中山修一著作集

著作集11 研究余録――富本一枝の人間像

第一編 富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す

第三章 結婚する前
     ――美しい女の人をみることが非常に心持のよいこと

尾竹一枝が、自分の性に違和感を覚えるようになったのは、いつころからであろうか。正確な年齢まではわからないが、性的指向に関しては、次のような本人の告白が残されている。

私にはちいさな時分から美しい女の人をみることが非常に心持のよいことで、また、大變に好きだつたのです。それで私の今迄の愛の對 ママ になつてゐた人のすべては悉く美しい女ばかりでした。私の愛する人、私の戀しいと思ふ人、そしてまた、私を愛してくれる人、戀してくれる人の皆もやつぱり女の人ばかりでした。

 ですから美しい綺麗な女の人と言へば私に有つてゐそうのないほど非常な注意と異常な見守り方をもつて來てゐました43

これは、一枝が二一歳のときの結婚前の言説であるが、小さいときから自分の性的指向が美しい女性に向かっていたことを、何ひとつ隠すことなく、率直に語っている。

一連の出来事に対して責任をとるかたちで一枝が青鞜社を退社してのち、約一年の月日が流れていた。そして、『青鞜』に「女性間の同性戀愛――エリス――」が掲載されたちょうど一箇月前の一九一四(大正三)年の三月に、絵画作品の売却金を元手に一枝は、『青鞜』の向こうを張って『 番紅花 さふらん 』を立ち上げ、すでに第一巻第一号が刊行されていた。この雑誌には、もはや「紅吉」の名は見当たらない。すべてにおいて実名の「尾竹一枝」が使われている。創刊号に一枝は、「自分の生活」と題した手紙形式の長文を掲載した。

これは、二月一五日の夜に、夏樹から とし ちゃんに宛てて書かれた手紙である。夏樹が、一枝本人であろう。この日の夕刻、俊ちゃんは、怒りをぶつけようと夏樹を訪ねるも、夏樹は来客や雑務に追われていたため、ふたりはほとんど会話を交わすことなく、別れた。この手紙は、俊ちゃんの怒りについての夏樹からの戒めであり、さらには、夏樹が求める愛のかたちを俊ちゃんに伝える内容になっている。俊ちゃんは、自分への愛を棄てて別の人へと走ろうとしている夏樹の遊戯的な愛し方をとがめているのであるが、それに対して夏樹は、かつて同じ心的状況に立たされていたことを告白する。俊ちゃんを知る前のこの一年間、「一人の人にひどく愛されてゐたことがありました……その時分でしたよ、私があなたの心持のようでゐたときは」44。そして、そのときその人はどうであったのかを分析してみせる。

 その一人の人は随分弱つてゐましたよ、今、こうしてその時分の問題があべこべになつて私が愛すと云ふ立場をもつてその問題にぶつかつてみると、その時分私を愛してくれた人の心持があんまりはつきり思ひやられすぎて氣の毒やら恥しいやらで随分心苦しく思つていゐます45

「その時分私を愛してくれた人」とは、おそらく平塚らいてうのことであるにちがいない。らいてうが自分への愛を捨て去って奥村博に愛を見出したとき、その理不尽さを激しく責め立てた自分をいま思い返すにつけて、「随分心苦しく思つていゐ」と懺悔しているのであろう。そして夏樹は、その人がそのとき与えてくれた愛の実態を回想して、こう述べる。「その人はよく葡萄酒を口うつしにしてくれました。あの人の唇から私の幼い唇にそれをそそがうとして私をしつかり抱いてくれたときなんか私は眞赤になりました、そして嬉しくてたまらなかつたものでしたよ」46。夏樹はこれを、「眞當の愛」と当時思っていた。しかし、いまになって思えば、「馬鹿馬鹿しいふざけ方」に映る。そして俊ちゃんが、「私の過去の或る時の行為と同じ色彩をもつた人」47に思えてくる。どうやらここでは、過去における「らいてうと紅吉」の関係が、いまや「夏樹と俊ちゃん」という関係に置き換わって再現されているらしい。違うのは、夏樹は俊ちゃんの疑いのまなざしを、「私は現在に於て特別な愛の交渉をもつてゐるのはあなたより他にたつた一人もありません」48と、きっぱりと否定している点である。一方、H氏については、「あの人をほんとうに好きなん でん ママ です、けれどその人を好きだと云ふ事がすぐ一直線にその人を愛すと云ふことになるでしようか。[あなたは否定するかもしれませんが]私は決してそんな事を考えたこともありません」49と、夏樹はいう。そして夏樹は、こう俊ちゃんに呼びかけるのである。

 俊ちゃん、

私はくりかへして云ふ。

 あなたは、美しい人なんだ、珍しく綺麗な人なんだ、だから普通の女よりも、ずうつとずうつと優しく優しくそしておとなしく平和であつてほしい。私はあなたが優しくそしておとなしくあるとき、どんなにかあなたを可愛いものに思ふだらう、私は眞當に可愛ゆく思つてゐます50

このように、『番紅花』の創刊号で、一枝は「自分の生活」という手紙文をとおして、夏樹と俊ちゃんのあいだの愛の交渉について書いていたのであった。

しかし、『番紅花』の刊行は長くは続かず、全六号で休刊し、この雑誌の表紙絵の依頼などを通じて交流が深まった富本憲吉と、同年一〇月二七日に一枝は結婚する。憲吉は、奈良の安堵村に生まれ、東京美術学校在籍中に英国へ留学、その地で、デザイナーで詩人にして政治活動家でもあったウィリアム・モリスの作品と思想を学び、帰朝したばかりの新進気鋭の工芸家であった。結婚するにあたって憲吉は、一枝にこういった。「アナタが家族をはなれて私の処に来ると思はれるが、私の方でも私は独り私の家族をはなれてアナタの処へ行くので、決して、アナタだけが私の処へ来られるのではない、例へ法律とか概観で、そうでないにしても尾竹にも富本にも未だ属しない、ひとつの新しい家が出来るわけである。そう考へて居て貰ひたい」51。こうしてここに、因習に囚われない一組の「近代の家族」が生まれた。しかしながら、それもつかのまのこと、新婚旅行を終えて、東京に帰ってみると、そこに大きな惨劇が待ち構えていた。

それは、一二月一日発行の『淑女畫報』一二月号に掲載された「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」52という題がつけられた暴露記事によってもたらされた。「深草の人」と名乗る執筆者は、冒頭でまず、「Tさま」に宛てて紅吉の書いたものであろうと思われる手紙の原文を紹介したうえで、「私はこの不思議な手紙、謎の手紙の註解者として、またこの手紙を鍵として彼女の『不思議な過去』不思議な性格、不思議な行為の秘密を語る魔法使いになりませう」と宣言し、それから本論が開始される。書かれてあることを要約的に引用すれば、こうである。「月岡花子嬢こそ、不思議な謎の手紙の主のTさまで、Tは月岡の頭文字なのです……花子嬢が女子美術の生徒であり、紅吉女史も一時女子美術に席を置いたことがあると云ふ関係から、おそらく 知己 ちかづき となり友達になつたと云ふことだけは確かです……紅吉女史は當時『若き燕』と呼ばれた青年畫家奥村博氏の問題から、 らいてう ・・・・ 事平塚明子女史と悲しくも別れなければならない事となり……例の不思議な謎の手紙を花子嬢宛に書いたのでした……それからと云ふもの、二人の仲は親しい友と云ふよりも、その友垣の垣根を越えて、わりなき仲となつたのでした。同性の戀!まア何といふあやしい響きを傳へる言葉でせう」。そして執筆者は、紅吉の結婚と新婚旅行に触れ、こう述べる。「新郎新婦手を携へての新婚旅行!それが新しい女だけに一種の矛盾と滑稽な感じをさへ抱かせます。男性に對する長い間の女性の屈辱的地位、そこから跳ね起きて、あくまでも女性の ママ 放を主張し、男性と等しい權利を獲得し、そして男ならで自立して行くと云ふ所に新しい女の立場があるのです。然しながら我が新しい女の 典型 タイプ とも見られてゐた尾竹紅吉女史は若き意匠畫家富本憲吉氏と共に、目下手に手を携へて北陸地方に睦まじい新婚の旅をつゞけて居ます」。さらに執筆者は、この結婚の陰に隠れて涙を流している、もうひとりの別の若い女性がいるというのである。「やがてその次にあらはれたのが大川茂子といふやはり女子美術の洋畫部の生徒でした。茂子嬢と紅吉女史との戀……は花子嬢のそれと比べてはなかなかにまさるとも劣ることない程の強く深く切ないものでありました……悲しい戀の犠牲者、茂子嬢は今はどうして居るでせう?……紅吉女史と富本氏との今日此頃の關係を茂子嬢はどんな氣持できいて居るでせう?私は紅吉女史の新生活を祝福すると共に、あえかにして美しい茂子嬢の生涯に幸多きことを祈つて居ります」。

他方この記事のなかで、注目されてよいのは、紅吉のセクシュアリティーに関して記述されている箇所であろう。「紅吉女史は女か男か」という見出し語に続けて、このように描写されている。

 紅吉女史は女か男か?この質問ほど世に笑ふべき、馬鹿らしい、不思議な質問はありません。然しそれ程紅吉といふ女は不思議な女とされてゐるのです。彼女は勿論女である、而も立派な女性であることは争はれない事實です。然し彼女の一面に男性的なところのあるのも事實です。先づ第一にその體格の如何にもがつしりとして、あくまでも身長の高い所に『男のやうだ。』と云ふ感じが起ります。セルの袴に男ものゝ駒下駄を穿いて、腰に印籠などぶら下げながら、横行闊歩する所に、『まるで男だ。』と云ふ感じが起ります。太い聲で聲高に語るところ、聲高に笑ふところ、其處にやさしい女らしさと云ふ點は少しも見出すことは出來ません。男のやうに女性を愛するところ、その女性の前に立つて男のやうに振舞ふところ、それは彼女が愛する女と楽しい食卓に就いた時のあらゆる態度で分ると云つた女がありました。甘い夜の眠りに入る前に男のやうに脱ぎ棄てた彼女の着物を、彼女を愛する女が、さながらいとしい女房のやうにいそいそと畳んだと云ふことを聞いたこともありました。

 實際彼女は男のやうに我儘で、男のやうにさつぱりとして、男のやうに無邪氣で粗野な一面を持つてゐるのです。それがやがて彼女を子供のやうだとも云はしめ、新しい女といふ皮肉な名稱を彼女に與へた動機ともなつてゐるのです。そしてまた彼女が同性を惹き付ける點もおそらく其處にあるのです。

この記事の記述内容が真実であるとするならば、ほぼ間違いなく、紅吉はレズビアン(女性間の同性愛者)ではなく、肉体的には女性であるも心的には男性を自認するトランスジェンダーであったということになる。そしてまた、性的欲望や恋愛感情が女性へと向かう性的指向を示していることから判断して、紅吉のその愛は、同性愛ではなく、異性愛だったということになるであろう。

さらにこの記事の重要なところは、「新しい女」という名称が紅吉に付与された動機として、「男のやうに我儘で、男のやうにさつぱりとして、男のやうに無邪氣で粗野な一面を持つてゐる」点を挙げて、指摘していることであろう。つまり、紅吉に対して世間が「新しい女」と呼ぶのは、この記事の指摘に従うならば、高踏的な理想や革新的な思想を主張し、旧い因習を打破しようとする、これまでに存在することのなかった女という意味においてではなく、体格や衣装、あるいは発話や振る舞いがいかにも男性的であり、これまでに見受けられた伝統的な女性とは異なる女という意味においてなのである。記事が含意するところを換言すれば、こうして紅吉の心的男性性が、性的に女性を惹きつけただけではなく、世間をも関心の輪に巻き込み、「新しい女」という、ある意味で蔑称に近い呼び名を紅吉に用意したということになろうか。

その一方で、この記事には、結婚式での両家の集合写真だけではなく、紅吉のものであると思われる手紙の一節、月岡花子その人、ふたりの弟妹と一緒の七歳のときの紅吉、書斎のなかの紅吉などの写真までもが掲載され、また、同誌同号の別の箇所には、「問題の婦人尾竹紅吉女史の花嫁姿」(目次表題)と題した写真も見ることができる。こうしたことからして、この記事は、必ずしも「深草の人」単独のものではなく、その執筆の過程において、何か、紅吉かその家族による情報の提供、あるいは別の第三者によるある種の関与があったのではないかとの疑いも残る。しかしいずれにしても、この記事に描かれている内容の真偽は、当事者のみが知りえることであり、闇のなかにある。とはいえ、大変皮肉にも、真実としていえることは、「若き意匠畫家富本憲吉氏」と「問題の婦人尾竹紅吉女史」の結婚は、こうした暴露記事をとおして世間に披露されたことであった。さらに、この記事の内容が真実であるとするならば、結婚に至るまでのこの時期の一枝は、一方で月岡花子や大川茂子と親密な関係をもちながらも、その一方で憲吉とは結婚話を進めていたことになる。

憲吉は、結婚に先立つ九月一日に、美術店田中屋に「富本憲吉氏圖案事務所」を開設し、図案家(デザイナー)として活動を開始していたにもかかわらず、一〇月二七日に結婚式を挙げると、翌年(一九一五年)の三月初旬に、この夫婦は、憲吉の生まれ故郷である奈良の安堵村へ移転する。しかしこれまでの研究にあっては、移転の理由を示す、証拠となる資料が存在しないため、それを適切に跡づけることができず、一種の謎となっていた。そこで、以下の記述は明確な証拠に基づくものではないが、この雑誌記事と安堵村帰還とを絡めて、ここで少し推量を加えてみたいと思う。

おそらくこの記事を受けて、憲吉と一枝は、今後のふたりの生活が支障なく成り立つのかどうかについて、意見を交わしたものと思われる。このとき一枝は、小さいころから自分の身体の性に違和感を覚え、心のなかでは自己の性を「男」と思い、美しい女の人に恋愛感情を抱く性的指向が自分に内在していることについて、より詳しく憲吉にカミング・アウトしたにちがいない。そして、ともにふたりは、一枝から「同性の愛」が取り除かれない限り、愛情に満ちた結婚生活は決して訪れることはないだろうという見解に達したものと考えられる。どうすれば、「同性の愛」を捨て去ることができるのか――。すでに紹介したように、一九一一(明治四四)年一一月の『新婦人』(第一年第八号)に掲載された「女性間に於ける同性の愛」において、著者である大阪高等醫學校敎諭の田中祐吉は、「此頃吾邦でも、女學生間に同性の愛の流行するに就ては敎育家が之を撲滅するに内々に苦心してゐるといふ噂を聞たが、併し之を豫防撲滅する方法手段の頗る困難なることは今更言うまでもない……醫學上倫理上より其の背天非倫の行為であることを説明するにしても、青春妙齢の女學生に向て明らかに説き示すことは中々至難の業である……要するに同性の愛を豫防撲滅する方法は女性其者の品性徳操の涵養に待つより他はあるまいと思ふ」と、書いていた。「女性其者の品性徳操の涵養」という、あまりにも消極的な結論であったかもしれないが、しかしこれが、「同性の愛を豫防撲滅する方法」に関しての当時の最新の知識であったであろう。しかし、憲吉と一枝は、話し合いの結果、一歩考えを前に進め、より積極的な対処方法にたどり着いたものと推測される。それは、一種の転地による療法であった。このまま東京に住み続ければ、美しい女性と触れ合う機会も多いが、人の少ない寒村へ住まいを移せば、美しい女性との出会いは、それだけ減少する可能性がある。そこでふたりが決断したのが、憲吉の生地である大和の安堵村への転居だったのではないだろうか。もっとも一枝は、それに先立って、結婚をするそのこと自体によって、事前に「同性の愛」を自らの意思で断ち切ろうとした可能性も排除できない。

少し振り返ってみると、正式に一枝に求婚する少し前の七月二日に、憲吉は安堵村から東京の一枝に宛てて、次のような手紙53を書き送っていた。何度会っても、まだまだ伝え足りないものが、憲吉の胸に残っていたようである。

人々がする様な手紙の上での空論を止めて何うか直接に遇って話して見たい(オープンリーに)と、最初五月にお遇ひした時から考へて居ましたが、御説の通り幾度お目にかゝっても云ひ残した様な感じがします。

ふたりにとって安心の地はどこだったのだろうか、大和、それとも東京――。両者の考えに溝があった。それにしても、『番紅花』を創刊したばかりの一枝に、どうして「東京を去る必要がある」のであろうか。一枝は『番紅花』の創刊号に、「自分の生活」(手紙)以外にも、「私の命」他一編(詩)と「夜の葡萄樹の蔭に」他二編(詩)を寄稿していた。そのなかの複数の作品から読み取れるように、本当に一枝は、「悲しきうたひ手」が唄う喧騒の東京における過去の世界から逃れ、未来の「私の命」を、大和の牧歌的な田園に求めようとしていたのであろうか。それには、自分のセクシュアリティーとの何がしかの関連が、ひょっとしたら隠されていたのかもしれない。

兎に角、今の処では大和をにげ出すことです。にげ出す様な処に来られても、仕様がないでしょう。

あなたの方では東京を去る必要がある、その事も私にはよく解りますが、私も、大和を出たい。

憲吉は、「あなたの方では東京を去る必要がある、その事も私にはよく解ります」といっている。ということは、この間に会ったときの会話をとおして、そしてまた、この年の三月の『番紅花』に一枝が書いていた「自分の生活」や四月の『青鞜』に掲載された「女性間の同性戀愛――エリス――」を読んだりして、憲吉は一枝の特異なセクシュアリティーについて、ある程度理解を示していたのかもしれなかった。続けて憲吉は、東京でのこれからの新しい計画を打ち明ける。これは、九月一日から美術店田中屋内に開設を予定している「富本憲吉氏圖案事務所」のことで、「東京であって東京で無い」ここで、一緒に仕事をすることを一枝に提案するのである。明らかに憲吉は、一枝に対して、結婚後の住む場所について配慮を示している。

事務所は真に独立した完全な意味の ルーム ですから、其処で仕事されたらば、東京であって東京で無い様なものです。私は其処に行けばロンドンに行ったつもりで、食事から何から一切その様にするつもりです……只心を落ちつけて私の新計画に幾分の御助力あらむ事を祈ります。

最後に追伸として、「鹿沢温泉に四、五日中に行き、九月一日頃より東京の生活を初める」と、その手紙には書き記してあった。

求婚は、この鹿沢温泉滞在中の出来事であった。しかし、それに先立って憲吉から一枝に宛てて出されていた、上で紹介した手紙の内容から明らかなように、結婚する以前から、つまり暴露記事が世に出る前から、憲吉は、家族との関係がうまくいっていない大和を抜け出して東京に出たいとの思いを強くし、他方一枝はその逆で、東京を抜け出して田園生活を送ることに強い願望を抱いていた。そう時間を要すこともなく、話はまとまったものと思われる。もっともその結果、憲吉には、開設したばかりの活動の拠点である「富本憲吉氏圖案事務所」をたたむという大きな犠牲が伴うことになったし、さらには、家族との軋轢の再来を考えると、安堵村帰還には、大きな精神的負担もまた、影のように付着していたものと推量される。九月の「富本憲吉氏圖案事務所」の開設、一〇月の結婚、そして一二月の暴露記事――これから数えてわずか三箇月後、年が明けた一九一五(大正四)年の三月の初旬、突如として東京を離れ、安堵村への転居が決行された。一枝のお腹には、新しい生命が胎動しはじめていた。

(43)尾竹一枝「Cの競争者」『番紅花』第1巻第3号、1914年5月、107頁。

(44)尾竹一枝「自分の生活」『番紅花』第1巻第1号、1914年3月、193-194頁。

(45)同「自分の生活」『番紅花』、194頁。

(46)同「自分の生活」『番紅花』、195頁。

(47)同「自分の生活」『番紅花』、197頁。

(48)同「自分の生活」『番紅花』、200頁。

(49)同「自分の生活」『番紅花』、202頁。

(50)同「自分の生活」『番紅花』、207頁。

(51)山本茂雄「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」『陶芸四季』第5号、画文堂、1981年、75頁。

(52)「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」『淑女畫報』第3巻第13号、1914年12月、32-39頁。
 富本憲吉と尾竹一枝の結婚については、『讀賣新聞』(1914年10月23日、5頁)も、「婚儀を舉ぐる 藝術家と才媛 花嫁は尾竹一枝嬢」の見出しでもって報じているが、その内容は、『淑女畫報』の「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」とは大きく異なっており、また文体も、敬語調の表現となっている。とりわけ興味を引くのは、あれだけ世間を騒がせた、青鞜時代の「らいてうとの恋」も、「五色の酒」や「吉原登楼」についても、いっさい触れられていないことである。「世の中の無責任なる批評の爲め誤解を傳へられた事もありますが」という文言のなかに、それらのことが暗に含まれているのかもしれないが、いくら婚儀予告の報道とはいえ、あまりにも美辞麗句が多用された記事になっているといわざるを得ないし、加えて、なぜ「青鞜」の二文字も「新しい女」の四文字も、文面にその姿が現われないのか、疑問さえ残る。この記事だけを読む限りでは、「青鞜の新しい女たる紅吉」は存在しなかったことになる。
 そして、さらにいうならば、一年半前の『讀賣新聞』(1913年4月8日、3頁)は、「紅吉の畫が賣れる――三百圓で花魁身受の噂」という見出し記事で、「所が幸運な事には、その畫は[出品された巽畫会の]開會間も無く物好きな福島於菟吉氏が買取つたので、紅吉はホクホクもの、サテ其の三百圓は何うなるかのかと云へば、今度紅吉が出す雜誌の保證金に充てるのださうだ、花魁身受なぞと評判を立てゝ置いて、蔭でペロリと舌を出す紅吉も女ながら人が悪い」と書いていた。読み比べてみるとすぐにわかるように、同じ新聞社の記事であるにもかかわらず、「紅吉」を取り扱う記述の調子において、このふたつの記事には大きな落差が見受けられるのである。なぜなのであろうか。このように、この記事には多くの不自然さがつきまとう。しかしながら、その理由までは実証できず、現時点では憶測するしかない。この記事の全文は、以下のとおりである。
 「日本畫家として兄弟三人揃つて聲名を馳せらるゝ尾竹氏一家の長兄越堂氏の令嬢で一枝樣は圖案及び工藝美術を以て知られたる富本憲吉氏と婚約成り。來る廿七日華燭の典を舉げ午後五時より築地精養軒にて披露の宴を開き、直樣北陸へ向けて新婚旅行をなさるさうです。新婦の君は、两親が、昔流のこせこせした敎育法を避けて、大きい人間になれよ、世に優れた才能を磨けよと勵まされて、身も心ものんびりと、自由に幸福に生い立たれ、大阪夕陽ケ丘高等女學校卒業後東京の叔父君の許に繪を學ぶ傍、紅吉と云ふ雅號を以て興味の赴くまゝ筆を執り、或は自ら雜誌を起されました。世の中の無責任なる批評の爲め誤解を傳へられた事もありますが、よく識れる人々は、いずれも無邪氣で、眞直な其性質を賞めて居ります 新郎は大和の人、曾て歐洲に遊んで歸朝後、獨創の製作や意見を屡々世に現し、理解ある人々から前途に多くの望みを囑さるゝ青年藝術家です 两氏を識る友人達は、何れもこの實質ある眞面目なる、世にも似合はしい結婚を稱へ、斯くして結ばれた同伴者が、互に勵まし、慰めあつて、尊き事業を成されんことを待ち望んで居られます。」
 その一方において、この雑誌記事(「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」『淑女畫報』第3巻第13号、1914年12月)の重要なところは、憲吉と一枝の結婚式当日の写真が掲載されていることである。平塚らいてうは、自伝のなかで、「やがて紅吉は富本憲吉氏と大正三年 一一 ママ 月電光石火的な早さで結婚してしまいました。習俗に殉じたようなその振袖、高島田姿の写真に、私はあきれるだけでなく、紅吉にかけた期待が大きかっただけ、失望をさらに新たにしました」(平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった②』大月書店、1992年、125頁)と、書いている。らいてうが見た紅吉(一枝)の「習俗に殉じたようなその振袖、高島田姿の写真」とは、間違いなく、この記事のなかに見出される図版写真(目次の表題は「問題の婦人尾竹紅吉女史の花嫁姿」)のことなのではないだろうか。この写真を見たらいてうは、「失望をさらに新たにしました」と吐露しているが、おそらくは、旧来の婚姻制度を踏襲した結婚の形式だっただけではなく、さらには、婚礼に際して伝統的に花嫁が用いる衣装や容姿だったことのなかに、紅吉(一枝)の別の本性を新たに見出し、そのことに起因してらいてうは、こうした発話をしているのであろう。というのも、らいてう自身、この年(一九一四年)の『青鞜』二月号掲載の「獨立するに就いて兩親に」のなかで、「私は現行の結婚制度に不満足な以上、そんな制度に從ひ、そんな法律によつて是認して貰ふやうな結婚はしたくないのです。私は夫だの妻だのといふ名だけにでもたまらない程の反感を有つて居ります……戀愛のある男女が一つ家に住むといふことほど當前のことはなく、ふたりの間にさえ極められてあれば形式的な結婚などはどうでもかまふまいと思ひます」(らいてう「獨立するに就いて兩親に」『青鞜』第4巻第2号、1914年、115頁)と書き、奥村博との共同生活を宣言していたからである。
 この写真は、らいてうをして驚きと失望へと導いた。確かに、青鞜のなかにあって自由奔放に振る舞った「新しい女」という一側面と、育った家庭から受け継いだ習俗に殉じる「旧い女」という一側面との、紅吉(一枝)固有の二面性を象徴しているように読める。この相対する両極性が、さらには境界なき分割されたセクシュアリティーと複雑にも絡み合って、結婚後の一枝の闇のごとき底知れぬ悲痛を形成してゆくのである。

(53)前掲「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」『陶芸四季』、74頁。