中山修一著作集

著作集11 研究余録――富本一枝の人間像

第一編 富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す

第五章 夏の出来事と安堵村生活の終焉
     ――わたしはMさんに心を傾けていました

この時期一枝に魅せられたのは、石垣綾子だけではなかった。一枝が陽を連れて奈良女子高等師範学校に通っていたころのことである、ひとりのその学校の学生が、安堵の自宅へ一枝を訪ねてきた。一枝が雑誌に寄稿した詩に感動し、ぜひとも一枝に会ってみたいとの思いからの訪問であった。その学生が、その後、とりわけ日本の農村の婦人問題にかかわって活躍することになる丸岡秀子である。丸岡は、晩年に執筆する『いのちと命のあいだに』のなかで、一枝と憲吉に出会ったときに受けた強い衝撃について、こう書いている。

 青田の中に、ちょこんと建てられたあの家の二人は、当時いっぱしの大人だった。だが、十代を苦悶し、その苦悶に支えられて二十代を翔ぼうとしている小鳥のようなわたしに対して、いささかの差別もない。子ども扱いもしなかった。大人振りもしなかった。人間として、まったく平等な扱い方をしてくれる人という信頼を持たせた。

 それはなぜだったのか。このことは、差別に敏感なわたしの環境から、自力で脱却をはかる芽を創り育ててくれた。これこそ、まさに「近代」とのめぐり合いといえよう91

このとき、この夫婦の生き方のなかに、丸岡は、「近代」の具体的な姿を、驚きと崇敬の念をもって目撃したのであった。

その後も、ふたりに魅せられた丸岡の安堵訪問は続く。そのころの詳しい様子について、丸岡は、自伝的小説『ひとすじの道 第三部』のなかに書いている。主人公の手塚恵子が丸岡自身と考えて差し支えないであろう。それでは、それに従って、最初の出会いから、一九二三(大正一二)年の関東大震災の時期までを追ってみたいと思う。

「[手塚]恵子は、一枝をあこがれ、一枝に逢うために、安堵村を訪れたのだった。そして、初めて逢ったその日に、一枝には、愛慕を感じた。だが、夫の憲吉には、初めは関心が薄かったが、時間が経つうちに、敬愛の深まるのがわかった。二年生になったばかりの十七歳の春だった。……恵子は、この一組の配偶を理想の像と見るようになっていった。そして、二人の生活のなかに、遠慮もなく入り込んだ自分を、幸運だったと思った。そして求める人間にめぐり逢いたくて、この家にふみこんでしまった無遠慮を大切にし、途中で失うようなことを決してしてはならないと思うようになっていった。……一枝の書架には、新しい本がぎっしりつめられ、机の上に置かれた原稿用紙と、インクとペンは、これまでの女の生き方を否定し、新しい生き方の模索のために、書き手を待っているようであった。……相手の迷惑を顧みる余裕もなく、恵子は、日曜ごとに夫婦を訪ねることを日課とした。そのうちに二人を訪ねる人が、だんだん多くなることもわかってきたし、一枝をあこがれる学生も、同級生のなかにも出てきたり、そのまた上の学生のなかにも、出てくるようになった。一枝は、それらをすべて受容した。決して拒まなかった。強烈な花の香りに集まるように、二人が三人になり四人になっていった。一枝もまた、それらのなかで、好ましい学生とそうでないものとに、心を分ける姿を見せることもあった。恵子は、そのことを敏感にかぎ分けた。そして嫉妬もした。だが、それに負けるものかと思うようになった。むしろ、せっせと安堵村に通った。すると、同級生や、上級生が、ベランダで、一日中、一枝とはなやかに談笑していることもたびたびだった。だが、恵子はひるまなかった。すぐ、台所に入って袴をとり、割烹まえかけ姿になって、浸けてある洗濯をはじめた。……窯出しの日が、日曜に当たるときもあった。憲吉の陶器を求めて、大阪や京都や、時に東京から訪れてくる人びとがいた。恵子は、そんな日は心忙しく手伝った」92

このように、一枝を頼って日曜日に安堵村を訪れる奈良女高師の学生たちが次第に増えていった。丸岡もそうであったように、そのなかには、出自や家庭環境に悩みをもつ者、将来に不安を抱く者、社会や政治に不満をもつ者も含まれていたであろう。誰しもがそれぞれに苦しみを抱え、そこから抜け出そうとしていた十代後半の女たちであったにちがいない。男尊女卑が支配する社会にあって、対等の存在としてみなされていない彼女たちにとっては、その救いを、男性に求めることはなく、勢い同性に向けてゆく。一枝もそれは、よく承知していたであろう。そうしたなかから、男女の恋愛に擬されるような、同性間の愛の交流が芽生えたとしても、それはそれで、何ら不思議はなかった。

一九二三(大正一二)年の夏のことであった。そのとき丸岡は、奈良女高師の四年生になっていた。卒業すると、来年は、どこに住んでいるかわからない。安堵村へ来ることができるかどうかもわからない。そこで「恵子は、二人の迷惑も考えないで、この夏の[富本家の]尾道行きにすがりついた。……そのころの尾道は、[恵子が生まれ育った]信濃の山村とは、まるでちがう活況があった。漁業を中心とする町だった。そこからポンポン蒸気で渡る小さな島にある一軒家を借りて、約一か月を過ごした」93

そのとき、ひとつの出来事が起こった。丸岡はその場面を、一枝の喜びと憲吉の寂しさを対比しながら、こう描く。

「その間にも、訪問客があった。ことに一枝をあこがれ、一枝もまたとくべつの好意を寄せていた、奈良の学校の先輩が島を訪れた。恵子の上級生でもあり、特別な美貌でもあり、当時この家への出入りも繁くなっていた。恵子の友人の一人でもあった。一枝は喜び、彼女と水着に着替えて、毎日、彼女と二人で海に入った。こちらの島から向こうに見える島まで泳ぎの競争をするのだと、はしゃいでいた。憲吉は、寂しそうに、二人の子どもたちと、いっしょに海に入った。恵子は、岸辺でそれを見送りながら、幸福を満喫して大きく泳いでいる一枝と、いつもそれを許してきた憲吉の孤独を、同時に、ひそかに思っていた」94

憲吉にとって、直接自分の目ではじめて見る、美しい女性に心をときめかす一枝の歓喜の姿であった。このとき憲吉は、四年前に一枝が「海の砂」(『解放』一二号)のなかで自己分析していた、「『不良心』で『不徳義』で『不道徳』であったこれまでの自分」が、いまなお一枝のなかに生き続けていたことに気づかされたであろう。丸岡が観察しているように、憲吉の「孤独」は深かったにちがいない。あるいはそれ以上に、激しい虚しさや不信感が憲吉を襲ったかもしれない。また一方、幼い陽と陶は、母親が「とくべつの好意を寄せていた」人と一緒に、「幸福を満喫して大きく泳いでいる」様子を見て、どのような思いに駆られていったであろうか――。

それからしばらくして、またひとつの出来事が起こった。丸岡にとって、これもまた、いままでに経験したことのないような衝撃だったにちがいない。その場面を丸岡は、こう描写する。

 ある日のこと、恵子は独りポンポン蒸気に乗り、尾道まで食糧を仕入れに行って帰ったが、まだみんなが海だったので、昨日の日記をつけようと机の上のノートを開いた。ところが、そこに一枝の伸びやかな文字が長々と書きこまれてあった。それが目に入ったとき、恵子は飛び上がって驚いた。

「許してください。黙って、あなたの日記を見たことを許してください。それは、あなたがどんなに苦しい思いをしているのか、いつも心配していたからです。ことにMさんが島を訪れたときのあなたの表情を見ていたからです。たしかに、わたしはMさんに心を傾けていました。Mさんを愛してもいます。だが、そのかげで、あなたの心を傷つけてしまったのではなかったかと、恐れていたのです。

 ところが、あなたの日記には、どこにもその影さえ見当たらなかったのです。感謝しています」と、恵子の日記の終わったページに、一枝は書いていた95

こうして夏の休みの日々が過ぎ、九月一日、帰村のときが来た。その途中で一行は、関東大震災のことを知った。

尾道から船で渡ったこの向島での海水浴は、一枝にとってみれば、『神秘なる同性愛 下巻』のなかで同性愛の治療法として紹介されていた戸外運動の一環だったにちがいない。また、憲吉の陶器の愛好家であった小川正矩が、一行の宿泊宿などの滞在期間中の世話をしているが、小川はこの島の開業医であり、富本夫妻は、妻のセクシュアリティーについて少しでも意見を聞きたいと思っていたのかもしれなかった。しかし、それもこれもすべてが、「Mさん」の出現によって水泡に帰すこととなってしまった。「Mさん」とは、どのような女性なのだろうか。手掛かりは、「一枝もまたとくべつの好意を寄せていた……恵子の[奈良女高師の]上級生でもあり、特別な美貌でもあり、[学生のころ]当時この家への出入りも繁くなっていた」という、上で引用した丸岡の記述しかいまのところない。

年が明けた、一九二四(大正一三)年の四月、「小さな学校」に新しい教師が着任した。着任してしばらくすると、『婦人之友』八月号の「私たちの小さな學校に就て」という特集のための執筆がはじまった。一枝は「1. 母親の欲ふ敎育」を、新任の小林信は「2. 稚い人達のお友達となつて」を、そして憲吉は「3. 生徒ふたりの敎室」を書いて寄稿した。一枝は「1. 母親の欲ふ敎育」のなかで、これまでの陽と陶に対する家庭内での教育実践の様子を詳細に語り、続けて、村の小学校に子どもを通わすことを断念し、「小さな学校」を開設するまでに至った経緯を書き、そして、最後の「附記」のなかで、新任の小林についてこう記した。「小林信氏は私の若き友人として、今子供達のために全力を盡してゐて下さる。氏によつて私達の仕事は第二期に入ろうとしてゐます。學識ある氏によって私達の學校の基礎が固められつゝある事を悦び感謝します」96

富本家の菩提寺である円通院につくられた「小さな学校」の先生は、初代が伊藤、二代目が立石で、この四月から小林信に引き継がれ、一枝は、これをもって「第二期」に入り、「基礎が固められつゝある」ことに喜びを隠さない。一方の小林はどうかというと、「2. 稚い人達のお友達となつて」のなかで、冒頭、陽と陶と自分とのこれまでの関係をまず紹介する。「私が陽ちやん陶ちやんと云ふ二人の稚い人のお友達となつて、此の學校に來ましたのは、つい此の四月で、未だほんの四ケ月足らずにしかなりません。けれど、私は此處三年程前、卽ち姉さんである陽ちやんが、始めて恁ういふ特殊な敎育を受け始めて以來、二人の母上を通して、その母上が二人の愛兒の上に抱いて居られる理想を覗ひ、二人の稚い人達の上を祕かに考へ、此の稚い人達の學校を見せて貰ひ、又一二時間の出鱈目な先生になつた事抔もありして、陽ちやんと陶ちやんとは、お互によく遊ぶお友達同志でありました」97。そして自分のことについては、このように書く。いまの悲しむべき学校社会から「せめて自分丈けでも……逃れたいと、常に願ひ乍らも、止むなく或る地方の女學校に赴任して一年。私の無経験な、併しそれ丈けに純粋であり、又眞實だと信ずる私の考へが、事毎に、殆んどその種子下ろしさへも許されずに、 無惨無惨 むざむざ 蹂躙 ふみにじ られて行くのを、私は戦ひおほして突き進む力を失つて了ひました」98。さらに、小林の言葉は、ふたりの生徒の母親である一枝への感謝へと向かう。

 小さくとも私自身の生きた敎育がして見度い。勿論、私の描く夢が、果して眞實のものに近いか否かを、私は知りません。それを思ふと、私は常に自分の爲てゐる仕事が恐ろしくなり、二人の稚い人達の前に、涙で頭の上がらなくなるのを感じます。併し、私自身は、私を容して呉れる人の許で、私の信じる處を進むより仕方がないのです。幸にも、二人の稚い人たちの母上から、『兎も角も貴女の信じる處を遣つて見て下さい。』といふ寛い了解の許に三人が結び合つてからの、此の小さな學校は何にも換へ難い私の寶です99

ここまで読み進めていくと、この小林信という新任教師は、先に紹介した、丸岡秀子の『ひとすじの道 第三部』において、尾道の対岸にある向島での海水浴の場面に登場する訪問客の「Mさん」と同一人物ではないのだろうかとの推測がよぎる。主人公の「恵子」(つまり丸岡自身)の奈良女高師の先輩で友人でもあるその訪問客は、三年くらい前から一枝を慕って安堵へ足しげく通い、陽や陶の遊び相手にもなり、卒業後は、昨年の四月より地方の女学校に勤務するも、教師としての夢破れ、夏休みには、あこがれの一枝を頼って滞在先の向島を訪ね、毎日二人して泳ぎを楽しむ――この人物こそが、実は小林信という女性だったのではないだろうか。「信」の読みは、「まこと」「まさ」「みち」のどれかであったであろう。

そこで、奈良女子高等師範学校を前身校にもつ現在の奈良女子大学の学術情報センターに問い合わせたところ、次のような情報が返ってきた。小林信は、一九二三(大正一二)年三月に奈良女高師(文科)を卒業後、山口県にある徳基高等女学校(現在の山口県立厚狭高等学校)に赴任、また、同大学同窓会の佐保会会員名簿の記載内容に従えば、一九二四(大正一三)年一二月現在「生駒郡安堵村富本方」に在住、そして一九二五(大正一四)年一一月現在「桑野信子」として在「東京」、ただし「信」の読み方については不明、ということであった。

富本憲吉の四人家族は、一九二六(大正一五)年の一〇月、これもまた、前回の東京から安堵村への転居同様に、突然にも、安堵村を出て東京へ移転する。小林信が「小さな学校」に赴任した一九二四(大正一三)年の四月から富本家が東京へ移転する一九二六(大正一五)年一〇月までの二年半のあいだに、何が起こったのであろうか。ここに謎に包まれた闇の時間が存在する。「M」を「まこと」「まさ」「みち」のどれかのイニシャルであると仮定したうえで、すでに挙げた、丸岡秀子が自伝小説のなかで描いている訪問者「Mさん」についての記述、小林信が「2. 稚い人達のお友達となつて」のなかで述べている自分自身の経歴についての内容、そして、奈良女子大学から提供された小林信に関する情報の三点を総合的に勘案すれば、ほぼ間違いなく小林信が実は「Mさん」だったのではないかとの推断を得ることができ、これをもって論証の前提として、東京移転までのこの空白の二年半を、以下に記述してみたいと思う。

一枝が「とくべつの好意を寄せていた」「特別な美貌で」「學識ある」女性が、この四月、円通院の「小さな学校」に赴任してきた。しかし、昨年夏の向島での海水浴で見せたふたりの親密な同性関係が、もしこの「小さな学校」に今後そのまま持ち込まれることになるとすれば、それは一体どのような事態を招くことになるのであろうか。それについては、何ひとつ決定的な証拠となるものは残されておらず、想像するしかほか、手立てはない。しかし、「1. 母親の欲ふ敎育」において一枝がいうように、「基礎が固められつゝある」なか、そして「3. 生徒ふたりの敎室」なかで憲吉が述べているように、設備等の充実も一方で展望されているなか、なぜかくも短期間のうちに、確たる教育成果もなく、しかも後任や転校先が未定のまま、この学校は閉じられなければならなかったのか。極めて重大な何かが、このときこの学校に起こったことが想定される。それは何か。一枝と小林のあいだに愛を巡る何か深刻な問題が生じた――そのように考えるのが、やはり自然で順当なのではないだろうか。小林に向けられた一枝の一方的な愛だったのか、双方が許し求め合う愛だったのか、正確にはわからない。前者であれば、一枝の行動に驚いた小林は、逃げるようにして安堵村を去った可能性があるし、後者であれば、引き裂かれるような、意に反した強圧的な解雇だった可能性もある。そうでなければ、そののちの、深尾須磨子と荻野綾子、あるいは湯浅芳子と中條百合子にみられる事例に近いものがあったのではないかとも考えられる。つまり、小林が結婚をすることによって、ふたりの関係が強制的に終了した可能性である。

いかなる結末であったとしても、前任の女学校に自分の居場所を見出すことができず、一年で職を辞し、希望に満ちて安堵村の富本家に赴き、「此の小さな學校は何にも換へ難い私の寶です」と書いていた純真で若い小林は、このとき、教師としても女性としても、何らかの挫折と苦しみを経験したにちがいなかった。その後の彼女の消息を知る立場にあったのは、奈良女高師の後輩で友人の丸岡秀子くらいだったのではないかと思われる。のちに丸岡は、皮肉なり嫉妬なりを込めて、「ずいぶん浮気をなさったから、もう思い残すことはないでしょう」「あなたは美人がお好きでした。それはみとめていらっしゃるでしょう」100と、一枝を問い詰めている。

小林がいなくなった結果として、「小さな学校」は教師を失った。それ以降、富本一家が東京に移住するまでのあいだ、少なくとも一年間、あるいはそれ以上の期間、学習の機会が陽と陶に与えられることはなかったものと思われる。というのも、いまのところ、それを明示する痕跡や資料を見出すことができないからである。

富本家の東京移転を知るうえで、残されている唯一ともいえる具体的な資料は、一枝が一九二七(昭和二)年の『婦人之友』の正月号に寄稿した「東京に住む」である。ここに一枝はどう書いているのか、検討しなければならない。一枝は、「思へば一九二六年の早春から、如何に私達が悩み多い日を送つて来たことか」101と述懐する。そして「東京に住む」の冒頭において、一枝はこのように書く。

いくどか廻り來た大和國の四季に、住馴れた私達が、東京に移り住むやうになつたそこには樣々の理由があつたが、そのなかでも特に大きく強い事柄があり、むしろ樣々の理由といふよりそのこと一つが根本的の動きであつて、それ以外の私共のいふ理由は枝葉の問題に過ぎないが、その根本の問題にふれることは家庭的のことで、今は書くことがゆるされない。かいつまんで云ふなら人間同志のなかに必ずかもされる危機、その危険期に私達も亦等しく陥つた。さうして久しい間そこに悩み、嘆き、かなしみ、ありだけの人間らしい悲痛の感情の幾筋かの路を味ひ過ぎた。さうしてどうにかしてその境地から匍ひ出し、今後の生涯を立派に生き抜かうと決心し、そのためにこれまでの境遇、生活を見事にぶち破つて新しい生活を築きたてたいと思つた[。]その結果へ枝葉の理由が加へられ、東京に住むことゝなつた102

一枝は、東京に移り住むようになった理由には「特に大きく強い事柄」である「根本の問題」があって、それについては「家庭的のことで、今は書くことがゆるされない」という。この言葉は、自分のセクシュアリティーについていまはカミング・アウトすることはできないという意味のことをいっているのであろうか。「どうにかしてその境地から匍ひ出し、今後の生涯を立派に生き抜かうと決心」ともいっているが、これは、転地による療法を暗に指しているのではあるまいか。小林が去っても、問題が根本的に解決したわけではなく、次の新任教師と同じ関係が生じる可能性も排除できないし、さらには、これから以降も奈良女高師の女学生たちが、一枝の魅力に惹かれて集まってくる可能性も、全く否定することができない。そう考えれば、一枝の性的指向を再度惹起させないためには、前回東京から安堵村へと転居したように、転地しか、道はない。荷造りがはじまった。

かうして幾十日か過ぎた。自分に頼む心の弱々しさを知らねばその間すら過すことが出來ない程もろい自分であつた。夫に はげ まされ、荷をつくりかけてゐてすら、さて何處に落着くかその約束の地を見ることが出來なかつた。夫の仕事のためには陶器を造るために便宜多い土地を撰定しなければならなかつた。土を得るに、磁器の料を採るために、松薪を求めるためにも、その他仕事する上には繪を描く人、文筆をとる人々のやうに軽らかに新しい土地に轉ずることは出來ない色々の困難があつた103

「夫に はげ まされ」、荷造りをしているところから判断すれば、憲吉の一枝に対する同情の気持ちが見えてくる。一方の一枝は、転地先を選ぶにあたって、製陶に必要な薪や土などの入手に際しての利便性について憲吉を思いやる。そうした夫の仕事上の特殊な条件を考えると、落ち着くべき約束の地がなかなか見つからない。それに、娘たちの今後の教育のことも、考慮に入れる必要があった。一枝は、こう続ける。

 夫の仕事のことだけを念頭に置いてゆくなら、琉球にでも北部朝鮮にでも、九州の山深くある片田舎にでも容易に決定することが出來た。さうして私は夫を愛してゐる。その仕事を思ふことは夫についでゐるものである。しかしながら、すでに女學校へ入學しやうとする程たけのびた上の子供、まもなく姉の後につかうとする妹兒[。]それも四[、]五年の間家庭にあつて特殊な方法で敎育されて來た子供達であつたから、今後の教育方法について考へることが實に多かつた104

解決すべき問題が複雑に絡みあっているのである。なかなか結論へはたどり着けない。話しあう場を変えるために、山陰の奥の湯宿へ向かった。

夫は夜は荷をつくり晝は生活費を受るために土をのばし呉州をすり、つめたい素焼の壺を膝にのせたり、窯に火を投げた。さうして少しの金を得たので、私達はいよいよ最後の決心をつけるために何處に居住すべきかを決めるために、その金をもつて短い間の旅ではあつたが秋はじめ山陰の奥まで出かけて來た。古風な湯宿で過した十日程の日數、しかしそこでもまだあざやかな決心がつきかねたまゝ再び悩み深い歸路をとらねばならなかつた105

場所を変えて話しあっても、どこへ転居すればよいのか、決心がつかない。さらにそのうえに、「金の問題と、子供を無駄に過させてゐる心配、生活に落ち着きのないところからくる焦燥」106が一枝の心に重くのしかかる。ついに一枝は、そのとき神を見た。

 神を見る心、ひたすらに信頼する世界、祈り、これを失してゐたことがすべての悩みの根源であることを強く思つた。私は自分の心を捨てゝ神の意志を尊く思ひ、そこで新しく生まれてこない限り自分達の生活は何度建て直しても駄目であることを知つた。

 こゝに歸依したことは同時に小さい自我を捨てたことである。世界が限りなく廣く私達の前に幕をあげた107

ここに至って一枝は、宗教心に帰依した。すでに述べているように、息子の精神的不安定を心配した中江百合子は、当時教会に通っていた。一枝は、自分の悩みを中江に打ち明けて、一緒に教会に足を運んだのではないだろうか。一九一四(大正三)年発行の当時の新約聖書「ロマ書(ロマ人への書)」(現在訳の「ローマ人への手紙」)第一章の第二六節と第二七節には、同性愛について、こう書かれてあった。

二六 之によりて神は彼らを恥づべき慾に付し給へり、即ち女は順性の用を易へて逆性の用となし、二七 男もまた同じく女の順性の用を棄てて互い情慾を燃し、男と男と恥づることを行ひて、その迷に値すべき報を己が身に受けたり108

また、異性装については、舊約聖書「申命記」第二二章第五節に、こう書かれてあった。

五 女は男の衣服を纏ふべからずまた男は女の衣裳を着べからず凡て斯する者は汝の神エホバこれを憎みたまふなり〇109

一枝は、聖書のこれらの言葉を信じた。こうして一枝は、憲吉とともに、考えに考えを重ね、疲労と涙にあえぎながら、最後には神の存在に気づくことによって「神の意志を尊く思ひ」、「自分の心」や「小さい自我」を捨て、眼前に広がる新しい世界にとうとうたどり着いたのである。ついに、新しく生まれ変わるべく「生活の建て直し」の道が開いた。

 そこで、陶器を焼くためには不充分でありむしろ不適の土地ではあるが、それでも焼いて焼けないことはあるまい。要は制作するものゝ心の持方一つである。ただ材料その他の點の不足は物質で解決がつくことだから、仕事のために助力してくれる人があるなら必ず焼いてみせるといふ夫の話も、その人を得て、それでは子供のためにも都合よく行くし、また自分達にしても決して好んで住みたい土地ではないが、欠點だらけな人間の性質は同樣その弱點をもつ人間社會の中に飛び込んでお互にもまれ合ひ争闘しあひ相互扶助しあつて、はじめて完全に近いものともならう110

そういう思いに至るなかから、生活再生のために落ち着くべき約束の地として、最終的に東京が選ばれた。幸い、憲吉へ資金を援助してくれる人たちも見つかった。子どもたちは、中江家の子どもたちと同じく、成城学園に入れることにした。それでも心配なのは、人が多く集まる東京の地で、根本となる問題は再燃しないのであろうか。「欠點だらけな人間の性質は同樣その弱點をもつ人間社會の中に飛び込んでお互にもまれ合ひ争闘しあひ相互扶助しあつて、はじめて完全に近いものともならう」――こう信じるほかなかった。

一枝の、この「東京に住む」のなかに、わずかではあるが、自分のセクシュアリティーについて間接的に言及している箇所がある。そのひとつが、こうした文言である。

 この久しい間の爭闘、理性と感情この二つのものはいまだにその闘を中止しようとはしない。そうしてそのどちらも組しきることが出來ない人間のあはれな煩悶を冷酷にも見下してゐる。平氣でゐる感情に行ききれないのは自分が自分に似合ず道徳的なものにひかれてゐるからで、といって理性を捨切つて感情に走ることをゆるさないのは根本でまだ×に對して懀惡や反感と結びついてゐるために違いない。……本當にこの心の底には懀惡しかないのか、それでは偽だ。あんまり苦しい111

この文章を読み解くうえで最大のポイントとなるのは、伏字となっている「×」にどの一字をあてるかということになろう。あえて「性」をあててみたい。自分のセクシュアリティーを憎悪する。しかし、それだけでは、偽りであるし、あまりも苦しすぎる。ここに、セクシュアリティーの解放を巡る理性と感情の激しい対立の一端をかいま見ることができよう。自己の特異なセクシュアリティーに向けられた憎しみと、憎みきれない苦しみとが、混然一体となって一枝の心身を襲う。一枝が神を見るのは、そのときのことであった。

別の箇所には、こうした文言も見出すことができる。

 かつて若かつた頃、なにかにつけて心の轉移といふ言葉を使つたものであるが、まことの轉移といふものは、並大抵の力では出來るものではなく、身と心をかくまでも深く深く痛め悩まして、身をすてゝかゝつてはじめて出會ふものであり行へるものであることを沁染と知ることが出來た112

一枝は「心の轉移」という言葉を用いている。一枝が、自身を女性間の同性愛者(当時の通称では「レスビアン」など)として認識していたとすれば、彼女にとってこの言葉は、同性愛から異性愛へと性的指向を「轉移」させる試みを示唆する心的な用語法だったのかもしれない。それとは違って、一枝が、肉体的には明らかに女性でありながらも、心の性を男性として自己認識するトランスジェンダー(当時の通称では「男女」など)であると思っていたとするならば、この言葉は、心の性を体の性へと「轉移」させことを意味する彼女の内に秘められたキーワードだったにちがいない。しかし、どちらにしてもそれは、「並大抵の力では出來るものではなく」、過度の心身の葛藤と衰弱を伴うものであった。

この東京移住は、ふたりにとって、まさしく二度目の賭けであり、もはやこれ以上はない背水の陣とでもいえる、生活の再生へ向けての悲壮感漂う、療法としての転地だったものと思われる。それにしても、あまりにもあっけない安堵村での生活の終焉であった113

かくして、一九二六(大正一五)年の一〇月の半ばを過ぎたある日、一家は、四人それぞれが深刻で複雑な思いを胸に抱えながら、本宅の「舊い家に母を残し、私達の小さい住居の庭木の一本一本にも挨拶の言葉をかけ、美しい遠山をめぐらした平原のなかの暖い一小村、土塀と柿の木の多い安堵村」114をあとにし、東京へと上っていった。おおよそ一一年半の安堵村生活であった。このとき、満年齢で憲吉四〇歳、一枝三三歳、陽一一歳、そして陶は、まもなく九歳になろうとしていた。東京から安堵村に来たときには、一枝のお腹には陽がいた。今度の上京には、まもなく生まれてくる壮吉が一緒である。大正から昭和へと改元される二箇月ほど前の秋の日の出来事であった。

(91)丸岡秀子『いのちと命のあいだに』筑摩書房、1984年、27-28頁。

(92)丸岡秀子『ひとすじの道 第三部』偕成社、1983年、108-116頁。

(93)同『ひとすじの道 第三部』、132頁。

(94)同『ひとすじの道 第三部』、同頁。

(95)同『ひとすじの道 第三部』、133頁。

(96)富本一枝「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』第18巻、1924年8月、32頁。

(97)小林信「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」『婦人之友』第18巻、1924年8月、33頁。

(98)同「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」『婦人之友』、同頁。

(99)同「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」『婦人之友』、同頁。

(100)前掲『ひとすじの道 第三部』、134-135頁。

(101)富本一枝「東京に住む」『婦人之友』第21巻 1927年1月号、112頁。

(102)同「東京に住む」『婦人之友』、108頁。 一方、夫である憲吉は、東京移住の理由について、晩年の一九六二(昭和三七)年に執筆した『日本経済新聞』の「私の履歴書」のなかで、こう述べている。「大和の一隅でロクロを引き、画筆をにぎる私の仕事も、だんだんと世間に認められ、生活には別段、不便を感じることもなかった。しかし、そのころ、東京へ出て仕事をしたい気持ちが日ごとに強くなった。東都の新鮮な気風にふれることは、かねてからのやみがたい念願であり、また陶芸一本で生涯を過ごす覚悟も、ようやく固まってきたのである。かくして大正十五年[一九二六年]の秋、十年余親しんだ大和の窯を離れ、東京郊外、千歳村(現在の世田谷区祖師谷)に居を移した。」(『私の履歴書』〈文化人6〉日本経済新聞社、1983年、210頁。[初出は、1962年2月に『日本経済新聞』に掲載。])

(103)同「東京に住む」『婦人之友』、109頁。

(104)同「東京に住む」『婦人之友』、同頁。

(105)同「東京に住む」『婦人之友』、111頁。

(106)同「東京に住む」『婦人之友』、同頁。

(107)同「東京に住む」『婦人之友』、同頁。

(108)国立国会図書館デジタルコレクション(国立国会図書館/図書館送信限定)「旧新約聖書」大正三年一月八日發行、發行者/米國人 ケー・イー・アウレル、發行所/米國聖書協會、「新約聖書」二百十六頁。
 たとえば、この箇所は、現代にあってはこう訳されている。「26このことのゆえに、神は彼らを恥ずべき情欲へと引き渡された。実際、彼らのうちの女性たちは、自然な[性的]交わりを自然に反するものに変え、27同様に男性たちも、女性との自然な[性的]交わりを捨てて、互いに対する渇望を燃やしたのである。[そして]男性たちは彼ら同士で見苦しいことを行ない、彼らの迷いのしかるべき報いを、己のうちに受けたのである。」(『新約聖書』(新約聖書翻訳委員会訳)岩波書店、2004年、628頁。)
 一枝が、もしこのような意味に理解していたのであれば、この段階で一枝は、自分の性的指向を、「恥ずべき情欲」であり「自然に反するもの」であり「見苦しいこと」であり、「迷いのしかるべき報い」を受けるべき大きな罪であるとして認識したものと思われる。

(109)同「旧新約聖書」、「舊約聖書」二百八十二頁。
 この箇所の現代語訳の一例はこうなる。「5女が男の着物を身にまとうことがあってはならない。男が女の着物を着ることがあってはならない。これらのことを行なう者はすべて、あなたの神ヤハウェが忌み嫌うものであるからである。」(〈旧約聖書Ⅲ〉『民数記 申命記』山我哲雄・鈴木佳秀訳、岩波書店、2001年、349頁。)
 このとき一枝は、聖書の言葉を通じて、異性装が「忌み嫌うべき服装」であることに気づいたものと思われる。

(110)前掲「東京に住む」『婦人之友』、111-112頁。

(111)同「東京に住む」『婦人之友』、110頁。

(112)同「東京に住む」『婦人之友』、112頁。

(113)もっとも、当時の『讀賣新聞』(1925年9月29日、7頁)は、砧村の成城学園滞在のために富本一枝がふたりの娘(陽と陶)を連れて上京したことをとらえて、「よき母=尾竹紅吉さん 愛嬢を連れて上京 奈良の山奥から 昔忘れぬ都に憧れて」という見出しのもとに記事にしているが、それを読む限りでは、そうした緊迫した状況は、いっさい伝わってこない。むしろ、平穏安寧な大和での暮らしぶりが強調されている。
 この『讀賣新聞』の記事は、一枝への聞き取りによって、おおかたの内容が構成されている。そのなかで一枝は、以下のように語っている。「そこは富本の故郷で百五十戸許りの村です[。]私は富本と二人の子供と一緒に村はづれの窯業場で小さい生活を致して居ります……私共の生活は富本の考へから至極簡易で、ホンの日常生活の道具しか揃つておりません[。]それでも實家から全く補助を仰がず、自分達で勞働し自分達で生計を立てゝ行くという風にして居りますから本當に生活らしい生活をして居るやうな氣が致します、子供がある樣になつてからは育児や家事に追はれ、ろくろく勉強も出來ませんが、夜分は十時頃から一時頃までも讀書にふける事があります[。]これ迄はトルストイ物が好きでしたが、近頃はピーター、クロポトキンやアルツイバーセフの物などが好きになりました、もツと讀んで研究を積みたいと思ひます。」
 このように一枝は、夫の実家に頼ることなく倹約に励み、簡素で質実な生活のなかにあって、昼間は家事や育児に明け暮れ、夜には進んで自ら読書に親しむ、まさに良妻賢母の見本のような日々を安堵村で過ごしているように語っている。事実、ある見方からすれば、そうであったかもしれない。しかしこれは、『讀賣新聞』の記者という他者に向って語っているのではない。一枝の語りがはじまる前に、こうした一文があるからである。「用事があつて駒澤の村端の宏壮な邸宅を構へてゐる實兄の越堂畫伯のお宅へ伺つた[。]當の紅吉を訪ふと質素な木綿の絣に束ね髪―歯切れのよい口調で……」。ここから、一枝の語りがはじまるのである。つまり一枝の聞き手役になっているのは、越堂(一枝の父)を実兄にもつ尾竹竹坡か尾竹國觀のいずれかなのである。そうであるならば、この聞き取り記事は、身内による自作自演の記事だったということになる。「小さな学校」から教師が消え、安堵村での生活が破綻し、転地を迫れている状況にありながら、そのことにはいっさい触れないどころか、逆に、それとは反対の、実に平和で誠実な生活の様子を語って記事をつくり、『讀賣新聞』をして掲載させたのは、なぜなのだろうか。そうせざるを得ないところまで追いつめられていたと考えるのが、自然であろう。
 以上のようなことを念頭に置いて、改めて、『讀賣新聞』(1914年10月23日、5頁)の「婚儀を舉ぐる 藝術家と才媛 花嫁は尾竹一枝嬢」の見出し記事を読み返してみると、これもまた、社内の記者が書いた記事ではなく、身内による自作自演の記事だったのではないかという疑念がわく。というのも、四日後に迫った婚礼の儀を予告するというかたちをとりながら、「青鞜の新しい女たる紅吉」の過去が実にうまく消されてしまっているからである。それと同じように、この「よき母=尾竹紅吉さん 愛嬢を連れて上京 奈良の山奥から 昔忘れぬ都に憧れて」の見出し記事においては、近日中に起こることになる東京移転にかかわって、その移転理由の詮索から世間の目を封じ込めようとする気持ちが働いていた可能性がある。つまり、こうした内容の記事を新聞に掲載する意図は、平安な大和での生活ではあったが、そうしたりっぱな生活を打ち捨ててでも、娘たちによりよい教育を受けさせるために、憧れの東京へ再びもどることにした「よき母=尾竹紅吉さん」というイメージを、事の起こる前に、先行して読者のあいだに定着させることだったのではないだろうか。妄想であり邪推にすぎるとの批判を受けるかもしれないが、それでも、そう推断せざるを得ない。なぜならば、この記事の内容と、東京移転の真の理由とが、どうしても結び付かないからである。この記事が掲載されておよそ半月が過ぎた一〇月の半ば、住み慣れた安堵村を離れて、富本憲吉一家は、東京の新天地へ向けて出立する。その第一義的な理由が、子どもの教育にあったのではないことは、本文での詳述のとおりであった。
 なお、「よき母=尾竹紅吉さん 愛嬢を連れて上京 奈良の山奥から 昔忘れぬ都に憧れて」の本文記事の末尾には、次のような訂正文が続いている。「訂正 昨紙掲載の子供を二人連れた婦人の寫眞は本稿尾竹紅吉さん事富本一枝さん母子の寫眞を組違へたのです。尚ほ昨紙『農村にも革命の波が』云々の記事は本稿の續き記事です[。]訂正しておきます。」
 確かに、前日の『讀賣新聞』朝刊の七頁を開くと、「農村にも革命の波が――美しいのは――東京の婦人」という見出しの記事と、陽と陶と一枝の三人の親子が写った写真とが、掲載されている。陽も陶も、ともにおかっぱの髪形をし、着ているワンピースもお揃いである。この時期の貴重な画像といえる。

(114)前掲「東京に住む」『婦人之友』、同頁。