『暮しの手帖』の「お母さまが読んできかせるお話」の第一作が掲載されたのが、第一八号(一九五二年一二月発刊)の「おくびょうな兎」であった。それから一三年間、第三〇号や第四二号などに休載はあるものの、一枝は走り続けた。しかし、第八〇号(一九六五年七月発刊)掲載の「遠い国のみえる銀の皿」をもって、筆が止まった。それからさらに一年が過ぎた。最期が近づいてきたことを、一枝は感じるようになったのであろうか。最晩年のこの時期になると、憲吉は父親の豊吉のことをしきりと思い出していたが、一枝は、母親のうたへ強い思いを寄せた。
伝統に倣い、娘らしく厳格に育てようとしてきた母親のうたは、「新しい女」としての一枝への批判が高まりはじめたときには、世間の人びとや親戚一同に対して申しわけないという思いで一杯になっていたし、一枝が結婚するときには、自分が嫁ぐときにもってきた先祖伝来の九寸五分の短刀を一枝に渡し、「帰りたくなれば、これで死ね」といい、「ごはんは三膳たべてはいけない。おつゆは一杯だけにしなさい」と教えていた。大和の旧家の長男に嫁がせる母親の気持ちには、おそらく言葉で表わせないような実に複雑なものがあったであろうし、一方、画家として跡取りを考えていた父親の一枝に寄せる思いも、この結婚により断たれることになった。以下は、一九六六(昭和四一)年六月号の『子どものしあわせ』に一枝が寄稿した「母の像 今日を悔いなく」の冒頭の一節である。
母は五十二才でなくなった。私は、母のその年から二十年もよけいに生きている今になって、母から訓し教えられていたことがやっとわかって、あらためて、母のしたこと、口癖のようにいってきかせてもらっていたことが、骨身にこたえ、「お母さんご心配ばかりかけてごめんなさい」と、朝ごとに母の写真に手を合せ、母をなつかしみ、母に詫びている213。
そして、次の言葉が、「母の像 今日を悔いなく」の文末を飾る。「今日いちにちを悔いなく過ごした母を、私はなつかしく偲びつづけている」214。
ちょうどその前後のころのことであったであろう、いとこの尾竹親が一枝を訪ねて来た。訪問の時期は、一九六六(昭和四一)年の「一度は春、一度は夏であった」215。親は、『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』と題する、父親の伝記を執筆しようとしていた。それを聞いた一枝は、「えらいですねえ―、私も、父のことを前から書きたいと思って、何度か、暇をみては書きかけたんですが、未だにそのままになっているんです。とにかく竹坡叔父さんが、余りにも素晴らしかったので、どうも父の印象が薄くなっちゃって……」216と、受け答えた。そのとき親の目には、こう映った。「私のこの仕事を羨み、感心しながらも、その時の一枝は、遠く彼女自身の青春をのぞき込むような面持ちであった」217。
このころ一枝は、『婦人民主新聞』の「小石」というコラムに、短い論評の連載をはじめていた。三月一三日に「米軍の迷走」、五月八日に「戦争とはいわずに」、そして七月一七日に「危ない街角」が掲載された。時事問題への関心は、決して衰えることはなかった。しかし、それ以上に目を引くのは、この三編の末尾の署名が、「紅」の一字になっていることである。署名を入れるにあたって、「遠く彼女自身の青春をのぞき込むような面持ち」のなかから、まず「紅吉」の二文字が、頭に浮かんだものと思われる。しかし、一枝は躊躇した。そしてそこから、一方の「吉」を抹消した。想像するに、「紅吉」の「紅」が体の性で、「吉」が心の性を表象していたとすれば、最後の最後のこの段階で、つまり、死期が迫っていることの自覚のうえに立って、心の性を切り離し、何としてでも体と心を一体化させることによって、本来の体の性に帰依したいという強い衝動が、この瞬間に走ったのではないだろうか。自分の人生を悩ませ続けてきた性の不一致の決然たる否定を、この「紅」の一字は、表わしていたのかもしれなかった。
こうして、最晩年の筆名から完全に「青鞜の紅吉」は消えた。さらにこの時期、呼び名が「こうきち」から「べによし」へと変わった。これは何を表わしているのであろうか。尾竹親は、『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』のなかで、一枝について論じるにあたって独立したひとつの章を設け、章題を「紅吉考」としたうえで、「紅吉考」の「紅吉」に、「べによし」というルビをふっている。そして、このように書く。「紅吉という自分のペンネームを一枝はこう説明している。ちょっと見ただけでは、女の名とは思えない。それでも、〈べによし〉と読むと、やはりそこには女の情感が伝わってくる。自分では『あれで随分欲張った名』だと言っているところから推すと、彼女なりにある意味がこめられているのだろう」218。しかし、青鞜時代の一枝が、自分のことを「こうきち」と呼んでいたことは、「はじめに」においてすでに述べているように、平塚らいてうが確かに証言しているし、当時の新聞も、そうルビをつけている。それでは、なぜ一枝は、親の聞き取りに際して「べによし」という呼び名を告げたのであろうか。このとき、男性名と間違われる可能性を、少しでも和らげたいとの思いが働いた可能性を完全に否定することはできないであろう。『婦人民主新聞』のコラム「小石」に掲載された三編のエッセイの末尾の署名が「紅」の一文字であることと、「べによし」という呼称とのあいだには、何か通底する一枝の精神的生まれ変わりのようなものが、このとき存在していたと見ることはできないであろうか。つまり、「青鞜の紅吉」から「母うたの娘」への生まれ変わりである。
「お母さんご心配ばかりかけてごめんなさい」という、母へのわびる思いが、そうさせたと考えることもできるだろうし、そしてまた、そうすることによって一枝は、「今日いちにちを悔いなく過ごした母」の生き方に倣おうとしたのかもしれなかった。しかし、一枝本人は何も語っていない。したがってこの解釈は、単なる私的な憶測の域を出るものではない。七月一七日の『婦人民主新聞』の「小石」欄に寄稿した「危ない街角」が、一枝の絶筆となった。
一九六六(昭和四一)年九月二二日、肝臓がんにより、一枝は息を引き取った。七三年と五箇月の生涯であった。つい数箇月前に、一枝を自宅に訪問していた親にとって、「誰よりも先に、この竹坡の伝記を読んでもらいたいと思っていた人だけに、……その死は、非常なショックであった」219。その親は、一枝の葬儀について、こう書き記す。「一枝の葬儀は、簡素で、無造作であった。しかし美しかった。孫を相手にしているときのものだという、 おばぁちゃん ( ・・・・・・ ) になった晩年の一枝の、寂しく笑った写真が、大きく伸ばして壁にかかり、祭壇もなく、大きな棺のまわりには、小さな花だけが美しく飾られた。通夜には、平塚[らいてう]氏、神近[市子]氏、仲のよかった歌津ちゃんこと小林氏、それに中村汀女氏などの顔が見られた。……愛息の壮吉氏の、泣きくずれる姿が、彼女の死をいっそう悲しいものにしていた。小さな平塚氏のからだにも、神近氏の顔、押しだまった小林氏の表情にも、同じように得難い友を失った心の慟哭と実感とがあった。そして又、そこには、遠く過ぎ去った青春を感傷する女の情緒が匂っていた」220。遺骨は、憲吉と同じく、安堵村の円通院の墓に埋葬された。
(213)富本一枝「母の像 今日を悔いなく」、日本子どもを守る会編集『子どものしあわせ』第121号、草土文化、1966年6月号、3頁。 しかし、心配をかけたことに対して母にわびる気持ちは、これが最初ではない。というのも、一枝は、こうした自覚ももっていたからである。「『新しい女』で母をずいぶん困らせ、母は私のために肩身の狭い思いをしました」(富本一枝「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』(講座女性5)、三一書房、1958年、178頁)。結婚に際して伝統的な婚礼衣装を着用したのも、わびる気持ちの裏返しだったのかもしれない。そうであれば一枝は、物心がついて以来、生涯を通じて心のなかで母にわびていたことになる。その内実が、母の思いに反して「新しい女」のごとくに生きたことに対してなのか、あるいはその表裏をなす、母の教えを満たす女に徹しきれずに生きてしまったことに対してなのか、それはよくわからない。あるいは、こうした自分の表層の「生」についてというよりも、むしろ、他人に語れない自己の深層の「性」にかかわって、母に心配をかけ、困らせたことを最晩年の一枝はわびているのかもしれない。しかしそれについても、現時点においては、実証するにふさわしい証拠を見出すことはできない。さらにいえば、一枝の母親が、娘の特異な「性」についてどう思っていたのか、それを示す資料も、見たところ残されていないようである。 一方、最後まで一枝は、性自認(ジェンダー・アイデンティティー)に関して明確に「カミング・アウト」することはなかった。しかしながら、「母の像 今日を悔いなく」執筆の五年前に、すでに一枝は、心の性からの離脱現象(逆にいえば、体の性への帰着現象)とも受け止められるような発言をしている。一九六一(昭和三六)年九月号の『婦人界展望』は、「“青鞜”発刊五十周年」と題して、らいてうと一枝の対談を載せた。見開き二頁のごく短いものではあったが、そのなかで司会者が、紅吉という当時のペンネームに言及すると、それに対して一枝は、「そう、私は、いまでもそうですけど紅いいろが好きなのです」(「“青鞜”発刊五十周年」『婦人界展望』第85号、1961年9月号、8頁)と応じ、さらに、当時の服装について話題が向けられると、「私はかすりが好きでしたので着ていたのです。それに日本婦人がズロースをつけるようになつたのはずつとあとのことでしよう。画をかく私には、はかまはどうしても必要だつたのです」(同「“青鞜”発刊五十周年」『婦人界展望』、9頁)と、返答している。性別表現に関連するペンネームや服装にかかわって、ここでの一枝の応答は、明らかに身体的性の範囲から発せられている。心の性を表現していると思われる、「紅吉」の「吉」という男性性を連想させる文字についても、袴にマント、そして印籠に駒下駄という男性性を強調する装いについても、決して触れられることはなかった。こうした、一見すれば心の性からの離脱現象ではないかと考えられる過去への修正的再解釈が、「心配をかけたことに対して母にわびる気持ち」の切実なる現われだったのかどうかは、これも資料に乏しくここで容易に判断することはできない。しかしその後、絶筆のエッセイの筆名に「紅吉」ではなく「紅」の一字を用いていることや、また別の箇所では紅吉を「こうきち」ではなく「べによし」と読ませようとしていることから判断すると、最晩年において一枝が、青鞜時代の自身の性別表現にかかわって、意識的に修正的再解釈を行なおうとしたことは、ほぼ間違いないことであろう。
(214)同「母の像 今日を悔いなく」、日本子どもを守る会編集『子どものしあわせ』、同頁。
(215)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、233頁。
(216)同『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、233-234頁。
(217)同『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、234頁。
(218)同『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、233頁。
(219)同『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、同頁。
(220)同『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、263頁。