戦争が終わった。憲吉と一枝の、戦争にも似た関係も、そのとき終わった。寒冷地における焼き物の試作のために残留していた飛騨高山から、一九四六(昭和二一)年の一月に祖師谷にもどると、六月には家を出て、単身憲吉は、安堵村へ帰って行った。のちに憲吉は、『日本経済新聞』に掲載された「私の履歴書」のなかで、こう綴っている。
私にしてみれば、二十年間の東京生活の間に、船腹の貝殻のようにまといついたすべての社会的覊絆や生活のしみを、敗戦を契機に一挙に洗い落としてしまいたかったのである。すでに郷里の大和へ一人で引き揚げる覚悟もついていた。私は陶淵明の帰去来の辞の詩文を胸中ひそかに口ずさみながら大和へ発った。……あれもこれも投げ捨てて、とにかく裸一貫で私は大和へ帰った。東京でなにものかに敗れたというような、みじめな思いはちりほどもない。耳順六十歳にして、私はむしろ軒昂たる意気込みだった。ロクロ一台、彩管一本をかたわらに私は新しい制作への意欲に燃えていたともいえよう170。
ここには、離別の具体的な理由については、何も書かれていない。なぜ憲吉は、家を出る必要があったのであろうか。一九六九(昭和四四)年九月の『婦人公論』(第五四巻第九号)に掲載された、女性史研究家の井手文子による「華麗なる余白・富本一枝の生涯」のなかに、以下のようなことが書かれてある。
なぜ、憲吉は一枝のもとを去ったのであろう。その別離の理由を水沢澄夫はある日彼から聞いた。長くためらったのち、憲吉は「あの人はレスビアンだった」と言ったという171。
水沢澄夫は美術評論家であり、憲吉との交友は長いものの、一九五七(昭和三二)年一〇月の『三彩』(第九二号)に「富本憲吉模様選集」と題してその書評を寄稿しているので、憲吉からこのことを聞かされたとすれば、おそらくはこのころの時期だったのでないかと思われる。憲吉が語ったとされる「あの人はレスビアンだった」という言葉が表に出るまでには、水沢と井手というふたりもの人物が介在する。したがって、この言説が絶対的に正確かどうかについての確証は何もない。しかしながら、憲吉も一枝も、本人たちは直接何も語っておらす、この水沢と井手を経由した憲吉の言葉が、現段階にあって唯一、ふたりの離別の理由を知るうえでの手掛かりを与えているのである。これが事実であるとするならば、憲吉は、結婚以来の一枝のセクシュアリティーにかかわる問題に、もはや耐えかねて家を出たことになる。
家を出るにあたっては、財産の分割は、どのように行なわれたのであろうか。離別の原因が一枝にあるのであれば、贈与の必要性も生じなかったであろうし、逆に慰謝料さえ請求することができたのかもしれなかった。しかし憲吉は、そのようにはしていない。そのことをうかがい知ることができる一通の手紙が残されている。この手紙は、一九四八(昭和二三)年の夏に、陶の夫の海藤日出男に宛てて、憲吉から出されたものである。以前憲吉が仕事場としていた 工場 ( こうば ) を少し改装して、自分たちの生活空間として使わせてもらえないかという陶夫婦の問い合わせに対する返事らしい。
要事から書きます 工場は勿論 あの家に附属したもの故、諸君のうち誰が使用され様とも結構であります 私は去年八月申し送りました通り家の半分を一枝に その残りの半分を三人におくりましたから私のものではありません、あの家には私の書物や衣服がありますが帰へって行くのがいやでモウ一切捨てるつもりで居ます172
この手紙から、家の半分を一枝に、残りの半分を陽、陶、壮吉の三人の子どもに分与したいとする意向が、すでに家族に伝えられていたことがわかる。これにより、祖師谷の家屋敷と工場はもちろんのこと、家具調度品から作者留め置きの作品に至るまで、さらには預貯金や野尻湖の別荘も含めて、すべて家族に残したまま憲吉は東京を離れたものと推察される。まさに裸一貫、生まれたままの姿で、生まれ故郷に帰ったことになる。これが、原因や理由はどうであろうとも、自分独りの一方的な判断で東京を去り、その結果稼ぎ手を失うことになった家族への、憲吉なりの償い方、ないしは責任のとり方だったのかもしれない。あるいは、一枝とのいっさいの関係を断とうとする、離縁にあたっての憲吉の強い意志の表われだったのかもしれない。さらには、折半さえもしなかった理由には、今後の壮吉の養育費や教育費などへの配慮が含まれていたのかもしれなかった。このとき憲吉は、東京美術学校にも帝国芸術院にも辞表を提出した。こうして憲吉は、家族だけではなく、すべての社会的地位も、そしてすべての財産も放棄したのだった。
生まれ故郷の安堵村に帰還したものの、もはや瀬戸物を焼く窯はなく、懐の不如意に耐える。一九四七(昭和二二)年の秋も深まり、寂寥感が憲吉の胸に忍び寄る。このとき憲吉は、次のような切々たる詩を書いた。
半ば枯れたる荻
風になびき倒れむとして倒れず
あゝ秋風になびく荻
窯なく放浪のわれに似たる
われに似たる173
このあとに「昭和二十二年立冬 大和國安堵村舊宅にて 憲吉寫並文」の文字列が続く。この詩片と茶碗の絵が、水原秋櫻子が主宰する句誌『馬酔木』の一九四八(昭和二三)年正月号の巻頭詩に用いられた。その後憲吉は京都に移り住み、ここを起点として晩年の製陶活動が開始されてゆく。
それでは、一方の一枝の戦後の生活は、どのようにしてはじまったのであろうか。これについて神近市子が、次のように語っている。
晩年は夫君と別居され、青春時代の華やかな紅吉を思うと涙をそそられるような淋しい日々だったが、花森安治氏が彼女をかばって、いつまでも『暮しの手帖』に執筆を依頼した。中村汀女氏も彼女を選者に迎えて、最後まで彼女の才能を評価された。その意味では、一枝さんは幸せな人であった。私たちの友情も終生変わらなかった174。
前述したように、一枝と汀女が知り合うのは、戦争末期のころで、大谷藤子の紹介であった。戦時下の買い出しや疎開を通して女性たちは協力し合い、それに伴い交流の輪も広がっていった。汀女は、こう書く。「この縁故で、私たちは神近家に疎開荷をあずけ、また農家にも荷をあずける日が来た。また、二十二年に創刊した、主宰誌『風花』の編集も富本一枝氏がやって下さることになったのである」175。
『風花』創刊号が発行されたのは、奥付によると、一九四七(昭和二二)年の五月一日であった。さらにこの創刊号の奥付には、編輯者に富本一枝、發行者に中村汀女の名前が記載され、發行所は風花書房で、所在地の住所は、汀女の自宅の「東京都世田谷區代田二ノ九六三」となっている。また、「本號特價十八圓」の文字も並ぶ。目次に目を移すと、最初の行に「表紙・扉・カット」として富本憲吉の名前が明記されている。この創刊号には、九人の執筆者が寄稿し、そのなかには、武者小路實篤の「畫をかく事で」、室生犀星の「(俳句)蕗の 臺 ( とう ) 」、そして河盛好蔵の「何を讀むべきか」などが含まれていた。汀女は、このような著名人への原稿の依頼について、「こうしたお願いなども編集をやって下さった富本一枝氏の配慮であった。諸先生にはほとんど稿料というものもさしあげ得なかった」176と、自伝のなかで回顧している。そして巻末の「後記」に、編集を担当した一枝の言葉を読むことができる。一枝は、このように書き出す。
創刊號の編輯後記を書かうとして、私は感慨深い思ひです。昨年の十二月から約半歳、本誌を發刊するにつけて苦勞しました。中村さんも私も、出版事情が日に日に悪い時期に、雜誌を出すといふことがどんなに困難な仕事であるかと云ふことは充分計算にいれてゐましたが、さて仕事にかかつてみると、豫期しない障害が次々にやつてきて、幾度か引き返したくなりました。それでもとにかく此處まで辿りつきました。それだけに嬉しさ格別です177。
一枝は、「私は感慨深い思ひです」と書く。その思いは、単に、大きな苦労のうちに何とか創刊することができたという達成感だけに止まらず、この句誌の第一号の「後記」を書くにあたって、かつての『青鞜』や『紅番花』のときのことがにわかに一枝の胸に蘇り、そうした過去の思い出とない交ぜになって、感慨は一層の複雑さを増していたものと思われる。あのときは、憲吉を知ったばかりの時期だった。他方いまは、憲吉が家を出たばかりの時期である。その間の結婚生活は、自分にとって一体何だったのであろうかと、ふと自問したとしても不思議ではない。憲吉に表紙のデザインを依頼したのは、いつだったのであろうか。一枝がいうように「昨年の十二月から約半歳」が編集期間であったとするならば、すでに憲吉は祖師谷を出て、家にいない。もしこの期間に依頼しているとすれば、一枝は安堵村の憲吉に、この件で連絡をとったことになる。思い起こすと一枝は、『青鞜』や『紅番花』のときも、安堵村にいる憲吉に連絡をとり、木版に使う下絵や表紙を飾る原画の製作を依頼していた。くしくも一枝は、この『風花』の編集作業を通して、若い日のあのときと全く同じような内容と方法により、憲吉との交流を再体験したのであった。しかし違うのは、『青鞜』や『番紅花』のときは、ふたりの関係のはじまりを意味したが、『風花』の場合は、その終わりを意味していた。
一九四八(昭和二三)年の一二月一日に発行された『風花』第一〇号を開くと、「風花集」に、平塚明子(らいてう)と中江百合(百合子)の作品が、そろってそれぞれ三句、掲載されている。しかしながら、それ以上に目を引くのは、この号に「少年少女圖書出版 山の木書店」の広告が掲載されていることである。広告されている書籍は、吉野源三郎著『人間の尊さを守ろう』(定価一二〇円)、久保田万太郎著『一に十二をかけるのと 十二に一をかけるのと』(定価一三五円)、中澤不二雄著『ぼくらの野球』(定価七〇円)の三冊で、出版社の所在地は「東京都世田谷區祖師谷町二ノ八二九」となっている。一枝は、この時期あたりから、『風花』の編集業務から少しずつ離れ、「山の木書店」という出版社を立ち上げると、児童図書の刊行事業に全力を注ぐようになっていったものと思われる。
この「山の木書店」については、ほとんど資料がなく、陽の息子の富本岱助が後年書いた「祖母 富本一枝の追憶」が貴重な手掛かりを与えている。それによると、このような背景から「山の木書店」は生まれた。
祖母についての思い出は、数多くあるが、とりわけ印象的な事と言えば終戦直後に設立した「少年少女図書出版・山の木書店」もその一つであろうか。
戦争が終って間もなく昭和二十二年、祖母は私の母、陽と共に児童向け専門の出版社を設立する爲に準備を進めていた。スタッフは祖母と母の二人しか居らず、資金の調達を始めとして、当時統制下にあった紙の調達や、原稿の執筆依頼、印刷所の手配、と言った慌しい日々を送っていたが、或る日、祖師谷の家に出資金が大きなトランクで持ち込まれた事があった。当時は五銭・十銭といった少額の貨幣がまだ充分通用する時代であったから、その百円札の束が山になっている様子は子供心にもかなり迫力を感じ、家が随分と金持ちになった様に思ったものだった。
この出版社に出資された方は、祖母の友人の甥で、秩父の山林業を手広く営んでおり、そこから「山の木書店」と名付けられたそうである178。
「山の木書店」は、このような経緯をたどって、一枝と陽の親子の手によって誕生した。岱助が一〇歳になるころの話ではないだろうか。ところで、ここに岱助が書いている、この新会社に出資をした、秩父で手広く山林業を営む祖母の友人の 甥 ( おい ) とは、どのような人物だったのであろうか。すでに述べているとおり、戦争末期、憲吉は東京美術学校の「高山疎開」に伴い、飛騨高山で学生たちと一緒に生活をしていたが、一方、残された一枝たちは、大谷藤子の実家のある秩父へ戦火を逃れて疎開した。おそらくこのときに、甥として大谷から紹介され、面識を得た人物なのであろう。憲吉が家を出ると、一枝と陽は、児童図書の出版会社の設立を思い立ち、そのための資金援助をこの大谷の甥に求めたものと思われる。こうして出版事業に理解を示し、出資してくれる人も現われ、一枝と陽にとっての戦後生活は、一見順調に滑り出したように見えた。しかし、「山の木書店」の経営は、その後決して順調に推移したわけではなかった。岱助の追憶は、次のように続く。
紆余曲折のすえ昭和二十三年十一月に第一冊の『人間の尊さを守ろう』(吉野源三郎著)が発行された。
戦後の混乱期の最中に、あえて児童向けの本を出版する事は、単に生計の爲だけになされたのではなく、子供達に良質の本を与えたい、と言う祖母の思いが強く働いていた様で、さかのぼって見ると、幼かった娘達と共に夫婦合作の手づくりの家族小冊子『小さな泉』にその原点があったのではないだろうか。その二十数年にわたる思いが、「山の木書店」に結びついて行き、第一冊目が発行されたのだが、幼い私が、広間に積まれた返本の山の中で遊んだ記憶がある程なのだから、あまり売れ行きは良くなかった様であった179。
ちょうどこのころ、一枝の身の回りでひとつの出来事が起きた。作家の近藤富枝が、一九八二(昭和五七)年発刊の自著『相聞 文学者たちの愛の軌跡』のなかで記述している話である。記述内容に即してその出来事へ至る背景を要約すると、だいたい次のようになる。一九四四(昭和一九)年の八月、富本一枝から「特別の交際」を求められた大谷藤子は、一枝には過去に多くの女性と関係を重ねていた経緯があったため、躊躇するところはあったものの、ついにそれに応じる関係になり、一九四五(昭和二〇)年春からの疎開中も、藤子の母方の実家で一緒に共同生活をするほどの親しい仲になっていたが、戦争が終わり東京にもどると、一九四八(昭和二三)年ころ、S女にその大切な愛を奪われてしまった。こうした背景から、この出来事は生まれた。
あるとき藤子は一枝の家でS女と出会い、争ってもみあいとなり、眼鏡をとばしてメチャメチャにするという事件があった。藤子もS女も和服一本槍なので、八つ口はさけ、帯はほどけ、どちらも惨澹たる姿だったにちがいない。S女とて藤子より一歳年長の世帯持ちなのである……。
藤子は一枝の経営する少年少女出版、山ノ木書房に、秩父の山持ちの甥を動かして出資し、S女は自分の主宰する歌誌に、一枝の随筆やカットを採用して生活を授けた。どちらも一枝を独占しようとして懸命であった。しかしこの闘いは世なれぬ藤子の負けであった180。
富本一枝と大谷藤子は実名が使われている。この一文が世に出たとき、ふたりはすでに世を去っていた。明らかに「S女」とは、当時存命していた中村汀女のことであろう。旧姓が斎藤なので、そこから採られたイニシャルだったのかもしれない。「歌誌」とは、句誌の『風花』を指しているものと思われる。著者の近藤富枝は、一枝が大谷に求めた関係を「特別な交際」という表現を使っている。もし一枝がこの時期、自分の心の性を「男」としてはっきりと認識していたのであれば、「特別な交際」は、たとえ女同士であろうとも、決して「同性愛」などではなく、それは、れっきとした「異性愛」を意味する。一枝とS女とのあいだにも、同様の「特別な交際」が存在していたかどうかはわからない。しかし、双方に何らかの好意的感情が働いていたことは疑いを入れないだろうから、この三者は、いわゆる「三角関係」に近い間柄にあったわけであり、つまり、この出来事は、一枝という「男」を巡る、ふたりの女による奪い合いだったということになろうか。
以上のような判断が可能となるのは、何はともあれ、近藤の描写内容が、いっさい疑う余地のない真実であることが前提となる。創作的な手が加えられていたり、あるいは別の何か思惑によって脚色さていたりしていれば、話はすべて振り出しにもどる。
『女人藝術』についての本を執筆していた尾形明子は、大谷藤子が亡くなる年(一九七七年一一月没)の夏に直接本人に電話をし、一枝についての回想を聞き出している。
戦争の少し前ごろから親しくなりまして、富本さん、家中で秩父の私の実家に疎開してみえたりしました。感覚の鋭い魅力的な人でした。背が高くて、ちょっと首をかしげるのが癖でしてね。一時ちょっとしたことから気まずくなってしまいましたが晩年はお気の毒でしたね。富本憲吉さんが別の女の人と暮らしていろいろ辛いこともあったようです。淋しがり屋で子供っぽさの脱けきらない人でしたから181。
大谷のいう「一時ちょっとしたことから気まずくなってしまいました」の意味する内容が、この出来事を指しているのであろうか。もっとも、それだけでは、この出来事が事実であった決定的な証拠とはなりえないが。
この時期、別のもうひとつの出来事が、一枝を襲った。一九四九(昭和二四)年一〇月二五日の『毎日新聞』(大阪)に目を移すと、「秋深む温泉郷 女弟子と精進の絵筆 夫人と別居の陶匠富本憲吉氏」という見出しをつけて、憲吉が石田寿枝とともに奥津温泉に遊ぶ様子を報じている。長文の記事であるため、以下の引用はその一部分である。一〇月五日ころから滞在し、街を散策するふたりの姿が、いつしか人のうわさになりはじめた。記者が、滞在先の河鹿園を訪ねた。記事は、次の一節からはじまる。
吉井川上流の温泉郷“奥大津”のホテル、河鹿園の奥まつた二階の一室に絵皿をならべてしきりに絵筆を運ぶ老陶匠とそのかたわらで毛糸の編物をしながら食事から一切の身のまわりの世話をしているその女弟子との厳しい師弟の規律の中にも和やかな愛情あるひたむきな生活が去る五日ごろからはじまった。……時折りこの奥津村(岡山県苫田郡)の湯の街に散策の歩を運ぶ二人の姿はいつしか人のうわさを生みはじめた。……一昨年夏以来、東京世田谷区祖師谷二丁目の自宅から姿を消し夫人一枝さん(五六)とは別居して京都の清水寺近くの五条坂の陶工松風栄一氏の一室を借りうけた富本憲吉氏は近く出版する「富本憲吉作品集」の原稿執筆のためとはいえ、ひよつこりこの河鹿園に女弟子ととともに姿をみせたのだつた182。
記事のなかには、憲吉が記者に語った談話の内容が、次のように引用されている。
石田君は郷里が島根県なので帰り道に一寸寄つてもらい仕事の手助けを頼んだのがつい長くなつてしまつた。妻とは性格が合わぬので別居したが戸籍はまだ切れていない。東京の祖師谷で“山の木書店”というのを経営しているらしいが生活は相当苦しいと聞いている。石田君とは仕事の上だけのつながりであるが私が石田君と奥津に来ていることがわかれば世間は決してそうは思わぬだろう。二、三年のうちにははつきりしたいと考えている183。
島根県の出身の石田とは帰省の帰り道にここで合流し、仕事の手助けをしてもらいながら、長期の滞在になったようである。「先生」「石田君」と互いを呼び、かいがいしく世話をする夕食の際の石田の振る舞いを織り込みながら、さらに記事は続き、石田の経歴について、こう記述する。
東京の女子美術を中退。当時官吏であつた父と一緒に朝鮮の京城に渡り戦後引揚げて来た石田さんは在籍中からずつと絵画の創作を続けていたという。いまでは父母とも他界し三高を卒業して大学受験準備中の弟さんと京都で一緒に暮しながら現在富本氏が仮寓している松風氏の元で陶芸の勉強をしているそうだ……石田さんは名を寿枝といい年は三十三、京都左京区川端丸太町に住む人で昭和二十三年、富本氏が京都松風陶歯会社内に窯を築いたとき、松風工業研究所で輸出陶器の研究を続けていた石田さんは助手になり、同年十二月松風工業を退いて富本氏の身のまわりの世話などをするにいたつたもの、一方、一枝夫人は平塚雷鳥女史の青鞜社に尾竹紅吉のペンネームで活躍した女性解放運動の先駆者である184。
ある意味でこの記事は憲吉にとって都合のよいものであったかもしれない。というのも、著名既婚男性が若い女性と温泉地に長期滞在していれば、仕事上のつながりといえども、「世間は決してそうは思わぬ」わけであり、石田との関係をいつ、どのような方法で世間に公表するかを、この滞在に至るまでのあいだに、憲吉は思案していたとも考えられるからである。翌春には、京都市立美術大学における教授採用の発令も待っていた。そうした観点に立てば、この記事は、率直に記者の質問に応じていることなどから判断して、必ずしも不意を突かれた暴露記事ではなく、因果を含めて懇意の記者に書かせたものだったのかもしれなかった。
以上がこの記事の本文であり、そのあとに、「別れようと思わぬ」という小見出しをつけて、次のような一枝の談話が続く。
ことしの三月ころ松風さんから主人が助手の女の方と結婚する意志があるらしいと聞きましたが信用しませんでした。私は別れようとは夢にも考えたことはありません。朝夕、富本の作品を眺めて暮しておりますが、富本の心の奥には私があることと確信しています。富本の幸福のためによく話合つて見ましよう185
本文記事のなかの「二、三年のうちにははつきりしたい」という憲吉の言葉は、今後離婚にかかわる協議に決着をつけ、正式に籍を入れて、石田と結婚したいという意味のことを示唆しているのであろう。ところが一枝は、「私は別れようとは夢にも考えたことはありません」という明確な意思表示をする。なぜ別れようとしないのであろうか。また一枝は、「朝夕、富本の作品を眺めて暮しております」ともいう。憲吉が、「妻とは性格が合わぬので別居した」と、性格の不一致を離別の理由に挙げ、率直に記者に語っているのに対して、一方の一枝は、「富本の心の奥には私があることと確信しています」と言明する。どこからそのような自信は生まれてくるのであろうか。いずれにしても、事の推移から判断すれば、談話のなかで、「富本の幸福のためによく話合つて見ましよう」とはいいながらも、結局のところ、離婚という結末へ向かうことはなかった。「憲吉の幸福」とは、一枝にとっては、たとえ現実には破綻していても、いつまでも自分との夫婦関係を、形式的ではあれ維持し続けることだったのかもしれない。しかしそれは、真の「憲吉の幸福」ではなく、あくまでも「一枝の幸福」にすぎなかったのではあるまいか。一枝のいとこの尾竹 親 ( したし ) は、自著の『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』(一九六八年刊)のなかで、次のように書く。「その間に三人もの子をもうけながら、実質的な夫婦関係のないままに、戸籍の上だけの反古のような妻の座を引きずっていた一枝の心情は今もって私のわかりかねることの一つである」186。
それでは、石田寿枝という女性は、そもそも、どのような人物だったのであろうか。そして、憲吉はこの女性といつ、どのような経緯で知り合い、その後、どのような暮らしをしたのであろうか。正確にはほとんど何もわからない。伝聞や風評は別にして、先に紹介した、奥津温泉での憲吉と石田の様子を伝える『毎日新聞』の記事が、現時点におけるおそらく唯一の両者の間柄を示す文書資料となっており、それ以外には、手掛かりになる有効な資料が見出せていないのである。しかしながら、神近市子の言説のなかに、そのことに少し触れるような内容の箇所が残されている。「富本一枝 相見しは夢なりけり」と題したエッセイにおいて、神近は、このようなことを記述しているのである。一枝が亡くなった翌年の一九六七(昭和四二)年の一文である。
ある日憲吉氏は、小さなカバン一つ持ってフラリと家を出られ、その儘帰られなかった。若き彼女が京都に待っていたかどうか、それは私には分からない187。
さらに神近は、別のエッセイ「朋友富本一枝」では、こう回顧する。こちらは、それから六年後の一九七三(昭和四八)年に執筆されたものである。
彼女[一枝]の末路は悲しかった。それはどうしたことか、富本氏が別の女の人のところに行ってしまわれたからだった。岐阜あたりのどこかで出張焼物をしておられた時季に知合った婦人だとかで、富本氏は夫人のところに帰らず、行き切りになってしまった。そしてその行先で死亡された188。
上のふたつの引用文は、何を語っているのであろうか。生前一枝が神近に漏らした内容に基づいて書かれたものであることは、ほぼ間違いないであろう。そうであれば、このことについての一枝の理解は、東京美術学校の教授をしていたときの岐阜県(飛騨高山)への出張の際に憲吉はこの女性と知り合い、戦争が終わると、駆け落ちでもするかのように小さな荷物ひとつを手にしたままふらりと家を出て、この女性の住む京都に向かい、それ以降一度も帰宅することなくその地で死亡した、ということになろうか。しかし、前述の『毎日新聞』の記事は、「当時官吏であつた父と一緒に朝鮮の京城に渡り戦後引揚げて来た」あとの「昭和二十三年、富本氏が京都松風陶歯会社内に窯を築いたとき、松風工業研究所で輸出陶器の研究を続けていた石田さんは助手になり、同年十二月松風工業を退いて富本氏の身のまわりの世話などをするにいたつた」と、伝えている。この記事の記載内容が全き事実であるとするならば、戦時中の疎開先の飛騨高山でふたりが出会っていた可能性は、皆無に等しいであろう。であるならば、飛騨高山で知り合った女性を追って憲吉は家を出たとする一枝の理解内容は、あろうことか、創作された虚偽なるものとなる。なぜ一枝は、真実と異なる理由でもって憲吉の大和出奔を説明しなければならなかっただろうか。自己のセクシュアリティーに関してカミング・アウトできなかったことに起因する、やむを得ない発話だったのではないかと推量されるものの、朋友の神近市子をしてそう信じ込ませてしまった一枝の妄言の罪は極めて重いものとなろう。
山の木書店も最終的に行き詰ってしまった。この時期一枝は、まさしく寒風が身をたたく荒れ地の片隅に、独り無言のまま立っていたものと思われる。いとこの尾竹親は、晩年の一枝がこう漏らした、と記す。「戦後、私は一時死のうと思って、古い手紙など、身のまわりのものを焼き捨てたことがありました……」189。この挿話が、憲吉が祖師谷の家を出た一九四六(昭和二一)年ころのことなのか、大谷藤子と中村汀女と一枝とのあいだにいがみ合いが生じた一九四八(昭和二三)年ころのことなのか、憲吉と石田寿枝が同居をはじめたと思われる一九四九(昭和二四)年ころのことなのか、それとも、「山の木書店」の倒産が決定的になった一九五〇(昭和二五)年ころのことなのか、「戦後」というだけであって、正確な時期を、必ずしも特定することはできないものの、数々の失意に見舞われるなか、一時、一枝の心情が死へ向かおうとしていたことは確かであろう。
(170)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、223-224頁。[初出は、1962年2月に『日本経済新聞』に掲載。]
(171)井手文子「華麗なる余白・富本一枝の生涯」『婦人公論』第54巻第9号、1969年9月、346頁。
(172)海藤隆吉「祖師ヶ谷の家」『富本憲吉のデザイン空間』(展覧会図録)、松下電工汐留ミュージアム編集、2006年、6頁。
(173)富本憲吉「繪と詩」『馬酔木』第27巻第1号、1948年、ノンブルなし。
(174)前掲『神近市子自伝――わが愛わが闘い』、242頁。
(175)前掲『汀女自画像』、93頁。
(176)同『汀女自画像』、102頁。
(177)富本一枝「後記」『風花』創刊号、風花書房、1947年、44頁。
(178)富本岱助「祖母 富本一枝の追憶」『いしゅたる』第12号、1991年1月、16頁。
(179)同「祖母 富本一枝の追憶」『いしゅたる』、同頁。
(180)近藤富枝『相聞 文学者たちの愛の軌跡』中央公論社、1982年、175頁。初出誌は、「誄歌」『婦人公論』昭和54年12月臨時増刊号。
(181)前掲『「女人芸術」の世界――長谷川時雨とその周辺』、134頁。
(182)『毎日新聞』(大阪)、1949年10月25日、2頁
(183)同『毎日新聞』、同頁。
(184)同『毎日新聞』、同頁。
(185)同『毎日新聞』、同頁。
(186)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、251-252頁。
(187)神近市子「このひとびと③ 富本一枝 相見しは夢なりけり」『総評』、1967年10月20日、4頁。
(188)神近市子「朋友富本一枝」『在家佛教』第234号、1973年9月、54頁。
(189)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、264頁。