一つのヒントだと考へていゝだらう。支配されるべきものでも追ふものでもない。それは終始、自分の持ち味といふものを助長し生かすことのためにとり容れられ、従はされる筈のものにちがひない。

 私はそうした化粧の乙女を見たいと希つて、ある夜も、またある夜も街を歩くのである145

「私はそうした化粧の乙女を見たいと希つて、ある夜も、またある夜も街を歩くのである」という最後の語句は、どういう意味なのであろうか。「私は、夜街を歩くときはいつも、そうした化粧の乙女に出会うことを密かに願っている」くらいの軽い意味であろうか。それとも、「私は、そうした化粧の乙女を見たいという思いをどうしても抑えきれず、夜になると街に出て、歩き回る」といった、積極的な意味が含まれているのであろうか。一枝の女性への関心の度合いがどの程度にもとれる、解釈の幅の広い表現であるといえる。しかし、いずれにせよ、この言い回しは、自分のセクシュアリティーについての、とりわけ性的指向についてのこれまでに全く明かされることのなかった具体的な行動様式を自ら進んで開示するものであった。

(130)以下は、東京移住後の後半における一枝の執筆活動のおおよその全体像である。
 『婦人画報』に掲載された、一枝に関連する座談会形式の三点の記事のうち、残りのもう一点が、「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」(三五七号、一九三四年一一月号)である。これはあくまでも座談会の収録記事であり、富本一枝の筆名で雑誌等に掲載されるのは、検挙からおよそ一年と四箇月が経過した一九三四(昭和九)年一二月の『婦人文藝』に掲載された「『父親の鼻』の辨解」(第一巻第六号)が、その最初となるものであった。『婦人文藝』は、神近市子の手によって創刊された雑誌であった。一枝は、この雑誌のために原稿を執筆しただけでなく、同誌が主催する座談会にも出席している。そのなかの主なものとして「福田晴子さん」(一九三五年一一月号)と「時事批判座談會」(一九三六年一一月号)を挙げることができよう。
 一九三五(昭和一〇)年八月二八日の『讀賣新聞』を見ると、「女の立場から」という欄を創設する旨の社告が掲載されている。それによると、「朝刊婦人面に『女の立場から』なる題下に、女性ならでは説き盡し得ぬ鋭利にして繊細な社會批評と豊富な識見による女性のための時事解説とを九月二日付の紙面より連日掲載することゝした」とあり、執筆者として、岡本かの子(月)、山川菊榮(火)、野上彌生(水)、富本一枝(木)、神近市子(金)、茅野雅子(土)が紹介されている。一枝はこの欄に、計一九回、寄稿している。タイトルと掲載日は次のとおりである。「非レビユー的な話題」(九月五日)、「歴史の齒車」(九月一二日)、「喧嘩の考察」(九月一九日)、「妙な負債」(九月二六日)、「日本の地圖」(一〇月三日)、「富める牝鶏」(一〇月一〇日)、「空間の物質」(一〇月一七日)、「精霊」(一〇月二五日)、「狼と子羊」(一一月一日)、「花束のない花嫁」(一一月八日)、「一本のナイフ」(一一月一六日)、「媒酌婦人の日記」(一一月二三日)、「風の力」(一一月三〇日)、「罠」(一二月七日)、「明朗な階段」(一二月二一日)、「子供の讀物」(一二月二八日)、「稗と糠の飯」(一九三六年一月六日)、「靴下の穴」(一月一三日)、「生ける屍」(一月二八日)。
 『婦人公論』も、一枝にとって重要な発表誌であった。『婦人公論』を発行する当時の中央公論社の社長が嶋中雄作で、在籍していた中学は異なるものの、雄作と憲吉はすでに中学生のころに面識があった。雄作が早稲田大学に、憲吉が東京美術学校に入学する以前の話である。一枝が目立って『婦人公論』や『中央公論』に寄稿するのは、そうした憲吉と雄作の中学時代からの間柄があったことに由来していたのかもしれない。
 『婦人公論』に掲載された一枝の文および写真は、次の九点にのぼる。「痛恨の民」(二三四号、一九三五年二月)、「家を嫌ふ娘を語る座談會」(二三七号、一九三五年五月)、「働く婦人と離婚の問題」(二四七号、一九三六年三月)、「私の好きな時間 佐藤俊子さんと富本一枝さん」(写真)(二五八号、一九三七年二月)、「原節子の印象」(二六〇号、一九三七年四月)、「私の顔」(写真と文)(二六一号、一九三七年五月)、「明日の若木――娘から孫へ」(二七八号、一九三八年九月)、そして、最後が「第一線をゆく女性 青鞜社」(写真)と「探偵になりそこねた話」(ともに、二八二号、一九三九年一月)である。
 一九三六(昭和一一)年には、『中央公論』に「宇野千代の印象」(二月号)を、そして『麵麭』に「仲町貞子の作品と印象 手紙」(第五巻第二号、二月号)を寄稿する。この『麵麭』、そして一九三七(昭和一二)年の『新女苑』と一九三八(昭和一三)年の『文體』は、一枝にとってこの時期の新たな発表誌であった。一枝は一九三七(昭和一二)年の『新女苑』に「親の態度に就て」(第一巻第三号、三月号)と「鏡」(第一巻第一二号、一二月号)を書いているし、翌年の一九三八(昭和一三)年には、『文體』において、「猫兒(夢)」(第一巻第一号、一一月号)と「少年の日記」(第一巻第二号、一二月号)を世に問うている。その一方で、書籍に所収されたものとして、同じくこの年(一九三八年)の一一月に双雅房より発刊された『新装 きもの随筆』に、一枝の「春と化粧」を読むことができる。
 以上が、一九三三(昭和八)年八月五日に検挙されて以降、一九三九(昭和一四)年一月一日の『婦人公論』に掲載された「第一線をゆく女性 青鞜社」(写真)および「探偵になりそこねた話」までの、一枝の東京移住後の後半部分にかかわる執筆活動の概略である。

(131)「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」『婦人画報』第357号、1934年11月号、80頁。

(132)同「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」『婦人画報』、88頁。

(133)富本陽子「明日」『行動』第3巻第3号、1935年、240-241頁。

(134)「母親発見 今は古き母親の道 かけ離れた两親 父、富本憲吉 母、富本一枝 富本陽子」『讀賣新聞』、1935年12月1日、9頁。

(135)「働く婦人と離婚の問題」『婦人公論』第21巻第3号、1936年3月号、216頁。

(136)同「働く婦人と離婚の問題」『婦人公論』、同頁。

(137)同「働く婦人と離婚の問題」『婦人公論』、同頁。

(138)同「働く婦人と離婚の問題」『婦人公論』、同頁。

(139)富本一枝「福田晴子さん」『婦人文藝』第2巻第11号、1935年11月号、144頁。

(140)富本一枝「宇野千代の印象」『中央公論』1936年2月号、202頁。

(141)富本一枝「仲町貞子の作品と印象 手紙」『麵麭』第5巻第2号、1936年2月号、82頁。

(142)富本一枝「原節子の印象」『婦人公論』第22巻第4号、1937年4月号、296頁。

(143)富本一枝「私の顔」『婦人公論』第22巻第5号、1937年5月号、219頁。

(144)富本一枝「伊藤白蓮氏に」『婦人公論』64号、1921年4月号、70頁。

(145)富本一枝「春と化粧」『新装 きもの随筆』双雅房、1938年、279頁。