中山修一著作集

著作集11 研究余録――富本一枝の人間像

第一編 富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す

第八章 母親発見
     ――今は古い母親の道/かけ離れた两親

尾形明子が、一枝に関して熱田優子から聞き取った内容は、自著の『「女人芸術」の世界――長谷川時雨とその周辺』のなかにも、見出すことができる。以下は、その一部である。

[富本一枝さんは]戦後は共産党の方へ傾いて、憲吉さんが相変わらず陶器を作っていると、あなたいつまでもそんなものを作っているとドン・キホーテになるわよと言ったり、もう喧嘩ばかり。別居はそうしたことも原因していたのでしょうね。戦後一時少年ものの出版をしようとしたらしく円地文子さんや私に声を掛けてきましたが、結局そのままでした146

尾形は貴重な聞き取り調査をしているものの、惜しむらくは、熱田の発話内容が正確に読み手に伝わってこない。「憲吉さんが相変わらず陶器を作っていると、あなたいつまでもそんなものを作っているとドン・キホーテになるわよと言ったり、もう喧嘩ばかり」と書かれてあるが、このような富本夫婦の不和を熱田が目にしたのはいつの時期のことであろうか。文頭に「戦後は」とあるので、一般的にはそのように読むのが自然であろうが、しかし、書かれている内容からすれば、その可能性は低く、やはり実際にそうした現場を熱田が直接目撃することができた、『女人藝術』の発行期間中の出来事だったのではないだろうか。また熱田は、この夫婦喧嘩の横にいて、一枝の「ドン・キホーテになるわよ」の言葉の意味をどのように理解したのであろうか。残念なことに、最も重要であると思われる喧嘩の理由について、尾形は聞いていないようであるし、熱田は語っていない。さらに加えれば、「別居はそうしたことも原因していたのでしょうね」とあるが、この「別居」についても、一枝が検挙される前後の一時期の「別居」を指しているのか、それとも、戦後すぐからの永遠の「別居」を指しているのか、これもまた、判然としない。そのあとすぐに「戦後一時」という文字が続くので、先の「戦後は」は、ひょっとしたら「戦前は」の単純な誤植ということはないだろうか。そうであろうとなかろうと、いずれにしても、熱田の証言からわかることは、不仲の時期や理由はともかくとして、憲吉と一枝の喧嘩はしばしば周囲の人びとの目に留まり、それが「別居」の一因になったと考えられていたということであろう。

大和時代の一枝と東京時代の一枝とを比べてみた場合、すでに前々章(第六章)と前章(第七章)のなかにおいても指摘しているように、ある側面では、はっきりとした変化ないしは違いがあるものの、別の側面では、一定の連続性も認められる。改めて整理をするならば、おおかた次のようになるだろう。

まず、自己のセクシュアリティーについて――。大和時代にあっては、悩み、苦しみ、専門書籍や聖書などを頼りに、夫の助けも借りて、その問題を克服するために全身全霊を傾注していた。しかし、東京に来てからは、そうした努力をすべて放棄してしまったかのように見える。専門的な知識を得ようとする姿も、教会に通う姿も、いまだ、いっさい資料に見出されていない。逆に、禁じられなければならなかったはずの、多くの女性が集まる場所への出入りについては、『女人藝術』に加わることによって、あっけなく、解禁されてしまった。かくして、女性に向けられた一枝の性的指向が顕在化するのである。転地療法を目的とした東京移転だったのではなかったのか――。結果から見れば、その目的は反故にされたことになる。憲吉はそれをどう思ったであろうか。この時期の不和の原因のひとつが、そのことであった可能性もある。もっとも一枝の立場に立てば、自分の心の性は、自らの好みによってのちになって選択したものではなく、出生に伴って、体の性と同様に、最初から自分に備わった性である以上、その性を葬り捨てることも、また、体の性に一致させることも、ともにできない。これが、一枝の悲痛な叫びだったにちがいない。しかしながら大和時代と違って、東京時代にあっては、妻の性に対する憲吉の気持ちも、自身の性についての一枝の叫びも、それらを例証するにふさわしい資料は、現時点で存在しない。

一方に妻の性に対する夫の思いやりがあり、一方に窯の再築という困難があり、そうした状況のなかにあって、何とか決行できた東京移住だったのではなかったのか。一枝は、このような現実を十分にわかっているのであろうか――。憲吉がそう思ったとしても、不思議ではない。さらにそれとは別に、『青鞜』、『番紅花』に続く、女性のみの編集による後継文芸雑誌ともいえる『女人藝術』が発刊された際、一枝にとっては極めて危険な女性集団になることがあらかた予想されたとしても、そこに一枝が自己表現の場を確保しようとするのであれば、それをむやみに止めることも、憲吉には躊躇されたであろう。しかしそれがきっかけとなって、一枝の落ち着きのない心が誘発されることはないであろうか――。こうした思いが、憲吉の胸に幾重にも渦巻いていたにちがいなかった。『女人藝術』の主宰者である長谷川時雨が発する、「ひとりで[一枝の自宅のある]祖師谷に行ってはいけないよ」という、若い女性たちへの注意を喚起する言葉を信じるならば、憲吉が懸念したとおりの実態を伴って、現実は推移していったことになる。これでは、新婚旅行後の東京生活の終焉の再来であり、安堵村での結婚生活の破綻の再現ではないか。しかし、『女人藝術』の創刊の早い段階から寄稿したり、編集に加わったりしているところを見ると、自分の性自認も性的指向も、いかなる療法によろうとも、あるいは、できうる限りの強靭な宗教心や克己心をもってしても、もはや変更することは不可能であることに、東京移住後さほど間を置くことなく、一枝自身、はっきりと気づいたのかもしれない。そうであれば、女へと向かう一枝の愛の行為は、憲吉の心情を超えて、決して引き返すことのない、自然で神聖な生と性の営みにすでになっていたにちがいなかった。

第五章において、安堵村生活の終焉について詳細を述べているが、そのことを記述するなかで、一枝が『婦人之友』(一九二七年一月号)に寄稿した「東京に住む」から、何箇所かを引用した。そのうちのひとつの引用文が、以下のものであった。

 かつて若かつた頃、なにかにつけて心の轉移といふ言葉を使つたものであるが、まことの轉移といふものは、並大抵の力では出來るものではなく、身と心をかくまでも深く深く痛め悩まして、身をすてゝかゝつてはじめて出會ふものであり行へるものであることを沁染と知ることが出來た。

用いられている「心の轉移」という言葉は、一枝が、自身を女性間の同性愛者(当時の通称では「レスビアン」など)として認識していたとすれば、同性愛から異性愛へと性的指向を「轉移」させる試みを示唆する心的な用語法だったであろうし、それとは違って、一枝が、肉体的には明らかに女性でありながらも、心の性を男性として自己認識するトランスジェンダー(当時の通称では「男女」など)であると思っていたとするならば、この言葉は、心の性を体の性へと「轉移」させことを意味する彼女の内に秘められたキーワードだったにちがいなかった。しかし、どちらにしてもそれは、「並大抵の力では出來るものではなく」、過度の心身の葛藤と衰弱を伴うものであった。そうした「轉移」の試みを一方で繰り返しながらも、それでもやはり、美しい女性へ向かう一枝のまなざしは、一貫して変わらなかったようである。富本一家が安堵村を離れて東京へ移転するのは、一九二六(大正一五)年の一〇月半ばである。その半月ほど前の『讀賣新聞』(一九二六年九月二八日発行の七頁)に目を向けると、一風変わった、叔父の竹坡か國觀が聞き手役となったインタビュー記事があり、そのなかで一枝は、このように語っているのである。

たまにこうして奈良の田舎から上京しますと都會の若い婦人達の新鮮な美しさが際立つて目に映ります、大阪へも折々出る事がありますが大阪では東京の若い婦人から受けるやうな新鮮な美的の感じを受ける事ができません、やはり東京は流行の本源地です、健康らしいあの美的感はやはり東京の若い婦人がも[つ]一つ一つの誇りであると沁々感じさせられます

久しぶりの上京で目にする最初の感動が、婦人の「健康らしいあの美的感」なのであろうか。ほぼ一年間を費やし、苦しみにあえぎながらやっとの思いで決断した東京移転だったのではないのか。その実行を間近に控えたこの時期の発話の内容としては、あまりにも気楽で、軽薄にすぎることはないであろうか。状況に対する深刻さが全く感じられないのである。その一方で、これもすでに引用で示している文言ではあるが、同じく「東京に住む」のなかで、一枝は、田舎と違って多くの美しい女性が住むであろう東京で、新たな生活をはじめるに際して、このような決意を述べているのである。「欠點だらけな人間の性質は同樣その弱點をもつ人間社會の中に飛び込んでお互にもまれ合ひ争闘しあひ相互扶助しあつて、はじめて完全に近いものともならう」。確かにここには、それ相応の緊迫感が漂っている。転居を挟んでその前後のほぼ同じ時期に語られた、このふたつの言辞を読み比べれば、多くの人は、その落差の大きさに驚くであろう。しかし、こうした落差の高低こそが、一枝の人間像をかたちづくる彫りの深さであり、同時にそこから生じる陰影や虚実の二面性であり、さらには、像全体が醸し出す謎や不可思議さに通じる独自の肌合いだったのかもしれない。

それでは、夫である憲吉に対する一枝の姿勢には、何か変化のようなものが認められるであろうか。安堵村での生活にあっては、すでに第四章において引用を使って示したように、たとえば、次のような一枝の言葉が残されている。「お父さんの苦しい氣持や、出來てゆくお仕事をいつも間近で見たり、きいたり出來てゆくあなた方や母さんは、どんなにしあわせでめぐまれてゐるかしれません」。ところが、東京へ移ると、それがこう変わる。「あなたいつまでもそんなものを作っているとドン・キホーテになるわよ」。これらの言説から判断すると、夫の仕事への一枝の接し方は、大和時代と東京時代とでは、大きく変化しているように感じられる。しかし、「ドン・キホーテ」になぞらえるような粗暴な発話は一転して、従順な妻の姿も、一方でかいま見せる。これもすでに前章(第七章)において引用している部分である。「私はやつぱり自分の夫が、たとへばシヤツのボタンが れてゐたりすることは自分の恥だと思ひます」。もっとも一枝は、他方で、こうもいっている。「自分が家族の一人として、妻君としてちやんとやつているかといへば、どこか自分は變つた人間で、なにか申譯ないやうな氣持ちが終始してゐる」。前者の言説から「良妻」が、他方、後者の言説からその逆の様相が連想される。どうやら一枝は、異なるふたつの「衣装」をまとう「妻」だったようである。明らかにひとつは、母から受け継いだ旧い伝統的な生き方をする妻であり、そしてもうひとつが、「どこか自分は變つた人間」という自己認識から推論して、心の性に従うところの男のごとき振る舞いをする妻だったということになろうか。もっとも、後者の場合にまとっていたであろう内面の「衣装」の詳しい実態はわからないものの、一枝の憲吉に対するその場合の心身の接し方は、「妻」というはっきりとした感覚によるものではなく、「同居人」といった程度のあいまいなものだった可能性も残る。

他方、変わらない側面もあった。それは、子どもに対する態度であった。安堵村にあっても、東京にあっても、いつも一枝は、「自分は母親の資格がない」といっては、子どもたちを当惑させていた。この語句に隠された本当の意味は、何だったのであろうか。心の性が男だったことに起因して、どうしても母性のようなものが芽生えず、結果として、それを実感できなかったのではないだろうか。「親」として子育てをしているという感覚は、おそらく一枝にあったとしても、「母」としての感覚は、どの段階かですでに喪失しており、そのことを自覚したうえで、「自分は母親の資格がない」とか、「なにか申譯ないやうな氣持ちが終始してゐる」とか、いっているのかもしれない。家庭内での会話に使われる言葉としては、明らかに不自然さが残るものの、その根本となる理由については口を開かないことを、つまりは、カミング・アウトしないことを最初から一枝が決めていたとするならば、その不自然さは、子どもたちの心のなかに、そのまま不自然なかたちでもってその後も堆積していったにちがいなかった。母親について陽は、これもすでに引用で示しているが、「ある點まで判つてそこから先が判らない」といっている。その「判らない」部分に、そうした不自然な発語も含まれていたのではないだろうか。

これに関連して、さらに加えるとするならば、「判らない」部分に属すると思われる一枝の発話が、『讀賣新聞』(一九二六年九月二八日発行の七頁)にも残されている。「私も結婚生活をしてもう十二年になり、善良なマザーとして生涯を終へそうです」という言葉がそれである。実にこれは、東京移転を二週間後に控えた言説である。東京移転の直接の原因となったのは、「小さな学校」の崩壊にあったのではないか。その惨劇へと導いた母親が、どうして「善良なマザー」を自認することができるのであろうか。仮にそれは、いまは横に置くとしても、長女の陽が生まれてまだ一一年と数箇月しか立っておらず、また、次女の陶が誕生してやっとそろそろ九年になろうとするこの時点で、どうして、「善良なマザーとして生涯を終へそうです」と、いえるのだろうか。もしこの記事を子どもたちが読んだとするならば、日ごろの「自分は母親の資格がない」という言葉との開きを、どう受け止めたであろうか。もっとも、ここに掲載されている記事は、親族が聞き手役となったインタビュー記事である。何がしかの意図が働いて、どこかの段階で脚色がなされてしまった可能性がないわけではない。しかしながら、当然そこまでは確かめようがない。もしこの言葉が、本当に一枝によるそのままの発話であるとするならば、これもまた、謎めいて不可思議なる「判らない」部分に属する言説といわざるを得ないのではないだろうか。

最後になるが、「新しい女」の側面についても言及しておきたい。青鞜の社員だったおよそ一年間、その行動が従来の女性の規範を逸脱するものであったがゆえに、驚きとともに、批判と揶揄とをにじませて、「新しい女」とも「新しがる女」とも、世間から執拗に呼ばれたことがあったが、一枝は、このときも、それ以降も、自ら「新しい女」を声高に叫ぶようなことはなく、むしろ、「旧い女」の美質に共感さえもっていた。結婚後、家庭生活を営むにあたって、旧い封建的な価値から新しい近代的な価値への転換が夫によって進められ、一枝もそれに倣おうとした形跡はあるものの、しかしながら、こうした努力が東京時代も続いていたことを示す何がしかの足跡のようなものは、いまのところとくに何も見当たらない。

青鞜時代にあって「新しい女」と呼ばれるものの、それはあくまでも空にして疎なる呼称であり、そこに何か一枝の新しい思想の実質なり自覚なりが見出されるわけではない。多くの人たちにとっては、母親から教えられた「良妻賢母」の思想から巣立って、いつ、どのような経緯をたどって「近代」の思想を一枝は習得するのかとか、単に世間を騒がせるだけの「新しい女」ではなく、生き方や考え方のレヴェルでの真の「新しい女」へと到達するのは、どのような社会的文化的背景からなのかとか、その場合の一枝の「新しい女」としての主義主張の内実はどのようなものなのかとか、そうした諸点について、関心があるのではないかと思われるが、かかる期待にもかかわらず、この時期の一枝は、娘の陽が語るところによれば、「ちよつと左翼にも引つ掛つたり」しながらも、「今は古き母親の道」を邁進していたのである。前後の文脈から判断して、「今は」という用語には、「若き日の青鞜時代に見受けられた言動や呼称は別にして」という意味が念頭に置かれている。

以上に述べてきたような一枝の「新しい女」にかかわる分析を踏まえながら、この時期の一枝が、自らの女性としての生き方や立ち位置についてどのように感じ取っていたのかを想像しようとすると、どのようになるであろうか。ほとんどその可能性は低いが、出発点である青鞜時代の「新しい女」に何がしかのこだわりをいまだもっていたとすれば、こうなるかもしれない。

《青鞜時代の自分の言動は、シャボン玉のような、単なる見せかけにすぎず、「新しい女」という空疎なる名辞の出現を先行させてしまっただけで終わってしまいました。しかし私は、「新しい女」を信じています。そこで、その責任を全うするうえからも、封建的で、前近代的で、家父長的な考えを超えた地平に見えてくる、真に「新しい女性」像をいち早く論理的に提示し、その一方で、自らも主体的に実践しなければならない、と強く考えてきました。そしてその一環として、東京に移った一時期、社会革命の世界に強い関心をもち、その立場から小説や評論を書いてみました。また、運動資金の面で支援したり、ある活動家を自宅にかくまったりしこともありました。ところが、家事を含め、なすべきことがあまりにも多いため、いまだにその責任を十分に果たせていない状況にあります。それでもいまは、『讀賣新聞』の「女の立場から」というコラムに連載エッセイを書いたり、また各種雑誌において、美しくて能力のある女性を取り上げて讃辞を送ったりしては、自分なりに同性への支援を心がけています。》

しかし実際には、それとはニュアンスの異なる見解をもっていた可能性の方が高い。というのも、青鞜時代の「新しい女」にかかわる自信や矜持が、そもそも一枝にはなかったか、あるいは、その後すっかり一枝から抜け落ちてしまったのではないかという想定ができるからである。それであれば、おおよそこのようにまとめることができるであろう。

《私にとっての青鞜時代は、シャボン玉にも似た、一年足らずの短い在籍で、とくにこれといったことをしたわけではありません。「新しい女」も、勝手に周囲がつけた名称で、私には関係ありません。私はむしろ、母親譲りの「旧い女」なのです。東京に住むようになって、自分の内側にある義侠心あるいは正義感のようなものに火がつき、一時期、社会革命の世界に強い関心をもったこともありましたが、どうもそれにも徹しきれず、いまでは、あるべき社会とそこに生きる人たちを、文字によって創造的に描写することからも、あるいは、資金の面で積極的に支援することからも、もはや距離を保っています。やはり私は、夫のシャツのボタンがひとつ取れていてもとても気になる性分で、そこで最近では,今風ではなく昔の女の、その生き方を信じながら、家事を含め、多くのなすべきことをなし、その一方で、『讀賣新聞』の「女の立場から」というコラムに連載エッセイを書いたり、また各種雑誌において、美しくて能力のある女性を取り上げて讃辞を送ったりしては、自分なりに同性への支援を心がけています。》

一九三五(昭和一〇)年一二月一日の『讀賣新聞』の「母親発見 今は古き母親の道 かけ離れた两親」(九頁)という見出しがついたインタビュー記事のなかで、陽は、こう表現している。「お母さん達も時代が更へたんでせう。ちよつと左翼にも引つ掛つたりして。そこへゆくとお父さんは昔から同じですわ」。この言葉から、時代や環境の変化によって生き方が変わる一枝と、時代や環境が変わろうとも自分の生き方に変わりがない憲吉――こうしたふたりの姿が浮かび上がってくる。若いころの母親については、こう語る。「あの頃の人としてはさうであつたらうと思ふの。だがあんな出發をした人が今は決して新らしい人でないことは瞭りしてますね」。さらに陽は、両親について、「二人とも間違ひだつたのぢやないかしら、生きてゆく態度が全然違ふ人たちなんです」と述べる。最後に、母親に望むことを聞かれると、陽は次のように記者に返答している。「も少し時間を上げて本質的な勉強をして欲しいと思ひます。家の事や何かで餘り一杯仕事があり過ぎますから」。

陽は、母親に対して、「本質的な勉強をして欲しい」と願う。一枝に、正確な学術的知識が欠落していることに気づいているのであろう。そのとき陽の頭にあったのは、どのような「勉強」だったのであろうか。歴史、文学、語学、それとも思想――それについては、とくに触れていない。一方このとき、両親の不仲についても、冷静な分析をして、臆することなく記者の前で披瀝していた。二〇歳の陽が語る両親の素顔であった。

一九三二(昭和七)年の六月号をもって『女人藝術』が廃刊となると、一枝は、ひとつの重要な発表の場を失い、続く、一九三三(昭和八)年の八月に検挙されると、「従來の行動の一切を清算」して「轉向」を誓うことになる。そうしたことが、全体としてその後の一枝の生きる姿勢に影響を及ぼしたのではないかと考えられる。プロレタリア文学が衰退し、言論に対する統制が一段と強化されてゆくこの時期、以前にみられた一枝の文学に対する純粋な活力は次第に衰微してゆき、そしてそれに代わって、あたかもそれを補うかのように、現在手もとに残る資料の限りにおいては、おおかたそれ以降、あえかにして才能豊かな女性に対する関心が弥増すことになるのである。

そうしたなか、一九三九(昭和一四)年の『婦人公論』新年号(二八二号)に掲載された、自分の小さいころの思い出話を綴った「探偵になりそこねた話」を最後に一枝の筆が止まる。一九四一(昭和一六)年一二月、日本はアジア・太平洋戦争へと突き進む。

(146)尾形明子『「女人芸術」の世界――長谷川時雨とその周辺』ドメス出版、1980年、136頁。