周知のように、偉大な芸術家や著名な文豪などではなく「普通の人びと」がどう生きたのか、とりわけ「普通の女性」の人生がどうであったのか、それを関係する資料から読み解き、「歴史」のなかに再配置することが、今日的に歴史学に要請されている課題のひとつになっています。小林信は、まさにその「普通の女」のひとりに挙げることができるものと思われます。そこで、明治、大正、昭和の時代に生きたひとりの女性を、出生、教育、職業、結婚、出産、家庭生活、創作表現、加えてジェンダー/セクシュアリティーといった幾つかの指標となる文脈に沿って全体的に描いてみることはできないか、そういう思いのもと、とりあえず本稿におきましては、大正時代の奈良県における「小林信の学生生活と富本一枝との親交」という主題に限定したうえで、その様相の一端を女子教育と職業選択、あわせてジェンダー/セクシュアリティーという文脈から描写することにいたします。
『奈良女子大学百年史』(二〇一〇年刊)によりますと、奈良女子大学の前身校であります奈良女子高等師範学校は、一九〇九(明治四二)年の五月一日に、女子の中等教員を養成する官立の学校として開校しました。独自の入学者選抜制度、寄宿寮制度、給付制度、加えて義務就職の制度があり、主として卒業後は、一八九九(明治三二)年の「高等女学校令」の公布に伴い、全国各地に相次いで設置されてゆく高等女学校の教師となって巣立ってゆきました。まさしく、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)に続く、女性の経済的自立へ向けての先導的役割を担う最高学府として誕生したのでした。
一九〇九(明治四二)年、文部省令第七号により改正された「女子高等師範学校規程」に従い、設立時の学科は、予科(修業年限四箇月)と本科(修業年限三年八箇月)で構成され、予科の学科目としては、修身、国語、漢文、外国語(英語)、数学、習字、図画、音楽、裁縫、体操が設けられ、本科は、国語漢文部、地理歴史部、数物化学部、博物家事部の四部門に分かれていました。
一九一九(大正八)年五月一日、奈良女子高等師範学校は創立一〇周年を迎え、盛大な記念行事が執り行なわれました。そうした祝賀ムードのなかにあって、この春、ひとりの女性が入学します。その名を、小林信といいました。小林は、一九〇二(明治三五)年四月二二日、京都府宇治郡宇治に生まれ、入学早々に、一七歳の誕生日を迎えたのでした。
小林が入学するころは、まだ学科試験によって入学者を選抜する制度はなく、師範学校か高等女学校の優秀な卒業生(卒業予定者)を地方長官が推薦し、そのなかから校長が試験のうえ選抜するという方法によって入学者が決定されていました。小林の場合は、おそらく京都府の地方長官(京都府知事)の推薦による入学だったものと思われます。
入学するとさっそく小林は入寮しました。この学校は「全寮制自炊」の方式を採っており、この制度は、異なる地方出身者が家族的雰囲気のなかにあって女子としての人間形成が図られることに重きを置いていました。小林の在学期間の寮務主監は、錦織竹香という人物でした。『奈良女子大学百年史』には、「錦織竹香は、寄宿寮において、一つの家庭のように生徒が『協同和楽』することに努め、自学自修しつつ徳行を錬磨し、自炊を実習することを通して、『婦徳の修養』の実践にあたった」1と、記述されています。小林が入学した年までには、第一寮から第五寮までがすべて整っていました。「各寮は並行して、東西に並んでいた。中庭を隔てて北から五列に並び、附属小学校に隣接していた。各寮とも南側は縁側で、日がよく当たり、広い南庭には物干しや布団干し場があり、ポプラなどの樹が植えられていた」2。同じく『奈良女子大学百年史』には、「炊事当番は、一日一人の交代で、夕、翌朝、昼の三食を作り、炊事経験のない者も、舎内の上級生の指導で、薪に火がつかずに苦労しつつ、ご飯を炊き、十数人の大家族の主婦がつとまるようになったようである。献立は、一週間ずつ当番がつくり、寮監検閲があり、新入生歓迎などの特別の時以外は、一汁一菜と漬物であった」3ことが記されています。
小林が入寮して翌年の一九二〇(大正九)年の一〇月からは、第三学年以上の生徒で、奈良市内かその近郊に自宅や親戚知人宅がある者に対して、そこからの通学が認められるようになりました。小林の自宅が、いまだそのまま出生地の宇治にあり、学校の近隣に親類宅等がなかったとすれば、小林はこの制度の対象者とはなりえず、四年の在学期間中ずっと、寄宿寮を生活の場にしていたことになります。「学校が休暇に入ると、人力車が運動場の藤棚の下に並び、『次々と帰心矢の如き人をのせて車は国鉄奈良駅へ』といった奈良女高師の帰省風景がみられた」4ようですが、こうした帰省風景のなかに、宇治へ帰る小林の姿があったかもしれません。
小林が入学する五年前の一九一四(大正三)年に、これまでの予科と本科による学科構成が廃止され、文科、理科、家事科の三学科制へ移行しました。これにより、予科としての四箇月の仮入学期間が終了したのちに本科の授業が九月からはじまる従来の制度が改められ、新学期の開始が四月となり、修業年限も四年となりました。小林が入学したのは一九一九(大正八)年です。そこで小林は、学校創設時までさかのぼって起算することにより、文科一一期生として入学したことになります。このころ生徒には、文部省から月七円が給付されていました。他方で、就職義務年限は二年と規定されており、おおかたの生徒は卒業後、全国各地の高等女学校の教師となっていました。小林もその例に漏れず、一九二三(大正一二)年三月に卒業すると、山口県にあります、徳基高等女学校に赴任するのでした。
小林信が奈良女子高等師範学校に在籍したのは、一九一九(大正八)年四月から一九二三(大正一二)年三月までの四年間でした。それではこの時期に至るまでの女性を巡る社会の動きは、どのようなものだったのでしょうか。小林の人間形成の一部をなすものであった可能性がありますので、そのことについて、簡単に述べておきたいと思います。
この時代は、一般的に「大正デモクラシー」という用語でもって特徴づけられていますように、政治、社会、教育、文化などのさまざまな領域において、自由主義的な、あるいは平等主義的な運動や思潮が展開された時代でした。そうした時代背景のなかにあって、奈良女子高等師範学校に集う生徒たちにとって最も高い関心事となっていたのは、おそらく女性としての生き方に関するものだったにちがいありません。奈良女高師に入学する前にほとんどの生徒が通っていたのが各地に設置されていた高等女学校で、そうした女学校のあいだで人気の高かった読み物が『婦女新聞』という週刊新聞でした。一九一一(明治四四)年八月一一日の『婦女新聞』に掲載された一頁の社説は、「同性の愛」という表題をつけて、女性間の「不可思議な」セクシュアリティーについて論じています。以下は、その書き出しの部分です。
『女同士の情死』と題して、二人の女工が手を携へて投身したりし新聞紙に報せられたる事あり。最近に一博士の令嬢と、一官吏の令嬢とが共に高等女學校卒業の敎育ある身にして、同じやうなる最期を遂げたるあり。新聞紙は之を同性の愛、世俗に所謂オメの關係なりとして審しまざる樣子なるが、同性間に、果たして異性間の如き愛の成立し得るものなりや否や。容易に信じ難けれども、若し眞に成立し得るものとせば、娘持つ母及び女子敎育家は、最愛なる子女の監督法に就て新なる警戒を加へざるべからず。かゝる問題は人生の機微に關し、紳士淑女の輕々しく口にすべき事にあらざれども、又それだけに重大な問題なるを以て、眞面目に研究する必要あり5。
この社説では、女工の例と令嬢の例を、ともに「オメ」の関係とみなしながらも、前者については、女性相互の「熱烈な精神的友情」に基づく関係とし、後者については、男性的な女と女性間の「肉的堕落」との烙印を押しています。社説は、「眞面目に研究する必要あり」と警鐘を鳴らします。おそらくこの記事が、今日にいうところの「ジェンダー/セクシュアリティー」についての、この国における最初の論評のひとつだったにちがいなく、その意味で、当時の女生徒に与えた衝撃は、決して少なくなかったものと思われます。この社説の出現は、奈良女高師創設の二年目に当たります。この「同性の愛」にかかわる問題は、「紳士淑女の輕々しく口にすべき事にあらざれども」、高等女学校や女子高等師範学校の生徒のあいだで密かなる話題となって、それ以降も、絶えることなく女生徒の心を占めていたのではないかと推量されます。
この「同性の愛」という表題の社説が『婦女新聞』に掲載されてから一箇月後、平塚らいてうの手によって『青鞜』が創刊されました。これは女性による最初の文芸雑誌で、のちに女性解放運動のための機関紙的役割も担いながら、一九一六(大正五)年まで刊行が続きます。この雑誌に魅了され、吸い寄せられたひとりの女性がいました。その名を尾竹一枝といいました。一枝は、一八九三(明治二六)年に富山市の越前町にて出生します。日本画家の尾竹越堂(本名は熊太郎)が父親でした。しかし、六年後の一八九九(明治三二)年の富山市を襲った大火事により、両親と別れ祖父母に連れられて一度は東京に出ますが、その後は、両親とともに大阪の地で暮らすようになります。夕陽丘高等女学校を卒業すると、絵の勉強のために上京し、越堂の弟で、同じく日本画家の尾竹竹坡(本名は染吉)のもとに身を寄せます。ちょうどその時期のことでしょうか、竹坡の妻のきくと一枝は、連れ立って上野へ出かけたことがありました。以下は、そのときのきくの記憶です。
一枝さんと一緒に上野の山へ行った時よ、その人マントをすらっと着ているものだから男と間違えられちゃってね、笑ったことがあるわよ……6。
男さながらのセルの袴にマントの着用、これが若き日の一枝の特異な衣装姿でした。一九一一(明治四四)年の秋のある日のことでした。表庭の掃除をしていたとき、一枝は、郵便配達人から叔母宛ての一通の封書を受け取ります。叔母のきくと一緒に封を切ると、平塚らいてうが主宰する『青鞜』の発刊の辞と青鞜社の規約が同封されていました。のちに一枝は、このときのことを、「私にとつては天地振動そのものであつた」7と語っています。そのあと一枝は大阪に帰ると、すぐにもらいてうに手紙を書きます。らいてうは、当時の一枝のことをこう記憶していました。
型破りな、男とも女とも判らない妙な手紙を度々よこす大阪の変な人として、姿は見えないけれども、かなり早くから社の人たちに、軽い好奇心のようなものをもたせていました。……上京後は社の事務所にも、私の家にもよく来るようになり……人にもてることの好きな紅吉は、幸福のやり場のないようなかがやいた顔をして、大きな、丸みをもったからだを、着物と羽織とおついの、いきな久留米飛白(かすり)に包んで、長い腕をそらして、いつも得意然と市中を歩き、大きな声でうたったり、笑ったり、実に自由な、無軌道ぶりを発揮していました8。
青鞜社時代の一枝は、自分のことを「紅吉(こうきち)」と呼び、ペンネームにもその名を使いました。晩年に、いとこの尾竹親が自分の父親の伝記『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』を書くにあたり、一枝にインタヴィューをしていますが、そのなかに、「紅吉」という呼称についての次の一文を見出すことができます。「自分では『あれで随分欲張った名』だと言っているところから推すと、彼女なりにある意味がこめられているのだろう」9。果たしてどのような意味がこめられていたのでしょうか。「紅吉」の「紅」には、生まれもった身体上の性が、「吉」には、その後自覚された心理的な性が表現されていたのかもしれません。
一九一二(明治四五)年三月号の『青鞜』(第二巻第三号)に、はじめて紅吉の「最後の霊の梵鐘に」が掲載され、さらに翌月号では、紅吉が描いた「太陽と壺」に、表紙が差し替えられました。紅吉が青鞜社に所属したのは、およそ一年でしたが、その短いあいだに、「五色の酒」「吉原登楼」、加えて平塚らいてうとの「同性の恋」が、同時進行的に『青鞜』から発信されてゆくと、まさしく「時の女」としての紅吉に耳目が注がれましたし、広く青鞜社に集う女たちに対して世間は、「新しい女」とか「新しがる女」とかという呼称でもって、珍しがったり、揶揄したりしました。おそらくこの時期、「尾竹紅吉」の名を知らない女学生は、ほとんどいなかったのではないでしょうか。
当時の紅吉が、宮本百合子の小説「二つの庭」のなかに登場します。そこには、次のような描写がなされていました。
伸子とは二つ三つしか年上でない素子の二十前後の時代は「青鞜」の末期であった。女子大学の生徒だの、文学愛好の若い女のひとたちの間に、マントを着てセルの袴をはく風俗がはやった。とともに煙草をのんだり酒をのんだりすることに女性の解放を示そうとした気風があった。二つ三つのちがいではあったが、そのころまだ少女期にいた伸子は、おどろきに目を大きくして、男のように吉という字のつくペンネームで有名であった「青鞜」の仲間の一人の、セルの袴にマントを羽織った背の高い姿を眺めた。その女のひとは、小石川のある電車の終点にたっていた10。
この小説のモデルとなっているのは、伸子が宮本本人であり、素子が、かつての共同生活者であった湯浅芳子に相違ありません。紅吉が「小石川のある電車の終点にたっていた」のは一九一二(明治四五)年の青鞜社時代だったと思われますので、そのとき、宮本百合子(旧姓は中條)は一三歳、湯浅芳子は一六歳でした。このふたりより少し若い一〇歳になる小林信も、もしかしたら「青鞜の紅吉」の名を聞き及んでいたかもしれません。
尾竹紅吉は、青鞜社に迷惑をかけたことを理由に退社すると、一九一三(大正二)年三月に、今度は自らが主宰者となって、文芸雑誌『番紅花(さふらん)』を創刊します。その雑誌の表紙絵や裏絵を提供したのが図案家(デザイナー)の富本憲吉でした。こうして、ふたりの情感は深まり、結婚へと向かいます。
富本憲吉は、一八八六(明治一九)年に大和の安堵村の旧家に生まれ、東京美術学校で図案(現在の用語法に従えばデザイン)を学び、ウィリアム・モリスの思想と実践に魅了され、卒業を待たずして英国に渡ります。その地で親しく交わったのが、画家の白滝幾之助と南薫造でした。帰国すると憲吉は、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を参照しながら「ウイリアム・モリスの話」を執筆し、擱筆後それは、一九一二(明治四五)年の『美術新報』第一一巻第四号(二月号)および第五号(三月号)に分載されます。これが、憲吉にとっての帰朝報告であり、工芸家モリスを紹介する日本における最初の評伝となりました。続けて二年後の一九一四(大正三)年九月、今度は、東京竹川町にある美術店田中屋において「富本憲吉氏圖案事務所」を開設します。『卓上』(第三号)に掲載された広告には、この事務所の営業品目として、「印刷物(書籍装釘、廣告圖案等)、室内装飾(壁紙、家具圖案等)、陶器、染織、刺繍、金工、木工、漆器、舞臺設計、其他各種圖案」が挙げられています。ここに、一九世紀英国に設立されたモリス・マーシャル・フォークナー商会(のちのモリス商会)に範をとった、日本における最初のデザイン事務所が誕生するのでした。
富本憲吉と尾竹一枝は、一九一四(大正三)年の一〇月二七日に、日比谷の大神宮神殿で白滝幾之助夫妻を仲人として結婚式を挙げました。そのとき憲吉は二八歳、一枝は二一歳でした。結婚をするや、『淑女畫報』(一九一四年一二月)に暴露記事が掲載されます。その表題は、「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」11というものでした。この記事のなかでさらに注目されてよいのが、「紅吉女史は女か男か」という見出し語に続けて、紅吉のセクシュアリティーに関して詳述されている箇所です。以下は、そこからの一部抜粋です。
彼女は勿論女である、而も立派な女性であることは争はれない事實です。然し彼女の一面に男性的なところのあるのも事實です。先づ第一にその體格の如何にもがつしりとして、あくまでも身長の高い所に『男のやうだ。』と云ふ感じが起ります。セルの袴に男ものゝ駒下駄を穿いて、腰に印籠などぶら下げながら、横行闊歩する所に、『まるで男だ。』と云ふ感じが起ります。太い聲で聲高に語るところ、聲高に笑ふところ、其處にやさしい女らしさと云ふ點は少しも見出すことは出來ません。男のやうに女性を愛するところ、その女性の前に立つて男のやうに振舞ふところ、それは彼女が愛する女と楽しい食卓に就いた時のあらゆる態度で分ると云つた女がありました。甘い夜の眠りに入る前に男のやうに脱ぎ棄てた彼女の着物を、彼女を愛する女が、さながらいとしい女房のやうにいそいそと畳んだと云ふことを聞いたこともありました。
おそらくここで記述されている内容が誘因となったものと思われますが、ふたりは早々に東京での新婚生活に見切りをつけると、翌一九一五(大正四)年の春に、憲吉の生家のある安堵村に帰還し、憲吉は本宅近くの土地に自宅と本窯を築き、作陶の道へと入ってゆきます。一枝は、若くて美しく、才能のある女性を愛しました。そうした女性がほとんどいない田舎へ身を移すことが、この夫婦にとって必要だったものと考えられます。それでは、結婚前の東京での生活と、結婚後のここでの田舎暮らしには、どのような変化があったのでしょうか。一枝は、一九一七(大正六)年一月号の『婦人公論』に寄稿した「結婚する前と結婚してから」のなかで、次のように告白します。
彼と私は、思想に於いてまだまだ酷(ひど)く掛け離れてゐる。……私の心は悩む、そして度々考へた。単純な自然的な正直な生活を營むには、未だ未だ私は眞實でない。眞實が足りぬ。それがどんなに彼を寂しく悲しくするか知れない12。
憲吉と一枝には、近代精神の体得という観点から見れば、年齢的な差もあり、体験、知識、語学力のどの面においても、おそらくいまだ大きな開きがあったにちがいありません。この文のなかで一枝は、「未だ未だ私は眞實でない。眞實が足りぬ」といっていますが、これは、体の性と心の性がどうしても一致しないことに由来する違和感や、それに伴う自責の念といった心的状況についてではないかと思われます。といいますのも、一九一二(大正元)年一〇月二七日の『東京日日新聞』の「東京觀(三二) 新らしがる女(三)」のなかで、記者のインタヴィューに答えて、紅吉はこういっているからです。「私は子供の時分から面白い氣分を持つてゐますが夫れは自ら獨り樂しむ氣分であつて決して口に出して話す氣分ではないのです、死ぬる時に遺言状の中には書くかしれませんが」13。この内面に秘められた「面白い氣分」が、生涯の紅吉(一枝)の光と影となるものでした。一枝は最後までカミング・アウトすることはありませんでしたが、当時の隠語によれば「男女」、今日の用語に従えば「トランスジェンダー」だったものと思われます。
さらに一枝は、この「結婚する前と結婚してから」という文のなかで、「夫は非常な熱心で常に私を指導してゐる」14とも書いています。憲吉が、一枝を「指導してゐる」のは、ひとつには、当時普通とはみなされていなかった妻のセクシュアリティーの克服にかかわる問題に関してであり、いまひとつには、良妻賢母の思想にみられるような旧弊な女性観からの解放にかかわる問題に関してであったに相違ありません。といいますのも、一枝本人が、一九一三(大正二)年一月号の『新潮』のなかで、「舊い新しいの意味が、昔の女と今の女と云ふのなれば、私は昔の女が好きで且つそれを尊敬し、自分も昔の多くの傑れた女の樣になりたいと思つて居ます」15と、述べているからです。このように、決して一枝は「新しい女」などではなく、どちらかといえば、旧い伝統的な価値を身にまとった女性だったのでした。
一枝の「結婚する前と結婚してから」の発表から三年が立った一九二〇(大正九)年、今度は憲吉が、『女性日本人』一〇月号に「美を念とする陶器」を寄稿します。以下は、そのなかの一節です。
私の陶器を見てくださる人々に。何うか私共の考へや生活も見てください、私は陶器でも失敗が多い樣にいつも此の方でも失敗をして居りますが陶器の方で自分の盡せるだけの事をしたつもりで居る樣に此方についても出來るだけ良くなるためにつとめています。それが縦ひ非常に不十分なものであつても16。
ここからわかりますように、明らかに憲吉は、陶器と生活とのふたつの事象についてともに改善を図ろうとしています。陶器における改善のなかには、過去の作品に範を求めない模倣の忌避にかかわる問題や、大衆へ向けての量産陶器の試行にかかわる問題が含まれていました。他方、生活における改善のなかには、すでに述べていますとおり、一枝のセクシュアリティーの克服に関する問題や、女性としての近代的な生き方への移行に関する問題が含まれていたものと考えられます。
この「美を念とする陶器」が掲載された『女性日本人』(一九二〇年一〇月号)が発売されたとき、小林信は、奈良女高師の二年生になっていました。小林がすぐにもこの文を読んだかどうかは別にしまして、ここで重要なことは、明らかに憲吉は、「何うか私共の考へや生活も見てください」と、読者に呼びかけていることです。決定的な証拠になる資料は見出されていませんが、講義のなかで、あるいは放課後や課外授業などの合間に、果たして教授の水木要太郎が、この「美を念とする陶器」と題された一文のことや、その著者である富本憲吉という名の安堵村に住む若き陶工のことを、生徒たちに紹介した可能性はないでしょうか。これが、小林が富本夫婦の存在を知るきっかけとなったのではないかというのが、いま私が推論するところです。以下に、わずかながらその傍証を提示してみたいと思います。
『奈良女子大学百年史』にもどりますと、そこに、次のような、水木についての記述が認められます。
水曜の午後は選修科目に当てられ、予科は、水木要太郎教授の科外講話「大和史講話」が実施された17。
小林が入学したときには、すでに予科と本科は取り除かれ、文科、理科、家事科の三学科制になっていましたので、当時は、水木の「大和史講話」は文科の、一年次配当の授業科目として開講されていたにちがいありません。
また、卒業後日本画家として活躍することになる小倉遊亀(旧姓は溝上)も、水木要太郎について言及しています。小倉が奈良女高師に入学するのは一九一三(大正二)年の四月で、小林の六年先輩に当たります。小倉は、卒業製作としてゴーギャンの作品をまねて描いた裸婦について、後年、こう語っているのです。
図画の横山[常五郎]先生は、構図がおもしろいと言って、とてもほめてくださいました。……それから日本史の水木要太郎先生、国語の春日先生は、私の作品にいつも拍手を送ってくださった18。
奈良女高師を卒業して数年後、小倉は安田靫彦(ゆきひこ)に弟子入りすることになりますが、そのきっかけをつくったのも、横山常五郎であり、水木要太郎でした。小倉は、安田を師とするに至る経緯を、次のように振り返ります。
それは女高師の絵の時間に、横山先生が法隆寺の壁画の説明をなさったんですけどね、その時、いまこの線を引けるのは安田靫彦しかいない、とおっしゃった。それで私たち、安田先生の絵が好きになった。当時先生は歴史画を描いておいでになりましたけど、私たちも真似して描いたものです。
それからまた、日本史の水木要太郎先生が、授業のときによく古いお寺の壁画や建築を見に連れていってくださったのです。その水木先生が、[卒業後の]ある時、私に家に来いとおっしゃって、安田先生の本物をみせてくださった。『御十六歳の聖徳太子』という等身大の絵で、それを先生、いつも芳名帳代わりに持ち歩いてらした大福帳に描け、とおっしゃった。
そんなことでね、お目にかかるなら安田先生に、と思ったんです19。
この引用に出てくる、小倉が「聖徳太子画像」を描いた「大福帳」とは、水木がいつも身につけて持ち歩いていた、一種のノートブックであり、スケッチブックでありました。当時の奈良の文人や知識人のあいだでは、「水木の大福帳」として知られ、現在にあっては、貴重な歴史資料となっています。そのなかには、水木自身が、富本憲吉の一九一五(大正四)年の初窯の様子をスケッチした描画も含まれ、文才のみならず、画才の輝きを示す一級の資料となっています。
それでは、水木要太郎とは、どのような経歴をもつ人物だったのでしょうか。いま手もとにある『企画展示 収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべて――』の巻末に所収されている「水木コレクションを読み解くために」(久留島浩著)のなかの「水木家略年譜」20から幾つか拾い出し、あわせて富本憲吉のその間の動向と照らし合わせながら、短く以下に構成してみたいと思います。
水木要太郎は一八六五(元治二)年に愛媛県伊予郡に生まれ、東京高等師範学校を卒業後、三重県の高等小学校の教員や奈良県の尋常師範学校の教諭を務め、奈良県尋常中学校(郡山中学校)の教諭となったのが、一八九五(明治二八)年四月のことでした。富本憲吉が郡山中学校に入学するのが、その四年後の一八九九(明治三二)年四月で、ここに水木と富本の出会いがありました。郡山中学校卒業後、富本は安堵村を離れますが、東京美術学校に在籍していたときも、その後英国に留学していたときにも、富本は恩師水木要太郎に宛てて頻繁に手紙や絵はがきを書き送っており、親しい関係が続きます。水木は、一九〇三(明治三六)年に『やまとめぐり』と『大和引路誌要』を著わすと、まさしく「奈良史学」の泰斗として一九〇九(明治四二)年の奈良女子高等師範学校創設にあわせて、教授として任官します。その一方で富本は、前述のとおり、東京での結婚後、一九一五(大正四)年の春、妻一枝と一緒に安堵村に帰還すると、この地に自分の家と窯を新たに設けます。こうしてそれ以降、水木と富本の、かつての師弟の信頼関係が、新たなかたちを伴って復活するのでした。
このような水木と富本との隠れた間柄が背後にあるなかにあって、小林信が一九一九(大正八)年の四月に奈良女子高等師範学校の門をくぐり、他方で、水木が「大和史講話」を講じ、そして富本が、翌一九二〇(大正九)年に「美を念とする陶器」の一文を『女性日本人』に発表するのでした。おそらく、水木は、この講話や大和探索の学外授業などを通じて、富本の陶工としての苦闘を語り、妻である一枝の青鞜社時代について話題にし、それを聞いた小林は、この夫婦に関心を抱き、安堵村で奮闘するふたりにぜひとも一度会ってみようと思ったのではないでしょうか。以上が、私の推論を構成する傍証となる部分です。
さてそれでは、仕事と生活の双方の改善が進むこの時期の日々の暮らしのなかにあって、陽と陶のふたりの娘に対して、一枝はどのような態度で接していたのでしょうか、その当時の一枝の文から少し拾い上げてみます。
一九二一(大正一〇)年に発表された一枝のエッセイは、子どもに関する内容のものが目立ちます。たとえば、「子供と私」(『婦人之友』一月号)や「子供を讃美する」(『婦人之友』五月号)がそれに相当します。憲吉と一枝のあいだにはふたりの子どもがいました。長女の陽は一九一五(大正四)年八月の生まれで、この年の八月に満六歳の誕生日を迎えます。次女の陶が生まれたのは一九一七(大正六)年一一月で、姉の陽とは二歳と三箇月離れていました。前者の「子供と私」の冒頭において、一枝はこのようなことを告白します。
『子供と私』を書くについて、私は考へました。私は子供について書く資格が本當に有るだらうか。恥づかしくはなからうか。恐らく自分は子供について書けないのが本當で、書くのは間違つてゐるのだと。……しかし、また思い返してみると、書くのが本當のやうに思はれたのです。これを書く事は自分が子供にもつてゐる心なり態度を深く反省する機會にもなるし、或意味で正直に自分の態度を責めてもらへる事にもなると思つたのです。……最初に書いて置きます。私は子供にとつて決して善い母親ではありません。親切な母親ではありません21。
なぜここまで、母親としての自分を責めるのでしょうか。一枝の性自認が「男」であったとするならば、それに起因して、子どもを慈しむ母性のような母親固有の感情がどうしても湧いてこなく、それを自覚したうえで、「決して善い母親ではありません。親切な母親ではありません」と、いっているのでしょうか。それはよくわかりません。しかしその思いの裏返しかもしれませんが、すでに一枝は、娘たちの教育に独自の強い思いを傾けていたのでした。
一枝が本格的に娘の教育に関心をもつようになったのは、陽が三歳になるころからだったのではないかと思われます。富本家の本棚には多くの書籍が並べられていました。「私の手から赤坊讀本が離されたのはその頃です、そしてその代りにルソーのエミールやモンテツソリのものが無智で若い母親の指先きで熱心に繙(ひもと)かれるやうになつてをりました」22。
一九一九(大正八)年の一一月、平塚らいてうが安堵村に一枝を訪ねてきました。そのときの様子を自伝『元始、女性は太陽であった』のなかで、らいてうは、こう書き記しています。
一枝さんの書棚には、トルストイのものなどにまじって、教育関係の書物がどっさり並び、陽ちゃんと陶ちゃんは一枝さん自身の考案でつくらせたという、珍しいおもちゃで遊んでいました。数え年四つの陽ちゃんが、片仮名をもうすっかり読めるのには、おどろいたものでした23。
「教育関係の書物」というのが、「ルソーのエミールやモンテツソリのもの」を指しているのでしょう。それでは、「珍しいおもちゃ」とはどのようなものだったのでしょうか。ひょっとしたら、このようなものだったかもしれません。以下は一枝の言葉です。
私は或る晩遅くまでかゝり、父親に切つてもらつた三寸四角の厚いボール紙に片暇名五十音と濁音全部と半濁音全部を形正しく墨汁で書きました。……このカードはそれから先モンテツソリーの讀み方敎授法で子供を敎えるのにずつと使用されました。……私は學齢に達するまで自分に有るだけの力を注いで敎育したかつたのです。……天才を造ることは到底出來ないまでも早教育を善しと見るならそこに努力して行くことが本當ではなかろうか……たとへこの己の抱く理想が力弱くあつても、理想により近く歩みゆくことが出來ればと思ひました24。
カードを使って遊んだ思い出を、のちに下の娘の陶は、こう回想しています。
母は私がヨチヨチ歩きの赤ん坊の頃から、アルファベットやアイウエオを教えてくれました。庭の芝生に大きな籠を置きその中にボール紙を大きく切ったカードが沢山入れてありました。母が「『A』をもっていらっしゃい」とか、「『と』の字を」とかいうと私はその籠の中からいわれた文字のカードを探し出して母の手許まで歩いて届けるのでしたが、幼い私にはとても楽しいお遊びだったようで、大喜びで札を運んだおぼえがあります25。
こうして陽は、「一ケ月後には文部省の國語讀本の巻の一を速くはないがしかし誤ることなく讀むやうになつて仕舞ひました。これは自分勝手にしたことで私からさせたのではありません。その時、この子は數へて四歳で、満二歳六ケ月だつたと記憶しています」26。今度は、平暇名のカードがつくられ、陽の知る世界はさらに広がってゆきました。「私はどんなに多忙であつても、毎朝二時間だけ必ず彼女の爲に色々な勉強をつゞけたものです。その頃に書いた彼女の小さな文章に可成り優れたものが澤山有り、それだけ理解力は随分深く高い所まで進んでゐました」27。
おそらく一九二〇(大正九)年の春のことであろうかと思われますが、「満四才六ケ月かの時、彼女には四人の先生が出來ました。いよいよ正しい勉強法を始めたのです。英語國語理科音楽、この四科目をそれぞれの先生にお頼みして、私は一週間に七八時間、陽を連れて奈良に通ひました……數學は一番遅く始めました」28。向かう先は、奈良女子高等師範学校の附属小学校でした。あるいは、附属高等女学校だったかもしれません。陽は、理科を神戸先生に、唱歌を幾尾先生に、国語を竹尾先生に、英語を青木先生と土井先生に、数学を福永先生に教わり、一方一枝は、森川先生に幼稚園の仕事について話を聞いています29。学齢にも満たない学外の個人に対して校内の教室を使って個別指導をすることは、極めて例外的なものだったと思われます。こうしたことも、憲吉と水木要太郎との親しい人間関係が背後にあったためではないかと推測されます。
『近代の陶工・富本憲吉』の著者は、国語を教えていた竹尾ちよから後年聞き取った内容かと思われますが、そのときの一枝の様子を、次のように書き表わしています。
[尾竹ちよ先生は]授業のない時間を使って職員室の片隅などで陽への個人授業を続けたが、その授業の間、一枝は校庭を散歩するのが習慣だった。独特の髪型で長身の一枝の散歩姿は、女高師の生徒達の関心と注目を集め、職員会議で問題になりかけたこともあった。陽も奈良ではまず見かけることのない洋装だったので、強烈な印象を見る人に残した30。
女高師の生徒たちは、一枝がかつての「青鞜の新しい女」であることや「らいてうの恋の相手の紅吉」であることに気づいていたものと思われます。彼女たちにとっては、「大スター校庭に出現」といった感じで、興味深げに一枝を見つめ、おずおずと近づくも、いつのまにか親しくなり会話を楽しむようになっていたにちがいありません。そのなかのひとりに、二年生の、あるいは三年生の小林信が含まれていた可能性もあります。しかし一枝の視線は、別のところにあったのではないでしょうか。おそらく一枝の視線は、押さえ切れずに独身時代のそれへと後戻りし、獲物を追うかのごとくに避けがたく、美しい才女探しに向けられていたものと推量されます。そうした「美しい才女」として、一枝の目に小林の姿が映っていたかどうかは、確かな証拠もなく、この時点で明確にすることはできませんが、後々に起きる出来事から推し量りますと、全く否定することもできないように思われます。
それではここで、当時の一枝と憲吉の教育観について見ておきたいと思います。順調に生育した長女の陽は数え年で八つになり、いよいよ学齢に達しました。一枝と憲吉は、陽を地元の村の小学校に入れるか、このまま家庭と女高師での教育を続けるか、日々悩んでいました。以下は、一枝の文です。
小學校に出すには彼女は遥かに高く進み過ぎて仕舞つた……こんな子供を尋一[尋常小学校一年]に出せば學校に対する興味、學科に對する熱心さを失はせる事は勿論です……それかといつて社會人として彼女を見た時、學校生活から受けるものゝ多くあることを無視する事は善いことであらうかとも考へました。……學校に出ないとすれば當然彼女は一人である……子供同志の遊び、それはどんなに楽しいものか、そこからお互ひが受ける智識、経験、それは子供を最も子供らしく育てゝ行くではないか、しかし私達は、結局家庭で敎育することに決心しました31。
そのように決心した理由について、一枝は続けてこう述べています。
村の小學校の生徒の種が悪いのです、先生が悪いのです。……小學校に出すことは危険な場所に放すやうで不安でならなかつたのです。それにその頃は、(今でもですが)小學教育、殊に初等科に對して一般的に私は信頼出來ないものを有つてゐました32。
他方で、憲吉の目には、教室は「自由の牢獄」に映っていました。そして教師は、子どもの「成長せんとする心」に理解を示さぬ存在でありました。憲吉は、こう述べています。
午後三時、子供等は嬉々として烈しき白日の道に列をなして家路につく。子供等は何故にかく楽しげなるか。彼等は自由の牢獄に等しき教室と彼等の成長せんとする心に同情なき教師等の手より離れたるが故なり。教育はげに自由の牢獄なるかな33。
このように一枝と憲吉は、当時の学校教育に強い不信をもっていました。ふたりは、過去を踏襲しないオリジナルな模様の創案を、その一方で、因習を断ち切った新しい家族の形態を――そのとき必死になって追い求めていました。それと同じ地平から教育や学校を眺めた場合、教育は、個性や個人、あるいは自由や創造性といった価値からあまりにも無縁の存在でありました。そして学校は、過去の旧い価値だけが堆積し、意味を失い廃墟と化した残骸物に似ていました。一枝が、「小學校に出すことは危険な場所に放すやうで不安でならなかった」と述べたとき、憲吉が、教室を「自由の牢獄」と表現したとき、過去の教育や学校を支えていた価値は完全に葬り去られ、この夫婦の理想は、長女の陽と、次女の陶のふたりの生徒だけが通う家庭内の「小さな学校」の私設へとつながっていったのでした。
晩年に執筆した「円通院の世界地図」と題されたエッセイのなかで、陶は、「小さな学校」の私設へと向かう経緯につきまして、こう述べています。のちに母親から聞かされたのではないかと思われる内容も含めて、陶はしっかりと記憶していたのでした。
母は遠い東京から嫁いで来ておりましたので、早速上京して行動を開始、当時自由教育家としてダルトンプランを実行しておられた牛込原町の成城小学校の校長小原国芳氏に御相談の末、小原先生も個人教授の私設学校の事を大賛成して下さり、東大大学院の卒業生の中から優秀な方を推薦して頂く事まで御約束頂き、母は安堵に帰ってまいりました34。
また別のエッセイ「安堵のことなど」のなかでも、陶は、この「小さな学校」について触れています。そこには、こうしたことが明かされています。
さっそく教室は母屋の裏の祖先の墓地内に建てられた小さなお寺「円通院」が模様変えされ、当時関西で一番の木工会社、大阪の内外木工所に子供用の小さな勉強机と椅子、大きな黒板等注文されました。……壁には大きな黒板と世界地図がかけられてあり、先生用の大きな机の上には特別大きな地球儀が置かれてありました。……先生は母屋の表門の門屋(昔の門番さんの宿舎)を宿舎とされ、一切のお世話はお祖母さんの家でして下さったようです35。
一方で、陶が「安堵のことなど」のなかで書いているところによりますと、「小さな学校」の開設には、別の思いが含まれていたようです。
姉が学齢に達した時に両親は熟考の末、寺子屋教育で2人の子供達を育てることに決めました。上野の美術学校を卒業年度に早々とイギリスに留学して数年間を過ごした父は、2人の子供をイギリスで見聞きして来た進歩的な教育と同じ様式で育てたいと考えました。理想にもえた父と母は相談を重ね、周囲の反対を押し切って寺子屋教育を実現したわけです36。
陶が述べている「イギリスで見聞きして来た進歩的な教育」とは、果たしてどんな教育だったのでしょうか。富本が渡英した目的は、一九世紀の社会主義者でデザイナーであったウィリアム・モリスの思想と実践に触れることでした。モリスは、一八九〇年に社会主義同盟の機関紙『コモンウィール』に「ユートピア便り」を連載し、翌年に単行本化され、リーヴズ・アンド・ターナー社から発売されます。そのなかで著者のモリスは、ハモンド老人にこう語らせるのです。
……子どもの実にさまざまな能力や気質がどうであろうとも、因習的に適齢と考えられている年齢に達すると学校へ押し込まれ、そこにいるあいだ子どもたちは、事実に目を向けることなく、お定まりの因習的な「学習」課程に従わされる、そのようなことをあなたは予期されていました。しかしあなた、そんなやり方は、肉体的にも精神的にも人が成長する(・・・・)という事実を無視するものでしかない、とお思いになりませんか37。
富本が一九〇九(明治四二)年二月から翌一九一〇(明治四三)年五月までの英国滞在期間中にこの単行本の『ユートピア便り(News from Nowhere)』を手にしていた可能性を全く排除することはできませんし、たとえそうでなかったとしても、モリスと近似的な教育観を富本がもっていたことに変わりはありません。明らかに、当時の教育を批判する論拠がふたりに共通しているのです。一九世紀の英国の教育は、モリスの言葉を借りるならば、「肉体的にも精神的にも人が成長する(・・・・)という事実を無視する」飼育であり、二〇世紀の日本の教育は、富本の言葉に従えば、子どもの「成長せんとする心に同情なき教師」による教練でした。このようにモリスと富本の教育観を対照してみますと、モリスが「ユートピア便り」のなかで描き出していた社会革命後の空想的世界における教育を、意識的であったのか無意識的であったのかは別にして、日本において実践しようとしたのが、富本夫妻だったのではないかという気がします。
他方、自由主義的な校風をもつ文化学院が西村伊作によって創設されるのも、また、羽仁もと子によって自由学園が創設されるのも、ともに一九二一(大正一〇)年のことです。この時期は「大正デモクラシー」の波に乗って、政治や社会の領域においてのみならず、教育の分野においても新しい動きが胎動してゆく時代でした。富本は、西村とも羽仁とも親交があり、おそらく日本の教育のあり方について、とりわけ自由主義教育や男女平等主義教育の意義などについて意見を交換していたにちがいありません。
こうして準備が整い、安堵村という日本の片隅の理想郷(ユートピア)にあって「小さな学校」が開校しました。もっとも、「小さな学校」の時間表にない英語と唱歌と理科については、生徒であるふたりの姉妹は、週に二回ほど軽便鉄道に乗って母親に連れられ奈良市街の女高師へ通うことになります。しかし、修身の教科だけは学校に任せず、除かれたのでした。「小さな学校」の開校は、一九二二(大正一一)年の、おそらく四月のことだったと思われます。このとき陽は満で六歳、陶は四歳、そして小林信は、女高師の三年生から四年生への進級を迎えようとしていたのでした。
この「小さな学校」の初代教員は伊藤、二代目は立石という名の人物でした。両名は、すでに引用しています陶の言葉に従えば、成城小学校の校長の小原国芳によって紹介された教師だったものと思われます。続いて、卒業後就職した徳基高等女学校を一年で辞職し、三代目として一九二四(大正一三)年の四月に着任したのが、小林信でした。
一九二四(大正一三)年八月号の『婦人之友』を開いてみますと、そこに、「私たちの小さな學校に就て」という主題のもと、富本一枝の「1. 母親の欲ふ教育」、小林信の「2. 稚い人達のお友達となつて」、そして、富本憲吉の「3. 生徒ふたりの教室」の三編のエッセイが掲載されていることに気づきます。小林は、「稚い人達のお友達となつて」を、次の文言でもって書き出しています。
私が陽ちやん陶ちやんと云ふ二人の稚い人のお友達となつて、此の學校に來ましたのは、つい此の四月で、未だほんの四ケ月足らずにしかなりません。けれど、私は此處三年程前、卽ち姉さんである陽ちやんが、始めて恁ういふ特殊な敎育を受け始めて以來、二人の母上を通して、その母上が二人の愛兒の上に抱いて居られる理想を覗ひ、二人の稚い人達の上を祕かに考へ、此の稚い人達の學校を見せて貰ひ、又一二時間の出鱈目な先生になつた事抔もありして、陽ちやんと陶ちやんとは、お互によく遊ぶお友達同志でありました38。
このことから、小林が奈良女子高等師範学校の四年生になるときに開校された「小さな学校」で、ときどき陽と陶の先生になったり、遊び相手になったりしていたことがわかります。それでは小林は、いつどのような経緯で、憲吉なり一枝なりと面識をもつようになり、富本家の自宅に出入りをはじめるようになったのでしょうか。それについては正確に特定することはできませんが、すでに述べていますように、次のような可能性がいまのところ残されています。小林は一九一九(大正八)年の四月に奈良女高師の文科に入学しました。入学早々に受講したと思われる「大和史講話」のなかで、おそらく水木要太郎が、安堵村で活躍する陶工の富本憲吉とその妻の一枝について話題にした可能性があり、そうであれば、早くもこの段階で小林は、富本夫妻のことを習い知ったことになります。そして、その翌年の一九二〇(大正九)年一〇月号の『女性日本人』に所収されていた、憲吉の「美を念とする陶器」を読んでいたとするならば、ここには「何うか私共の考えや生活を見てください」と書かれてあり、これが誘因となって、小林は富本家を訪問したのではないかとも考えられます。他方、ちょうどこの年(一九二〇年)の春から、一枝は、長女の陽を連れて女高師へ通い始めます。このとき小林は、校庭を散策する一枝と顔をあわせ、これがきっかけとなって、富本家に招き入れられるようになったのかもしれません。
当時富本家に出入りしていたのは、小林だけではありませんでした。数名の女高師の生徒たちが日常的に富本家を訪れていたようです。そのなかに、小林の一年後輩の丸岡秀子がいました。丸岡は、一九〇三(明治三六)年五月五日に長野県南佐久郡で酒造業を営む家の長女として生まれますが、生後一〇箇月で生母と死別し、その後母方の祖父母のもとで育てられ、長野高等女学校を卒業すると、長野県知事の推薦によって、一九二〇(大正九)年の四月に奈良女子高等師範学校に入学します。卒業後丸岡は、その生涯を通して女性解放運動家や社会評論家としての道を歩み、多くの著作も残します。そのなかで丸岡が、富本家と関係をもった当時の様子について触れている本として、後年に著した『ひとすじの道』と『いのちと命のあいだに』があります。『ひとすじの道』は自伝であり、『いのちと命のあいだに』は、この間に出会いがあった忘れ得ぬ人たちについての交友録となっています。小林自身には、残念ながら、これに類するような文は見当たりませんので、主として丸岡の記述内容をもとにして、これより、女高師の生徒たちがどのようにこの時期富本家とかかわっていたのかを再現することにし、そこから小林の置かれていた状況を類推してみたいと思います。
十代後半のこの年齢の生徒たちは、多かれ少なかれ悩みを抱えていました。出自や家族について、勉学や成績について、社会や教育における歪みや欺瞞について、恋愛や性について、そして、将来の職業や結婚について――悩みの内容は、生徒によってさまざまであったにちがいありませんが、丸岡自身は、「人間主義のなかで、社会の矛盾や、生活の食い違いの根源に迫るものをほしがっていた」39と、告白しています。そうした心の飢えが誘いとなって、雑誌に掲載された一枝の作品を読んだ丸岡は、一九二一(大正一〇)年のおそらく四月に、安堵村の広々とした田んぼの一隅に位置する富本家の自宅を、はじめて訪ねるのでした。女高師二年になったばかりの一七歳の春のことでした。
富本家の真紅のバラの門をくぐると、足音を聞きつけた一枝が、すでに二枚戸の前に立っていました。「白い芙蓉の大輪が、パッといっぺんに咲き開いたような感じだった」40。丸岡を出迎えた「一枝は、久留米がすりの着物に、白っぽい帯を無造作に腰に垂らすように締めていた。また、髪の形が独特で、これまでに見たこともないタイプだった」41。ベランダのイスに向かい合って座り、一枝と話していると、頭を短く刈り込んだ、ジャンパー姿の憲吉が入ってきました。「やはり背が高く、全体がキリリとしまった感じの人だった」42。ひとことふたこと言葉を交わすと、また裏にある仕事場にもどっていきました。丸岡の生まれ故郷のことやいま籍を置いている女高師のことが話題となって、一枝との会話が続きます。「紹介状も何もない、どこの何者かもわからない小娘に、一枝はだんだん好意を示しはじめてくることが、わかるような気がして……じっと一枝の顔をみつめ、この人のひと言も聞きのがすまいと腰をおろしていた」43。一枝は、「自分たちの子どもも、週に何回か、附属の小学校に連れて行っていることなど」を話すと、別れ際に、「どうぞ、いつでも、あなたのご都合のいいときにいらしてください。わたしも奈良に出たら、お訪ねしましょう」44と告げます。短い滞在でした。しかし、丸岡にとっては、「この日を‶初恋の日″と思わないではいられないほど、心が昂っていた」45。
はじめてのこの日の出会い以降、日曜日を待ちかねるようにして、丸岡の足は安堵村へと向かいました。丸岡はここで、いままでに経験したことのない、さまざまな事象に遭遇します。まず食べ物――。丸岡が「はじめてコーヒーというものを飲んだのは、このベランダであった」46。次に音楽――。丸岡は「はじめて、バッハだの、ショパンだの、ベートーヴェンだのの名をここで知った。それらの音楽を聞きながら、いつも故郷の女の生活を思った。生涯を土に埋もれ、生き死にの持続のなかで、自分を抑圧し通している女の生活と、富本夫妻のこの生活とを比べた」47。さらに書籍――。「一枝の書架には、新しい本がぎっしりつめられ……その書棚には、女高師という名の学校の図書館では見られない‶禁じられた本″が並んでいた。トルストイ、ドストエフスキーからはじまって、ツルゲーネフ、ゴーリキーなどのロシアの作家のもの。そしてまた、バルザック、ユーゴー、デュマ、ゾラ、モーパッサン、ロマン・ローランなどのフランス文学者の名が背文字に並び、数え上げられないほどだった」48。一枝は丸岡にこういいました。「どれでも持って行ってください。読まれたら、戻してくださればいいのです」49。
さらに丸岡を驚かせたのは、富本家の夫婦のあり方にかかわるものでした。憲吉と一枝が展開するような自由な人間同士の関係性をかいま見るのは、丸岡にとってはじめての体験でした。父母の愛に恵まれずに育った苦悩や、土着の生活しか知らなかった世界観は大きく揺り動かされ、丸岡の心のなかに、未来に向けて生きるうえでの自信のようなものが芽生えてきたのでした。丸岡はこう書いています。「コーヒーを飲むこと、レコードを聴くこと、本を読むこと、話し合うこと、感想をのべ合うこと、おたがいの道を創り合うこと、対等に助言し合うこと、解放といえば、より適切といえるような人間の暮らし方を、奈良の小さな村のなかで、この村に住む二人のなかで……発見した。その驚きと悦びに……初めて、《わたしも生きられる》と思うようになった。……この一組の配偶を理想の像と見るようになっていった。そして、二人の生活のなかに、遠慮もなく入り込んだ自分を、幸運だったと思った」50。
丸岡が観察しているとおり、この小さな村にあって、過去の価値観や先例に囚われない、新しい生き方が富本夫婦によって営まれていました。一枝は、一九一七(大正六)年一月号の『婦人公論』に寄稿した「結婚する前と結婚してから」のなかで、「夫は非常な熱心で常に私を指導してゐる」と書きました。一方憲吉は、一九二〇(大正九)年一〇月号の『女性日本人』に寄稿した「美を念とする陶器」のなかで、「何うか私共の考えや生活を見てください」と書きました。それもこれもすべてが、まさしくここで丸岡が目にしている内容だったにちがいありません。
それでは一枝は、自分自身のことを丸岡に話すことはあったのでしょうか。丸岡の書くところは、こうです。
一枝は、憲吉と結婚する前は、尾竹紅吉といい、平塚らいてうの青鞜運動の同人であり、その強い自己主張は、当時の社会に際立っていた。それなのに……そんな素振りは少しも見せなかった。人間解放の火花を散らし、差別に挑む女性の先駆者であったことなどは、少しも語らなかった51。
丸岡は、一枝の青鞜時代を少し買いかぶっています。一枝が青鞜の社員であったのはわずか一年で、その間の一枝は、「人間解放の火花を散らし、差別に挑む女性の先駆者」とは異なる次元において「当時の社会に際立っていた」のでした。丸岡が訪問したころの一枝は、明らかに、結婚前の自分に強い嫌悪感を抱いていました。以下は、一枝の書くところです。
評判を惡くして心のうちで寂しく暮してゐた事もあつた。可成り長く病氣で轉地してゐた時もあつた。全く寂しく暮してゐた時もあつた。どうにかして眞面目な人生に眼を醒ましたいと悶躁(もが)いてゐた。僞もつゐた。人を欺しもした。いぢめもした。愛しもした52。
このように、一枝の安堵村での生活は、むしろ青鞜時代の自分から離れ、新たな人間へと生まれ変わる試練の時期でもあったわけです。そうしたなかにあって、一枝が、結婚前の自分について口を開くようなことはなかったものと思われます。しかしながら、女性を惹きつける魅力は温存されていたようで、一枝を慕って女高師の学生たちが集まってきました。丸岡は、日曜ごとにこの夫婦を訪ねていました。
そのうちに二人を訪れる人が、だんだん多くなることもわかってきたし、一枝をあこがれる学生も、同級生のなかにも出てきたり、そのまた上の学生のなかにも出てくるようになった。
一枝は、それらをすべて受容した。決して拒まなかった。強烈な花の香りにあつまるように、二人が三人になり四人になっていった。一枝もまた、そのなかで好ましい学生と、そうでないものとに心を分ける姿を見せることもあった53。
丸岡は、「そのことを敏感にかぎ分けた。そして嫉妬もした。だが、それに負けるものかと思うようになった。むしろ、せっせと安堵村に通った。すると、同級生や、上級生が、ベランダで、一日中、一枝と談笑していることもたびたびだった。だが……ひるまなかった。すぐ、台所に入って袴をとり、割烹まえかけ姿になって、浸(つ)けてある洗濯をはじめた」54。
丸岡の同級生の「そのまた上の学生」で、一枝が「好ましい学生」として選別し、「べランダで、一日中、一枝と談笑している」上級生が、小林信なのではないでしょうか。そうであれば、小林が富本家を訪れるようになったのは、一九二一(大正一〇)年のことで、女高師三年のときだったということになります。それでは小林は、一枝とどのような話題で談笑していたのでしょうか。正確な証拠があるわけではなく、状況から推し量るしかありません。学校のことでいえば、一年前の春の門限事件のことが話題になったのではないでしょうか。そのことについて丸岡は、「例の門限におくれたというだけで、ふたりの学生を即時退学処分にした、そのことに対する学校への不信……それをどうすることもできなかったことに対する、自己嫌悪」55を率直に告白しています。おそらく、小林も同じ思いを抱いていたものと思われます。これは、規則に対する学校側の厳格さを示そうとする態度であったのでしょうが、単なる形式的硬直性を露呈するものでもあり、おそらく多くの寮生を震え上がらせる事件だったにちがいありません。『奈良女子大学百年史』は、直接その事件には触れていません。ただ、この時期、門限時間が少し延びたことに言及しています。一九二〇(大正九)年七月、「生徒の門限は、三十分から一時間延長され、三月から十月の期間は、午後七時、十一月から二月の期間は午後六時となった」56。
一枝と小林の談笑は、学内問題だけではなく、当時の政治、社会、教育を取り巻く多岐にわたる問題へと発展していった可能性もあります。世界的には、一九一七(大正六)年のロシア革命、一九一八(大正七)年の第一次世界大戦の終結、国内では、一九一八(大正七)年の米騒動、一九二〇(大正九)年の第一回メーデーの開催、一九二一(大正一〇)年の川崎・三菱両造船所での労働争議、一九二二(大正一一)年の水平社の結成、同じく一九二二(大正一一)年の日本共産党の創設、他方、教育に目を向ければ、一九二一(大正一〇)年の文化学院や自由学園の創立にみられるような自由教育への関心の高まり――。憲吉と一枝が、旧い生活秩序を否定し、それに代わる新しい夫婦関係の構築に向けて、この安堵の地において奮闘していたこの時期は、変革を求める政治、社会、教育上の新しい動きの顕在化と重なり、これが、一枝と小林の共通の関心事となっていた可能性が残されるのです。前述のとおり、一九二二(大正一一)年の春、富本夫妻は、村の学校に入学させず、ふたりの娘の教育の場として「小さな学校」をつくりました。個人的なレヴェルでの教育革命です。このとき、小林は四年生になっていました。そして、一枝のはからいがあったのでしょう、小林は、「此の稚い人達の學校を見せて貰ひ、又一二時間の出鱈目な先生になつた事抔もありして、陽ちやんと陶ちやんとは、お互によく遊ぶお友達同志でありました」。こうして、小林は、ふたりの子どもと一緒に勉強をし、遊び相手となりながら、一枝との信頼関係を深めてゆくのでした。
丸岡は、自身の教育実習について、このように書いています。「当時の附属女学校の生徒の、教生泣かせは手馴れたものだった。だから、四年三学期の教生時代は、みな苦労した」57。丸岡よりも一年上級生であった小林も、同じく四年の三学期に教育実習を行なったにちがいありません。配属されたのが附属高等女学校であれば、国語科の教諭の竹尾ちよ(のちに結婚により松山に改姓)と、そのとき面識をもったものと思われます。すでに前に述していますように、このときまでに竹尾は、陽の教育のことで一枝と知り合っていましたので、教育実習中、国語教師の二五歳(あるいは二六歳)の竹尾と実習生の二〇歳の小林が交わす会話のなかに、一枝のことが登場したかもしれません。また、竹尾が安堵村を訪問したのも、この少し前のころだったにちがいありません。「富本邸に一か月滞在した竹尾先生は、同家の朝食のハムエッグや、トマトの野菜サラダに驚いた。生まれて初めてハムを口にしたのである。トマトも未だ珍しかったが、一枝が家庭菜園のように庭で栽培していたらしい」58。
しかし、教育実習生の小林にとって、一枝についての話題同様に心に強く響いたのは、竹尾が歌を詠む人であったことではなかったかと推量されます。といいますのも、竹尾は一九一八(大正七)年に『梨の花』を蛮船社から上梓しており、このときまでにすでに大和の才媛歌人として著名な人物になっていたからです。そして、竹尾が教育実習生の世話をしていたころは、『大和巡礼路の歌』(一九二五年、木原文進堂)の出版準備に入っていたものと思われます。このとき小林は、竹尾に歌づくりについて教わったかもしれませんし、小林が、一九二九(昭和四)年の秋に与謝野晶子・鉄幹夫妻の門下生になるのも、こうしたことが遠因として挙げることができるのかもしれません。
教育実習が終わると、一九二三(大正一二)年の三月、奈良女子高等師範学校を無事卒業し、徳基高等女学校(現在の山口県立厚狭高等学校)への赴任の旅に就くのでした。
小林信が女高師を卒業して奈良を離れると、丸岡秀子は最上級生の四年生となり、日々富本家に通う、残された数少ないひとりになったものと思われます。丸岡の富本夫婦に向ける敬愛の念はさらに膨らんでいました。夏休みが近づきました。
学生としては、最後の年であり、来年は、どこに移り住んでいるかわからないし、もう安堵に通うこともできないと覚悟しなければならなかった。そこで、ひと夏を安堵に居候をさせてもらいたいと頼んでみた59。
しかし、富本家の家族は、この夏を尾道の対岸にある向島で過ごすことにしていました。それでも丸岡は諦めずに、尾道への同行を懇願しました。こうしてついに、希望がかなって尾道行の許可が下りたのでした。向島には、憲吉の焼き物のコレクターで、医者をする小川正矩が住んでいました。一行は小川の世話により、一軒家を借り、およそ一箇月にわたる夏の日の休暇を楽しみました。しかしこのとき、重大な出来事が起こったのです。
丸岡秀子の小説的自叙伝である『ひとすじの道 第三部』に、そこでの出来事の様子が、次のように描かれています。間違いなく「恵子」が丸岡本人です。
その間にも、訪問客があった。ことに一枝をあこがれ、一枝もまたとくべつの好意を寄せていた、奈良の学校の先輩が島を訪れた。恵子の上級生でもあり、特別な美貌でもあり、当時この家への出入りも繁くなっていた。恵子の友人の一人でもあった60。
この女性こそ、この春に卒業し、山口の女学校へ赴任していた小林信だったにちがいありません。
一枝は喜び、彼女と水着に着替えて、毎日、彼女と二人で海に入った。こちらの島から向こうに見える島まで泳ぎの競争をするのだと、はしゃいでいた。憲吉は、寂しそうに、二人の子どもたちと、いっしょに海に入った61。
憲吉の寂しさの内実は、何だったのでしょうか。妻が女性と歓喜して戯れる光景を、憲吉が実際に見たのは、おそらくこれがはじめてのことでした。このとき、憲吉の脳裏には、妻のそうした性的指向を雑誌や新聞で承知していたからこそ、結婚後ただちに東京を離れ、妻の好む、若くて美しくて才能ある女性が住むことのない辺境の安堵の地に移住してきたのではなかったのか――そういう思いが、蘇ってきたにちがいありません。一枝はかつて「結婚する前と結婚してから」のなかで、こう書いていました。「都會を出立して田舎に轉移した彼と私は彼の云ふ高い思想生活を私達の爲めに營むべく最もよい機會をここに見出したことに強い自信とはりつめた意志があつた」62。さらには、このようにも書いていました。「彼は、都會は、私を必ずや再び以前に歸すことを、再び私の落着のない心が誘起される事をよく知つてゐた」63。このとき海の岸辺で憲吉が目にしたのは、疑いもなく、一枝のいうところの「落着のない心」、つまりは同性へ向かう性的指向が「誘起される」実際の現場だったのです。憲吉の寂しさは、まさしくここにあったのでした。
それからしばらくして、またひとつの出来事が起きました。丸岡にとって、これもまた、いままでに経験したことのないような衝撃だったにちがいありません。その場面を丸岡は、こう描写しています。
ある日のこと、恵子は独りポンポン蒸気に乗り、尾道まで食糧を仕入れに行って帰ったが、まだみんなが海だったので、昨日の日記をつけようと机の上のノートを開いた。ところが、そこに一枝の伸びやかな文字が長々と書きこまれてあった。それが目に入ったとき、恵子は飛び上がって驚いた。
「許してください。黙って、あなたの日記を見たことを許してください。それは、あなたがどんなに苦しい思いをしているのか、いつも心配していたからです。ことにMさんが島を訪れたときのあなたの表情を見ていたからです。たしかに、わたしはMさんに心を傾けていました。Mさんを愛してもいます。だが、そのかげで、あなたの心を傷つけてしまったのではなかったかと、恐れていたのです。
ところが、あなたの日記には、どこにもその影さえ見当たらなかったのです。感謝しています」と、恵子の日記の終わったページに、一枝は書いていた64。
決定的な証拠があるわけではありませんが、起承の経緯と前後の関係からして、この「Mさん」が、丸岡にとっての「奈良の[女子高等師範]学校の先輩」で、「友人の一人」であり、「特別な美貌でもあり、[学生時代の]当時この[富本夫妻の]家への出入りも繁くなっていた」女性であり、具体的には「小林信」だったことに、まず疑問を挟む余地は残されていないものと思われます。それでは、なぜ一枝は、丸岡の日記に「Mさん」という表記をしたのでしょうか。実際には「信さん」と書かれていたものを、丸岡は、「小林信」と特定されることを避けるために、イニシャルを用いたのではないかとも考えられます。それであれば、「信」の正しい読みは、「のぶ」ではなく、「まこと」「まさ」「みち」のいずれかであったと判断されます。しかし、実際は「のぶ」だった可能性も決して排除できず、その場合は、全く実際の名の読みに関係なく、丸岡は無作為に選んで「M」の文字を当てたことになります。
いずれにいたしましても、一九二三(大正一二)年の夏の向島における「Mさん」の出現に端を発し、一枝が丸岡の日記に、「わたしはMさんに心を傾けていました。Mさんを愛してもいます」と書いたことは、一枝が「結婚する前と結婚してから」のなかで書いていた「彼の云ふ高い思想生活」にひびが入り、自らの特異なセクシュアリティーを「再び以前に歸すこと」を意味していたのでした。
こうしてこの向島で、小林と一枝は数個月ぶりの再会を果たしました。小林の向島滞在は、ふたりにとって、空白を補う、おそらく待ちに待った、心躍るものであったにちがいありません。そのときふたりのあいだでは、どのような会話が繰り広げられたのでしょうか。
ひとつには、一枝は、夫である憲吉の最近の心情を察し、それを話題にしたかもしれません。米価の高騰が民衆の生活を圧迫し、暴動事件へと発展したのが、いわゆる米騒動と呼ばれるもので、一九一八(大正七)年の七月の富山での勃発以降、全国的な規模で広がってゆきました。それ以来、地主であるがゆえの不安と苦悩が常に憲吉の身に影を落としていたことは想像するに難くありません。このときはまだ生まれていなかったのですが、のちに父親の立場に思いを寄せて、長男の壮吉(一九二七年生まれ)が、このように語っています。
大正末年、全国的な不況。小作争議が相次いだ時、わが富本家も小なりといえど地主。やはり小作の人々は強硬に談判に及んだようである。胸の中にはウイリアム・モリスにあこがれをもち、量産陶器に胸をふくらませていた父も、現実ではやはり小地主。――そのジレンマに立たされて大和川での魚釣りは朝から晩まで……ということであったらしい65。
おそらくのちに母親の一枝に聞かされたことなのでしょうが、壮吉が書くように、このころの憲吉の一時期の日々は、釣り三昧だったのかもしれません。そうしたことを話題にしながら、憲吉の置かれている、陶工とは別の、地主としての厳しい立場を、一枝は小林に語ったのではないかと推量されます。
次に話題にした可能性があるのが、自分自身のことです。米騒動に続いて、一九二二(大正一一)年三月に、京都の岡崎公会堂にて西光万吉を中心として全国水平社が結成されました。被差別部落の地位の向上と人間の尊厳の確立を目指すもので、日本で最初の人権宣言ともいわれています。水平社の結成は、一枝の正義感に火をつけたものと思われます。といいますのも、これまでに一度も一枝は、被差別部落に関連して稿を起こしたことはありませんでしたが、はじめてこの時期、この問題を主題化し、「貧しき隣人」という作品にまとめているからです。この小説は、一九二三(大正一二)年の三月号の『婦人公論』に掲載されました。ちょうど小林が卒業して赴任する時期と重なります。小林が向島に来たとき、すでに小林は読んでいたかもしれませんし、このときにあわせて、「貧しき隣人」が掲載された『婦人公論』を持参していた一枝は、直接小林に手渡したかもしれません。いずれにしましても、ふたりは「貧しき隣人」を素材にして、被差別部落の問題について、さらには文学全般について語り合ったにちがいありません。小林自身は、竹尾ちよとの出会い以降、すでに短歌に関心を寄せていた可能性があります。また、小説にも心躍らせるものがあったようです。といいますのも、小林は、翌一九二四(大正一三)年の『女性改造』(九月号)に小説「女の客」を書いているからです。ひょっとしたらこのとき、一枝と小林は、ともに小説を書き、文壇において共演することを秘かに話し合っていたかもしれません。一枝の小説「鮒」が『週刊朝日』(第一〇巻第一五号)に掲載されるのは、尾道での再会から三年後の一九二六(大正一五)年の秋のことでした。
さらに話題にしたであろうと思われるのが、自由学園の一期生の一団が安堵村を訪れ、本宅に泊っていったことです。一九二一(大正一〇)年五月に、羽仁もと子が園長を務める自由学園高等科に一期生が入学しました。そのなかには、のちに童話作家で児童文学者となる岡内籌子(かずこ)(のちに村山姓)や社会運動家として活躍する田中綾子(のちに石垣姓)が含まれていました。以下は、村山籌子研究家のやまさき・さとしの文です。
大正十二年三月末から四月のはじめにかけて、卒業旅行と称して彼女たち一期生一行はミセス羽仁とともに(総勢二五名)横浜港発の欧州航路伏見丸の一等船客となり、「西洋」を勉強しつつ、神戸に上陸して奈良近辺の「東洋」を学んだが、奈良では全員、富本の[本宅の]屋敷に泊り、かれの案内で仏像をみて廻った66。
これは、小林が徳基高等女学校へ向かった直後の出来事だったと思われます。おそらく一枝は、自由学園で行なわれているような自由主義の考えに則った教育の価値を力説したに相違ありません。それに対して、小林がどう答えたのかはわかりませんが、赴いた山口の女学校でこの間経験した内容については、はっきりと一枝に伝えたものと想像されます。以下は、それについての、赴任一年後の小林の言説です。
せめて自分丈けでもそういう[矛盾や欺瞞に満ちた]社会から逃れたいと、常に願ひ乍らも、止むなく或る地方の女學校に赴任して一年。私の無経験な、併しそれ丈けに純粋であり、又眞實だと信ずる私の考へが、事毎に、殆んどその種子下ろしさへも許されずに、無惨(むざ)無惨(むざ)と蹂躙(ふみにじ)られて行くのを、私は戦ひおほして突き進む力を失つて了ひました67。
この文から察しますと、小林信という女性は、社会の猥雑さに染まることに自己を許すことのない、実に純心で誠実な教師だったように感じられます。一枝は、こうした小林の一途さに惹かれていたのかもしれません。こうした小林が上げる叫び声が、侠気的熱情に富む一枝の胸を大きく揺さぶったのでしょう。おそらくこのときであろうと考えられますが、来年の三月で女学校を辞め、「小さな学校」の教師として安堵の地に帰ってきてもらえないか――一枝はこう、小林に促したものと推量されます。
まさしくふたりは、水と魚の関係に似て意気投合し、昼間は一緒になって海で歓喜の声を上げながら泳ぎを楽しみ、尾道対岸の小さな島の借り切った宿にあっては、こうした一連の会話に心を通わせては、熱い思いを重ね合わせていったのではないでしょうか。このとき、一枝は三〇歳、小林は二一歳になっていました。
一年間の奉職ののち、徳基高等女学校を辞して、富本家私設の「小さな学校」の三代目教師として転任してきた小林信は、喜びをもって一枝に迎え入れられたにちがいありません。
「小さな学校」は、富本家の菩提寺の円通院に設けられていました。ここはすでに廃寺同然となっており、かつて憲吉が英国から帰国したのち、一時期アトリエとして使用されたことのある場所でもありました。二年前の「小さな学校」の開設のときに改装され、陶の記憶によりますと、すでに引用で示していますように、「当時関西で一番の木工会社、大阪の内外木工所に子供用の小さな勉強机と椅子、大きな黒板等注文されました。……壁には大きな黒板と世界地図がかけられてあり、先生用の大きな机の上には特別大きな地球儀が置かれてありました」。少し離れて母屋があり、この本宅には、主に憲吉の母親と祖母が暮らしていました。代々続く庄屋の家柄で、使用人も幾人かは抱えていたにちがいありません。陶の記憶は、さらにこう続きます。「先生は母屋の表門の門屋(昔の門番さんの宿舎)を宿舎とされ、一切のお世話はお祖母さんの家でして下さったようです」。憲吉と一枝の自宅は、母屋から歩いて約二〇分の所にありました。こうして、小林信を先生とする、陽(当時満八歳)と陶(六歳)の「小さな学校」通いがはじまったのです。時は、そろそろ安堵村では田植えがはじまろうとする、一九二四(大正一三)年四月のことでした。
陶は、こう書いています。「姉と私は朝食が終わると田舎道を『円通院』の学校に通い、国語、数学、お習字等を勉強しました」68。午前中で勉強は終わり、子どもたちは帰路につきます。家では母親が待っています。次は一枝の言葉です。「平和に静に愉快に勤勉な幾時間をそこで過して午飯にこの田の中に建つ小さな一軒家に戻つてくる時、母親の私は子等のために温き飯を焚いて膳を調へ待つてをります。『只今』『母さん只今』と、元氣のいゝ明るい聲が遠くから四方に響いてくる時、いつもながら胸迫つた嬉びがほとばしります」69。
そうしたなか、雑誌社から依頼があったのか、一枝が発案したのか、その詳細はわかりませんが、この「小さな学校」について、富本夫妻と小林信が筆を執ることになりました。掲載誌は、この年の『婦人之友』八月号でした。一枝が「1. 母親の欲ふ教育」を、小林が「2. 稚い人達のお友達となつて」を、そして憲吉が「3. 生徒ふたりの教室」を担当しています。以下は、それぞれの文の概略です。
一枝は「1. 母親の欲ふ敎育」のなかで、これまでの陽と陶に対する家庭内での教育実践の様子を詳細に語り、続けて、村の小学校に子どもを通わすことを断念し、「小さな学校」を開設するまでに至った経緯を書き、そして、最後の「附記」のなかで、新任の小林についてこう記します。「小林信氏は私の若き友人として、今子供達のために全力を盡してゐて下さる。氏によつて私達の仕事は第二期に入ろうとしてゐます。學識ある氏によつて私達の學校の基礎が固められつゝある事を悦び感謝します」70。「円通院」の先生は、初代が伊藤、二代目が立石で、この四月から小林信に引き継がれ、一枝は、これをもって「第二期」に入り、「基礎が固められつゝある」ことに喜びを隠していません。
一方の小林は、「2. 稚い人達のお友達となつて」のなかで、冒頭、陽と陶と自分とのこれまでの関係をまず紹介します。「私が陽ちやん陶ちやんと云ふ二人の稚い人のお友達となつて、此の學校に來ましたのは、つい此の四月で、未だほんの四ケ月足らずにしかなりません。けれど、私は此處三年程前、卽ち姉さんである陽ちやんが、始めて恁ういふ特殊な敎育を受け始めて以來、……此の稚い人達の學校を見せて貰ひ、又一二時間の出鱈目な先生になつた事抔もありして、陽ちやんと陶ちやんとは、お互によく遊ぶお友達同志でありました」71。そして、自分の一年間の教師としての体験について、このように書きます。「……止むなく或る地方の女學校に赴任して一年。私の無経験な、併しそれ丈けに純粋であり、又眞實だと信ずる私の考へが、事毎に、殆んどその種子下ろしさへも許されずに、無惨(むざ)無惨(むざ)と蹂躙(ふみにじ)られて行くのを、私は戦ひおほして突き進む力を失つて了ひました」72。さらに、小林の言葉は、ふたりの生徒の母親である一枝への感謝へと向かいます。
小さくとも私自身の生きた敎育がして見度い。勿論、私の描く夢が、果して眞實のものに近いか否かを、私は知りません。それを思ふと、私は常に自分の爲てゐる仕事が恐ろしくなり、二人の稚い人達の前に、涙で頭の上がらなくなるのを感じます。併し、私自身は、私を容して呉れる人の許で、私の信じる處を進むより仕方がないのです。幸にも、二人の稚い人たちの母上から、『兎も角も貴女の信じる處を遣つて見て下さい。』といふ寛い了解の許に三人が結び合つてからの、此の小さな學校は何にも換へ難い私の寶です73。
この小林の「2. 稚い人達のお友達となつて」のあとに、憲吉の「3. 生徒ふたりの敎室」が続きます。憲吉はこう書いています。「兎に角拾年此の小さい竈を附けた小住宅に親子四人が住むで居る。新築された家に少し古びが付くと並行して、赤坊として移り住んだ陽は十歳に此の家で生れた陶は八歳になり小學敎育と云ふものがやつて來た。貧しい自分達が生活費の第一に數へあげる敎育費が自分達の衣服や雇人の部分に迄割りこみ或いはけづり取る迄も何うかして良い敎育を彼等に受けさしたいと相談して彼等だけの小さな小學校をやる事にした」74。さらに憲吉は、この学校の今後の設備の充実などについて、次のように抱負を語ります。「私の今の計畫では八疊一室と六疊一室。東西に長く、南にぬれ椽樣のものを取り、南に庭を取つて小さい池の夏䕃を造る樹二三本。若し子供等が好めば四五坪の花園。或は運動具一二と出來得るならば戸外で授業を受ける椅子等の設備。……敎室に使用せぬ六疊には書棚と机と椅子……圖書室の樣な用途に使用したい」75。そして最後を、「私達の樣な親の子として生れコウ云ふ學校で寂みしい友達のない獨りぽつちの生活を送る子供達の不幸がもし私達と先生の熱心によつて幾分でも消されるものなら私は大いに喜ぶ」76という一文で結びます。
憲吉が心配する、子どもたちの「寂みしい友達のない獨りぽつちの生活」について、小林は、教師として、以下のように、示唆に富む卓見を披歴しています。
……多く集る所に重大な意味を持ち、その必要を強くし、相集まつて始めて其處に全體としての一を、發見し得るのではありますまいか。茲(こゝ)に私はあの團體敎育が、重要な必然の要求として生れて來たのではあるまいかと思ひます。此の點から云つて、私共の學校は、餘程の力を各自の内に準備なければ、大きな缺陥に陥る結果を胚胎して居るのです。少くとも、もう四五人の友達を持ち、もう二人位の先生に援(たす)け敎へて戴けたらと、自分の足りなさ悲しみ、救を求めます77。
「團體敎育」の不在を、「小さな学校」の弱点として、小林は見抜いていたのです78。疑いもなく小林は、一枝が見抜くところの「學識ある」教師だったのでした。
しかし、「小さな学校」は長続きしませんでした。といいますのも、私が、奈良女子高等師範学校を前身校にもつ現在の奈良女子大学の学術情報センターに問い合わせたときの回答によりますと、同大学同窓会の佐保会会員名簿には、小林信は、一九二四(大正一三)年一二月現在「生駒郡安堵村富本方」に在住、そして一九二五(大正一四)年一一月現在「桑野信子」として在「東京」と記載されているとのことだったからです。ここから明らかなことは、短ければ一年足らずで、長くとも一年と少々で、小林は安堵村を離れていることを意味します。一枝は、「學識ある氏によつて私達の學校の基礎が固められつゝある事を悦び感謝します」と書きました。小林は、「此の小さな學校は何にも換へ難い私の寶です」と書きました。そして憲吉は、今後の「小さな学校」の設備の拡充について、その抱負を語りました。それなのに、なぜかくも短く、この学校は潰えてしまったのでしょうか。大きな疑問が残ります。
振り返りますと、昨年の夏休み、富本一家と丸岡秀子が滞在する尾道の向島で、ひとつの出来事が起こりました。「ことに一枝をあこがれ、一枝もまたとくべつの好意を寄せていた、奈良の学校の先輩が島を訪れた」。おそらくこの女性が「Mさん」で、一枝は、「Mさん」の来島で丸岡が傷ついたのではないかと思い、密かに丸岡の日記を見ました。しかしそこには、それについて何も触れられていませんでしたが、「わたしはMさんに心を傾けていました。Mさんを愛してもいます」と書き記しました。この「Mさん」が小林信であったことは、確定的な証拠はありませんが、事の推移の全体的な状況から判断して、それを疑う余地はないように思われます。そして、年が明けた四月に山口の徳基高等女学校から円通院の「小さな学校」に転任してきたのが、一枝の描写する「私の若き友人」の小林だったのです。
しかし、昨年夏の向島での海水浴で見せたふたりの親密な同性関係が、もしこの「小さな学校」にそのまま持ち込まれているとすれば、それは一体どのような事態を招くことになるのでしょうか。それについては、何ひとつ決定的な証拠となるものは残されておらず、想像するしかほかに、手立てはありません79。それにしても、なぜかくも短期間のうちに、確たる教育成果もなく、しかも後任や転校先が未定のまま、この学校は閉じられなければならなかったのでしょうか。極めて重大な何かが、このときこの学校に起こったことが想定されます。それは何でしょうか。一枝と小林のあいだに愛を巡る何か深刻な問題が生じた――そのように考えるのが、やはり自然で順当なのではないでしょうか。小林に向けられた一枝の一方的な愛だったのか、双方が許し求め合う愛だったのか、正確にはわかりません。前者であれば、一枝の行動に驚いた小林は、逃げるようにして安堵村を去った可能性がありますし、後者であれば、引き裂かれるような、意に反した強圧的な解雇だった可能性もあります。そうでなければ、そののちの、深尾須磨子と荻野綾子、あるいは湯浅芳子と中條百合子にみられる事例に近いものがあったのではないかとも考えられます。つまり、小林が結婚をすることによって、ふたりの関係が強制的に終了した可能性です。
いかなる結末であったとしても、前任の女学校に自分の居場所を見出すことができず、一年で職を辞し、希望に満ちて安堵村の富本家に赴き、「此の小さな學校は何にも換へ難い私の寶です」と書いていた純真で若い小林は、このとき、教師としても女性としても、何らかの挫折と苦しみを経験したにちがいありません80。その後の彼女の消息を知る立場にあったのは、奈良女高師の後輩で友人の丸岡くらいだったのではないかと思われます。のちに丸岡は、皮肉なり嫉妬なりを込めて、「ずいぶん浮気をなさったから、もう思い残すことはないでしょう」と、一枝を問い詰めます。すると、「それが、わたしへのお返しですか」という言葉がもどってきます。「あなたは美人がお好きでした。それはみとめていらっしゃるでしょう」と、畳み掛けると、一枝は「こいつ奴」という表情を見せています81。
小林がいなくなった結果として、「小さな学校」は教師を失いました。それ以降、富本一家が東京に移住するまでのあいだ、少なくとも一年間、あるいはそれ以上の期間、学習の機会が陽と陶に与えられることはなかったものと思われます。といいますのも、いまのところ、それを明示する痕跡や資料を見出すことができないからです。
この出来事が起きる前までは、一枝は、自己のセクシュアリティーを見つめ、苦しみ、そこから逃れて新しい地平にあって、一心に生きようとしていたのでした。そのことは、一九一九(大正八)年一二月号の『解放』に寄稿している「海の砂」によく表われています。
久しい間、幾年か私は、自分を不良心なものと思つたし、不徳義なものだとして見てゐたし、不道徳な人間だと思つて見過して來た。勿論、それを恥ぢた[こ]ともあつたし、強く責めて來た時もあつたが、とかく眞實の自分を探りあてる間近になると卑怯にも一時逃れをやつてゐた。それが「或る事」から、まるで考へが變つて仕舞つた。そしてどうにかしてそこに見つけた光りを、少しでも見失ひたくないと思つて、どれだけ一心に唯その光りに寄り縋つて來たろう。限りなく善くなること、限りなく正しい道を求めること、それが自分の探るべき一つのものであつた82。
一枝が、「或る事」といっているのは、憲吉との結婚を指すものと思われます。結婚後一枝は、「限りなく善くなること、限りなく正しい道を求めること」を願って、ひたむきな努力をしてきていたのでした。しかしその二年後、一枝は、一九二一(大正一〇)年の「安堵村日記」(『婦人之友』六月号)には、このように書いています。
くらいところ、おちてゆく程、自分を責める態度が強くなつてくる。他人を責めることの上手な自分は、かつて他人を責めたより、もつと激しい強い力で自分を責めてゐるのだ。それから、自分を底の底まで侮蔑してゐる。意地悪く卑める。自分の痛い痛い傷を、實に残酷にしつこくあばく、ほじくりたおす。自分程、いやな人間、悪い者は、もうゐないのだと云ふ事を、自分に無理にでも思ひこませようとする氣持がひどい音をたてて荒れ狂ふている83。
なぜにこうも自分を責め立てるのでしょうか。一枝を頼ってはじめて丸岡秀子が安堵村を訪れたのが、この年(一九二一年)の春のことでした。それに続いて、女高師の生徒たちが、富本家に出入りするようになります。そのなかに、小林信の姿もありました。このとき、自分の心のなかに、かつての「不良心なもの」「不徳義なもの」「不道徳な人間」の化身の再来を見出し、「氣持がひどい音をたてて荒れ狂ふている」ことを察知していたとすれば、一枝の押さえ切れない苦しいその思いが、この一文に反映されているのかもしれません。疑いもなく小林の出現が、一枝の「不良心なもの」等々を惹起しているのです。しかし、もはや一枝は自由な独り身ではありません。子どもも夫もある立場です。何としてでも「不良心なもの」を抑え込まなければなりません。続いて次の年、一九二二(大正一一)年の一一月号と一二月号の二回に分けて、一枝は、「母親の手紙」を『女性』に連載します。そこにそのことが、よく描き出されています。
かなりの長大な手紙です。かいつまむと、こうなります。「身体だけではなく、あなた方の知恵も、たましひも、見事にのび、善くそだつたのを母さんはどんなにうれしく沁々見やつたことでせう」84と、子どもの成長に喜びを感じ、「陽ちやん、陶ちやん、母さんはあなた方のために、やつぱり夢中で暮してゆきます。母さんは、どんなに苦しいことに出逢つてもあなた方のために、生きてゆきます。あなた方の愛と信頼は、母さんに自重、勇氣、忍耐、謙遜、を敎へ示してくれる筈です」85と、自分にとっての子どもの存在の大きさに言及します。子どもの父親のことについては、こういいます。「お父さんは、美しい心をもつた、人間の心を温かく結びつけ、人間の生活にうるほいのあるやうな陶器を焼成さすためにどれだけ苦しんでゐらつしやるかわかりますか、お父さんの苦しい氣持や、出來てゆくお仕事をいつも間近で見たり、きいたり出來てゆくあなた方や母さんは、どんなにしあわせでめぐまれてゐるかしれません」86。そして、自分の未熟さや未完成さの補完を、子どもに託すのです。「母さんに出來なかつたものは、あなた方がその續きをしてくれる。そして不完全からだんだん完全にうつつてゆくのだからそうさびしく思はなくてもよいと、母さんの別の心が母さんを慰めてくれるのもその時です」87。そして、最後をこう結ぶのでした。
母さんがあなた方に手紙をかきたいと思つたきもちが、いま母さんには、はつきりわかりました。ありがとう、陽ちやん、陶ちやん、母さんはあなたがたにおれいをいひます。
あなた方のために、母さんはいつでもともするとふみかける汚れた道を踏むことなくして、別の正しい路をさらにさがしにゆくことが出來るのです。……
あなた方よ、愛しあつて下さい。助け合つて下さい。そして幸福でゐてください88。
以上が、この「母親の手紙」一二月号の要旨です。明らかに一枝は、子どもにも夫にも感謝しています。さらに、ふたりの娘の成長とともに自らも成長することを願っています。この時期の一枝は、決して「汚れた道」へと進むことなく、子どものためにも「別の正しい路」を見出そうと、必死にあがいているのです。しかし、事の経緯からすると、その努力はむなしく潰え去り、もはや「別の正しい路」へと向かうことはありませんでした。
一枝が『女性』に「母親の手紙」を書いたのは、ふたりの子どもが、「小さな学校」に通い始めて、半年ほどが経過した時期です。このころ小林は、陽と陶を相手に勉強を教えたり、一緒に遊んだりしており、一枝の気持ちは、徐々に小林に傾斜していったにちがいありません。これをきっかけに、あたかも貯水池の堤が決壊するかのように、もはや止めようもなく、一枝の思いは横溢してゆきます。それに呼応するかのように、小林の一枝を慕う情愛も高鳴ってゆきます。翌年(一九二三年)の夏には、尾道の向島の海岸で一枝と小林は歓喜に包まれて海水浴を楽しみ、次の年(一九二四年)の四月には、山口の学校を退職し「小さな学校」の教師となって、小林は一枝のもとに身を寄せることになるのです。こうした経緯のなかにあって一枝は、本人の表現に従えば、「汚れた道」へと舞い戻ってゆくのでした。
富本家の東京移転を知るうえで、残されている唯一ともいえる具体的な資料は、一枝が一九二七(昭和二)年の『婦人之友』の正月号に寄稿した「東京に住む」という一文です。ここに一枝はどう書いているのか、以下に見てゆきたいと思います。
一枝は、「思へば一九二六年の早春から、如何に私達が悩み多い日を送つて来たことか」89と述懐します。そして「東京に住む」の冒頭において、一枝はこのように書くのです。
いくどか廻り來た大和國の四季に、住馴れた私達が、東京に移り住むやうになつたそこには樣々の理由があつたが、そのなかでも特に大きく強い事柄があり、むしろ樣々の理由といふよりそのこと一つが根本的の動きであつて、それ以外の私共のいふ理由は枝葉の問題に過ぎないが、その根本の問題にふれることは家庭的のことで、今は書くことがゆるされない。かいつまんで云ふなら人間同志のなかに必ずかもされる危機、その危険期に私達も亦等しく陥つた。さうして久しい間そこに悩み、嘆き、かなしみ、ありだけの人間らしい悲痛の感情の幾筋かの路を味ひ過ぎた。さうしてどうにかしてその境地から匍ひ出し、今後の生涯を立派に生き抜かうと決心し、そのためにこれまでの境遇、生活を見事にぶち破つて新しい生活を築きたてたいと思つた[。]その結果へ枝葉の理由が加へられ、東京に住むことゝなつた90。
一枝は、東京に移り住むようになった理由には「特に大きく強い事柄」である「根本の問題」があって、それについては「家庭的のことで、今は書くことがゆるされない」といっています。この言葉は、自分のセクシュアリティーについて、いまはカミング・アウトすることはできないという意味のことをいっているのではないかと考えられます。「どうにかしてその境地から匍ひ出し、今後の生涯を立派に生き抜かうと決心」ともいっていますが、これは、転地による療法を暗に指しているのではないでしょうか。小林が去っても、問題が根本的に解決したわけではなく、次の新任教師と同じ関係が生じる可能性も排除できませんし、さらには、これから以降も奈良女高師の女生徒たちが、一枝の魅力に惹かれて集まってくる可能性も、全く否定することはできません。そう考えれば、一枝の性的指向を再度惹起させないためには、前回東京から安堵村へと転居したように、転地しか、道はないのです。荷造りがはじまりました。
かうして幾十日か過ぎた。自分に頼む心の弱々しさを知らねばその間すら過すことが出來ない程もろい自分であつた。夫に勵(はげ)まされ、荷をつくりかけてゐてすら、さて何處に落着くかその約束の地を見ることが出來なかつた。夫の仕事のためには陶器を造るために便宜多い土地を撰定しなければならなかつた。土を得るに、磁器の料を採るために、松薪を求めるためにも、その他仕事する上には繪を描く人、文筆をとる人々のやうに軽らかに新しい土地に轉ずることは出來ない色々の困難があつた91。
「夫に勵(はげ)まされ」、荷造りをしているところから判断すれば、憲吉の一枝に対する同情の気持ちが見えてきます。一方の一枝は、転地先を選ぶにあたって、製陶に必要な薪や土などの入手に際しての利便性について憲吉を思いやっています。そうした夫の仕事上の特殊な条件を考えると、落ち着くべき約束の地がなかなか見つかりません。それに、娘たちの今後の教育のことも、考慮に入れる必要がありました。一枝は、こう続けます。
夫の仕事のことだけを念頭に置いてゆくなら、琉球にでも北部朝鮮にでも、九州の山深くある片田舎にでも容易に決定することが出來た。さうして私は夫を愛してゐる。その仕事を思ふことは夫についでゐるものである。しかしながら、すでに女學校へ入學しやうとする程たけのびた上の子供、まもなく姉の後につかうとする妹兒[。]それも四[、]五年の間家庭にあつて特殊な方法で敎育されて來た子供達であつたから、今後の教育方法について考へることが實に多かつた92。
解決すべき問題が複雑に絡みあっているのです。なかなか結論へはたどり着けません。話しあう場を変えるために、山陰の奥の湯宿へ向かいました。
夫は夜は荷をつくり晝は生活費を受るために土をのばし呉州をすり、つめたい素焼の壺を膝にのせたり、窯に火を投げた。さうして少しの金を得たので、私達はいよいよ最後の決心をつけるために何處に居住すべきかを決めるために、その金をもつて短い間の旅ではあつたが秋はじめ山陰の奥まで出かけて來た。古風な湯宿で過した十日程の日數、しかしそこでもまだあざやかな決心がつきかねたまゝ再び悩み深い歸路をとらねばならなかつた93。
場所を変えて話しあっても、どこへ転居すればよいのか、決心がつきません。さらにそのうえに、「金の問題と、子供を無駄に過させてゐる心配、生活に落ち着きのないところからくる焦燥」94が一枝の心に重くのしかかります。ついに一枝は、そのとき神を見ました。
神を見る心、ひたすらに信頼する世界、祈り、これを失してゐたことがすべての悩みの根源であることを強く思つた。私は自分の心を捨てゝ神の意志を尊く思ひ、そこで新しく生まれてこない限り自分達の生活は何度建て直しても駄目であることを知つた。
こゝに歸依したことは同時に小さい自我を捨てたことである。世界が限りなく廣く私達の前に幕をあげた95。
ここに至って一枝は、宗教心に帰依したのです96。一九一四(大正三)年発行の当時の新約聖書「ロマ書(ロマ人への書)」(現在訳の「ローマ人への手紙」)第一章の第二六節と第二七節には、同性愛について、こう書かれてありました。
二六 之によりて神は彼らを恥づべき慾に付し給へり、即ち女は順性の用を易へて逆性の用となし、二七 男もまた同じく女の順性の用を棄てて互い情慾を燃し、男と男と恥づることを行ひて、その迷に値すべき報を己が身に受けたり97。
また、異性装については、舊約聖書「申命記」第二二章第五節に、こう書かれてありました。
五 女は男の衣服を纏ふべからずまた男は女の衣裳を着べからず凡て斯する者は汝の神エホバこれを憎みたまふなり〇98。
一枝は、聖書のこれらの言葉を信じました。こうして一枝は、憲吉とともに、考えに考えを重ね、疲労と涙にあえぎながら、最後には神の存在に気づくことによって「神の意志を尊く思ひ」、「自分の心」や「小さい自我」を捨て、眼前に広がる新しい世界にとうとうたどり着いたのでした。ついに、新しく生まれ変わるべく「生活の建て直し」の道が開いたのです。
そこで、陶器を焼くためには不充分でありむしろ不適の土地ではあるが、それでも焼いて焼けないことはあるまい。要は制作するものゝ心の持方一つである。ただ材料その他の點の不足は物質で解決がつくことだから、仕事のために助力してくれる人があるなら必ず焼いてみせるといふ夫の話も、その人を得て、それでは子供のためにも都合よく行くし、また自分達にしても決して好んで住みたい土地ではないが、欠點だらけな人間の性質は同樣その弱點をもつ人間社會の中に飛び込んでお互にもまれ合ひ争闘しあひ相互扶助しあつて、はじめて完全に近いものともならう99。
そういう思いに至るなかから、生活再生のために落ち着くべき約束の地として、最終的に東京が選ばれました。幸い、憲吉へ資金を援助してくれる人たちも見つかりました。子どもたちは、成城学園に入れることになりました。それでも心配なのは、人が多く集まる東京の地で、根本となる問題は再燃しないのでしょうか。「欠點だらけな人間の性質は同樣その弱點をもつ人間社會の中に飛び込んでお互にもまれ合ひ争闘しあひ相互扶助しあつて、はじめて完全に近いものともならう」――こう信じるほかなかったようです。
一枝の、この「東京に住む」のなかに、わずかではありますが、自分のセクシュアリティーについて間接的に言及している箇所があります。そのひとつが、こうした文言です。
この久しい間の爭闘、理性と感情この二つのものはいまだにその闘を中止しようとはしない。そうしてそのどちらも組しきることが出來ない人間のあはれな煩悶を冷酷にも見下してゐる。平氣でゐる感情に行ききれないのは自分が自分に似合ず道徳的なものにひかれてゐるからで、といつて理性を捨切つて感情に走ることをゆるさないのは根本でまだ×に對して懀惡や反感と結びついてゐるために違いない。……本當にこの心の底には懀惡しかないのか、それでは偽だ。あんまり苦しい100。
この文章を読み解くうえで最大のポイントとなるのは、伏字となっている「×」にどの一字をあてるかということになります。あえて「性」をあててみたいと思います。自分のセクシュアリティーを憎悪する。しかし、それだけでは、偽りであるし、あまりも苦しすぎる――ここに、セクシュアリティーの解放を巡る理性と感情の激しい対立の一端をかいま見ることができます。自己の特異なセクシュアリティーに向けられた憎しみと、憎みきれない苦しみとが、混然一体となって一枝の心身を襲うのです。一枝が神を見るのは、そのときのことでした。
別の箇所には、こうした文言も見出すことができます。
かつて若かつた頃、なにかにつけて心の轉移といふ言葉を使つたものであるが、まことの轉移といふものは、並大抵の力では出來るものではなく、身と心をかくまでも深く深く痛め悩まして、身をすてゝかゝつてはじめて出會ふものであり行へるものであることを沁染と知ることが出來た101。
一枝は「心の轉移」という言葉を用いています。一枝が、自身を女性間の同性愛者(当時の通称では「レスビアン」など)として認識していたとすれば、彼女にとってこの言葉は、同性愛から異性愛へと性的指向を「轉移」させる試みを示唆する心的な用語法だったのかもしれません。それとは違って、一枝が、肉体的には明らかに女性でありながらも、心の性を男性として自己認識するトランスジェンダー(当時の通称では「男女」など)であると思っていたとするならば、この言葉は、心の性を体の性へと「轉移」させることを意味する彼女の内に秘められたキーワードだったにちがいありません。しかし、どちらにしてもそれは、「並大抵の力では出來るものではなく」、過度の心身の葛藤と衰弱を伴うものでした。
この東京移住は、ふたりにとって、まさしく二度目の賭けであり、もはやこれ以上はない背水の陣とでもいえる、生活の再生へ向けての悲壮感漂う、療法としての転地だったものと思われます。それにしても、あまりにもあっけない安堵村での生活の終焉でした102。
かくして、一九二六(大正一五)年の一〇月の半ばを過ぎたある日、一家は、四人それぞれが深刻で複雑な思いを胸に抱えながら、本宅の「舊い家に母を残し、私達の小さい住居の庭木の一本一本にも挨拶の言葉をかけ、美しい遠山をめぐらした平原のなかの暖い一小村、土塀と柿の木の多い安堵村」103をあとにし、東京へと上っていきました。おおよそ一一年半の安堵村生活でした。このとき、満年齢で憲吉四〇歳、一枝三三歳、陽一一歳、そして陶は、まもなく九歳になろうとしていました。東京から安堵村に来たときには、一枝のお腹には陽がいました。今度の上京には、まもなく生まれてくる壮吉が一緒です。大正から昭和へと改元される二箇月ほど前の秋の日の出来事でした104。
東京移住後、その地で一枝が、小林信、つまりは結婚後の桑野信子と再会したことを示す資料は、いまのところ見当たりません。おそらく、小林が安堵村をあとにしたときが、ふたりにとっての永遠の別れだったのではないかと思われます。「1. 母親の欲ふ敎育」において、「小林信氏は私の若き友人として、今子供達のために全力を盡してゐて下さる。氏によつて私達の仕事は第二期に入ろうとしてゐます。學識ある氏によつて私達の學校の基礎が固められつゝある事を悦び感謝します」という言葉を最初で最後にして、その後一枝は、小林について何も語ることはありませんでした。しかし、桑野信子(小林信)が読んだ短歌のなかに、安堵村での生活についての追憶が、痕跡として残されているかもしれない――そう思った私は、ある日のこと、桑野信子の歌を求めて熊本県立図書館へ行きました。以下に、閲覧(および複写)した書籍と雑誌の一覧、そして、そのなかに所収されている桑野信子に関する作品の概要をまとめます。
(1)『冬柏』国立国会図書館デジタルコレクション(図書館送信限定)。 『冬柏』は、『明星』の後継誌として、与謝野晶子と寛を中心に一九三〇年に創刊された月刊の歌誌です。桑野信子は、一九三〇年三月二三日発行の第一巻第一号に「窓に倚る」と題して一九首を寄稿しています。最後の寄稿は、一九三八年一月二八日発行の第九巻第二号所収の「鳴澤抄」のなかの九首です。この間信子は、ほぼ継続してこの『冬柏』に投稿しており、自身の主要な発表の場としていたようです。
(2)『婦女界』第四五巻第三号、一九三二年。国立国会図書館へ複写依頼。 このなかに、「やよひの歌」と題して五首が掲載されています。
(3)山本三生編纂『新萬葉集』巻三(きの部~この部)改造社、一九三八年。 この書籍には、一九首の信子の短歌が記載されています。また、巻末には「作者略歴」が設けられており、そのなかで「桑野信子(くはののぶこ)」は、次のように紹介されています。上記の『婦女界』にも略歴が書かれてありますが、こちらの方が、より詳しいものとなっています。 「明治三十三年四月二十二日、京都府宇治群宇治に生れ、神奈川縣藤澤町鵠沼二二一六に現住。大正十二年三月奈良女高師文科を卒業。昭和四年秋より與謝野氏の門に入り新詩社同人となる。」 しかし、『婦女界』における略歴では、生年月日は、「明治卅五年四月廿二日生」になっていますので、生まれた年が合致しません。「明治三三年」と「明治三五年」のどちらが正しいのか、いまのところ、それを特定する資料は見出しておりません。しかしながら、確定しています奈良女高師の卒業年月から逆算しますと、丸岡秀子(一九〇三年五月に生まれ、一九二〇年四月に女高師入学)の事例と同じように、遅滞なく順調に一六歳の春に入学しているのであれば、「明治三五年(一九〇二年)」の方が可能性は高いのではないかと推量されます。そこで本稿にあっては、「明治三五年」を小林信の生まれ年といたしました。とはいえ、小倉遊亀(一八九五年三月に生まれ、一九一三年四月に女高師入学)の例にみられるように、もし何かの事情により、通常よりも遅れて一八歳の春に奈良女高師に入学していれば、そのときは、小林の生年は「明治三三年(一九〇〇年)」ということになります。
(4)『明星(復刊)』国立国会図書館デジタルコレクション(図書館送信限定)。 第一巻第二号(一九四七年六月刊)に「壺」と題して六首が、また、第二巻第一号(一九四八年一月刊)に「古寺巡禮」と題して一〇首が、掲載されています。
以上が、この日の調査内容でした。そのなかから、気になった三首を抜き出し、少し検討してみたいと思います。
最初に取り上げる短歌は、『新萬葉集』に所収されていた、次の作品です。
一筋に君を思ふと告げにこし風ならなくに身に沁む夕
意味は、おおよそこのようになります。「一筋にあなたを思っております、と私に告げに来てくれた風ではないのですから、私にとってその風は冷たく、身に沁み入るような夕べです」。もしこの歌が、安堵村を去るときの心象を詠ったものであるとするならば、どうでしょうか、明らかにその風は、富本一枝ということになります。そして、裏を返せば、愛を告げに来てくれる風(=富本一枝)であってほしかったという意味にもとることができそうです。
深読みにすぎるかもしれませんが、もし「小さな学校」の教師を突然放棄し、村を離れた理由が、本当にこうであったのであれば、ふたりの愛にかかわって一枝が、いずれかの段階で、一方的に拒絶をしたことになります。しかし、おそらくは、ふたりは相思相愛の間柄だったと思われますので、その背後には、女同士の親密な愛を見過ごすことができなかった、夫である富本憲吉の思惑が見えてきます105。果たして真実は、どうだったのでしょうか。この歌だけから判断することはできず、いまもって事実は闇のなかにあります。
安堵村を去った小林信は、時期を正確に特定することはできませんが、結婚により改姓し、「桑野信子」となったようです。しかし、「信」が「信子」へと改名された理由は、いまなおわかりません。「信」は戸籍名で、「信子」は、結婚後の通り名だったのかもしれません。
創立五〇周年誌『法政大学女子高等学校のあゆみ』に所収の「潤光学園・法政女子校の教職員」によれば、桑野信子は、一九三三(昭和八)年四月から、創設された潤光女学校の国語の教師に就き、一九三六(昭和一一)年三月までその職に留まっています。また、結婚に伴い子どもにも恵まれたらしく、次の歌が、そのことを証明します。これも、『新萬葉集』のなかの一首です。
わが男の子母と竝びて物を讀み星座の名など言ふ年となる
小林信が、富本家のふたりの子どもたちを相手に勉強したり、遊んだりしていたころ、この家の子どもたちは、星座の名前をよく知っていました106。それが、結婚後の桑野信子にも、引き継がれたのでしょうか。
それでは、直接安堵への思いを詠った作品はないのでしょうか――。とても興味がもたれるところです。『明星(復刊)』第一巻第二号(一九四七年六月刊)の「壺」のなかに、それに関連しそうな一首がありました。
大和なる赤埴(あかはに)をもつてつくねたる小さきこの壺親しかりけり
この「壺」とは、その昔富本憲吉が小林信に贈呈した自作の陶器だったのではないでしょうか。当時富本夫妻の娘に国語を教えていた奈良女子高等師範学校の附属高等女学校の竹尾ちよも、また、同じく当時富本家に出入りをしていた、奈良女高師の小林信の一年後輩にあたる丸岡秀子も、富本が焼いた作品を、とても大事に愛蔵していました。そのことから連想しますと、小林信(桑野信子)も、富本憲吉の生き方と芸術に強い共感を覚え、富本がプレゼントした「壺」を、思い出とともに秘蔵していた可能性が十分にあります。
戦後信子は、断ちがたい大和への思いを胸に秘め、奈良への巡礼の旅に出ます。それが、『明星(復刊)』第二巻第一号(一九四八年一月刊)に掲載の「古寺巡禮」の一〇首です。このなかには、とくにかつての大和での生活を思わせる作品はありませんが、それでも、この旅の途中で、奈良女高師に入学した一年次におそらく受講したであろう、奈良史学の第一人者の水木要太郎による「大和史講話」のことが、附属高等女学校で教育実習をしていたとすれば、そのときの国語科の教師であった竹尾ちよがその二年後に著した『大和巡礼路の歌』のことが、そして、富本家のふたりの娘のためにつくられた「小さな学校」で教師をし、一緒に一時期を過ごしたことが、おそらく鮮明に蘇ってきたにちがいありません。さらに加えれば、それにもまして、陶芸家として一筋に生きる富本憲吉のことが、そして、自分に示した富本一枝の偽りのない親密な愛のことが――。
丸岡秀子が、安堵村における憲吉と一枝の生き方にはじめて触れたのは、女高師二年の一七歳の春でした。丸岡は、こう回想します。
青田の中に、ちょこんと建てられたあの家の二人は、当時いっぱしの大人だった。だが、十代を苦悶し、その苦悶に支えられて二十代を翔ぼうとしている小鳥のようなわたしに対して、いささかの差別もない。子ども扱いもしなかった。大人振りもしなかった。人間として、まったく平等な扱い方をしてくれる人という信頼を持たせた。
それはなぜだったのか。このことは、差別に敏感なわたしの環境から、自力で脱却をはかる芽を創り育ててくれた。これこそ、まさに「近代」とのめぐり合いといえよう107。
小林信も、丸岡と同じ印象を、富本夫妻から受け取ったにちがいありません。丸岡は、女性解放運動家として、さらには社会評論家として、自らの人生を生きることになります。一方の小林信(桑野信子)が進んだ道は、家庭人であり、文筆家であり、教師であり、歌人としてのそれでした。富本夫妻の影響のもとに、この時期の大和が生み出した、ふたりの女性の動と静の才能でした。
桑野信子は、一九五五(昭和三〇)年五月二二日に亡くなります。享年五三歳。実に短い生涯でした。一九三〇年一一月二五日発行の『冬柏』第一巻第九号に「病床にて」と題して幾首かの短歌を寄せています。病弱だったのかもしれません。
(1)『奈良女子大百年史』(非売品、奈良女子大百年史編纂委員会編集)、2020年、63頁。
(2)同『奈良女子大百年史』、65頁。
(3)同『奈良女子大百年史』、66頁。
(4)同『奈良女子大百年史』、73頁。
(5)『婦女新聞』第586号、1911年8月11日(金)、1頁。(「婦女新聞 第12巻 明治44年」、不二出版、1983年3月15日/復刻版発行、265頁。)
(6)尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、247頁。
(7)富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、85頁。
(8)平塚らいてう『わたくしの歩いた道』新評論社、1955年、121-124頁。
(9)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、233頁。
(10)『宮本百合子全集 第六巻』新日本出版社、2001年、298頁。 この小説のなかで伸子は、紅吉のセクシュアリティーに驚いています。しかしこの驚きは、現実世界においては宮本が湯浅から受けた驚きでもありました。ふたりが野上彌生子の家ではじめて会って一箇月と少しが過ぎた、一九二四(大正一三)年の五月二一日と二二日にまたがって書かれた湯浅から中條(のちに結婚により宮本姓へ改姓)へ宛てて書かれた手紙に、このようなくだりがあります。 「私の性格のかなり複雑なことはあなたも御存じですが、そのあなたのご存じよりももっともっと私にはこみ入った矛盾だらけの不幸な生れつきがあるのです。生理的には一通り何の欠点もない女ですが、しかも女でいて女になりきれないというところ、(まだまだ言い足りないが)すべての不幸がまず一番ここにあるのではないかとおもいます。人生にとって一番意義のある得難く尊いものは何ですか?あなたはなんだとおもいます。芸術ですか、愛ですか。その何れにも見離された人間は何を目的に生きるのです。まして私は愛を知らないんじゃない!もうやめ、やめ、こんなこと」。(黒澤亜里子(編)『往復書簡 宮本百合子と湯浅芳子』翰林書房、2008年、41頁。) 湯浅が告白(カミング・アウト)しているのは、明らかに、女が女になりきれない女性の心の性にかかわる精神的苦痛についてであろうと思われます。トランスジェンダーを、のちになって「選択」したものではなく、生まれながらにして本人が備え持つ「本性」であるという立場に立つならば、これを自分の意思や努力によって変更したり、捨て去ったりすることはもはやできず、何を目的に生きればいいのかを、自問するも、答えはなく、その苦しみを湯浅は率直に中條に訴えているのではないでしょうか。
(11)「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」『淑女畫報』第3巻第13号、1914年12月、32-39頁。
(12)富本一枝「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』第2巻、1917年1月号、74頁。
(13)「東京觀(三二) 新らしがる女(三)」『東京日日新聞』、1912年10月27日、日曜日。
(14)前掲「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、76頁。
(15)「謂ゆる新しき女との対話――尾竹紅吉と一青年」『新潮』、1913年1月、107頁。
(16)富本憲吉「美を念とする陶器」『女性日本人』第1巻第2号、1920年、50頁。
(17)前掲『奈良女子大百年史』、53頁。
(18)『小倉遊亀 画室のうちそと』(きゝて 小川津根子)読売新聞社、1984年、77頁。
(19)同『小倉遊亀 画室のうちそと』、99頁。
(20)『企画展示 収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべて――』(同名展覧会カタログ)国立歴史民俗博物館、1998年、106-107頁。
(21)富本一枝「子供と私」『婦人之友』第15巻、1921年1月号、55頁。
(22)富本一枝「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』第18巻、1924年8月号、25頁。
(23)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、78頁。
(24)前掲「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、26頁。
(25)富本陶「円通院の世界地図」『もぐら』桐朋女子高等学校音楽科文集委員会編集、1988年、92頁。
(26)前掲「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、27頁。
(27)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、28頁。
(28)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、同頁。
(29)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、32頁の「附記」を参照。
(30)辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』双葉社、1999年、127頁。
(31)前掲「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、28-29頁。
(32)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、29頁。
(33)富本憲吉『窯邊雜記』生活文化研究會、1925年、5頁。
(34)前掲「円通院の世界地図」『もぐら』、同頁。
(35)富本陶「安堵のことなど」『富本憲吉――白磁と模様――』(図録)、府中市郷土の森事業団、1987年、62頁。
(36)同「安堵のことなど」『富本憲吉――白磁と模様――』(図録)、同頁。
(37)May Morris (ed.), The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge/Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XVI, p. 63-64.
(38)小林信「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」『婦人之友』第18巻、1924年8月号、33頁。
(39)丸岡秀子『ひとすじの道 第三部』偕成社、1983年、100頁。
(40)同『ひとすじの道 第三部』、101頁。
(41)同『ひとすじの道 第三部』、102頁。
(42)同『ひとすじの道 第三部』、同頁。
(43)同『ひとすじの道 第三部』、103頁。
(44)同『ひとすじの道 第三部』、103と105頁。
(45)同『ひとすじの道 第三部』、同頁。
(46)同『ひとすじの道 第三部』、109頁。
(47)同『ひとすじの道 第三部』、同頁。
(48)同『ひとすじの道 第三部』、110-111頁。
(49)同『ひとすじの道 第三部』、111頁。
(50)同『ひとすじの道 第三部』、109-110頁。
(51)同『ひとすじの道 第三部』、108頁。
(52)前掲「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、71頁。
(53)前掲『ひとすじの道 第三部』、112頁。
(54)同『ひとすじの道 第三部』、113頁。
(55)同『ひとすじの道 第三部』、98頁。
(56)前掲『奈良女子大百年史』、75頁。
(57)丸岡秀子『いのちと命のあいだに』筑摩書房、1984年、33頁。
(58)前掲『近代の陶工・富本憲吉』双葉社、127-128頁。
(59)前掲『ひとすじの道 第三部』、131頁。
(60)同『ひとすじの道 第三部』、132頁。
(61)同『ひとすじの道 第三部』、同頁。
(62)前掲「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、72頁。
(63)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、同頁。
(64)前掲『ひとすじの道 第三部』、133頁。
(65)富本壮吉「父に習った鰻釣り」『陶芸の世界 富本憲吉』世界文化社、1980年、14頁。
(66)やまさき・さとし「村山籌子解説」『日本児童文学大系 第二六巻』ほるぷ出版、1978年、565頁。
(67)前掲「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」『婦人之友』、同頁。
(68)前掲「安堵のことなど」『富本憲吉――白磁と模様――』(図録)、同頁。
(69)前掲「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、30頁。
(70)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、32頁。
(71)前掲「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」『婦人之友』、同頁。
(72)同「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」『婦人之友』、同頁。
(73)同「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」『婦人之友』、同頁。
(74)富本憲吉「私たちの小さな學校に就て 3. 生徒ふたりの敎室」『婦人之友』第18巻、1924年8月号、36頁。
(75)同「私たちの小さな學校に就て 3. 生徒ふたりの敎室」『婦人之友』、37頁。
(76)同「私たちの小さな學校に就て 3. 生徒ふたりの敎室」『婦人之友』、同頁。
(77)前掲「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」『婦人之友』、35頁。
(78)陽と陶は、一般の学校の幼児教育期ないしは初等教育期に相当するこの時期を、全くの閉ざされた真空の私的空間のなかで過ごしていたことになります。後年、陽はこう述べています。 「現在、妹[陶]は音楽教育の分野で、弟[壮吉]は映画監督として生活しており、私のように平凡な家庭の一主婦として暮らしているわけではないのですが、どうやら、五年生のとき東京に移転するまでを、円通院学校の孤独な生徒で過ごした私の事情は、ほかの二人よりいっそう色濃くくせ(・・)を、私につけているように思います。囲いが厚ければ厚かっただけ、風通しが悪かったのでしょうか。こんなことをいうと、はるかな場所で両親が悲しむでしょうか」。(高井陽「『小さき泉』の思い出」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』ドメス出版、1985年、19頁。) 一方の陶の後年の回想は、こうです。 「私達姉妹が受けたこのような特別な教育がどれだけ私の人間形成の上で役に立ったのか、それはわかりません。社会生活になじめなかったり、特に、後に官立音楽学校で勉強するようになった時、団体生活が窮屈で途方にくれました。……在学中私のように欠席が多かった生徒は珍しかった事でしょう。学期末になると母が筆で半紙に、遅刻、欠席一回につき一枚ずつのお届けを何枚も何枚も書いてくれ、それを私は恐る恐る教務課に届けたものでした」。(前掲「円通院の世界地図」『もぐら』、93頁。)
(79)参考までに、ふたつの事例を、以下に紹介します。いうまでもなく、一枝と小林が、このような関係にあったことを示すものではありません。以下の事例が示しているのは、かつて一枝が、青鞜時代に平塚らいてうとのあいだで経験していた女同士の性的行為の一部です。「紅吉」が一枝です。 「私の心はまたもあのミイチイングの夜の思ひ出に満たされた。紅吉を自分の世界の中なるものにしやうとした私の抱擁と接吻がいかに烈しかつたか、私は知らぬ、知らぬ。けれどもあゝ迄忽に紅吉の心のすべてか燃え上らうとは、火にならうとは」。(らいてう「圓窓より」『青踏』第2巻第8号、1912年8月、82-83頁。) 「『淋しい?どうした。』と言ひざま私は兩手を紅吉の首にかけて、胸と胸とを犇と押し付けて仕舞つた。『いけない。いけない。』口の中で呟いて顔を背けたが、さりとて逃げやうとはしない」。(同「圓窓より」『青鞜』、88頁。)
(80)ここに述べる事例は、富本一枝(尾竹紅吉)が、結婚するときまでに親密に付き合っていたふたりの女性に関するものです。もちろん、一枝と小林がこうであったことを示すものではありません。出典は、『淑女畫報』に掲載された「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」という題がつけられた暴露記事です。以下に、その記事の要点を書き記します。 「深草の人」と名乗る執筆者は、冒頭でまず、「Tさま」に宛てて紅吉の書いたものであろうと思われる手紙の原文を紹介したうえで、「私はこの不思議な手紙、謎の手紙の註解者として、またこの手紙を鍵として彼女の『不思議な過去』不思議な性格、不思議な行為の秘密を語る魔法使いになりませう」と宣言し、それから本論が開始されます。書かれてあることを要約的に引用すれば、このようになります。「月岡花子嬢こそ、不思議な謎の手紙の主のTさまで、Tは月岡の頭文字なのです……花子嬢が女子美術の生徒であり、紅吉女史も一時女子美術に席を置いたことがあると云ふ関係から、おそらく知己(ちかづき)となり友達になつたと云ふことだけは確かです……紅吉女史は當時『若き燕』と呼ばれた青年畫家奥村博氏の問題から、らいてう(・・・・)事平塚明子女史と悲しくも別れなければならない事となり……例の不思議な謎の手紙を花子嬢宛に書いたのでした……それからと云ふもの、二人の仲は親しい友と云ふよりも、その友垣の垣根を越えて、わりなき仲となつたのでした。同性の戀!まア何といふあやしい響きを傳へる言葉でせう」。そして執筆者は、紅吉の結婚と新婚旅行に触れ、こう述べます。「新郎新婦手を携へての新婚旅行!それが新しい女だけに一種の矛盾と滑稽な感じをさへ抱かせます。男性に對する長い間の女性の屈辱的地位、そこから跳ね起きて、あくまでも女性の開(ママ)放を主張し、男性と等しい權利を獲得し、そして男ならで自立して行くと云ふ所に新しい女の立場があるのです。然しながら我が新しい女の典型(タイプ)とも見られてゐた尾竹紅吉女史は若き意匠畫家富本憲吉氏と共に、目下手に手を携へて北陸地方に睦まじい新婚の旅をつゞけて居ます」。さらに執筆者は、この結婚の陰に隠れて涙を流している、もうひとりの別の若い女性がいるというのです。「やがてその次にあらはれたのが大川茂子といふやはり女子美術の洋畫部の生徒でした。茂子嬢と紅吉女史との戀……は花子嬢のそれと比べてはなかなかにまさるとも劣ることない程の強く深く切ないものでありました……悲しい戀の犠牲者、茂子嬢は今はどうして居るでせう?……紅吉女史と富本氏との今日此頃の關係を茂子嬢はどんな氣持できいて居るでせう?私は紅吉女史の新生活を祝福すると共に、あえかにして美しい茂子嬢の生涯に幸多きことを祈つて居ります」。(「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」『淑女畫報』第3巻第13号、1914年12月、32-39頁。)
(81)前掲『ひとすじの道 第三部』、134-135頁。
(82)富本一枝「海の砂」『解放』第1巻第7号、1919年12月号、31頁。
(83)富本一枝「安堵村日記」『婦人之友』第15巻、1921年6月号、164頁。
(84)富本一枝「母親の手紙」『女性』12月号、1922年、142頁。
(85)同「母親の手紙」『女性』、143-144頁。
(86)同「母親の手紙」『女性』、149頁。
(87)同「母親の手紙」『女性』、152-153頁。
(88)同「母親の手紙」『女性』、154頁。
(89)富本一枝「東京に住む」『婦人之友』第21巻、1927年1月号、112頁。
(90)同「東京に住む」『婦人之友』、108頁。 一方、夫である憲吉は、東京移住の理由について、晩年の一九六二(昭和三七)年に執筆した『日本経済新聞』の「私の履歴書」のなかで、こう述べています。「大和の一隅でロクロを引き、画筆をにぎる私の仕事も、だんだんと世間に認められ、生活には別段、不便を感じることもなかった。しかし、そのころ、東京へ出て仕事をしたい気持ちが日ごとに強くなった。東都の新鮮な気風にふれることは、かねてからのやみがたい念願であり、また陶芸一本で生涯を過ごす覚悟も、ようやく固まってきたのである。かくして大正十五年[一九二六年]の秋、十年余親しんだ大和の窯を離れ、東京郊外、千歳村(現在の世田谷区祖師谷)に居を移した」。(『私の履歴書』〈文化人6〉日本経済新聞社、1983年、210頁。[初出は、1962年2月に『日本経済新聞』に掲載。]) 注目されてよいのは、この一文の後段で述べられている東京移転の理由は、一枝が『婦人之友』に寄稿した「東京に住む」における記述内容と合致していないということです。
(91)同「東京に住む」『婦人之友』、109頁。
(92)同「東京に住む」『婦人之友』、同頁。
(93)同「東京に住む」『婦人之友』、111頁。
(94)同「東京に住む」『婦人之友』、同頁。
(95)同「東京に住む」『婦人之友』、同頁。
(96)一枝が教会に通うようになったのは、中江百合子の紹介であったと推測されます。一枝と中江の出会いの経緯は、はっきりしていませんが、夫の富本憲吉は、東京美術学校時代に卒業を待たず、先輩で画家の南薫造を頼って一九〇八(明治四一)年の暮れに神戸港から英国へ向けて出立しています。一方、中江百合子は、南薫造とは一番町教会、のちには富士見町教会で知り合い、一九一一(明治四四)年の富士見町教会での南の個展で絵を買っています。おそらくこうしたことが背景にあって南は、その当時、関西の実業家の中江家に嫁いだ百合子を、奈良の安堵村に住む憲吉と一枝に紹介したものと思われます。ところが、中江家の長男が身代金目当ての誘拐事件に遭います。この事件は無事に落着したものの、中江一家は、一九二〇(大正九)年末に東京へと引っ越すことになり、一枝は、上京のおりに、しばしば、本郷区弓町にあった中江宅に逗留する間柄となりました。そのころの百合子は、東京に転居以来、再び教会に通うようになっていました。こうした経緯のなかで百合子は、悩みを抱える一枝を教会に連れて行ったものと思われます。 一方、中江百合子と三人の息子たちは、らいてう一家や富本家よりも一足先に成城の地に引っ越してきており、富本家のふたりの娘が成城学園に転入するのも、百合子の誘いがあった可能性が残されます。成城学園女学校が開設されるのは、一九二七(昭和二)年の春のことでした。
(97)国立国会図書館デジタルコレクション(国立国会図書館/図書館送信限定)「旧新約聖書」大正三年一月八日發行、發行者/米國人 ケー・イー・アウレル、發行所/米國聖書協會、「新約聖書」二百十六頁。 たとえば、この箇所は、現代にあってはこう訳されています。「26このことのゆえに、神は彼らを恥ずべき情欲へと引き渡された。実際、彼らのうちの女性たちは、自然な[性的]交わりを自然に反するものに変え、27同様に男性たちも、女性との自然な[性的]交わりを捨てて、互いに対する渇望を燃やしたのである。[そして]男性たちは彼ら同士で見苦しいことを行ない、彼らの迷いのしかるべき報いを、己のうちに受けたのである」。(『新約聖書』(新約聖書翻訳委員会訳)岩波書店、2004年、628頁。なお、文中に使用されています角括弧は原文のママです。) 一枝が、もしこのような意味に理解していたのであれば、この段階で一枝は、自分の性的指向を、「恥ずべき情欲」であり「自然に反するもの」であり「見苦しいこと」であり、「迷いのしかるべき報い」を受けるべき大きな罪であるとして認識したものと思われます。
(98)同「旧新約聖書」、「舊約聖書」二百八十二頁。 この箇所の現代語訳の一例はこうなります。「5女が男の着物を身にまとうことがあってはならない。男が女の着物を着ることがあってはならない。これらのことを行なう者はすべて、あなたの神ヤハウェが忌み嫌うものであるからである」。(〈旧約聖書Ⅲ〉『民数記 申命記』山我哲雄・鈴木佳秀訳、岩波書店、2001年、349頁。) このとき一枝は、聖書の言葉を通じて、異性装が「忌み嫌うべき服装」であることに気づいたものと思われます。
(99)前掲「東京に住む」『婦人之友』、111-112頁。
(100)同「東京に住む」『婦人之友』、110頁。
(101)同「東京に住む」『婦人之友』、112頁。
(102)もっとも、当時の『讀賣新聞』(1925年9月29日、7頁)は、砧村の成城学園滞在のために富本一枝がふたりの娘(陽と陶)を連れて上京したことをとらえて、「よき母=尾竹紅吉さん 愛嬢を連れて上京 奈良の山奥から 昔忘れぬ都に憧れて」という見出しのもとに記事にしていますが、それを読む限りでは、そうした緊迫した状況は、いっさい伝わってきません。むしろ、平穏安寧な大和での暮らしぶりが強調されています。しかし、詳しくは述べませんが、この記事には、作為的なものが感じられます。 なお、前日の『讀賣新聞』朝刊の七頁を開くと、「農村にも革命の波が――美しいのは――東京の婦人」という見出しの記事と、陽と陶と一枝の三人の親子が写った写真とが、掲載されています。陽も陶も、ともにおかっぱの髪形をし、着ているワンピースもお揃いです。この時期の貴重な画像といえます。
(103)前掲「東京に住む」『婦人之友』、同頁。
(104)富本一枝についての評伝が、すでに二冊世に出ています。ひとつは、高井陽・折井美那子の『薊の花――富本一枝小伝』(ドメス出版、1985年)で、もうひとつが、渡邊澄子の『青鞜の女・尾竹紅吉伝』(不二出版、2001年)です。そこで、それぞれの評伝にあって、富本一家の安堵村生活の終焉と東京移転に関して、どのように書かれてあるのかを、ここで見ておきたいと思います。まず、高井陽・折井美那子の『薊の花――富本一枝小伝』においては、このように記述されています。共著者の高井陽は、富本憲吉・一枝夫妻の長女で、この本が上梓されるときはすでに世を去っていました。 「その頃になると長女の陽も成長し、中等教育をどうするか考えねばならなくなっていた。理想をもって始めた小さな学校は、十全とはいえなかったし、子どもたちに一層よい教育環境をと考えた時、それは安堵村では無理だった。子どもたちのために東京へ、そんな話が夫婦の間で何度か出たが、容易に解決できないでいた。そんな時、憲吉の起こした女性問題によって、一枝は東京への移転を決意する。憲吉にとってはほんの一瞬の気の迷いであったろうし、当時の男性にとっては、ありがちのことだったかも知れない。しかし一枝は深く傷ついた。一カ月に及ぶ、二人の夜ごとの話し合いの末、大正一五年三月、東京への移転が決められた。……しかしほかの仕事とちがって、陶芸家の場合は、簡単に転居ができなかった。土や松薪を求める便宜と、窯がどうしても必要であった。四月から移転の準備を始めたが、一枝は身重の身体でありながら、土地の選定や金策などにも奔走した。……こうして、柿も色づきはじめた秋半ばの一〇月一五日、住みなれた安堵の村をあとに一家は東京へと出立した」(149-150頁)。 このような記述をするに際して、著者の折井は、いっさい注釈を施していませんし、また、最も肝心な証拠となる資料も明示していません。したがいまして、ここに述べられていることが真実なのかどうかを再検証する方途が完全に奪われているのです。 共著者である陽が、生前に、このような内容を折井に漏らしていた可能性がないことはありません。しかし、たとえば、別の箇所では、「……と陽さんは語っている」(126頁)とか、「陽さんの回想に詳しく書かれているが……」(137頁)とか、「……という陽さんの記憶で」(147頁)といった表現形式でもって、情報の提供者が明らかにされているにもかかわらず、ここの箇所に関しては、陽によって情報が提供されたことをうかがわせる注釈は残されていないのです。そのことから判断しますと、この記述内容は、折井の独断的な想像と判断によって練り上げられたストーリーであるといわざるを得ません。 記述の内容にも疑問が残ります。「憲吉の起こした女性問題によって、一枝は東京への移転を決意する」と、著者の折井は書いていますが、その相手は誰だったのであるのか、いつのことであったのか、これらについては、何も語っていません。さらに、「当時の男性にとっては、ありがちのことだったかも知れない」「女性問題」がなぜ、「東京への移転」という、一般的にはあまりありがちとは思えない特殊な「決意」を一枝にさせてしまったのか、その理由についての言及もありません。 仮に、憲吉の身に「女性問題」が存在したとして、なぜそのことが、家族そろっての東京移住につながるのか、裏を返せば、なぜ一枝は離婚を考えなかったのか、あるいは、なぜ娘たちを連れての一枝単身の移住とはならなかったのか――こうした一般的に考えられそうな対応についても、何ひとつ説明がなく、ひたすら疑問だけが残ります。もしふさわしい資料が手もとにあるのであれば、もっと積極的にそれらの資料に真実を語らせるべきだったのではないかと考えます。 しかし、私がこれまでに調査した範囲でいえば、憲吉の「女性問題」を示す資料は、いっさい存在しません。したがいまして、東京移転の理由としての憲吉の「女性問題」は、いまだ折井個人の仮説の域に止まっていると判断するのが妥当でしょう。このことを実証するためには、たとえば、憲吉と一枝の当事者たちを含め、周りの関係者たちの手紙や日記などに記述されているかもしれない、動かすことのできない何か新しい資料の発掘が必須の要件となるにちがいありません。もしそのことができなければ、憲吉にかけられた「女性問題」の嫌疑は、誰ひとりとして事実かどうかの再検証ができないまま独り歩きし、今後永遠に語り継がれていくことになります。これでは「冤罪」を構成しかねません。すでに鬼籍に入っているとはいえ、実在した人物である以上、その人権と名誉は、当然ながら、尊重されなければなりません。 この記述問題につきまして、私は、次のように推量しています。 この情報は、おそらくは母親から娘に伝えられた内容でしょう。こうしたストーリーを持ち出すことによって、一枝は子どもたちに東京移転の理由を説明したものと思います。それが折井に伝わり、折井はその真偽を検証することもなく、そのまま、情報の提供者名を伏せたうえで、文にしたのではないでしょうか。 それでは、なぜ一枝は虚偽のストーリーをつくらなければならなかったのでしょうか。すでに、著作集4『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』において詳しく論述していますように、性的少数者であることをカミング・アウトできないことに起因して、やむを得ず、真実とは異なるストーリーを捏造しなければならなかったものと考えます。そうした事例は、ほかの場面にも幾つか見受けられ、一枝の言説のひとつの特徴を形成しているのです。 それでは次に、『青鞜の女・尾竹紅吉伝』における記述内容を検討します。この本のなかで、著者の渡邊澄子は、安堵村から東京への移転の理由について、折井がすでに示した憲吉の「女性問題」をそのまま踏襲したうえで、こう述べます。 「一家は一九二六年一〇月、東京へ移住することになるが、それには、晩年にまで水面下で尾を曳き、結局、二人の間を離隔させることになったが、その根に憲吉の女性問題をみることができる。私が紅吉に魅せられ、紅吉の生涯を書きたいと願って準備に入ってからすでに二〇年になる。私はこの間、生前の二人を知る人を訪ねては聞き書きをとる作業を仕事の合間の折々に続けてきたが、憲吉の女性問題の相手は井出秀子が世話したお手伝いさんだった、と複数の方の証言を得た。子どもも生まれていてこの子は里子に出されたはずと明言した人もいた。しかし一方で、そんな事実はない、田舎は狭いのでもしそのようなことがあったら、誰知らぬ者なく広まってしまうはずだ、という人もいた。しかし、夫である男性が妻とは別の女性と特別の関係を持つ例は、ほとんど日常茶飯事としていわば公認されていた時代状況下では、事実があってもそれは大問題にならないということもあるのではないだろうか。夫を愛している妻である女性がそのことでどれほど傷つくか、その痛みの深さを感じ取れない男性社会だったのだ」(210-211頁)。 残念ながら、本書にも注などは存在せず、そのように断言するうえでの根拠となる証拠も何ひとつ示されていません。「生前の二人を知る人を訪ねては聞き書きをとる作業」をしているのであれば、いつ、どこで、誰に、何を聞き、その聞き取った内容を相手に確認してもらったうえで公表の了解を得て、そのすべてを開示すべきであったと愚考されるものの、そのような学問的配慮に欠けるため、このままでは、憲吉の「女性問題」は単なる風聞か噂話の域を出ない状態に置かれているといわざるを得ません。 井出秀子とは、丸岡秀子のことを指しているのであれば、紹介者としての当事者である丸岡に、事の真相を直接問い合わせるべきだったのではないでしょうか。「紅吉の生涯を書きたいと願って準備に入ってからすでに二〇年になる」と著者は書いていますが、この本が出版されたのが二〇〇一(平成一三)年、そこから逆算すれば、一九八一(昭和五六)年ころから聞き取り調査をはじめていたことになります。丸岡が亡くなるのが一九九〇(平成二)年であることを勘案すれば、著者の渡邊は、その意思さえあれば、丸岡本人へ直接インタヴィューを試みることも、あるいはまた、書簡による問い合わせも十分可能だったのではないでしょうか。 丸岡秀子自身は、生涯、憲吉の生き方に強い共感を示し、敬愛の念を持ち続けました。晩年に至ってまでも、丸岡はこういっています。「いま、若い人たちにとって、二人[憲吉と一枝]は名前さえ知られてはいないであろう。だが、京都、奈良めぐりの旅行の中に、‶世紀の陶工"富本憲吉美術館を入れてもらいたいと、私は願う。法隆寺からすぐなのだから」(丸岡秀子『いのちと命のあいだに』筑摩書房、1984年、28頁)。 もし、「憲吉の女性問題の相手は井出秀子が世話したお手伝いさんだった」のであれば、紹介者自身も深い傷を負い、憲吉に強い怒りと不信を向けたにちがいなく、晩年にあって、こうした憲吉に寄せる信頼と讃美の言葉を丸岡が書き記すことは、おそらくなかっただろうと思われます。その意味で、渡邊の言説をそのまま受け入れるには、大きな違和感が生じます。もし仮に、それが真実であると主張するのであれば、どうしても、それを裏づけるにふさわしい証拠となる資料を明示すべきではないでしょうか。とりわけ、「井出秀子が世話したお手伝いさん」が、いつどのような経緯で富本家へ入り、いつ妊娠し、いつどこで出産し、いつどのような経緯でその子が里子に出されたのかを明確な根拠に基づき実証すべきであると思われます。 他方で、その情報を提供した複数の人物とは誰と誰なのか、これについても、歴史的証人として本人たちの了解を得たうえで、明らかにするべきだったのではないでしょうか。「生前の二人を知る人」と渡邊はいいますが、「女性問題」が持ち上がった一九二六(大正一五)年前後のあいだの安堵の富本家の生活の様子を日常的に知ることができ、渡邊が「聞き書きをとる作業」をする時期まで存命していた人物は、そう多くはないはずです。この時期一枝も妊娠していました。一方、丸岡秀子の奈良女高師の先輩で友人と思われる若い女性教師が円通院で教鞭をとっていました。そうしたこととの混同や取り違えはないのか、あるいは、どこかの段階で誰かが、一枝の「女性問題」を憲吉の「女性問題」と聞き違えたり、伝え違えたりしているようなことはないのか、慎重な対応と吟味が必要とされなければなりません。 もし、以上に述べてきたような学問上の基本的手続きに立ち返ることができなければ、すでに高井陽・折井美那子の『薊の花――富本一枝小伝』にかかわって上で述べた指摘同様に、反論することも、弁明することも、真実を語ることも、何もいっさいできないまま、憲吉の「女性問題」は永久に歴史のなかに刻印されることになります。これによって、いまや事態は、憲吉の身に「虚偽の歴史」ないしは「歴史上の冤罪」が構成されかねない状況に立ち至っているのです。 以上、先行する既往評伝の二冊を取り上げ、そこで述べられている、富本一家の安堵村生活の崩壊と、それに伴う東京移住の理由について批判的に検討してきました。結論としていえることは、総じてどちらの評伝においても、渉猟された適切な一次資料を十全に駆使して論証ないしは実証するという、真実に近づくための学術上必要とされる手続きがほとんど、あるいは全く見受けられず、そのことに起因して、ともに、述べられている内容に絶対的信頼を置くことができない状態を露呈しているということでした。
(105)実際に憲吉が、一枝と小林の性的行為を目撃したことを示す明白な資料は何ひとつ残されていません。かといってそのことを完全に否定することも排除することもできないという見解も残されます。参考までに、以下に『終りなき祝祭』における表現箇所を書き残しておきます。いうまでもなく、これは小説という虚構世界での話であり、現実世界でのそれとは異なる可能性を十分に秘めています。すべては、読み手の解釈にゆだねなければならない、あくまでも文学上の表現です。 富本家の長男の壮吉には、学友に、西部グループの創業者の堤康次郎を父にもつ堤清二がいました。ふたりはともに、家庭内に深い悩みを抱えていました。戦後同じ大学を出ると、壮吉は映画監督の道を選び、一方清二は、実業家として腕を振るうとともに、「辻井喬」の筆名で文芸の世界に入り、壮吉が亡くなると、その鎮魂歌ともいうべき作品『終りなき祝祭』を上梓するのです。著者の辻井喬は、その『終りなき祝祭』の「序章」で、「壮吉は終生、両親の関係を映像化することを願い続けていた」(辻井喬『終りなき祝祭』新潮社、1996年、7頁)と述べ、壮吉の助監督を長年務めていた人物から聞いた話として、以下の言葉でもって紹介します。 その助監督の話とは彼[壮吉]が三島由紀夫の短篇を素材にした作品を撮っていた時のことである。夜、ロケーションの先の宿舎で酒が入った時、「僕ね、同じ三島由紀夫の原作でも『午後の曳航』の方を撮りたかったんだ」と言い出した。この『午後の曳航』のクライマックスは、母の情事を少年が隣室の腰板の穴から覗く場面なのである。助監督が「自分も読んでいる」と答えると、「あの少年と同じ経験しているんだ。もっとも僕の場合、相手は女性なんだよ、男じゃない、父親はほったらかしにされて、一晩中部屋の中を歩いている。そんな両親の様子を僕が見ている」と彼[壮吉]は言った。(同『終りなき祝祭』、同頁。) それでは、三島由紀夫の「午後の曳航」のクライマックスの場面に対応して、辻井喬の『終りなき祝祭』では、その場面が、どのように描かれているのでしょうか。主人公は田能村壮吉。その父親は善吉、母親は文。勤務していた学校の生徒を連れて飛騨高山に疎開していた善吉が、途中で一度東京の自宅にもどる。着いたのは夏の夜の一〇時に近かった。玄関から入ろうとしたが、家のなかは静まりかえっている。秩父の知り合い先へ疎開したのかと思い、善吉はそっと庭先に回ってみた。以下は、『終りなき祝祭』における、その場面の描写です。 「床まである上部がガラスの戸が開いたままになっている。善吉は留守のあいだに草がずいぶん伸びたと思った。部屋のなかには中空に上った月の光の奥になっていてよく見えない。蚊帳が吊ってあるのが分った。夜具が白く浮上ってくる。人が浴衣を着て寝ている姿がぼんやりと見えてきた。声を掛けようと一歩踏み出して善吉は思いとどまった。彼女の動きが不自然なのだ。と、腕のようなものが、白い浴衣の肩を捕えた。寝ているのは一人ではない。小さい呻き声が聞え、それを制止するような囁きが続いた。……『誰ですか、あんたは』文の怯えた声があがった。……隣の部屋から誰かが起きたらしく、そっと、部屋の奥に入ってきた。壮吉らしかった」。(同『終りなき祝祭』、200-202頁。)
(106)富本一枝「母親の手紙」『女性』、1922年12月号、151-152頁を参照のこと。
(107)前掲『いのちと命のあいだに』筑摩書房、27-28頁。