中山修一著作集

著作集11 研究余録――富本一枝の人間像

第一編 富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す

女性史の専門家でもない私が、なぜこのように富本憲吉の妻である富本一枝を単独で取り上げ、その生き方にかかわって執筆したのか、その理由をここに少し書いておきたいと思います。

かつて私は、ジャン・マーシュさんが書いた Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986 を友人と一緒に翻訳し、『ウィリアム・モリスの妻と娘』(晶文社、一九九三年)という訳書題で上梓したことがありました。その本の「序文」でマーシュさんは、次のように述べていました。縁をたどれば、本稿「富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す」の執筆の動機と多少とも関係がありますので、少し長い文章ですが、その一部をまずここで引用させてください。

 この本は不公平に対する義憤の念から執筆されたものである。本屋や図書館の書棚に行けば、この物語に登場する三人の主要な男性であるウィリアム・モリス、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョージ・バーナード・ショーの著作や彼らについての研究書を多数見ることができる。彼らは極端に注目されすぎていると考える人もいるかもしれないが、彼らが注目されるのはそれなりにわかる。彼らが生きた時代の文化史を考えれば、これらの男性は重要で著名な人物であるし、彼らはそれぞれ研究に値する莫大な芸術上の仕事をしているのである。彼らの絵画、デザイン、演劇はいまでも展示され、複製され、上演されているし、学術的な批評や論文、著作やテレビ番組の主題ともなっている。また彼らの伝記はいまなお執筆され、出版されている238

さらにマーシュさんは、これまでの歴史家や研究者は、男性の人生に比べて、女性の役割については副次的で隷属的なものとしいて無視に近い扱いをしてきたこと指摘したうえで、次のように続けます。

 この数年のあいだ、女性の経験と業績を再生させ、その歴史叙述のなかで女性の地位を回復させようとして、大量の仕事がなされてきた――パンドラ出版社の存在自体がその意思の表われである。これほどまでに男性の役割だけが特権視されてきた事情を説明し分析するだけではなく、これまで覆い隠されてきた女性の貢献が再発見され、再提示され、再評価されてきているのである。これは単に、傑出した女性を不当な忘却から救い出す作業にとどまるものではない。この作業の大半は、どこにでもある普通の生活や、家庭での個人の経験のあり様や、家庭や職場における労働のあり様を扱うものであった239

そしてマーシュさんは、こうも書いていました。「周知のように、女性の人生は社会的、イデオロギー的諸力によって抑圧され、制約されてきた。しかしそうだからといって、女性の人生が本質的に興味のあせたものになるわけではない。名声と『偉大な』作品が唯一の測定基準というわけはないのである」240

このマーシュさんの著書の翻訳の仕事を与えてくださったのは、私の主たる研究の対象がウィリアム・モリスであることをご存じであった、当時晶文社の編集者として活躍されていた島崎勉さんで、私がブリティッシュ・カウンシルのフェローとして英国へ赴く直前のことでした。機内でこの本に目を通すと、この「序文」の一連の文言が強く私の心を突き動かしました。ロンドンに着くとマーシュさんに面会を求め、ご自宅でお目にかかりました。一九八八(昭和六三)年の年明けのことでした。

月日が巡って、私は、モリスの思想と作品に関心をもって日本人として最初にイギリスに渡ったのは誰だったのか、その人に出会いたいと思って、自分の学問的系譜の先祖を探しました。それが、あの富本憲吉という工芸家だったのです。憲吉さんがモリスの何を見、それを日本に持ち帰って、どう展開したのか、その全貌を自分の目で直接確かめるために、私は憲吉さんの伝記を書きたいと思いました。そのとき私の脳裏に蘇ったのが、かつて翻訳したマーシュさんの「序文」の言葉でした。そこで私は、憲吉さんの伝記を書くにあたり、妻の一枝さんの存在にも等量の光をあて、夫婦の物語として描くことを決意しました。完成した作品が、ウェブサイト「中山修一著作集」において公開しています第三巻と第四巻の「富本憲吉と一枝の近代の家族」です。

私は、「富本憲吉と一枝の近代の家族」を書くにあたり、まず先行研究に目を通しました。富本憲吉と一枝のふたりをモデルにした小説である、吉永春子『紅子の夢』(講談社、一九九一年)と辻井喬『終りなき祝祭』(新潮社、一九九六年)の二冊を別にすれば、書籍形式の評伝としては、憲吉さんについては、辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』(双葉社、一九九九年)が、一枝さんについては、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』(ドメス出版、一九八五年)と渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』(不二出版、二〇〇一年)の二冊がすでに出版されていました。

このとき私は、一枝さんにつきましては、全くの不勉強でしたので、とりわけこの二冊をよく読み、知識を得ようとしました。どちらの評伝においても、一枝さんの自由や自立を抑圧し、隷属的な妻の位置に支配しようとする憲吉さんの夫としての姿が、おおかた全体を通して描かれていました。そのとき私は、マーシュさんが「序文」で書いていたように、この二冊も、これまで闇に隠されていた女性の苦しさや悲しみを発掘し、再提示しようとする試みの延長線上にある労作であるにちがいない思い、そこに描かれていた構図を信じて、「富本憲吉と一枝の近代の家族」の執筆に入りました。

ところが、執筆を進めるなか、一つひとつの原資料(一次資料)を読んでゆくにつれ、先行するふたつの評伝に共通する構図、つまり、憲吉さんが封建的で家父長的な思想の持ち主で、一枝さんが良妻賢母の思想を超えた新しい女とする構図に疑問が生じてきました。頭が混乱し、大変苦しみました。そんなとき、そういえば『紅子の夢』の「あとがき」のなかで、著者の吉永春子さんが次のように書いていたことを思い出しました。「ふとした機会から私は、彼女[尾竹紅吉こと、富本一枝]について書くことになり、改めて調査に入ったが、すぐに戸惑ってしまった。事実と、私の脳ミソに焼きついた存在とが、時には重なり、時には遠く離れ、複雑な線となって、縦横に走りまくり始めた。これはいけない、どっちにかしなければ。選択の結果が〈小説・紅子の夢〉ということになった」241

吉永さんは、「事実と、私の脳ミソに焼きついた存在」との乖離に苦しんだようですが、私の場合は、「事実と、先行評伝における記述内容」との相反に苦しめられました。しかし私は、小説を書くつもりはもうとうありません。私は研究者として、あくまでも事実に基づく伝記を書きたいと思いました。どうしても真実の姿の憲吉さんと一枝さんに出会いたかったのです。事実を担保するために、自分の思いや解釈を一方的に押し付けるのではなく、慎重に原資料に耳を傾け、引用を多用することによって原資料に語らせるという方法をとりながら、憲吉さんと一枝さんの生涯を描くことにしました。先行評伝の構図を覆すのには、とても大きな勇気を必要としました。幾度となく不安の波が押し寄せてきました。その一方で、幾ばくかの信念もありました。大雑把にいえば、次のようなものでした。

伝記や評伝を著わすにあたって、一般論として確かにいえることは、対象者がすでに過去の人物になっているといえども、実在していた以上、その人物の人権も人格も当然ながら尊重されなければならず、そのために最も肝要なことは、何かを断定するにあたっては、後進の研究者や伝記作家が、それが真実であるのかどうかを再検証するに足るだけの十分な根拠資料を注や図版や表にまとめ、あわせて開示しなければならないということではないだろうか。こうした手続きを踏まえながら、世代を越えて、途切れることのない学問上の論証や実証が積み重ねられてゆき、その過程のなかにあって、いつしか万人が承認しうる、独断と偏見を排した「歴史的真実」がその姿を現わしてくるものと思われるが、いかがであろうか。一例ではあるが、英国にあっては、憲吉が崇敬したウィリアム・モリスの伝記が、没後一〇〇年以上を経たいまに至るまで、新しく発掘された資料や証言を援用し、また、新しく開発された学問的コンテクストやアプローチに沿わせながら、多くの歴史家や作家によって書き継がれてきている事実が、そのことの重要性と妥当性を雄弁に物語っているように思われる――。

以上のような研究者としての、決して失いたくないと思っていた信念に支えられて、何とか「富本憲吉と一枝の近代の家族」は脱稿しました。しかし擱筆ののち、読み返してみますと、先行する二著に取って代わる夫婦間の新たな構図を、未知への不安を伴いながらも何とか示そうとする、多少とも硬直した意気込みがあったためでしょうか、筆の力みが至る所で目につき、それが気になりはじめました。そしていま一度、過去のいかなる作品の記述内容に惑わされることもなく、そこから解放されて、ひとつの明確な文脈(コンテクスト)を用意したうえで、証拠(エヴィデンス)に基づきながらも少しでも滑らかな筆の動きでもって、一枝さんと憲吉さんのそれぞれの評伝を書いてみたいと強く思うようになりました。それが、いま書き終えたばかりの「富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す」であり、続けてこれから書こうとしている「富本憲吉という生き方――モダニストとしての思想を宿す」なのです。

その後もマーシュさんとの交流は続き、文部省の在外研究員として再びイギリスに滞在した一九九五(平成七)年のころ、次のようなことをマーシュさんは私に話してくれました。ヨーロッパのフェミニズム運動は、両性の不公平さについて多くの不満を爆発させた第一段階を経て、現在は、女性のなしえた仕事を、共感の情をもって掘り起こし、冷静に理解しようとする第二段階にあるといえる。そしてたとえば、ウィリアム・モリスについて書く場合には、今日にあっては多くの執筆者が、妻のジェインや娘のメイが体験した家庭内での出来事や、彼女たちが達成した幾つもの業績にも、目を配るようになってきた。これが、芸術史や文化史へのフェミニスト・アプローチの大きな成果であると思う――。その後マーシュさんは、ウィリアム・モリス協会の会長職に、そしてウィリアム・モリス・ギャラリーの館長職に就くことになります。

こうしたマーシュさんの九〇年代当時のフェミニスト・アプローチについての認識を念頭に置いて、翻って日本を見たとき、そのころの日本の事情はどうだったのでしょうか。全体像を語る力量は私にはありませんが、少なくとも、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』と渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』を読んだ当初の私には、いまだヨーロッパの記述段階に遠く及ばないように思いました。そしてまた、両性間の不公平の存在が先験的に措定され、それを前提として事象や事物を感情的に読み解こうとするために、勢い単なる表層的な女性擁護と男性攻撃に終始し、必要とされる論証も実証もないがしろにされ、力余って事実から大きく離反する記述結果を招いてしまったのではないかとも感じられました。もちろん今日的には、こうしたことが学術研究の場にあって許されることはないのですが、フェミニスト・アプローチの初期段階固有の特徴を、この事例は示しているのかもしれません。

前述のとおり、『薊の花――富本一枝小伝』(一九八五年)と『青鞜の女・尾竹紅吉伝』(二〇〇一年)が出版された、ちょうどそのあいだの時期に、『紅子の夢』(一九九一年)と『終りなき祝祭』(一九九六年)の二冊の小説が刊行されました。『紅子の夢』の著者の吉永春子さんは、一枝さんとの学生時代の一瞬の出会いが忘れられず、その強い衝撃が動機となって、筆をとることになったと述べていますし、『終りなき祝祭』の著者の辻井喬さんは、富本夫妻の息子の壮吉さんの友人であり、両親へ向ける壮吉さんの思いがこの小説の執筆へと駆り立てたと語っています。このように著者の執筆動機は、フェミニズム運動とは直接関係はなく、それぞれが極めて個人的なものだったようですが、当時これを読んだ読者は、個人的な熱い思い入れによって過去の出来事に創作的な手が加えられた虚構の物語であることを重々に承知しながらも、モデルとなっている主人公が富本憲吉と富本一枝であることは誰の目にも明らかであっために、ここに描かれている内容が、まさしく憲吉と一枝という一組の夫婦の人生の実態であったと受け止めてしまった――そうした可能性はなかったでしょうか。

一枝さんのいとこの尾竹親さんが、『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』(東京出版センター、一九六八年)のなかで、次のようなことを書いています。

人間の言動というものは、決して一つの情景のみに定着して語られるべきものではなくして、その人間が生きた全存在の一環に組み込まれてこそ、はじめて、よりよくその映像を伝え得るものだと私は信じている。

 瀬戸内氏にしても、それが史実をもとにした 小説で ・・・ あってみれば ・・・・・・ 、フィクションとしてのある種の無責任さに救われているのだろうが、時間の経過というものは、得てして、伝説という神話をつくり上げたがるもので、いつかはそれが事実とまではならぬとしても、史実に欠けた情緒の補足としてのさばり返ることがよくあるものだ。私が、実名、或いは史実にもとづいた小説の安易さを恐れる理由が、ここにもあるわけである242

以上の引用は、瀬戸内晴美(瀬戸内寂聴)さんの『美は乱調にあり』(文藝春秋、一九六六年)という本のなかで描写されている、青鞜社時代に紅吉(一枝さん)が引き起こした、いわゆる「吉原登楼」事件における竹坡(親さんの父親)の役割を巡っての論点が念頭に置かれて書かれている箇所でありますが、これは極めて重要な指摘で、ここに、同じ過去の人物を扱った小説と学術研究との決定的な質的違いがあるものと思われます。

他方、発表の時期に着目してみますと、井手文子『青鞜 元始女性は太陽であった』(第五章と第六章に伊藤野枝さんについての記述があります)の刊行が一九六一(昭和三六)年、そして、同じ野枝さんを扱った小説『美は乱調にあり』が、五年遅れて一九六六(昭和四一)年に刊行されます。また、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』の刊行が一九八五(昭和六〇)年、そして、同じ一枝さんを扱った小説『紅子の夢』が、六年遅れて一九九一(平成三)年に刊行されます。いかなる目的によって執筆がなされたのか、そしてまた、どれほどの真実が描かれているのか、その比較考量は横に置くとしましても、歴史に埋もれた女性の生き方への共感と、その掘り起こしは、日本にあっては、実証主義を重視する学術の領域と、小説という想像的創作の領域とが、ほぼ同時進行的に、あるいは、学術研究の方が一歩先行するかたちをとって展開されたといえるかもしれません。もっとも、伝統的に真実を愛し、歴史から多くの教訓を学ぼうとする英国のような国にあっては、事実に基づく厳密な伝記がひとつの文学形式として定着しており、過去に実在した歴史上の人物をフィクションという表現形式でもって描くことは、ほとんどありえないのではないかと思われます。そしてまた、遺された家族や周囲の人びとの心情やプライバシーを考え、同時に、遺作や遺品の著作権などにも配慮し、親近者による思い出の記のようなものは別にして、客観性を重視する学術書の執筆は、少なくとも没後五〇年は手控えることも、おおかた一般的な習わしとなっているようです。

それでは最後に、再びフェミニスト・アプローチについて少し振り返ってみたいと思います。たとえばイギリスにおいて、戦後、高等教育や成人教育が一気に拡大するなか、そこで学ぶ多くの進歩的な学生たちは、これまでに描かれていた「歴史」には、自分たちが属する階層の人間を含む弱者や少数者、あるいは被抑圧者や非特権者たちの姿が存在しないことに気づきはじめました。彼らが指摘するように、たとえば芸術史を例にとりますと、伝統的にその学問が扱ってきたのは、限られた例外を除けば、ほとんどが「偉大なる男性作家」であり、そこには、「普通の人びと」の芸術的行為も「女性芸術家」の作品も完全に抜け落ちてしまっていたのでした。彼らはそこに着目して不満と批判の声を上げ、既存の「歴史」の成立過程と記述内容に異議を申し立てました。

続くフェミニスト・アプローチの第二段階に入ると、両性の不公平さへの感情的なほとばしりは、冷静にも学問的作業の新たな道を開拓し、「普通の人びと」の芸術的行為や「女性作家」の作品が再発掘され、「歴史」のなかに再配置されてゆくようになりました。一九八六年のマーシュさんの著作(訳書題『ウィリアム・モリスの妻と娘』)も、そうした文化的、学問的状況のなかから誕生したといえます。そうした状況がさらに進展し、この分野の学問がすでに次の新たな段階に入っているかどうかは勉強不足でよくわかりませんが、私の個人的な実感としては、第二段階の「男性史」と「女性史」には、自ずと限界があるように感じてきました。といいますのも、「男性史」にあっては、ある種特別の調味料として「女性」を登場させ、「女性史」にあっては、多くの場合いまだに攻撃の材料として「男性」を登場させることが、ステレオタイプ化しているように感じられたからです。そこから脱却するため、いまや私は、ふたつの性に同等の敬意を表し、男と女をひとつの組みとして対象化し、その歴史を記述することの必要性を感じています。それは、名称的には、夫婦史、家族史、あるいは男女関係史ということになるのかもしれません。たとえば夫は家庭にあって、妻や子ども、あるいは使用人に対してどのように接したのでしょうか。一方妻は、どのような言動でもって周りの人間に対して振る舞ったのでしょうか。男女間にあって相互に働くさまざまな力の存在を見定め、その諸力にかかわる変移や実質について、思想的に、社会的に、そして文化的に実証分析することが重要なのではないでしょうか。それぞれの時代の諸次元的制約を受けた過去の行動空間の構造と、そのなかで男女が織りなす力学とが、順次再発見されてゆくことになれば、それを手掛かりにしながら、仕事や家庭における真の両性の平等を今後再構築するうえで必要とされる新たな視点や原理のようなものが萌芽するのではないかと、近年私は、このように考えるようになりました。その観点に立って、身近な具体例を挙げるとするならば、「ウィリアム・モリス」や「ジェイン・モリス」の個別研究の精緻化に止まらず、一方で「ウィリアム・モリスとジェイン・モリスの夫婦/家族」のさらなる研究が今後重要になってきそうですし、「富本憲吉」や「富本一枝」の単独研究の深化にもまして、他方で「富本憲吉と富本一枝の夫婦/家族」のいっそうの研究が意味と価値を帯びてくるものと思われます。いずれにいたしましても、これからの学術研究の動向に注意を払いたいと思います。

(二〇一八年)

(238)ジャン・マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』中山修一・小野康男・吉村健一訳、晶文社、1993年、16頁。[The original text is Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986.]

(239)同『ウィリアム・モリスの妻と娘』、17頁。

(240)同『ウィリアム・モリスの妻と娘』、同頁。

(241)前掲『紅子の夢』、274-275頁。

(242)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、217頁。