中山修一著作集

著作集11 研究余録――富本一枝の人間像

第一編 富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す

第二章 青鞜の紅吉
     ――殆ど先天的の性的轉倒者とも思われるやうな一婦人

尾竹一枝は、父尾竹熊太郎、母うたの第一子として、一八九三(明治二六)年四月二〇日に富山市の越前町で出生した。新潟出身の熊太郎(画号は越堂)は長兄で、三男の染吉(竹坡)、四男の亀吉(國觀)とともに尾竹三兄弟と呼ばれて、明治の末期前後にあって、日本画壇にその輝かしい名声を刻んでいる。一枝は、一八九九(明治三二)年八月の富山市を襲った大火事により、父方の祖父母(尾竹倉松とイヨ)に連れられて上京し、根津尋常高等小学校に通うことになる。その後両親とともに大阪に移り住み、高等女学校(現在の大阪府立夕陽丘高等学校)へと進む。一枝には、幼くして死去した数人の妹と弟を別にすれば、福美(のちに洋画家の安宅安五郎と結婚)、三井(のちに日本画家の野口謙次郎と結婚)、そして貞子(のちに武田家から正躬を婿養子に迎える)の三人の妹がいた。自身の父親倉松(國石)も画工であった父の熊太郎は、長女の一枝を画家として大成させ、自分の跡取りにと考えていた。一方、父親が越中富山藩の高禄武士であった母のうたは、祖先を敬い、親に尽くし、夫に従うことに徹した、厳格なしつけを子どもたちに行なった。

幼少期を富山、東京、大阪で過ごした一枝は、絵の勉強を口実に、再び憧れの東京に上り、叔父の竹坡の食客となった。ちょうどその時期のことであろうか、竹坡の妻のきくと一枝は、連れ立って上野へ出かけたことがあった。そのときのきくの記憶は、こうである。「一枝さんと一緒に上野の山へ行った時よ、その人マントをすらっと着ているものだから男と間違えられちゃってね、笑ったことがあるわよ……」15。男さながらのセルの袴にマントの着用、これが若き日の一枝の特異な衣装姿であった。

『婦女新聞』が社説に「同性の愛」を掲載した一九一一(明治四四)年の八月から数箇月が立った秋のある朝、一枝は、表庭の掃除をしていると、叔母・きく宛ての一通の手紙が配達夫から手渡された。封を切ればそのなかから、『青鞜』発刊の辞と青鞜社の規約が現われた。まさしく一枝のその後の人生を決定づける一瞬であった。一度大阪にもどった一枝は、実際に『青鞜』を手にした。そして何度も、主宰者の平塚らいてうに手紙を書き送った。このころの様子をらいてうは、こう描写している。「型破りな、男とも女とも判らない妙な手紙を度々よこす大阪の変な人として、姿は見えないけれども、かなり早くから社の人たちに、軽い好奇心のようなものをもたせていました。……上京後は社の事務所にも、私の家にもよく来るようになり……人にもてることの好きな紅吉は、幸福のやり場のないようなかがやいた顔をして、大きな、丸みをもったからだを、着物と羽織とおついの、いきな久留米 飛白 かすり に包んで、長い腕をそらして、いつも得意然と市中を歩き、大きな声でうたったり、笑ったり、実に自由な、無軌道ぶりを発揮していました」16

こうして一枝は、望みどおりに青鞜社の一員となった。そして、一九一二(明治四五)年春の第一二回巽画会の展覧会に出品した二曲一双の屏風《陶器》で三等賞銅牌を受賞した一枝は、画壇への初登場も見事に果たした。もっとも一枝の関心は、日本画よりも、むしろ文学にあった。一枝は自分のことを「 紅吉 こうきち 」と呼び、ペンネームにもその名を使った。一九一二(明治四五)年三月号の『青鞜』(第二巻第三号)に、はじめて紅吉の「最後の霊の梵鐘に」が掲載され、さらに翌月号では、紅吉が描いた「太陽と壺」に、表紙が差し替えられた。

五月一三日に紅吉の自宅で青鞜社の同人による会合が開かれた。そのとき紅吉が出した案内状には、こう書かれてあった。「桃色のお酒の陰に、やるせない春の追憶を浮べて春の軟い酔を淡い悲しみで、それからそれに、覚めて行く樣に、私達は新しい酒藏から第二の壺を搬び出した。そして私達の仕事に ママ 大な祝福の祈を捧げ乍ら靑いお酒を汲み合ひたいと思ふ。来る十三日午後一時から紅吉の家で同人のミーチングを催します。紅吉は、黄色い日本のお酒とそして麥酒と洋酒の一[、]二種とすばしこやのサイダを抜いて待つて居る。……紅吉は、その日、その夜の來るのを、子供の樣に數へて待つて居る。さよなら」17。この日の会合は泊まりがけになった。そしてその日の夜、らいてうと紅吉とのあいだに烈しい愛の衝動が走る。そのことを紅吉は、「或る夜と、或る朝」のなかで、誰にはばかることもなく、こう告白する。

私は、どうしたらいゝのだろう。抱擁接吻それら歡樂の小唄は、どんなになる事だろう!?。……私の心は、全く亂れてしまつた、不意に飛出した年上の女の為めに、私は、こんなに苦しい想を知り出した。少年の樣に全く私は囚はれてしまつた。……けれども……あゝ私は毒の有る花を慕つて、赤い花の咲く國を慕つて、暗い途を、どこ迄歩ませられよう。……DOREIになつても、いけにへとなつても、只 抱擁と接吻のみ消ゆることなく與えられたなら、満足して、満足して私は行かう18

この「或る夜と、或る朝」に続いて、さらに波紋を呼ぶ一文が、次の七月号の「編輯室より」に記載された。

らいてう氏の左手でしてゐる戀の對象に就いては大分色々な面白い疑問を蒔いたらしい。或る秘密探偵の話によると、素晴らしい美少年ださうだ。其美少年は鴻の巣で五色のお酒を飲んで今夜も又氏の圓窓を訪れたとか19

これは美少年(紅吉)とらいてうの恋について、紅吉自らが書いた文章であろう。こうして、紅吉は、社会の注目を浴びる存在となっていった。

この当時の紅吉が、宮本百合子の小説「二つの庭」のなかに登場する。そこには、次のように描かれている。

 伸子とは二つ三つしか年上でない素子の二十前後の時代は「青鞜」の末期であった。女子大学の生徒だの、文学愛好の若い女のひとたちの間に、マントを着てセルの袴をはく風俗がはやった。とともに煙草をのんだり酒をのんだりすることに女性の解放を示そうとした気風があった。二つ三つのちがいではあったが、そのころまだ少女期にいた伸子は、おどろきに目を大きくして、男のように吉という字のつくペンネームで有名であった「青鞜」の仲間の一人の、セルの袴にマントを羽織った背の高い姿を眺めた。その女のひとは、小石川のある電車の終点にたっていた20

この小説のモデルとなっているのは、伸子が宮本本人であり、素子が、かつての共同生活者であった湯浅芳子であろう。この小説のなかで伸子は、紅吉のセクシュアリティーに驚く。しかしこの驚きは、現実世界においては宮本が湯浅から受けた驚きでもあったにちがいなかった。ふたりが野上彌生子の家ではじめて会って一箇月と少しが過ぎた、一九二四(大正一三)年の五月二一日と二二日にまたがって書かれた湯浅から中條(のちに結婚により宮本姓へ改姓)へ宛てて書かれた手紙には、このようなくだりがある。

私の性格のかなり複雑なことはあなたも御存じですが、そのあなたのご存じよりももっともっと私にはこみ入った矛盾だらけの不幸な生れつきがあるのです。生理的には一通り何の欠点もない女ですが、しかも女でいて女になりきれないというところ、(まだまだ言い足りないが)すべての不幸がまず一番ここにあるのではないかとおもいます。

 人生にとって一番意義のある得難く尊いものは何ですか?あなたはなんだとおもいます。芸術ですか、愛ですか。

 その何れにも見離された人間は何を目的に生きるのです。まして私は愛を知らないんじゃない!

 もうやめ、やめ、こんなこと21

湯浅が告白(カミング・アウト)しているのは、明らかに、女が女になりきれない女性の心の性にかかわる精神的苦痛についてであろう。トランスジェンダーを、のちになって「選択」したものではなく、生まれながらにして本人が備え持つ「本性」であるという立場に立つならば、これを自分の意思や努力によって変更したり、捨て去ったりすることはもはやできず、何を目的に生きればいいのかを、自問するも、答えはない。その苦しみを湯浅は率直に中條に訴えているのではないだろうか。

吉永春子は、富本一枝の評伝的小説である『紅子の夢』を書いている。そのなかに、次のような湯浅の発話部分がある。場面設定は、昭和二九年に開催された「世界婦人大会」の受付ロビー。登場人物は、夏子が、当時女子学生であった吉永春子で、会場の受付を手伝っている。大竹紅子が尾竹紅吉(富本一枝)、富田龍彦が、その夫の富本憲吉であろう。湯浅芳子は実名で登場する。

「あの大柄な方は、どなたですか」

 夏子は近くに坐っている、一見男とも見間違うロシア文学者の湯浅芳子にたずねた。

「なんだい、君、知らないのかい」

 彼女は断髪の髪をゆすり、懐手をしたまま、タバコの煙を天に吐いた。

「あの女はね、明治のブルー・ストッキング、“青鞜”の大竹紅子だよ」

「大竹紅子」

 夏子は、思わず小さな声をあげた。

「男のような絣と、袴をはいて、さっそうとして生きたあの人ですか」

「そうだよ。彼女は、“青鞜”、〈ブルー・ストッキング〉のマスコット・ガール。いや、違う。そんなもんじゃあない。台風の眼だった」

 湯浅芳子は、続けざまに、タバコの煙をプカプカと吐いた。

「紅子は、変っていた。もっとも“青鞜”の女達は皆変っていた。明治というと、箸の上げ下げ一つまで、うるさくいわれ、女は女中か、子供を産む道具ぐらいにしか思われていなかったんだ。そんな中で女がね、“自立”とか“解放”とか叫ぶなんて大変なことなんだ。そんなことを口走ろうものなら、狂ってるとか、 男女 おとこおんな とか言われてね、社会から抹殺されたもんなんだ」

「男女?」

「そう、女の格好をしているけど、本当は男だろうって、失礼な話さ。“青鞜”の女達は、そんな陰口を山と言われ、面と向って、石も投げられ、罵倒もされたもんだ。中でも紅子に対しての攻撃は、ひどかった。紅子は、天真らんまんで、行動的だった。好奇心も強かったし。一度、浅草のバーに足を踏みいれたんだ。それを新聞記者に見つかって、“女だてらに、毎晩、五色の酒を飲み干し、あげくの果、遊郭に行って、女を買った”と書かれちゃって、そりゃあ、ひどいもんだった」

「先生、その時、お幾つでした?」

「十五歳で、女学生だった。遠くから“青鞜”に憧れていたんだ」

「それで紅子さんは」

「うん」

 湯浅芳子は、一寸声をつまらせた。

「その後、陶芸家の富田龍彦と結婚してね。……。もっとも今は別居中だ。可哀想に捨てられたんだ」

 彼女は言い終ると、男物のステッキをついて、プイと席をたった22

紅吉の青鞜時代は一九一二(明治四五・大正元)年のほぼ一年間である。著作集3「富本憲吉と一枝の近代の家族(上)」において詳述しているとおり、この間、らいてうとの「同性の恋」、メイゾン鴻の巣で楽しんだ「五色の酒」、さらには、らいてうと中野初子を誘っての「吉原登楼」といった世間を驚かす話題が次々と起こると、新聞や雑誌が連日のようにそれを書きたてた。誤解や誇張もあったであろう。それでも、青鞜の「新しい女」は、「男のような女」とも、あるいは、単に「新らしがる女」とも揶揄され、叱責された。そのとき一五歳の湯浅は、京都市立高等女学校に在籍し、遠くから、自分のセクシュアリティーと重ね合わせるかのようにして、紅吉の言動を注視していたにちがいなかった。

一九一二(大正元)年一〇月二七日の『東京日日新聞』の「東京觀(三二) 新らしがる女(三)」のなかで、記者のインタビューに答えて、紅吉はこういっている。「私は子供の時分から面白い氣分を持つてゐますが夫れは自ら獨り樂しむ氣分であつて決して口に出して話す氣分ではないのです、死ぬる時に遺言状の中には書くかしれませんが」23。この内面に秘められた「面白い氣分」が、生涯の紅吉(一枝)の光と影となるものであった。この「面白い氣分」の内実は、一体何なのであろうか。性別表現のなかの服装に着目すれば、一枝は生涯和装で過ごし、とくに独身時代は、男性と見まがうようなマントや袴を身につけ、その後も好んで、男物と思われる帯や下駄を使用した。雅号については、どうだろうか。青鞜時代の一枝は、「紅吉」の二文字を使った。後年一枝は、「あれはやはり私の小さい時から持っているその気分から出たものです」24と語っている。「紅」が女を、「吉」が男を表象しているとすれば、身体の性が女で、心の性が男であることを、無意識のうちに、あるいは意識的に、言い表わしていたのかもしれない。この時期紅吉は、本人が語るところにうそ偽りがないとすれば、しばしば酒場に通い、何度か吉原にも足を運んだ。相方を勤めた美しい花魁とはその後手紙のやり取りをし、身受けをしたいという高揚した気持ちにまでなっている。その気持ちについて、『讀賣新聞』は「紅吉の畫が賣れる――三百圓で花魁身受の噂」のなかで、こう書いている。

紅吉の一枝がまだ青鞜の一人であつた頃、一夜新しい女の誰彼と吉原某樓に押上つた、其時紅吉の敵娼になつたのは榮山といふ賈れつ奴、それ以來两女は意氣投合して紅吉は櫛の齒を引くやうに通ひ、何うにかして受け出して遣りたいと心を千々に砕いたが何と云つても先に立つものは金、金を拵らへるには腕に覚えのある繪を書いて身代金を得るより外に仕方がないと、斯くは「枇杷の實」を描いたのであると……25

こうした行動規範は、明らかに「男性的」であり、ここにも、一枝の心の性自認が投影されていると考えることもできるであろう。身なり、呼び名、振る舞いなどに表出される、こうした一連の自己のセクシュアリティーを指して、一枝は、「面白い氣分」という言葉を使っているのかもしれない。しかし一枝は、「死ぬる時に遺言状の中には書くかしれませんが」と述べているように、その実体や自己認識については、生涯カミング・アウトしないことを、この時点においてもはや心に決めていた可能性もある。

すでに言及した『新公論』一九一一(明治四四)年九月号に掲載の「性慾研究の必要を論ず」のなかで、著者の内田魯庵は、「Havelock Ellisの “Studies in the Psychology of Sex” といふは五冊物で性慾に關する各方面の研究を集めてある。之も一應寓目して置くべきものだ。此エリスは誰も知つてる通り現代精神界の趨勢に隻眼を持つている評論家であるだけ、文章も立派で……」26と、この本を高く評価していた。その一部分が日本語に訳され、「女性間の同性戀愛――エリス――」のタイトルで『青鞜』に掲載されたのは、一九一四(大正三)年の四月号(第四巻第四号)においてであった。巻頭に、らいてうの筆になる一文が端書きのように寄せられており、そのなかで、抄訳掲載の経緯が、次のように記されていた。

 女學校の寄宿舎などで同性戀愛といふやうなことが行はれてゐるやうなことを屡々耳にはいたしますけれど、私自身はさういう事實を實際目撃したこともなければ、自身経験したこともありませんでしたので半ば信じられないやうな氣もいたしました、全く何の興味もこの問題にもつことが出來ませんでした。ところが私の近い過去に於て出逢つた一婦人――殆ど先天的の性的轉倒者とも思われるやうな一婦人によつて私はこの問題に非常な興味をもつやうになりました。私はその婦人の愛の對象として大凡一年を過しました。そして色々のことを考へさせられました結果、いよいよこの問題に就いて、知りたくなりました27

このときすでに紅吉は青鞜社を退社していたが、ここでらいてうは、紅吉のことを「殆ど先天的の性的轉倒者とも思われるやうな一婦人」として公言した。明らかにこれは、今日的な用語法に従えば、個人のセクシュアリティーについて赤の他人が吹聴することを意味する「アウティング(outing)」といえるにちがいない。しかもらいてうは、「私はその婦人の愛の對象として大凡一年を過しました」と、素っ気なく他人事のようにいっている。本当にこの愛は、紅吉かららいてうへの一方的な愛だったのであろうか。らいてう自身は、紅吉のことを「愛の對象として」全く何も考えていなかったのだろうか。事実は決してそうではない。というのも、「五色の酒」や「吉原登楼」のことで新聞が青鞜を攻撃していたとき、らいてうと紅吉とのあいだに実際に何が起こったのか――そのときのふたりの関係が、一九一二(大正元)年の第二巻第八号の『青鞜』に掲載された、らいてうの「圓窓より」のなかに、明確に刻印されているからである。らいてうは、自分宛ての紅吉からの数通の私信を含めて、率直にその思いを開陳していた。「圓窓より」は、異例の長文であり、以下の記述は、その概略となる。

一九一二(明治四五)年七月一〇日の夜、らいてうは、寂しがりやで不意の訪問を喜ぶ紅吉の顔が見たくなり、下根岸の紅吉の家を訪ねた。多くを語ったあと、上野広小路まで送ってきた紅吉は、別れる際に、「あした朝、行つてもいゝでせう。其時見せます」28といって、左腕の包帯を押えた。そして翌朝――。

「見せて、見せて、ね、見たい、見たい。」私の心は震へた。紅吉は戀の為めに、只一人を守らうとする戀の為めに……我が柔かな肉を裂き、細い血管を破つたのだ。……長い繃帯が一巻一巻と解けて行く。…… はらわた の動くのを努めて抑へた。そしてじつと傷口を見詰めながら、眞直に燃える蝋燭の焔と、その薄暗い光を冷たく反對する鋭利な刃身と熱い血の色とを目に浮かべた29

その日の午後、ふたりは万年山勝林寺にある青鞜社の事務所へ行った。疲労を滲ませる紅吉は、大きな体を縁側に横たえていたが、しばらくすると、ふと立ち上がって、黒板にこう書いた。

  離別の詩

あたいの人形に火がついた

赤いおべべに火がついた

いとしや人形は火になつた

いとしや人形が火になつた

    人形を買つて五十八日目の夕 紅吉

  らいてう様30

「五十八日目の夕」とは――。するとらいてうは、五月一三日のミーティングのあの夜から数えて五八日目であることに気づいた。

私の心はまたもあのミイチイングの夜の思ひ出に満たされた。紅吉を自分の世界の中なるものにしやうとした私の抱擁と接吻がいかに烈しかつたか、私は知らぬ、知らぬ。けれどもあゝ迄忽に紅吉の心のすべてか燃え上らうとは、火にならうとは31

しばらく沈黙が続いたあと、紅吉はふたつの心配事をらいてうに打ち明けた。ひとつは、吉原見学のあとに「新しい女」や青鞜社へ烈火のごとく浴びせられた非難や揶揄についてであり、もうひとつは、自分自身の健康状態についてであった。

『國民[新聞]』に「所謂新[ら]し ママ [き]女」が掲載されだし事はこの日からのことだつた。紅吉は其記事に就いて眞面目に心配してゐるらしい。……私はあらゆるものを眞面目に考へることの出來る紅吉を、新聞の記事の虚偽を以て満されてゐるのを今更のやうに驚く紅吉を心に羨んだ。そして三[、]四年前の[塩原事件(煤煙事件)のときの]自分を目の前に見るやうな氣がした。……私は紅吉を咎めやうとはゆめさら思わない。……

「退社してお詫びします。」

「馬鹿」

私の少年よ。らいてうの少年をもつて自ら任ずるならば自分の思つたこと、考へたことを眞直に發表するのに何の顧慮を要しやう。みづからの心の欲するところはどこまでもやり通さねばならぬ。それがあなたを成長させる為めでもあり、同時にあなたがつながる靑鞜社をも發展させる道なのだ32

紅吉は、一箇月くらい前から消え入りそうな咳をし、よく頭痛で倒れもした。また、ますます神経が過敏になるのを恐れてもいた。らいてうは、そのことを薄々感じ取っていた。肺の病かもしれない――。らいてうは、高田病院での診察を勧めた。「明日診察を受けるでせう……すると、どつちかに極るでせう、ね、どつちかに」33と、紅吉は怯える。せめて医者の宣告だけは直接紅吉に聞かせたくないと思ったらいてうは、「私も明日病院へ行く。院長に一度逢ひたいことがあるから」34という。しかし紅吉は、入院となれば、今後らいてうに会えなくなることを恐れる。

「淋しい?どうした。」と言ひざま私は兩手を紅吉の首にかけて、胸と胸とを犇と押し付けて仕舞つた。「いけない。いけない。」口の中で呟いて顔を背けたが、さりとて逃げやうとはしない35

そして、らいてうは、「ね、いゝでせう。あなたが病氣になれば わたし もなる。そしてふたりで[療養のために]茅ケ崎へ行く」36と、紅吉の心情を温かく包み込む。こうして万年山の事務所を出たふたりは、別れ際に、明日病院へ行く約束を交わした。帰宅するとらいてうは、これまで紅吉から受け取った、あわせて六七通の手紙とはがきを読み返しながら、眠れぬまま、「同性の戀といふやうなことを頻りに考へて見た」37

概略、以上が、らいてうが「圓窓より」において刻印した、その時期のふたりの実像であった。このことからわかるように、らいてうの、「私はその婦人の愛の對象として大凡一年を過しました」という認識は、明らかに自己の当事者性を横に置いた、独善的なものであった。疑いもなく、らいてうもまた、紅吉を「愛の對象として」いたのである38。しかし、それと同じように重要なことは、当時のらいてうは、紅吉のことを「私の少年」と呼び、一方で「同性の戀」について思いをめぐらせていたという事実である。「私の少年」と呼ぶ以上は、らいてうは紅吉を「男」として認識していたのであろう。そして「同性の戀」という言葉を使う以上は、らいてうは紅吉を「女」と認識していたのであろう。「圓窓より」から一年と八箇月後の「女性間の同性戀愛――エリス――」の端書きにおいて、らいてうは、すでに紹介しているように、「私の近い過去に於て出逢つた一婦人――殆ど先天的の性的轉倒者とも思われるやうな一婦人によつて私はこの問題に非常な興味をもつやうになりました」と書き綴っている。らいてうは、紅吉のセクシュアリティーのうちに女性性と男性性との混成を見出し、そのことを根拠に、「殆ど先天的の性的轉倒者とも思われるやうな一婦人」という表現を使ってアウティングしたものと思われる。それでは、「女性間の同性戀愛――エリス――」に書かれてあった内容は、実際はどのようなものだったのであろうか。まず、「女性間の同性戀愛」の、陰に隠れた実態について、エリスはこう説明する。

婦人同士は、男子より ヨリ ・・ 親密であることは習慣上吾々の頭に ありふれた ・・・・・ ことであるので、彼等の間にこんなやうな異常な欲情が存在してゐやうとは一寸思ひ及ばぬことである。そして此原因と關係して吾人の注目すべきは、婦人が性的アブノーマルな表現に關して、甚だしきはその正則の場合すらも全く知らないで、絶對的沈黙を守ると云ふことである。婦人は同性にして非常に烈しい性的牽引を感じても、其愛情が性的變態であることに氣がつかぬ。そして一度之れを意識した時には譬へ之を發表すれば他人の肩に載っている重荷を軽くしてやる事が出來ると知れてゐても、極力自己の内部経験の本性を暴露されないように努める。39

らいてうがアウティングしたのは、ここでいわれている、「之を發表すれば他人の肩に載っている重荷を軽くしてやる事が出來る」に従ったのかもしれない。次にエリスは、性的に転倒した女たちにみられる特性を、次のように語る。

 彼等は常の服装の場合には大いに男性的單純さを表現してゐる、そして殆どあらゆる場合に、どんな些細でも化粧と云ふやうな事は忌み嫌ふのである。之れ等の事實が明に現はれない時でも、凡ての無意識になさるゝ身振りや習慣が、女の知り合に斯ういふ人は男に生るべき筈であつたのに、と云ふ考へえを起さしめる。粗暴な、エナーヂエテイツクな動作、腕の樣子、愛想もない、ブツキラボーな言葉づかい、音聲の抑揚、男の樣に率直で、名譽心に富む事、殊に男に對する羞しいと云ふやうな樣子はなく、と云つて又殊更に大膽を装ふのでもない態度、凡て是等の事實は、鋭敏な観察者に、底に潜んでゐる心理的變態を観察せしむるには充分である。40

一枝を指して「殆ど先天的の性的轉倒者とも思われるやうな一婦人」という以上は、一枝の言動やしぐさや身なりのなかに、らいてうは、ここで述べられている婦人の「心理的變態」を観察したのであろう。また、エリスは、こうもいう。「轉倒した婦女は女性美の熱心な賞讃者であるが、殊に肉體のしつかりした美をたゝへる。此點は普通の女の性的情緒の中には極僅少な美的感情しか交つてゐないのに比して異つてる點である」41。それでは、「性的轉倒」は何が原因で起こるのであろうか。エリスの見立ては、こうである。

 男子の獨立と、因習道徳――譬へば女は家の中の陰氣な倉の内で嘆息しながら、決して來る事のない男を待たねばならないと云ふ樣な舊い敎へに對する嫌悪を敎へられた女は、何處迄もこの獨立 ママ 發展さして仕事のある所に愛を探さうとする所まで達する。私は敢て此等の近世の運動の慥かな影響が直接性的轉倒を惹起したとは云はないが、間接な原因は確かにあると思ふ42

エリスが描写する、「女は家の中の陰氣な倉の内で嘆息しながら、決して來る事のない男を待たねばならないと云ふ樣な舊い敎へに對する嫌悪」――これが、女性の解放や独立を叫ぶ、近代の婦人運動の原点となる思いであろう。エリスはいみじくも、この近代運動が「間接な原因」となって「性的轉倒を惹起した」とみなす。であれば、近代日本の婦人運動の原点に位置づく青鞜社の運動には、これ自体に、「性的轉倒」を招来せしめる力が必然的に最初から内在していたことになる。そして、その歴史的主人公が、まさしく、紅吉、その人だったのである。もっとも、医学的観点から、あるいは統計学的観点から、女児の誕生にあっては、性的指向が女へと向かうレズビアンや、FTMのトランスジェンダーが常に一定の割合で生まれることが実証されるならば、近代の婦人運動のイデオロギーとは直接関係なく、女学生や女工のような集団同様に、婦人運動という女の集団においても、避けがたく「同性の戀愛」が一定数発生する可能性は否定できない。しかしながら、らいてうの個人的事例にみられるように、「私の少年」や「同性の戀」という用語を使って自らの性愛について公然と語る一方で、「同性の戀愛」という現象に強い関心をもち、外国の書を翻訳して雑誌に掲載しては、そこから積極的に学ぼうとしたのは、疑いもなく、先行する女学生や女工たちの集団ではなく、この時代に新しく胎動した婦人たちの集団のなかにおいてであった。その意味においては、女性解放の近代運動の萌芽と、「同性の戀愛」へ向けられた知的なまなざしとは、相互に大きく関連していたといえるだろう。そしてそれは、「新しい女」の内実ともかかわることであった。紅吉が「新しい女」の前衛的実践の役割を気楽にも担い、他方、らいてうが後衛に陣取り、その理屈の枠組みを必死になって習得しようとしたと見ることも、可能かもしれない。

明らかに、らいてうにとっては、この「女性間の同性戀愛――エリス――」の抄訳は、「圓窓より」の執筆以来未解決のままになっていたこの種の問題への個人的興味を満たす、ひとつの有効な知的回答となったにちがいない。しかし、一方のアウティングされた紅吉は、それをどのように受け止めたのであろうか。紅吉のそれに対する言葉は残されていない。もっとも、「女性間の同性戀愛――エリス――」が掲載された『青鞜』(第四巻第四号)の巻末に目を向けると、文芸雑誌『 番紅花 さふらん 』四月号(第一巻第二号)の広告を見出すことができる。この限りにおいては、らいてうと紅吉の関係は、少なくともこのときまでは、決定的な破局を迎えていない。しかしながら、それ以降のしばらくのあいだの疎遠は、明白であった。

(15)尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、247頁。

(16)平塚らいてう『わたくしの歩いた道』新評論社、1955年、121-124頁。

(17)「編輯室より」『青鞜』第2巻第6号、1912年6月、121-122頁。

(18)尾竹紅吉「或る夜と、或る朝」『青鞜』第2巻第6号、1912年6月、115-116頁。

(19)「編輯室より」『青鞜』第2巻第7号、1912年7月、110頁。

(20)『宮本百合子全集 第六巻』新日本出版社、2001年、298頁。

(21)黒澤亜里子(編)『往復書簡 宮本百合子と湯浅芳子』翰林書房、2008年、41頁。

(22)吉永春子『紅子の夢』講談社、1991年、13-14頁。

(23)「東京觀(三二) 新らしがる女(三)」『東京日日新聞』、1912年10月27日、日曜日。

(24)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、233頁。

(25)「紅吉の畫が賣れる――三百圓で花魁身受の噂」『讀賣新聞』、1913年4月8日、3頁。そのあと、この記事は、こう続く。「所が幸運な事には、その畫は[出品された巽畫会の]開會間も無く物好きな福島於菟吉氏が買取つたので、紅吉はホクホクもの、サテ其の三百圓は何うなるかのかと云へば、今度紅吉が出す雜誌の保證金に充てるのださうだ、花魁身受なぞと評判を立てゝ置いて、蔭でペロリと舌を出す紅吉も女ながら人が悪い」。

(26)内田魯庵「性慾研究の必要を論ず」『新公論』第26巻第9号、1911年、6頁。

(27)「女性間の同性戀愛――エリス――」『青鞜』第4巻第4号、1914年4月、1頁。

(28)らいてう「圓窓より」『青踏』第2巻第8号、1912年8月、79頁。

(29)同「圓窓より」『青踏』、80頁。

(30)同「圓窓より」『青踏』、81-82頁。

(31)同「圓窓より」『青踏』、82-83頁。

(32)同「圓窓より」『青踏』、83-85頁。

(33)同「圓窓より」『青踏』、87頁。

(34)同「圓窓より」『青踏』、同頁。

(35)同「圓窓より」『青踏』、88頁。

(36)同「圓窓より」『青踏』、同頁。

(37)同「圓窓より」『青踏』、89頁。

(38)たとえば、らいてうと紅吉とが相思相愛の仲であったことを示す別の証拠として、当時田村俊子(のちに佐藤姓)が書いた「逢つたあと」という詩があるが、そのなかの一節でふたりの関係は、こう描写されている。「紅吉、おまいのからだは大きいね。/Rと二人逢つたとき、/どつちがどつちを抱き締めるの。/Rがおまいを抱き締めるにしては、/おまいのからだは、/あんまりかさばり過ぎてゐる。」この詩の全文は、「編輯室より」『青鞜』(第2巻第10号、1912年10月、135-136頁)に掲載されている。

(39)前掲「女性間の同性戀愛――エリス――」『青鞜』、3頁。

(40)前掲「女性間の同性戀愛――エリス――」『青鞜』、17頁。

(41)前掲「女性間の同性戀愛――エリス――」『青鞜』、19頁。

(42)前掲「女性間の同性戀愛――エリス――」『青鞜』、21頁。