中山修一著作集

著作集11 研究余録――富本一枝の人間像

第一編 富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す

第六章 東京に住む
     ――ひとりで祖師谷に行ってはいけないよ

一九二七(昭和二)年一月刊行の『婦人之友』(第二一巻第一号)を開くと、平塚らいてうの「砧村に建てた私たちの家」と富本一枝が書いた「東京に住む」が偶然にも一緒に掲載されている。らいてうは、一九一一(明治四四)年に『青鞜』を発刊して以降、婦人運動の分野で積極的に行動し、常に世間からの注目を浴びていたし、手紙のやり取りや安堵村訪問を通じて、しばらく途絶えていた一枝との交流も、再開されていた。

らいてうは、長女の 曙生 あけみ を一九二三(大正一二)年の春に、長男の 敦史 あつぶみ を翌年の春に、牛込原町の成城中学校の敷地内にあった成城小学校に入学させていた。校長が沢柳政太郎で、主事が小原国芳であった。その小学校が、一九二五(大正一四)年に牛込から きぬた 村に移ることになり、それにあわせて、らいてう一家は、この地に家を建てたのであった。らいてうはこう回想する。「当時の砧村は、高台一帯が赤松林と草っ原で、萩や芒や葛などが生い茂る、文字どおりの草分けの地でした。番地こそあっても、あたりは野原のなかの一軒家で、小田急の成城学園駅は……家の窓からプラット・ホームと改札口が一目で見渡せます」115

一枝の娘の陽と陶も、成城学園へ転入した。陽と同学年だった井上美子は、後年『私たちの成城物語』のなかで、このように振り返っている。「富本家は、昭和二年に小田急線が開通する一年近く前、郷里の大和安堵村から家族とともに上京、窯を祖師谷の丘に築く準備をされた。住居と窯ができ上るまでのしばらく、高田馬場の線路の近くに仮住居があった。長女陽、次女の陶の姉妹が成城学園に入学、目白に家があった私とは、毎日電車の時間を決めて一緒に通学していた」116。いよいよ新居が完成し、富本一家は、高田馬場の借家から千歳村へと引っ越した。建築地は、「東京市外北多摩郡千歳村下祖師谷八三五」であった。井上美子の回想はさらに続く。「小田急線開通の晩夏、昭和二年にわが家が建ったのと同じころ、富本家の新居と窯も完全に完成して北側の奥、成城田んぼの突き当たりの丘に移られた。その年生まれた壮吉君と、一家は五人に増えていた。陽ちゃんと私もこの年の三月小学校を卒業して女学校一年となった」117。小田急線が開通したのも、成城学園女学校が創設されたのも、この一九二七(昭和二)年の春のことであった。

中江百合子と三人の息子たちは、らいてう一家や富本家よりも一足先に成城の地に引っ越してきており、借家住まいをしていた。のちに三男の昭男は、同じくこの時期の成城への移住者であった植村家の娘の泰子と結婚する。こうして中江家の嫁となった泰子は、さらにそののちに執筆する井上美子との共著の『私たちの成城物語』のなかで、そのころの様子について、このように語っている。「中江家が借家住まいをやめて、いよいよこの地に土地を買い求め家の新築に取りかかることにしたのは、私が成城小学校に入学したころである。まだまだ空き地は沢山あったが、舅が決めたのは成城もはずれの雑木林と竹藪の二千坪ほどの土地……田んぼをはさんで祖師谷寄りの高台には、手を振れば見える距離に大和の安堵村から上京された富本憲吉氏の家がある」118

このように、この時期の成城地区は、雑木林と田畑に囲まれた武蔵野の面影がいまなお残る自然環境を背景として、成城学園の移転や小田急線の開設に伴いながら、新しい文化人村としてその姿を現わそうとしていたのであった。

千歳村での新生活がはじまって一年が過ぎようとしていたころ、長谷川時雨が主宰する『女人藝術』の創刊が進められていた。創刊にあたって長谷川は、かつての『青鞜』の社員にも、協力を求めたものと思われる。神近市子はこう振り返る。「世田谷のボロ家に、ある日、長谷川時雨女史が生田花世女史を伴って来訪され、婦人が作品を発表するための文芸雑誌をつくりたいが協力してくれないか、といわれた。私には『青鞜』や『番紅花』の思い出や経験があり、一も二もなく賛成した」119。さらに続けて神近は、この『女人藝術』を次のように振り返る。「『女人芸術』は、昭和三年七月に創刊された。編集会議は長谷川女史のお宅で開かれ、資金面は夫君の三上於菟吉氏がカバーしてくれた。当時の婦人文筆家で、この雑誌に執筆しない人はないだろう。表紙も絵も女流画家に依頼し、創刊号の巻頭写真にはソ連に旅行中の中条(宮本)百合子の近影が選ばれた。私は山川菊栄女史といっしょに、主として評論を書いた。林芙美子が『放浪記』を連載して一躍流行作家の列に入り、上田(円地)文子が戯曲『晩春騒夜』を発表して小山内薫に認められたのもこの『女人芸術』である。この雑誌では、上記の人々のほかに生田花世、岡田禎子、板垣直子、大田洋子、中本たか子、矢田津世子、真杉静枝らが活躍した」120

まだ一歳半にしかならない小さな壮吉を抱えながらも、一枝もまた、この雑誌の創刊に協力したにちがいない。そしてそれ以降、関係方面への運動資金の提供容疑で検挙されるまでの約五年間、『女人藝術』以外にも、『火の鳥』や『婦人公論』において、短編の小説や評論文を発表した。また、『婦人画報』に目を向けると、一枝が関係した座談会形式の記事が掲載されている。一方、『東京朝日新聞』へは書評を寄稿し、「女性のための批判」というコラムも担当した121

安堵村にいるときは、一枝は、自分のセクシュアリティーについての苦悩について書き、その一方で、それをいやすかのように自然の美しさや子どもの純真さをたたえる文を書き、加えて小説「貧しき隣人」や「鮒」を執筆していた。しかし、千歳村に移ると、そうした傾向の文章は影を潜め、時代の潮流に乗るかのように、徐々にプロレタリア文学に惹かれていった。

一九三三(昭和八)年八月一三日の『週刊婦女新聞』の「富本一枝女史檢擧――警視廰に留置、転向を誓ふ」という見出し記事によると、一枝の検挙の理由は、「湯浅女史を中心とする女流作家の左翼グループの一員として約百圓の資金を提供した事」であった。この記事を読む限りでは、確かに、執筆活動やその他の支援活動は、検挙の主たる理由とはなっていないが、同年八月一九日の『讀賣新聞』には、「すべてを認めたうへ従來の行動一切の清算を誓約した」と書かれている。そこで、参考までに、検挙に至るまでの一枝の主だった「従來の行動」について、ここで少し描写しておきたいと思う。

東京に移転してのちの一枝は、徐々にプロレタリア文学に傾倒してゆく。一九二九(昭和四)年七月号の『女人藝術』に寄稿した「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」は、マルクス主義へ足を踏み入れてみたいという誘惑に駆られながらも、躊躇して思いとどまるという、いまだ思想的に混乱した一枝の心的風景を描写した最初期の作品であった。次の一九三〇(昭和五)年九月号の『火の鳥』に掲載された短編小説の「米を量る」は、当時プロレタリア作家に求められていた生活感や社会観が直接的に投影された生硬な内容となっていたし、同年一一月号の『婦人公論』掲載の批評文「共同炊事について」も、「米を量る」と同じく、幾分表層的な認識に止まり、社会革命と同時に家庭革命が必然的に起きることを前提に、解放された婦人による共同炊事が近づいていることを楽観的に展望するものとなっていた。次の年の一九三一(昭和六)年に一枝が発表した作品は、『火の鳥』四月号に寄稿した短編小説「哀れな男」と『女人藝術』七月号に掲載された批評文「女人藝術よ、後れたる前衛になるな」の二編であったが、明らかにどちらも、さらに色濃くマルクス主義的な思想傾向が全面に出ていた。

一枝のマルクス主義の「階級的視点」から書かれた小説や批評文は、以上に紹介した五編が、おそらくそのすべてであったと思われる。そして、一九三一(昭和六)年七月号の『女人藝術』に掲載された批評文「女人藝術よ、後れたる前衛になるな」が潮目となって、これ以降、検挙されるまでの約二年間に書いたものは、すべて座談会形式での発言か、新聞紙上の書評ないしは短いコラム記事で、明白な思想的な観点に立って構成された本格的な小説あるいは批評文の執筆から一枝は完全に距離を置くことになる。どのような理由によるものか、それはよくわからない。官憲によるマルクス主義への弾圧を恐れた結果だったのかもしれないし、あるいは、自らの文学的ないしは思想的能力を確信することができない表われだったのかもしれない。

そうしたなか、一九三〇(昭和五)年一月、高群逸枝は平塚らいてうとともに無産婦人芸術連盟を結成した。らいてうは、そのときの様子を、自伝『元始、女性は太陽であった③』のなかで、こう回顧する。

 昭和五年に、わたくしは高群逸枝さんの呼びかけをうけて、高群さんを中心にして結成された「無産婦人芸術連盟」のメンバーに加わりました。……その機関誌として、雑誌「婦人戦線」第一号が、この年の三月号から刊行されました。……無産婦人連盟の綱領は、次のようなものでした。

一 われらは強権主義を排し自治社会の実現を期す。標語 強権主義否定!

二 われらは男性専制の日常的事実の曝露清算を以て、一般婦人を社会的自覚にまで機縁するための現実的戦術とする。標語 男性清算!

三 われらは新文化建設および新社会発展のために、女性の立場より新思想新問題を提出する義務を感ずる。標語 女性新生!

 そのころ――いいえ、その後も終始、高群逸枝さんほど、わたくしを惹きつけたひとはありません。ただ、もう無性に好きなひとでした122

このときらいてうは、高群のもつ人間としての情熱の豊かさ、感情表現の自由さに魅了された。それは、青鞜時代の紅吉(一枝)がもっていた魅力と、どこか通底するところがあった。らいてうは、続けてこう書く。

 高群さんを発見したよろこびのあまり、そのころわたくしが手紙形式で描いた文章――それは名前は出していませんが、宛名に富本一枝さんを想定したものでした――のなかで、こんなふうに言っています。

 「わたしはまあなんと高群さんを知ることが遅すぎたのでせう。この国に、しかも同性の中にかういふ人がゐられたとは。わたしの心はまるで久しく求めて、求めて求め得なかった姉妹を今こそ見出したやうな大きな悦びに波打ってゐます。そしてそれはどうやら十数年前、あなたをはじめて知った時のわたしのあの悦びと好奇心とにどこか似通うもののあるのを感じます。……」123

らいてうは、ここではっきりと、青鞜時代に「あなたをはじめて知った時のわたしのあの悦びと好奇心」に触れ、それがいまや高群に向っていることを告白する。振り返ると、当時紅吉(一枝)は、新聞記者の質問に答えて、こういっている。

紅「煤煙を通じて平塚の性格をみますと或る微妙な點が私と似通つたところがあるのです、世間の人から見ると一寸不思議に思へるやうな興味を持つてゐるやうですから會つて見ると果たしてさうでした」

記「その興味といふのは例へばドンナものです」

紅「それは今は言へません、私は子供の時分から面白い氣分を持つてゐますが夫れは自ら獨り樂しむ氣分であつて決して口に出して話す氣分ではないのです、死ぬる時に遺言状の中には書くかしれませんが」124

ここで注目すべきことは、紅吉は、らいてうが、自分と似通った、「世間の人から見ると一寸不思議に思へるやうな興味を持つてゐる」ことをはっきりと見抜いていることである。そして自分については、「子供の時分から面白い氣分を持つてゐます」という。らいてうに備わる「興味」と紅吉が有する「面白い氣分」――これは、性に対する同質の心的認識が両者に存在していることを指しているのではないだろうか。十分な証拠がないままの、少々独断的な見立てになるかもしれないが、らいてうにも、紅吉と同じように、身体的には女でありながらも、心の性としては、極めてあいまいながら、十割とはいわないまでも数割程度は「男」を自認していたのではあるまいか。もしこの判断が正しいければ、らいてうと紅吉のあいだには、性自認における「男」同士の恋愛関係、つまりは、疑似的男色の関係が成立していたことになる。つまりこの場合、外見的には「女性間の同性愛」に見えても、実質においては、「男性間の同性愛」に近いものが発現されていた可能性が残る。そのように考えてゆくと、一枝の性的指向には、性自認を「女」とする女性へ向けられる性愛の場合と、性自認を「男」とする女性へ向けられる性愛の場合とのふたつの方向性が混在していたことになる。前者が、小林信、横田文子、大谷藤子のような人たちとのあいだにみられるもので、一枝の性自認の観点に立てば「異性愛」の関係になるであろうし、他方後者が、平塚らいてう、深尾須磨子、軽部清子のような人たちとのあいだにみられるもので、一枝の性自認の観点に立てば「同性愛」の関係になるであろうか。もっとも、実際の性自認や性的指向というものは、このように安易に類型化できるものではなく、そのときの状況に応じて複雑で越境的な動きをするのかもしれないのではあるが。

「無産婦人芸術連盟」の結成にかかわった高群逸枝とは別に、当時、無産婦人の労働者としての意識を覚醒させる教育と組織つくりとに携わっていた帯刀貞代は、一枝との出会いを次のように振り返る。

 私が富本さんにはじめておめにかかったのは、昭和のはじめだった。そのころ私は江東の亀戸で、女子労働者のためのささやかな塾をひらいていて、富本さんは神近市子さんを誘って、そこをみにこられたのだった。

 そのつぎのあざやかな記憶は、昭和大恐慌のさなかで、塾にきていた女子労働者たちの六十日にわたる合理化・工場閉鎖とのたたかいが惨敗したあと、こんどは、こちらから富本さんをお訪ねしたときのことである。……まだそのころ丘の上にただ一軒しかなかった富本さんの家は、空気も樹木も、花の色もキラキラ輝いてみえた。それいご四十年ちかく、病弱な私は言葉につくせないお世話になった125

一九三一(昭和六)年四月のある夜のことであった。前年の七月に、当時の共産党中央委員会の命令のもと非公然とソ連に渡り、モスクワで開かれたプロフィンテルン(労働組合国際組織)の第五回大会に出席したのち、党の事情でそっとこの二月に日本に帰ってきていた蔵原惟人が、村山 籌子 かずこ の案内で、畑のなかの暗い道を通って密かに富本家を訪れた。蔵原は、当時の日本にあってプロレタリア文化運動を理論面で支える中心的な人物であった。一方、蔵原を富本宅へ案内した村山籌子は、舞台芸術の演出家の村山知義の妻であり、当時童話作家で詩人として活躍していた。おそらく『女人藝術』を通じて、一枝と籌子は親しくなっていたのであろう。もっとも、籌子の最初の富本夫妻との出会いは、羽仁もと子が園長を務める自由学園高等科の一期生として関西へ卒業旅行に出かけたおりに、安堵村の富本家を訪問したときのことであった。蔵原は約一箇月間、富本家にかくまわれた。後年、そのときの様子を、こう回想する。「富本さん夫婦は心よく私を迎えいれ、とくに私のためにお嬢さんの使っていた一室をあけて下さった」126。さらに蔵原が回想するところによると、帯刀貞代が「数日間この家に泊まっていた。……私は警戒する必要はなかった。しかし貞代さんは『あまり長居をすると御迷惑をかけるから』といって帰っていかれた」127。滞在の目的は、闘争敗北の報告だったのであろうか。あるいは、闘争後の心身の疲れを回復させるための滞在だったのかもしれない。

村山知義の二度目の収監が、一九三二(昭和七)年の二月で、蔵原惟人が獄窓の人になるのが、同年の七月のことであった。そして、次の年(一九三三年)の二月二〇日に、今度は小林多喜二が逮捕され、同日、拷問により死亡する。当時のプロレタリア文化運動にとって、最大の受難の時代であった。

この時期一枝は、『東京朝日新聞』において書評を書き、「女性のための批判」というコラムも担当した。書評としては、一九三三(昭和八)年三月二五日に、文化学院教授の河崎なつの『新女性讀本』(文藝春秋社)をとり上げている。「女性のための批判」というコラムには、続く五月八日に「轉落の資格 毒煙と三井と三菱と」を、五月一五日に「心を打たれた二つの悲惨事」を、五月二二日に「膽のすわり 犯罪にも明朗性」を、五月二九日に「生活苦諸相 生きるための罪々」を、そして六月五日に最後となる「男爵夫人 馬鹿さを持つ女性」を書いた。

それからちょうど二箇月後の八月五日、官憲の手により一枝は連行される。一九三三(昭和八)年八月一三日の『週刊婦女新聞』は、「富本一枝女史檢擧――警視廰に留置、転向を誓ふ」という見出しをつけて、次のように報じた。

青鞜社時代の新婦人として尾竹紅吉の名で賈つた現在女流評論家であり美術陶器製作家富本憲吉氏夫人富本一枝女史は過日來夫君と軽井澤に避暑中の處、去る五日單身歸京した所を警視廰特高課野中警部に連行され留置取調べを受けてゐるが、女史は先週本欄報道の女流作家湯浅芳子氏と交流關係ある所から、湯浅女史を中心とする女流作家の左翼グループの一員として約百圓の資金を提供した事が暴露したもので、富本女史は野中警部の取調べに對して去る七日過去を清算轉向する事を誓つたと128

一枝と湯浅芳子が、面識をもつようになったのは、ほぼ間違いなく『女人藝術』を通じてのことであったろうと思われる。当時、『女人藝術』は、文学を志す女たちのマルクス主義を介する人間関係の構築の場となっていたようである。一枝と湯浅のふたりが運動資金を巡ってどのような政治的友好関係にあったのか、さらには、ふたりに共通していたであろうセクシュアリティーの問題について、両人がどう胸を開いて語っていたのか、資料上何もわからない。その一方で、この時期一枝が教会に通うことを示す資料も残されていない。当時の思想上の関心が教会を遠ざけてしまったのか、あるいは、宗教では自分の心的問題は解決されえないことを悟ったために足が遠のいてしまったのか、その理由に関してもまた、想像するしかほかない。いずれにせよ、固く誓って禁じていた、美しくて才能ある女性へ向かう関心が、このころから再燃するのである。つまりは、『女人藝術』は、マルクス主義に立って人間の解放と改革を目指す文学への確信を一枝に芽生えさせる土壌になっただけではなく、その一方で、大変皮肉なことに、女性が多く集まる空間だったがゆえに、一枝が抱えるセクシュアリティーの問題を結果的に誘発する場ともなったのであった。

『女人藝術』を主宰し、引き続き『輝ク』の刊行に尽力した長谷川時雨が、一九四一(昭和一六)年八月に亡くなった。その後、近代文学研究者の尾形明子は、『女人藝術』を調査するうえから、この雑誌の編集に携わっていた熱田優子に聞き取りを行なう機会をもった。以下は、尾形が聞き書きした、一枝に関する熱田の発話内容である。

すらっとしていたけれど筋肉質でしっかりした体型でね。芸術家の奥さんというより、富本さん自身が芸術家。着物をきりっと粋に着こなしていて、感性が鋭くて趣味もよかった。……女の人が好きで、横田文子がかわいがられていたわね。それで長谷川さん、私たちにひとりで祖師谷に行ってはいけないよって言っていたけど、大谷藤子さんも親しかったのではないかしら129

上の発話内容は、熱田と尾形のふたりが伝達者として中間に入っており、いわゆる「伝言ゲーム」の危険性が全くないわけではないが、それでも、もし長谷川が、「ひとりで[一枝の自宅のある]祖師谷に行ってはいけないよ」といって、生前に周囲の人間に注意を促していたことが本当に事実であるとするならば、一枝のセクシュアリティーは、すでに「公然の秘密」となっていただけではなく、美貌と才能をもつ女性にとっては、「危険な存在」になっていた可能性さえ残る。

前章においてすでに引用のかたちで紹介しているように、確かに一枝は「東京に住む」の文中で、「こゝ[神]に歸依したことは同時に小さい自我を捨てたことである」と書いた。しかし、「小さい自我」は、間違いなく生き残っていたのである。

(115)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、261頁。

(116)前掲『私たちの成城物語』、61頁。

(117)同『私たちの成城物語』、62頁。

(118)同『私たちの成城物語』、72頁。

(119)神近市子『神近市子自伝――わが愛わが闘い』講談社、1972年、213頁。

(120)同『神近市子自伝――わが愛わが闘い』、214頁。

(121)東京移住後の一枝の執筆活動を概観する場合、一枝が思想関連の嫌疑で代々木署に検挙されるのが、一九三三(昭和八)年八月五日であることからして、この日までをもって前半とし、この日から、一九三九(昭和一四)年一月一日(『婦人公論』掲載の「第一線をゆく女性 青鞜社」(写真)と「探偵になりそこねた話」)までを後半として二分割することが適切であろうと考えられる。検挙を挟んで、幾分執筆内容に変化が認められるからである。それ以降、アジア・太平洋戦争の終結まで、一枝の執筆は途切れる。
 以下は、東京移住後の前半における一枝の執筆活動のおおよその全体像である。
 一枝が『女人藝術』にために書いた文や座談会の収録記事に、「七月抄」(第一巻第三号、一九二八年九月号)、座談会「女人藝術一年間批判會」(第二巻第六号、一九二九年六月号)、「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」(第二巻第七号、一九二九年七月号)、「平塚雷鳥氏の肖像――らいてう論の序に代へて」(第二巻第八号、一九二九年八月号)、「鼠色の廃館――長崎風景の一つ」(第三巻第四号、一九三〇年四月号)、「女人藝術よ、後れたる前衛になるな」(第四巻第七号、一九三一年七月号)、および、座談会「母として目覺めらなければならない時相」(第五巻第一号、一九三二年一月号)などがある。『女人藝術』は、一九三二(昭和七)年の六月号をもって廃刊となった。
 『火の鳥』もまた、一枝にとってこの時期の発表の場であった。この雑誌は、『女人藝術』の創刊から三箇月遅れて一九二八(昭和三)年一〇月に、同じく女性のための文芸誌として、渡邊とめ子(筆名は竹島きみ子)によって誕生した。廃刊は、『女人藝術』が一九三二(昭和七)年六月であるのに対して、『火の鳥』は、それより一年以上のちの一九三三(昭和八)年一〇月であった。『女人藝術』には、にぎやかで、華やいだ側面があったが、それに比べれば、『火の鳥』は、落ち着いた、地味な編集に特徴があり、度重なる発禁が原因となって廃刊に追い込まれたと伝えられている。このふたつの雑誌は、刊行された期間や女流文筆家への門戸の開放といった点で共通しており、その意味で競合誌という関係にあった。一枝は、そうしいた双方の雑誌の性格を踏まえたうえで執筆したのであろうか、うまく書き分けているようにも見受けられる。この『火の鳥』に掲載された一枝の文は、「光永寺門前――長崎風景の一つ」(第二巻第四号、一九三〇年四月号)、「米を量る」(第三巻第九号、一九三〇年九月号)、および「哀れな男」(第五巻第四号、一九三一年四月号)の三編である。
 『婦人公論』は、東京移住以前からの一枝の主たる発表雑誌のひとつであった。この時期の一枝は、この雑誌に「洋服の布地は自由に選びたい」(一六六号、一九二九年六月)と「共同炊事に就いて」(一八三号、一九三〇年一一月)を書いている。
 また、『婦人画報』に目を向けると、一枝が関係した座談会形式の記事が三点掲載されている。そのうちの最初のふたつが、この時期のもので、「今と昔の先端婦人」(三二六号、一九三二年八月号)と「尾崎行雄先生に話を聽く」(三三八号、一九三三年八月号)が該当する。
 一方、こうした雑誌とは別に、一枝は、『東京朝日新聞』において書評を書き、「女性のための批判」というコラムも担当した。書評としては、一九三三(昭和八)年三月二五日に、河崎なつ著の『新女性讀本』(文藝春秋社)をとり上げている。「女性のための批判」というコラムには、同年の続く五月八日に「轉落の資格 毒煙と三井と三菱と」を、五月一五日に「心を打たれた二つの悲惨事」を、五月二二日に「膽のすわり 犯罪にも明朗性」を、五月二九日に「生活苦諸相 生きるための罪々」を、そして六月五日に最後となる「男爵夫人 馬鹿さを持つ女性」を書いた。
 以上が、一九二八(昭和三)年(『女人藝術』掲載の「七月抄」)から一九三三(昭和八)年(『婦人画報』掲載の「尾崎行雄先生に話を聽く」)までの、東京移住後の前半における約五年間の一枝の執筆活動の主だった内容である。

(122)前掲『元始、女性は太陽であった③』、303-305頁。

(123)同『元始、女性は太陽であった③』、305-306頁。

(124)前掲「東京觀(三二) 新らしがる女(三)」『東京日日新聞』。

(125)帯刀貞代「富本一枝さんのこと」『新婦人しんぶん』、1966年10月6日、3頁。
 また、帯刀の『ある遍歴の自叙伝』(草土文化、一九八〇年)にも、働く女性の解放運動を支援する一枝の姿の一端が描かれている。

(126)蔵原惟人「富本憲吉さんのこと」『文化評論』8、1963 - NO. 21、57頁。
 蔵原は、こうしたことも回想している。「富本さんは戦後、日本芸術院会員、東京美術学校教授を辞任して、郷里である奈良県安堵村の旧宅に帰り、京都で陶業に従っていたが、そのあいだ京都府委員会の同志を通じて、わが共産党の活動にも協力して下さっていた」(57頁)。また、次のことも明かしている。「当時は非合法の共産党員をかくまったというだけで、治安維持法違反の罪にとらわれる時代だった。それから一年たって私が検挙された時、私はその間にとまって歩いた住居についてきびしく追及された。……すでに『調書』の一部を勝手につくりあげて、私にその承認を強要した。そのなかには富本憲吉宅の名もあがっていた。党の中央部にいて党を裏切った男がそのことを売ったのである。私は頑強に抵抗し、そこから富本さんの名前を消さなければ、今後ともいっさい取調べに応じないと頑張った。警察ででっちあげられ、検察庁におくられた私についての簡単な『調書』からは富本さんの名は除かれていた」(59-60頁)。

(127)同「富本憲吉さんのこと」『文化評論』、58頁。

(128)『週刊婦女新聞』、1933年8月13日、2頁。
 なお、『讀賣新聞』は、この件について、「富本一枝女史 検舉さる 某方面に資金提供」の見出しをつけて、すでに次のように報じていた。「澁谷區代々木山谷町一三一國畫會員としてわが國工藝美術界の巨匠(陶器藝術)富本憲吉氏の夫人で評論家の富本一枝女史(四一)は去る五日夕刻長野懸軽井澤の避暑地から歸宅したところを代々木署に連行そのまゝ留置され警視廰特高課野中警部補の取調べをうけてゐる、さきごろ起訴された湯淺芳子女史の指導によつて、某方面に百圓と富本氏制作の陶器を與へたことが暴露したものである、女史は青鞜社時代からの婦人運動家で女人藝術同人として犀利な筆を揮つたことがあり、最近では湯淺女史らと共にソヴエート友の會に關係左翼への關心を昂めてゐた」(『讀賣新聞』、1933年8月9日夕刊、2頁)。
 一週間後には、「富本一枝女史 書類だけで送局」の見出しで続報。その一部は、次のとおりである。「すべてを認めたうへ従來の行動一切の清算を誓約したので十五日起訴留保意見を付して治安維持法違反として書類のみ送局となつた」(『讀賣新聞』、1933年8月16日夕刊、2頁)。
 そして、さらにその三日後、『讀賣新聞』は、「富本女史の令嬢も検舉」の見出し記事を掲載した。以下はその全文である。「某方面に資金を提供して代々木署に留置されてゐた女流評論家富本一枝(四一)女史は既報の如く轉向を誓つたので起訴留保となり十八日朝夫君憲吉氏の出迎へをうけて釋放されたがこんどは愛嬢で文化學院高等部二年生陽子(一九)さんが皮肉にも母親が歸宅する前日十七日朝突如澁谷區代々木山谷町一三一の自宅から代々木署に検舉、警視廰特高課から出張した野中警部補の取調べを受けてゐる 陽子さんは日本女子大學を中途退學して二年前文化學院に入學したもので、地下深くもぐつて左翼運動に關係してゐることが判明したゝめで 母親の一枝女史とは何等關係がない、特高課では母親と一緒に検舉する筈であつたが同家には子供が多く女手を一度に失ひ家事に差支へるので一枝女史の釋放が決定するまで検舉を差しひかへてゐたものである」(『讀賣新聞』、1933年8月19日夕刊、2頁)。

(129)尾形明子「富本一枝と『女人藝術』の時代」『彷書月刊』2月号(通巻185号)、弘隆社、2001年、17-18頁。