中山修一著作集

著作集11 研究余録――富本一枝の人間像

第二編 富本一枝が愛した女――美貌と才覚の小林信

小林信(結婚後の桑野信子)の略年譜

1902(明治35)年4月22日
京都府宇治郡宇治に生まれる。

1919(大正8)年4月
奈良女子高等師範学校へ文科一一期生として入学。

1923(大正12)年3月
奈良女子高等師範学校を卒業し、山口県の徳基高等女学校へ赴任。

1924(大正13)年4月
富本憲吉家私設の「小さな学校」へ着任。

1924(大正13)年8月
『婦人之友』(一九二四年八月号)に、小林信「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」を寄稿。

1924(大正13)年9月
『女性改造』(一九二四年九月号)に、小林信「女の客」を寄稿。

1924(大正13)年12月現在
佐保会名簿によると、在「生駒郡安堵村富本家」。

1925(大正14)年11月現在
佐保会名簿によると、在「東京」。

1928(昭和3)年10月
『婦人之友』(一九二八年一〇月号)に、桑野信「習慣の陥ってゐる誤――臺所を出入口に流用の弊――」を寄稿。(執筆名に「桑野信」が使われています。)

1929(昭和4)年秋
与謝野晶子の門下生となる。

1930(昭和5)年
与謝野晶子と寛を中心に『明星』の後継誌として、月刊の歌誌『冬柏』が創刊される。桑野信子は、一九三〇年三月二三日発行の第一巻第一号に「窓に倚る」と題して一九首を寄稿。最後の寄稿は、一九三八年一月二八日発行の第九巻第二号所収の「鳴澤抄」のなかの九首。この間信子は、ほぼ継続してこの『冬柏』に投稿しており、自身の主要な発表の場となる。

1932(昭和7)年
『婦女界』(第四五巻第三号)に、「やよひの歌」と題して五首を寄稿。

1933(昭和8)年から1936(昭和11)年
潤光女学校へ初代国語教師として奉職。

1938(昭和13)年
山本三生編纂『新萬葉集』巻三(きの部~この部)が改造社より刊行され、そのなかに一九首の信子の短歌が掲載される。巻末の「作者略歴」においては、桑野信子(くはののぶこ)」は、「神奈川縣藤澤町鵠沼二二一六に現住」との記載あり。

1943(昭和18)年2月15日
桑野信子『消息文』を增進堂より刊行。

1943(昭和18)年
湯河原での与謝野夫妻記念碑除幕式に参列。

1947(昭和22)年6月
『明星(復刊)』(第一巻第二号)に「壺」と題して六首が記載。

1948(昭和23)年1月
『明星(復刊)』(第二巻第一号)に「古寺巡禮」と題して一〇首が記載。

1955(昭和30)年5月22日
死去。