中山修一著作集

著作集11 研究余録――富本一枝の人間像

第一編 富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す

第一章 「同性の愛」の発見
     ――果たして異性間の如き愛の成立し得るものなりや否や

一九一一(明治四四)年八月一一日の『婦女新聞』に掲載された一頁の社説は、「同性の愛」という表題をつけて、女性間の「不可思議な」セクシュアリティーについて論じている。以下は、その書き出しの部分である。『婦女新聞』は週刊新聞であり、女学生などがその主な読者となっていた。

『女同士の情死』と題して、二人の女工が手を携へて投身したりし新聞紙に報せられたる事あり。最近に一博士の令嬢と、一官吏の令嬢とが共に高等女學校卒業の敎育ある身にして、同じやうなる最期を遂げたるあり。新聞紙は之を同性の愛、世俗に所謂オメの關係なりとして審しまざる樣子なるが、同性間に、果たして異性間の如き愛の成立し得るものなりや否や。容易に信じ難けれども、若し眞に成立し得るものとせば、娘持つ母及び女子敎育家は、最愛なる子女の監督法に就て新なる警戒を加へざるべからず。かゝる問題は人生の機微に關し、紳士淑女の輕々しく口にすべき事にあらざれども、又それだけに重大な問題なるを以て、眞面目に研究する必要あり

この社説では、女工の例と令嬢の例を、ともに「オメ」の関係とみなしながらも、前者については、女性相互の「熱烈な精神的友情」に基づく関係とし、後者については、男性的な女と女性間の「肉的堕落」との烙印を押す。社説は、二種類の「同性の愛」の内的違いを、このような文言を使って解説する。

後者の所謂オメなるものは、實に不可思議の現象にして、今日の生理學心理學にては殆んど説明しがたし。然り、説明はせられざれども、事實の存在は否定すべきにあらず。恐らくは是れ病的現象ならん。……前者に於ては、關係ある二人の境遇年齢性格等が相似たるを要するに反し、後者は、一人が必ず男性的性格境遇の女子にして、他を支配するを要す。前者は熱烈なる精神的友情に因て成立するに反し、後者は不可思議な肉の接觸を俟ちて成立するが如し。前者は死を共にするまで互い同情すれども、後者は、元來が肉的堕落なれば、さまでに双方の精神が一致せず。即ち一方的男性的の女は、常に巧なる一種の手段を弄して他を操縦するなり。されど、いかにしても不可思議なるは、操縦せらるゝ女が、全然對手の術中に陥りて、眞の戀愛状態に陥ること、異性に對すると殆んど差違なき事なり

そしてこの社説は、結論として、次の点を指摘する。「後者のオメなるものは、前者の病的友愛なると同じく、病的肉慾とでも稱すべきものにして、生理學者も未だ鍬を入れざる未開墾地なれば、吾等はこゝに論斷を下す事能はざれども、不可思議なる事實の存在だけは如何にしても否むべからず。されば、娘持つ親達は、最愛の娘を他に托するに當りて、單に同性なるの故のみを以て安心すべきにあらざるなり」

同新聞の同日付けの四頁には、「同性愛の研究」と題された特集が組まれ、「某醫師」「某宗敎女學校卒業生」「某高等女學校校長」「某夫人」「某心理學者」「洋行歸りの某氏」および「某軍人」からの聞き取りの結果が公開されている。そのなかには、異性間の愛とまったく変わらない同性間の愛の事例や、男女の夫婦とまったく変わらない女夫婦の事例や、しつけのために預かっていた娘のもとへ夜な夜な訪ねてくる女の事例などが、赤裸々に、そして詳細に報告されていた。この「同性愛の研究」は、社説にいう「説明はせられざれども、事實の存在は否定すべきにあらず」を、具体的内容を挙げて、例証するものであった。

このときの『婦女新聞』の社説および特集の立ち位置は、見てきたとおり、良妻賢母主義や家父長制主義が異性愛によって成り立っている以上、同性愛はそれを否定しかねない反体制的行為であるがゆえに、即刻追撃しなければならないといったような政治的に過激なものではない。同性の愛という行為は、いまだ学説にない、知識を超えた実に「不可思議な」現象であるがゆえに「病的な」ものとして執筆者には映っており、その感染を避けるという観点から、年ごろの娘をもつ親や子女教育に携わる人たちに対して警鐘を鳴らすといった啓蒙的な論調が、ここにおいて展開されていた。このようにして、この時期、女性間の「不可思議な」セクシュアリティーが、「かゝる問題は人生の機微に關し、紳士淑女の輕々しく口にすべき事にあらざれども」、新聞というひとつのメディアをとおして、新たに社会的に「発見」されたのであった。

続く翌週(八月一八日)の『婦女新聞』は、島中雄三の「同性の戀と其實例」を掲載した。そのなかで島中は、男子間の同性の恋(男色)も女子間の同性の恋も、結局のところ、その原因も、その実態も、その結果も、類似していることを指摘する。そのうえで、なぜそのような現象が起きるのか、次のように分析する。

近來男色が稍々衰へたのは、東洋的武士道的の克己道徳、禁欲道徳が廃れて男子の性欲が自然的方法によつて満足される機會が多くなつた結果である、それと反對に、女子の間に両性の戀が盛になつたのは、男子の誘惑が多くなり、社會の道徳的制裁が弛み、印刷物其他によつて隠れたる社會の暗黒面が暴露され、其結果一般に淫靡なる空氣が深窓の中にも通ふと同時に、官能的刺戟が著しく強くなつて性欲の發作年齢が以前よりは早くなつて居るに拘らず、結婚難てふ社會的現象と極端なる男女隔離主義とに依つて、精神的にも肉體的にも適當に性欲を満足するの機會に遠つた結果と見るべきものが大部分である

このように島中は、女性間の同性の恋は、以前に比べて性に目覚める年齢が早まるも、その性的欲求を満たす機会が彼女たちにとって遠のいていることに、おおかた起因していると説く。そして後段では、新橋の芸妓の中村時子の例を引き、「兎に角彼女は女を惹き着ける強い魔力を有つて居た……何の女も何の女も痩せて衰へて蒼くなつて其れでも思ひ切れないで泣いたのである、無論時子は常に男装して居つた……然れども彼女は到底男ではない……但だ其の方法は絶對の秘密で、彼女及び彼女と關係した女以外は何人も知らない、又何人にも話さないのである」10と、男性的な女の事例を紹介する。

ここで言及されている時子は、性別表現のひとつの指標となる衣装に関して、「常に男装して居つた」ことからから判断すると、体の性と異なり、心の性については「男」であることを自認していた可能性がある。また、「何人にも話さないのである」という表現から推測すると、時子がカミング・アウトを拒否していた可能性も否定できない。島中は最後に、この評論文をこう結ぶ。「敎育家、心理學者、生理學者などの大に研究して然るべき問題である、臭い物に蓋をするのは差支えないとしても、臭きを恐れて何時までも遁げて居つては敎育の實は擧るまいと思ふ」11

こうした『婦女新聞』の報道を受けるようなかたちで、『新公論』の九月号は「性慾論」と題して幾編かの論考を掲載した。そのなかには、内田魯庵の「性慾研究の必要を論ず」、桑谷定逸の「戰慄す可き女性間の顚倒性慾」が含まれていた。前者の論説は、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなどの欧米諸国においてこの分野の研究がどのような状況にあるのかを、当該国で刊行された雑誌や書籍を紹介しながら、論じるものであった。一方、後者の論説では、多様な視点からこの「顚倒性慾」が論じられているため、一言で総括することはできないが、一般に「顚倒性慾」は、学校(女学生)、工場(女工)、病院(看護婦)、遊郭(遊女)などの女が集う場所では広く見受けられるものであることを指摘し、男装(異性装)については、このように書く。「顚倒的な女には、出來ることなら男装し男職したいといふ強い傾向がある。此の場合の男装は便利の爲めでもなく、又た他の女に印象を與へる爲めでもなく、唯だ何となく夫れが自分の身體に適するやうに思ふからである」12。ここで表現されている「自分の身體に適するやうに思ふ」は、文脈的には「自分の気持ちに適するやうに思ふ」と読み替える方がふさわしく、そうであれば、今日にいうところの、性自認(ジェンダー・アイデンティティー)に関する事柄が、すでにこの時期にあって、暗に言及されていたことになる。そしてこの論説は、このようにもいう。「顚倒性慾の豫防法に付ては、今日未だ確説はない。否、先天的に其ういふ素質を有つて居る者に對しては、人間の力では殆んど何うすることも出來ないのである」13

同じく九月、『新婦人』(第1年第6号、9月之巻)も、『新公論』同様に、「同性の愛」に関する論説文を掲載した。それは、婦女通信社長である松本順造の執筆による、「恐るべき同性の愛――親不知の激浪に相擁して情死せし二令嬢」で、副題からわかるように、内容は、八月一一日の『婦女新聞』の社説でも言及されていた、七月二七日に新潟県の糸魚川町の海岸に漂着したふたりの令嬢の情死事件についてであった。ふたりが相並ぶ写真とともに、実名入りでその事件が詳報されている。続く一一月には、大阪高等醫學校敎諭の田中祐吉の「女性間に於ける同性の愛」が、続報として掲載された。おおかたの論旨は、次のようになる。「女性間に於ける同性の愛は、男色と同樣であつて、其の動機は種々ありますが、吾人醫學者の方から論じますると、性慾の倒錯に基因する者も尠くない……然し同性の愛に陥るものゝ全體が悉く此の性慾倒錯に出づるものでなく、男子と相接する機會なき爲め性慾満足の必要上より若くは新奇なる快感を貪ぼらんが爲の劣情に出づることも多い……此頃吾邦でも、女學生間に同性の愛の流行するに就ては敎育家が之を撲滅するに内々に苦心してゐるといふ噂を聞たが、併し之を豫防撲滅する方法手段の頗る困難なることは今更言うまでもない……醫學上倫理上より其の背天非倫の行為であることを説明するにしても、青春妙齢の女學生に向て明らかに説き示すことは中々至難の業である……要するに同性の愛を豫防撲滅する方法は女性其者の品性徳操の涵養に待つより他はあるまいと思ふ」14

以上に述べたように、一九一一(明治四四)年は、ふたりの令嬢の情死をきっかけとして、「同性の愛」にかかわる関心が社会的に高まった年であった。くしくもこの年の九月、『青鞜』が平塚らいてうの手によって創刊され、それに吸い寄せられるようにして、年が明けると、一枝自身も青鞜社の社員となるのである。

(5)『婦女新聞』第586号、1911年8月11日(金)、1頁。(「婦女新聞 第12巻 明治44年」、不二出版、1983年3月15日/復刻版発行、265頁。)

(6)同『婦女新聞』、同頁。(同上、同頁。)

(7)同『婦女新聞』、同頁。(同上、同頁。)

(8)島中雄三は、当時『婦女新聞』の編集者として働いていたが、その後、社会運動家、評論家として活躍。東京市議会議員も務める。弟が中央公論社の社長となる嶋中雄作で、のちに一枝の夫となる富本憲吉は、在籍する中学校(雄作は畝傍中学、憲吉は郡山中学)は異なっていたが、中学時代に雄作から『平民新聞』を貸し与えられて、それに連載されていた、堺利彦訳のウィリアム・モリスの「理想郷」を読み、モリスの社会主義思想と工芸実践に興味を抱くようになる。中学卒業後は東京美術学校に入学し、在籍中に英国への私費留学を果たし、ロンドンに地においてモリス研究に従事。そして帰国後、一枝と結婚する。

(9)『婦女新聞』第587号、1911年8月18日(金)、4頁。(「婦女新聞 第12巻 明治44年」、不二出版、1983年3月15日/復刻版発行、276頁。)

(10)同『婦女新聞』、同頁。(同上、同頁。)

(11)同『婦女新聞』、同頁。(同上、同頁。)

(12)桑谷定逸「戰慄す可き女性間の顚倒性慾」『新公論』第26巻第9号、1911年、38頁。

(13)同『新公論』、41頁。

(14)田中祐吉「女性間の於ける同性の愛」『新婦人』第1年第8号、11月之巻、1911年、25-28頁。