平塚らいてう、神近市子、丸岡秀子、石垣綾子、中村汀女のような、身近に交流した多くの友人たちが自伝や自伝的小説を書き残しているにもかかわらず、そのなかにあって最後まで一枝は、自分の生涯を一著にまとめることはなかった。なぜなのであろうか。一般的にいって、自伝には、自己の歩いてきた人生を、正当化したり、合理化したり、安定化させたりする傾向が、避けがたいこととして伴う。もし人間の言動を、秩序と無秩序、正常と異常、常識と非常識といったような二元論によって分割することが可能であるとする前提に立つならば、おおかたの自伝というものは、秩序、正常、常識という片方の極に立脚して記述されることになる。しかしながら、必ずしもすべての人間が、秩序、正常、常識の世界に生きているわけではなく、それとは別の世界にあって、あるいはふたつの世界を往復しながら、生と性を持続している人たちがいることも、また事実であろう。そうした人たちが、自らの人生を振り返ろうとした場合、どのようなことに出くわすであろうか。想像するに、かかる人は、過ぎ去りし道に置き忘れた品々のふたを開け、なかをのぞき込むにつけ、それがいかに不連続なものであり、矛盾に満ちたものであり、説明がつかないものであるのかに気づき、それを正当化したり、合理化したり、安定化させたりすることの困難さにすぐにでも直面するにちがいない。そしてそのことに基因して、伝記を書くという作業が、いつのまにかに雲散霧消するのではないだろうか。おそらく一枝も、それに近い生き方をしたひとりだったのではないかと思われる。
それでは、ここで少し、一枝本人が語る自己の内面分析について、耳を傾けてみたい。一九一二(大正元)年の九月、約二箇月にわたる茅ケ崎の南湖院での転地療養から東京へもどった紅吉(一枝)は、「歸へつてから」と題された一文を執筆し、『青鞜』一〇月号に寄稿する。このなかで紅吉は、自己の性格に触れ、このように率直に内面を分析していた。
私は誰も知らない、自分たつた一人で大切にしてゐる面白い氣分があるのです。
よく考えて見ると、その氣分は幼い時からすつと今迄續いて來てゐたのです。これから先きもどんなにそれが育つて行くことか樂しむでゐます。人が知つたら恐らく危険だとか狂人地味た奴だとか一種の病的だろうとか位いで濟ましてしまうでしよう。
私のその事が世間に出ると不眞面目なものに取扱はれて冷笑の内に葬らはて行くものだと考へてゐます。私が銘酒屋に行つたとか、吉原に出かけたとか酒場に通つて強い火酒に酔つたとか云ふことは其の大切にしてゐる氣分の指圖になつた 悪戯 ( わるふざけ ) なのです、薄つ片らな上づつたあれらの幼稚な可哀いい氣分を世間の人達は随分面白く解釋してゐます。
私は自分を信じてゐます。それだけに自分以外の人達には平氣で偽をついてゐます。
そのくせ私は人の言葉を妙に心配したり氣に懸けるのです221。
「自分たつた一人で大切にしてゐる面白い氣分」――これが、この時期紅吉(一枝)に自覚された自己の心的断面であろう。この「面白い氣分」は、周囲の秩序だった常識的な世界に混入されれば、多くの場合、「不眞面目なものに取扱はれて冷笑の内に葬らはて行く」運命をたどることになる。しかし一方、人が容易に抵抗できないでいる旧弊な壁にこの「面白い氣分」が投影されるならば、ときとしてその壁は相対化され、ものの見事に崩落する。徹底した純真性に潜む破壊力――そうした異界に作用する力としての「面白い氣分」を紅吉は自覚したうえで、「私は自分を信じてゐます」と、告白しているのであろうか。
他方、この「自分たつた一人で大切にしてゐる面白い氣分」とは、「幼い時からすつと今迄續いて來てゐた」ものであり、それは、一枝のセクシュアリティーにかかわる、ある身体的かつ心理的な側面を指しているのではないだろうか。一枝は、その現象を固く信じる一方で、しかしながら、「危険だとか狂人地味た奴だとか一種の病的だろう」と人に思われることを恐れるがあまりに、カミング・アウトすることはできず、「それだけに自分以外の人達には平氣で偽をついてゐます。そのくせ私は人の言葉を妙に心配したり氣に懸けるのです」と、告白しているようにも読める。
おそらく紅吉の内面に存する「面白い氣分」は、前者の解釈と後者の解釈とのどちらかの一方によって成り立っていたのではなく、この二本の色糸によって編み込まれた、一面のものとして形成されていたのではないだろうか。「らいてうとの恋」に溺れ、「五色の酒」に酔い、「吉原遊興」に耽ったのも、紅吉によれば、「面白い氣分」の「指圖になつた悪戯」にすぎないものを、「世間の人達は随分面白く解釋」する。一方で外面はというと、これも、「面白い氣分」の「指圖になつた悪戯」だったのかもしれないが、男さながらの「紅吉」という名を発し、異性装のごときにセルの袴にマントを着用し、大声を上げながら得意然として市中を闊歩する。そこに、世の人びとは、「新しい女」の出現を見た。意図されたことではなかったかもしれないが、これが結果として、日本における婦人運動の最初の図像のひとつとなったことは、疑いを入れないであろう。しかし問題は、この「面白い氣分」が「これから先きもどんなにそれが育つて行くことか樂しむでゐます」と、本人がいうように、その後の「面白い氣分」の行方であり、「新しい女」がたどり着く行き先なのである。
それではもうひとつ、自身が語る、晩年の自己分析を紹介してみたい。一九五八(昭和三三)年に刊行された『講座女性5 女性の歴史』のなかの「史料編」に、一枝は「青鞜前後の私」を寄稿している。安堵での生活の当初、生活に対する習慣や考え方の違いに戸惑いながらも、それに反抗すべきすべも知らず、それに何とかあわせようとしていた、かつての自分の悲しい姿を語り、それを、こう分析する。
考えてみるまでもなく、これは幼い時から受けてきた母の教育や躾の結果、自分の考えの中の矛盾と戦う力が失われていたとも言えましょうし、また、自分も非常に古いものを持っていることを気づかずにいたのではないでしょうか。自分の中の古さを知らずにいることは、何に反抗しなければならないのか、それさえわからないでいたのではないのかと、よく考えあぐんだものですが、それにしても幼い時からの母の教え、と言うより、その母の育った時代、そして私を育てた時代、その時代に生きた人たちの考え方の根強い古い大きな力の、あまりにも後々まで尾を曳くことを思うばかりです222。
安堵村で、実際に結婚生活をはじめてみて、はじめて、知らず知らずに母から受け継いでいた自分の「旧い女」の側面に気づいたのである。間違いなく、このとき一枝は、「その母の育った時代、そして私を育てた時代、その時代に生きた人たちの考え方の根強い古い大きな力」が根を下ろしている自分と、これから向き合い、闘っていかなければならないことを悟ったにちがいなかった。しかしながら、ここで引用した言説は、明らかにその後の時代の流れに即した観点に立って、世相との整合性を保つために跡づけされたものであったにちがいなく、結婚するまでのころにあっては、一枝は、決して「新しい女」の真の価値に気づくこともなく、それどころか、むしろ積極的に「旧い女」の価値を賞讃していたのであった。次の引用が、それを例証する。
取材のために自宅にやってきた『新潮』の青年(記者)が、「それで貴方は、貴方自分を世間の云ふ『新しい女』と自認して居ますか」と問うと、それに答えて尾竹紅吉(一枝)は、こういっている。「いゝえ、――世間で云ふ新しい女と云ふものは、よく分りませんけれども、不眞面目と云ふ意味が含まれて居るやうですね[。]私は不眞面目と云ふことは大嫌ひです。私は寧ろ、世間で言はれて居るやうな『新しい女』と云ふものが實際にあるならば、『新しい女』を罵倒して遣り度く思ひます。『新しい』『舊い』と云ふことは意味の分らない事ですけれども、舊い新しいの意味が、昔の女と今の女と云ふのなれば、私は昔の女が好きで且つそれを尊敬し、自分も昔の多くの傑れた女の樣になりたいと思つて居ます。そして、私自身はどちらかと云ふと昔の女で、私の感情なり、行為なりは、道徳や、習慣に多く支配されて居る事を感じます」223。ここから明らかなように、なぎ倒してでも「新しい女」を乗り越えて、自分も昔の多くの優れた女のようになりたい――これが、このときの一枝が求める女性像だったのである。問題は、一枝自身、いつ、どのような明確な自覚のうえに立って「新しい女性」に改心しようとしたのか、それとも、時の考えに流されるようにして、理想としていた「旧い女性」の原像をやむなく放棄せざるを得なくなっただけなのか――。一枝は、「青鞜前後の私」の結語として、次の言葉で締めくくる。
ですから、私自身、まるで草履と下駄を片方づつはいて道を歩いているような人間だと言えましょう。
それにしても、同じ明治のあの時代に生きながら、平塚[らいてう]さんは全く別です。自分の考えを立派に育てて守り、見事に結実し、今日に至ってなお成長をとめることのない平塚さんを、私は友人として心から尊敬しています224。
一枝は、自分のことを「まるで草履と下駄を片方づつはいて道を歩いているような人間」だったという。「草履と下駄」の二足とは、旧い女性像と新しい女性像との葛藤を意味するのか、それとも、体の性と心の性の乖離を暗に意味するのであろうか。あるいはその双方を指しているのであろうか。いずれにしても、「草履と下駄」という表現から、四方に入り乱れて渦を巻く苦闘の実相が容易に連想できる。一枝は、この晩年にあって、「自分の考えを立派に育てて守り、見事に結実し、今日に至ってなお成長をとめることのない」、らいてうにみられるような姿を、自己の姿として見出すことはなかった。一枝にとっては、己の生と性にかかわって、すべての問題が、まさしく未決着だったのである。ここに、らいてうをはじめ、周囲の交流があった女性たちと違って、一枝が自伝を書かなかった、あるいは書けなかった理由が潜んでいたものと思われる。
このように、確かに一枝自身は、自分の生涯を文にまとめることはなかった。しかし、その生涯にあって交流した友人たちが一枝について書いた。ある者は、命の恩人として一枝に感謝の思いを捧げ、またある者は、一枝が自分の人生の先導者であったことに敬意を表わし、そしてある者は、開花しなかった一枝の陰の芸術的才能をほめたたえた。それでは、平塚らいてう、神近市子、丸岡秀子、帯刀貞代、そして志村ふくみの文章のなかから該当する箇所を短く拾い集め、以下に紹介しておきたいと思う。
平塚らいてうがエピソードとして伝記に書き残しているのは、娘の曙生が急性盲腸炎を発症したときの様子である。留守中の出来事であった。らいてうは、このように書く。
「昭和五年十月に大阪でひらかれた、関西婦人連合大会に、わたくしは関東消費組合の無産者組合代表として出席しました。……その留守中に……当時曙生は、成城小学校を卒業したあと、自分の選択によって自由学園女子部に進み、二年に在学中でした。とつぜん腹痛がはじまったことについて、日ごろから我慢づよい性質の曙生は、父親にもそのことを告げず、一晩中痛みをこらえていたのでした。そして、ようやく翌日になって招いた村の医者の、決定的な誤診によって、まさに曙生は、死の淵をのぞくことになったのです。……報せで駆けつけてくれた富本一枝さんの機敏な働きで、曙生は赤十字病院に運ばれて手術を受け、すでに手遅れを案じられていた症状にもかかわらず、奇跡的に回復することができました」225。
しかし、その予後は思わしくなく、三回の手術を繰り返し、二年にわたる療養生活を強いられることになった。らいてうの文は続く。「曙生の発病以来、富本一枝さんの示してくれた温かい心遣いは、それによって曙生の生命が救われたばかりか、病児を守って看病に専念するわたくしを、大きく励ましてくれるものでした」226。
神近市子は、一枝の才能を評価した。一九六五(昭和四〇)年一一月号の『文學』に、「雑誌『青鞜』のころ」と題した神近への単独インタビュー記事が掲載されている。一枝が亡くなる前年である。そのなかで、神近は一枝に言及して、このようなことを述べている。
「あのめぐり合いも、不幸でしたね。このあいだ有名な占いの人が、あの人をみて、ひょっと言ったことがあるんです。この人は大天才の星がある、ところが家事星というのが、非常に大きく働きかけて、それに天才のほうがくわれてしまったって。あの人の生涯を見れば、絵描きとしては、もしもお父さんの後を継ぐということで一本でいけば、そうとう伸びています。今でも、とってもいい字を書きますしね。」「ですから、その占いの人が言ったという星の話はなるほどというところがあります。いまでも風采からしても、言うことからしても、相当変わっていますからね。その点富本[憲吉]先生のほうがかえって、才能的にはもって生まれたものは少なかったかもしれません。先生の絵とか作品とかに対する彼女のアドバイスというものが、批評の役割を相当果たしていたでしょう。だから、富本先生の作品は、[戦後一枝と別れて]あちらにいかれてからの作品よりも、三十四、五から五十代までの作品がいちばんいいといいますね」227。
すでに、第五章の「夏の出来事と安堵村生活の終焉――わたしはMさんに心を傾けていました」において言及しているように、一枝と丸岡秀子のあいだには、かつてこのようなことがあった。一九二三(大正一二)年、奈良女高師の四年生であった秀子は、学生最後の夏を、富本家の海浜の休暇に加えてもらって尾道の向島で過ごした。そのときそこへ、秀子の先輩で友人でもあった美貌の「Mさん」が一枝を訪ねて来て、ふたりは、親密に泳ぎを楽しんだ。その親密さに秀子が傷ついたのではないかと疑った一枝は、そのようなことが書いてあるかどうかを確かめるために秀子の日記を盗み見た。それから十数年の月日が流れた。その間、富本一家は安堵村から東京の千歳村へ移住し、一方の秀子は、就職、結婚、出産、夫の死、再就職と、若くして人生の過酷さを十分に味わっていた。正確に時期を特定することはできないが、秀子が一枝と一緒に成城の町中を歩いていたおりのことである。秀子がひとつの話題を切り出した。その場面が、一九八三(昭和四八)年に偕成社から出版された秀子の自伝的小説『ひとすじの道』に表われているので、そこから適宜引用するかたちで、以下に、その場面を再現したいと思う。本文中では「恵子」という名で登場するが、これが秀子であることはいうまでもなく、したがってここでは、「秀子」に置き換えて表記することにする。
秀子には、「Mさん」のことも、どこか頭の片隅にあったものと思われる。秀子は一枝に向かって、ずばりと切り出す。「ずいぶん浮気をなさったから、もう思い残すことはないでしょう」。このぶつけられた言葉にいらだつ一枝は、「それが私へのお返しですか」と反駁するも、秀子は、「あなたは美人がお好きでした。それはみとめていらっしゃるでしょう」と、追い打ちをかける。一枝は「この奴」といった表情を見せた。この日別れたすぐあとに、一枝からの手紙を秀子は受け取る。それには、こう書かれてあった。「美人に生まれることは、よきかなです。しかし、心のむなしい美は、すぐに厭かれてしまいます。形ばかり美しくなっても、中身のない美人はごめんです。目をたのしませるのも、時間の問題です。ばかなことをいうものではありません。あなたの肉体が弱っているので、そんなことがいえるのです。なぐさめではありません」。この手紙が届いた翌日、秀子は一枝を訪ねた。「昨日のお手紙で、わたしを慰めたり、納得させたとは、まさか思ってはいらっしゃらないでしょうね。わたしがいいたいのは、これまでのあいだ、さんざんご自身を浪費なさったことが残念でならないのです。誰にしても、あなたから愛されることは、喜びだったと思います。おなかの底からきれいな、あなただからです。だが、あなたご自身の仕事が、いくらでも、おできになれる環境にいらっしゃりながら、その才能をお持ちになりながら、あなたは大切なエネルギーを浪費なさった、分散なさってしまったと思うことが残念なんです」。絵や書の製作あるいは小説の執筆こそが一枝が開花させるべき天与の仕事であると感じていた秀子の目には、同性へ向ける一枝の性的指向がエネルギーを浪費、分散させてしまい、その結果、本来の自分の仕事がおろそかになっているように映るのである。一枝はこの痛烈な指摘に抗議した。「あなたは、ひどい。あなたのことだけを思っていたこともあったのに……」。それに対して秀子は、一枝の美質を認めたうえで、次のような言葉を使って、これまでに受け取った恩恵の数々に感謝の気持ちを示したのであった。「わかっています。わたしはあなたから、他の人のように溺愛はされませんでした。だが、どれだけ励まされたか、わからないんです。それだけでよかったのです。もし、あなたがいてくださらなかったら、わたしは生きていられなかった時もありました。わたしは、あなたから、どっさりのことを学びました」228。
第六章「東京に住む――ひとりで祖師谷に行ってはいけないよ」のなかで、すでに引用しているので、繰り返しの引用になるが、当時、無産婦人の労働者としての意識を覚醒させる教育と組織つくりとに携わっていた帯刀貞代は、一枝との出会いを次のように振り返る。
「私が富本さんにはじめておめにかかったのは、昭和のはじめだった。そのころ私は江東の亀戸で、女子労働者のためのささやかな塾をひらいていて、富本さんは神近市子さんを誘って、そこをみにこられたのだった。そのつぎのあざやかな記憶は、昭和大恐慌のさなかで、塾にきていた女子労働者たちの六十日にわたる合理化・工場閉鎖とのたたかいが惨敗したあと、こんどは、こちらから富本さんをお訪ねしたときのことである。……まだそのころ丘の上にただ一軒しかなかった富本さんの家は、空気も樹木も、花の色もキラキラ輝いてみえた。それいご四十年ちかく、病弱な私は言葉につくせないお世話になった」229。
一九五七(昭和三二)年に帯刀は、岩波書店から『日本の婦人――婦人運動の発展をめぐって』を出版することになる。そのとき、その本の扉の裏に帯刀は、「この貧しき書を富本一枝様に捧ぐ」という献辞を添えた。
一枝は、夕陽丘高等女学校の出身で、妹の福美もこの女学校に通っていた。そのときの福美の同級生に小野 豊 ( とよ ) がいた。三人は、よく一緒になって遊んだ。その小野豊の娘が、染織家として大成する志村ふくみ(一九二四年生まれで、「ふくみ」の名は、一枝の妹の福美の名からとられているという)なのであるが、彼女のエッセイに、「母との出会い・織機との出会い」と題された一文があり、そのなかで、母である小野豊が、若き日に一枝と偶然にも再開し、その後安堵村に一枝を訪ねていたことを紹介している。
「やがて三児の母となった或る日、阪急電車の中で、音信の絶えて久しい尾竹一枝さんにばったり出会った。その時は既に結婚され、富本憲吉夫人になっていたのであるが、偶然の再会を喜び合い、その時より終生の深い友情で結ばれることになった。母はいまも小筥に一枝夫人の手紙を大切にしまっているが、巻紙にあふれるような豊かな筆致で、率直すぎるほどに母を戒め、いたわり、なかには三メートルに及ぶほどの手紙もある。先日、それをみせてもらっていると、はからずも再会の日の手紙が出てきた」230。
こうして、一枝と豊との交流がはじまった。ある日のこと、招かれて豊は、窯出しの日に安堵村を訪れた。「『女かて、自分の思いを貫いて生きている人がいる』母は心を揺さぶられて帰ってきた。その日から夫人の死に至るまで、五十余年、『富本さんから受けた恩は語りつくせるものではない』と常々語っている」231。
上で紹介した、一枝を鑚仰する文は、わずかにその一部でしかない。本稿に登場している中江百合子や石垣綾子、そして蔵原惟人や中村汀女も、そうした気持ちを書き表わしているし、それ以外にも、よく見れば、多くの人たちが、その列に加わっているにちがいない。一枝は、その生涯を「草履と下駄」という異なるふたつの履き物をつけて渡り歩き、その間の多くの出来事が「面白い氣分」の「指圖になつた悪戯」であった可能性を遺す。その結果自らの人生の大半が整合性を欠いた未決着なものになり、そうであったがゆえに、自伝のための筆を取ることはなかった。しかし上述のとおり、それに代わる、心温まる数々の文が、その裏側で、しっかりと息づいているのである。自伝が自己による評価であるとするならば、これらの文は、他者による評価である。そこで考えられることは、一枝がどう生きたのかにかかわるひとつの記述(評伝)の観点として、今後、この他者の評価を積極的に採り入れることが必須の要件となるのではないかということである。つまり、「本人が語る富本一枝という生き方」(自伝)を超えて、「他者が語る富本一枝という生き方」(評伝)へと向かうまなざしである。それでは、この「他者の評価」の核心部分を形成しているものは何か。よく読めばわかるように、上で紹介した誰の文においても共通して表われているのは、一言でいえば、「侠気的熱情」といったものではないであろうか。
これまでの研究のなかにあっての一枝(紅吉)は、「侠気的熱情」という文脈において語られることはほとんどなく、多くの場合、「青鞜の女」や「新しい女」と結び付けられ、ある種特別の強調をもって記述がなされてきた232。しかしながら一枝本人は、本稿においても例証しているように、一生涯を通じて自らを「青鞜の女」とも「新しい女」とも名乗ることはなかった。そうした呼称は、もともとは当時のジャーナリズムか何かによって付与されたと思われる烙印であり、明らかに軽蔑と嘲笑とを含意するものであった。あまりにも鮮烈な青鞜時代の行動であったがために、そうした用語が、一枝の内面的実態をはるかに越えて憑依し、一方で、後世に至るまでその勢いは静まらず、本来実証主義的であるべき学術研究のなかにまで、やすやすと取り込まれていったのであろう。
『青鞜』創刊五〇周年の一九六一(昭和三六)年に、女性史研究者の井手文子は『青鞜 元始女性は太陽であった』を上梓するが、それに先立って井手は、一枝にインタビューを試みている。そのときの一枝の態度や発話のなかに、自分にとって青鞜社がどのような存在であったのかが、表現されている。初対面の「富本一枝はパタパタとスリッパの音をたてて私の前に現われた。髪は無造作な櫛巻きで、あらい格子紡ぎのキモノをつけ、ひどく粋であった。彼女はハリのある大きな声で、つづけざまにこんな風に話しだした」233。
私はたいへん我儘もので、それに馬鹿もので、ただ、むしょうに青鞜社に憧れていたんです。ともかく青鞜社にいたといっても時間が短いでしたし、異質な人間で、自分一人で動いていたので、本当に青鞜社の精神を代表したものではないんです。だからわたくしの話を聞いたってあまり役に立ちませんよ234。
自分の存在は「青鞜社の精神を代表したものではない」――おそらくこれが、一枝の偽らざる自己理解だったのではないだろうか。読む限り、かつて身を置いた青鞜社に、何か特別の帰属意識のようなものをもっている様子はない。そのことは、一枝(紅吉)が青鞜社を離れてゆくときの様子からも、十分に推量することができる。以下は、一九一三(大正二)年の『青鞜』八月号の「編輯室より」の一部である。
尾竹紅吉氏がまだ本社の社員であるかのやうに思つてゐる方もあるやうですが、同氏が自分から退社を公言されたのは昨年の秋の末だつたかと思ひます。……同氏の特殊な性格を知つて居ますから社は大抵は黙許して参りました。けれども今日はもう社とも、社員とも全然何の關係もありません。従って同氏の言動に就ては……社にとつてもらいてうにとつても誠に迷惑なものであります235
まさしく一枝(紅吉)は、厄介払いにも似た扱いで青鞜社を最終的に退社しているのである。ここから判断しても、その後の人生にあって一枝が、自らを「青鞜の女」と呼ぶことがなかったとしても、それは当然のことであった。そのようなわけで、あくまでも一枝本人の気持ちに添って考えるならば、「青鞜の女」も「新しい女」も、決して一枝の内面に宿す本来のアイデンティティーを言い表わす用語ではなかった。したがって、この用語を強引にも、また無責任にも外野席からラベリングされることは、おそらく一枝にとっては、不愉快なことだったにちがいない。そうであれば、「青鞜の女」や「新しい女」といった旧い主題を一括して包摂したうえでそのすべてに取って代わる、一枝が真の自分を内発的に語るうえでの自己規定の概念となるようなものがあるとするならば、それは、一体何であろうか。それこそが実は、多くの他者が一枝を評価するに際して、彼女の美点として見抜いていた「侠気的熱情」という、上述の概念だったのではないだろうか。ここに至って思うに、どうやらこれが、一枝というひとりの女の生涯を貫くアイデンティティーとなるものであった。そしてそれは、疑いもなく、母から受け継いだものであった。
父親が越中富山藩の高禄武士であった母のうたは、祖先を敬い、親に尽くし、夫に従うことに徹した、厳格なしつけを娘たちに行なった。すでに前章(第一二章)において引用で示したように、一枝は、うたについてこう述べている。「母は五十二才でなくなった。私は、母のその年から二十年もよけいに生きている今になって、母から訓し教えられていたことがやっとわかって、あらためて、母のしたこと、口癖のようにいってきかせてもらっていたことが、骨身にこたえ、『お母さんご心配ばかりかけてごめんなさい』と、朝ごとに母の写真に手を合せ、母をなつかしみ、母に詫びている」。うたの教えとは、次のようなものであった。
母は、うそをつくことと怠けることが大嫌いだった。へつらったり、自分さえよければ人はどうなろうと平気な人間を、とりわけ好きでなかった。……母がつねづね子どもにきかせていたことは、情のある人、思いやりのある人になることだった。一番はずかしいことは、困った人をたすけたことをいつまでも覚えていること。それと、「人のふり見て我がふり直せ」ということだった236。
この教えは、明らかに「侠気的熱情」に近い心情を含み持つ。そこから推論すれば、このような内容をもつ、一種武士道的な「侠気的熱情」が、明治以降の日本の「良妻賢母」思想の徳目の一部となって、前時代から引き継がれた可能性はないのか。そして、この「侠気的熱情」の側面が発芽して、「新しい女」すなわち「女性解放」を出現させた可能性はないのか。もしそうであるならば、一枝の生涯を「侠気的熱情」でもって今後再文脈化することは、結果として、「良妻賢母」思想の、生成、継承、変容を考えるうえでの、ひとつの事例史という優れた副産物を生み出すことにつながるのではないか、つまりそれは、「新しい女」あるいは「女性解放」の出現史(そして発展史)となるのではないか――いまは、そう思っている。もっとも、「侠気的熱情」の発露、あるいは「良妻賢母」思想の受け渡しという文脈から一枝の生涯を再構築する場合においても、一方で、性的少数者としてのジェンダー/セクシュアリティーの文脈から照明をあて続け、新たな主題との関係にあって、独創的な知見を発掘してゆく作業の重要性には変わりはなく、その意味で、一枝の一生を描写するに際しての複雑性ないしは多次元性は、これからも避けがたく続くものと思われる。さらに加えて、一方の性の立場に偏り、一方の性を顧みない旧来の「男性史」や「女性史」の限界を超えて、時代の諸力のなかにあって展開されたある特定の男女の歴史的実態を対象として描く「家族史」(あるいは「男女関係史」)への移行の必然性について、そしてまた、母から娘への生命相続の流転にかかわる「母娘関係史」の学術的重要性についても、論証を抜きにして、ひとこと直感的にこの場にあって指摘しておきたいと思う。
それでは最後に、本稿を閉じるにあたって、一枝が亡くなって三年後の一九六九(昭和四四)年に書かれた一枝研究の出発点となる井手文子の「華麗なる余白・富本一枝の生涯」から一節を引いておこう。
いわば富本一枝というひとりの女性は、ひときわ華麗な余白を、明治・大正・昭和にかけて女の歴史に刻んだのである。華麗な未知数であったゆえに、人びとはいっそう彼女に愛惜と、ある悔恨の情を持ったのではなかったか。その愛惜と悔恨のためにも、いま一度、富本一枝の生涯を時代とともになぞってみる義務がわたくしたちにあるように思われる237。
らいてう、神近、丸岡、帯刀、そして志村が一枝について言及した上述の言説は、まさしく、井手が指摘する「華麗なる余白」に書き込まれた「愛惜と悔恨」のメッセージだったと理解することができよう。そして井手は、「その愛惜と悔恨のためにも、いま一度、富本一枝の生涯を時代とともになぞってみる義務」を課した。これは、一枝自身が自伝を書かなかったことに由来する、裏を返せば、カミング・アウトしなかったことに起因する、研究者に残された永遠の宿題ともいうべきものであった。半世紀が立とうとする現在にあって、稚拙ながらも本稿をもって私は、ひとりの研究者としてその責務に応え、いまここに、宿題を提出しようとしている。採点は、次世代の研究者の手にゆだねる。厳しくあってほしい。そしておそらく、井手が課したこの責務は、これからのちも多くの研究者に引き継がれ、女性史、家族史、女性解放運動史、近代文学、児童文学、ジェンダー/セクシュアリティー研究、そして、さらに加えることが許されるならば、上述の「母娘関係史」といった実に多様な学問的土壌のなかから、研究成果という麗しき芽が姿を現わし、一枝の遺した「華麗なる余白」に静かに彩りを添えてゆくにちがいない。あたかも、憲吉が焼いた大きな白磁の壺に、「紅吉」の名にふさわしく、一枝が愛した紅いバラが一本一本投げ入れられていくように――。
(221)尾竹紅吉「歸へつてから」『青鞜』第2巻第10号、1912年10月、131頁。
(222)富本一枝「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』(講座女性5)、三一書房、1958年、178頁。
(223)「謂ゆる新しき女との対話――尾竹紅吉と一青年」『新潮』、1913年1月、107頁。
(224)前掲「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』、同頁。
(225)前掲『元始、女性は太陽であった③』、298-299頁。
(226)同『元始、女性は太陽であった③』、300頁。
(227)前掲「雑誌『青鞜』のころ」『文學』、68-69頁。 さらに神近市子は、『神近市子自伝――わが愛わが闘い』のなかで、次のようなことを回想している。神近の東京日日新聞への入社のきっかけをつくったのは紅吉(富本一枝)の紹介によるものであった。結婚生活の場を安堵村に移すため紅吉が東京を立つ少し前のことだったのではないかと思われるが、神近が回想するところによると、「私をたずねて尾竹紅吉の使いという人があらわれた。手紙をあけてみると、東京日日新聞(いまの毎日新聞)で婦人記者をさがしているから、立候補してみないかと書いてあった。入社の希望があるなら、履歴書を持って新聞社に小野賢一郎氏をたずねてみろということであった」(神近市子『神近市子自伝――わが愛わが闘い』講談社、1972年、122頁)。紅吉は青鞜社の社員のころから小野とは面識があった。そうしたこともうまく作用して、以前からジャーナリズムに強い関心をもっていた神近は、希望どおりに入社が決まった。
(228)前掲『ひとすじの道 第三部』、134-136頁。 また丸岡秀子は、富本一枝について、次のようなことも回顧している。「ことに、子どもを愛することにおいては誰も及ばなかった。『お母さんが読んで聞かせるお話』(A・Bの両巻ともに一九七二年、暮しの手帖社刊)という単行本を残しているが、彼女のお通夜の晩、近所の子どもたちが、次々に棺の前で泣いていた姿もまだわたしの記憶にある。それもいいかげんなものではない。わたしの娘も息子も、幼いときに体が弱く、何度か重症に陥ったことがあった。そんなとき、一枝さんは、青山の日本赤十字まで自分で出かけて、医者を連れてこなければ納得できない、という真剣さも見せた。その態度に打たれた赤十字の青柳先生のお手紙が、まだ大切に残っている。だから、彼女はわたしの十代の飢えについても、深い配慮で見守ってくれた。“耐えること、耐えた瞬間はすでに過去です”と書き送ってくれた言葉に、わたしの人生はどれだけ支えられてきたことかわからない」 (丸岡秀子『いのちと命のあいだに』筑摩書房、1984年、31頁)。
(229)前掲「富本一枝さんのこと」『新婦人しんぶん』、同頁。
(230)志村ふくみ「母との出会い・機織との出会い」、原ひろこ編『母たちの時代』駸々堂、1980年、25-26頁。
(231)同「母との出会い・機織との出会い」、原ひろこ編『母たちの時代』、同頁。
(232)たとえば、書名の例として『青鞜の女・尾竹紅吉伝』(渡邊澄子著、不二出版、2001年)を挙げることができる。書名は限定的であるにもかかわらず、内容はそれから大きく逸脱して、広く富本一枝の生涯が描かれている。また、特集のタイトルの例として「特集◆新しい女・尾竹紅吉」(『彷書月刊』通巻185号、2001年2月号、2-33頁)を挙げることができる。これの場合も、特集名と、所収されている各エッセイの内容とが、必ずしも一致しているわけではなく、幾つもの齟齬が散見される。このふたつの事例が示すように、これまでの研究にみられる「青鞜の女」あるいは「新しい女」という用語についていえば、その実体が、そしてその呼称に対する一枝本人の認識等が、一次資料に基づき十全に検討も定義もなされないまま、一方的に一枝の身にまとわされてきた傾向にあったといえる。同時に、もうひとつ特徴的なことは、その用語をラベリングすることにより、意識的であったのか、無意識的であったのかはわからないが、富本一枝というひとりの女性の全存在なり全生涯なりが、あたかもそうであったかのような印象を結果として醸し出してしまったことであろう。
(233)前掲「華麗なる余白・富本一枝の生涯」『婦人公論』、331頁。
(234)同「華麗なる余白・富本一枝の生涯」『婦人公論』、同頁。 また一枝は、「“青鞜”発刊五十周年」と題して、らいてうと対談を行なった際には、このようなことも語っている。「当時、青鞜へ書いていたものをいま読むと、汗が出ます。若い一途なままをむきだして書いたのですね」(「“青鞜”発刊五十周年」『婦人界展望』第85号、1961年9月号、8頁)。
(235)「編輯室より」『青鞜』第3巻第8号、1913年8月、195頁。
(236)前掲「母の像 今日を悔いなく」、日本子どもを守る会編集『子どものしあわせ』、同頁。
(237)前掲「華麗なる余白・富本一枝の生涯」『婦人公論』、331-332頁。