「山の木書店」の倒産に際しては、一体何が、あるいは誰が、一枝を支えたのであろうか、それを語らせるにふさわしい資料は、いまなお見出せない。高井陽と折井美耶子は、「山の木書店が残した負債を、肩代わりしたのは、暮しの手帳の花森安治だった」190と書いている。とはいえ、いかなる根拠も示されていないために、もはや再検証はできない。たとえそれが事実であったとしても、負債総額、肩代わりした時期や条件、花森がその役を買って出た理由や経緯について、いっさい言及がなされておらず、それゆえに、それらのこともまた、すべて不明のままとなっている。しかしながら、結果から判断してはっきりいえることは、一枝の再起は、花森安治がつくる季刊雑誌である『暮しの手帖』に執筆の場を得ることによって果たされた、ということになろう。
一枝の第一作は、「奥さんと鶏」と題されたエッセイで、掲載号は、一九五一(昭和二六)年六月発刊の第一二号であった。近所に住む鶏を飼う夫婦の話が、その内容である。次は、「村の保育所」(一九五二年六月、第一六号)で、内容は、岡山県御津郡野谷村の保育所についての現地報告である。図版も多く、臨場感が漂う。出出しは、こうである。「朝霧の中を、山から田からこどもたちは野菜をさげてやってくる。大根の子、人参の子、蕪、葱、玉葱、南瓜を頭にのせた子。こどもたちは毎朝こうして給食に使う野菜を家から運んでくる」191。そのあと、この村の子どもや母親たちの生活の一部が具体的にリポートされ、最後を一枝はこうした言葉で結ぶ。「言葉や形だけでなく、眞の意味で次ぎの世代をになう日本の子どもたちを健やかに守り育てるこそ、いい加減なことでごまかしてはならない事業であろう。そのためにも、二度とふたたび戦争にひきづりこまれたくないとこの村の托児所を見ながら私は心から願わずにはいられなかった」192。
エッセイとしては、さらにもう一編、「春未だ遠く」(一九五三年三月、第一九号)が続く。これは、母親がつくってくれた味噌汁についての回想である。冒頭、このような言葉ではじまる。「早春といつても、まだまだ朝のつめたさは、きびしい。ひとりで炊事仕事をやつていると、なにかにつけ台所に立つて亡つた母のことが思われる。とりわけ冬の日の朝晩、家族のために母が心を盡してこしらえた味噌汁のおいしさが思い出されて、氣がつくと、いつのまにか私は母のつくつてくれた味噌汁をこしらえていることが多かつた」193。このとき、母も父も一枝は亡くして久しかった。自身も満で六〇になろうとしていた。亡き母や父の面影が去来する日が、最晩年に向うなか、次第に多くなってゆく。
一枝がエッセイ(取材報告を含む)として『暮しの手帖』に書いたのは、以上の三編であった。しかし、一枝の才能は、これ以降、童話作家として開花してゆくことになる。「お母さまが読んできかせるお話」を『暮しの手帖』に連載しはじめるのは、「春未だ遠く」の一号前の第一八号(一九五二年一二月発刊)からであった。それまで、この「お母さまが読んできかせるお話」は、第一号から第三号までを木田久が、第四号から第一二号までを町田仁が、第一三号から第一六号までを山下毅雄が担当していたので、一枝は四代目の執筆者ということになる。第一七号は休載され、第一八号から、書き手に一枝を得て連載が再開された。この号に掲載された一枝にとって最初となる童話作品は、「おくびょうな兎」であった。それよりのち、死去する一年前の第八〇号(一九六五年七月発刊)掲載の「遠い国のみえる銀の皿」に至るまで、国内外の御伽噺や寓話、民話や昔話などを題材にした「お母さまが読んできかせるお話」が、一枝の手によって紡ぎ出されてゆくのである。各号の「お話」につける影絵は、毎回藤城清治が担当した。かくして、少年少女図書出版「山の木書店」の理念は、長期間にわたる「お話」の連載という姿に身を変えて、残りの生を燃やし続けながら、再生への道をひた進むことになる。
神近市子が衆議院議員に当選した翌年の一九五四(昭和二九)年三月、アメリカの水爆実験により、南太平洋のビキニ環礁で操業していた日本のまぐろ漁船の第五福竜丸が被災し、その事件をきっかけに、原水爆禁止運動のうねりが高まっていった。ユージェニー・コットン夫人が会長を務める国際民主婦人連盟は、副会長であった平塚らいてうから送られてきた原子兵器に反対する訴えを受けて、世界母親大会を一九五五(昭和三〇)年七月にスイスのローザンヌで開催することを決定した。日本側はそれに呼応し、積極的な連帯の意思を示した。世界母親大会に一箇月先立つ、日本母親大会(第一回東京大会)は、豊島公会堂を全体会場として、二、〇〇〇人の参加者を得た。一枝も、そこにいた。ある参加者は、感動のあまり、そのときの一枝の姿がのちのちまで忘れられなかった。
第一回母親大会が豊島公会堂でひらかれたとき、あの大きな黒い瞳で、満員の会場を見つめながら「日本の女の歴史が一ページめくれたのよ、たいへんなことよ」とくり返していた[富本一枝の]姿が忘れられない194。
翌一九五六(昭和三一)年は、婦人参政権実施一〇周年にあたった。雑誌『世界』は、「日本における自由のための闘い」という視点から、「『青鞜社』のころ――明治・大正初期の婦人運動――」と題する座談会を組み、その収録記事を、この年の二月号(第一二二号)と三月号(一二三号)に分載した。出席者は、平塚らいてう(婦人団体連合会長)、山川菊栄(評論家)、富本一枝、村田静子(東京大学史料編纂所所員)の四名で、司会を林茂(東京大学助教授・政治学)が務めた。一枝の肩書きは、記載がない。この座談会は、おそらく生きた青鞜の本格的な最初の(あるいは最後の)口述であり、このころから、もはや単なる風聞や伝承の域を超えて、青鞜についての歴史分析が、時を得て加速することになる。
次の年の一九五七(昭和三二)年には、『世界』と同じ版元の岩波書店から、帯刀貞代の『日本の婦人――婦人運動の発展をめぐって』が出版される。ここには、明治末年以降の日本の婦人の解放へ向けての闘いの歴史が主として記述されていた。
続いて一九五八(昭和三三)年には、三一書房から松島栄一編による『講座女性5 女性の歴史』が刊行された。本書は、第一部において「女性の歴史――近代日本の女性の歩み――」が本論として記述され、第二部が「史料編」という、二部構成になっている。この「史料編」に、一枝の「青鞜前後の私」も所収されており、巻末の「あとがき」には、編者の松島栄一によって、「またこの本のために、貴重な体験の一端を話して下さり、激励してくださった富本一枝さんや帯刀貞代さんや三井礼子さんに深く感謝するものである」195という謝辞が述べられていた。
一九六一(昭和三六)年は、『青鞜』創刊五〇周年を祝う記念すべき年となった。この年の九月三日に発刊された『朝日ジャーナル』(第三巻第三六号)は、座談会「婦人運動・今と昔――この半世紀の苦難の歩み――」を掲載した。編集子いわく。「婦人解放のあけぼのを告げた女性だけの雑誌『青鞜』が発刊されたのは、明治四四年九月一日。今年は、ちょうど五〇年目にあたる。その半世紀の間、いわば“新しい女”たちは、どのような道を歩んできたのであろうか。婦人運動の草分けの平塚らいてうさんらに『今と昔』を語ってもらった」196。この座談会へは、平塚らいてう、山川菊栄、富本一枝、市川房枝が出席し、井手文子が司会を担当した。一枝は、戦後の動向について、こう語っている。
そんなふうに女の発言権が、自分でも知らないうちに強まってきたのは、やはりもう戦争をしたくないという強い気持ちでしょうね。戦争中に、いろいろな意味で苦労してきたお母さんには、一番これが強かったわけですね。子どもを守る会、母親大会は、戦争はいやだ、子どもは死なせたくないというお母さんの気持ちが集まったので、新憲法は大いにそれを役立たせる基礎にはなっていたと思います197。
そして一枝は、これからの若い女性たちに期待を寄せる。
いまの母親大会とか、そういうものが、一つのデモに終わってはならないということもありますが、社会主義社会でないと、本当の解放はあり得ないにしても、いまの世では無理なことがたくさんあって、放っておいてはダメですから、やはりやっていかなければならない。その意味では、これからの若い人たちに信頼する以外に手がないし、また恐らくうまくやるだろうと思っています198。
このときの座談会の司会を務めた若い井手は、出席者の美しい老いの姿に圧倒された。のちに、以下のようにそのときを振り返り、とりわけ一枝の身のこなしを、「日本女性の近代的完成の姿」という言葉でもって評した。
平塚らいてうが青磁色のキモノに白髪、白い扇をひろげた姿も優雅だったが、とくに富本一枝の黒い麻のキモノに白い博多帯、そして何よりも男もののような桐の正目の分厚い下駄が目に残った。その丸い形の木の履物が、厚い絨毯の上をコトコトととおるのを見たとき、編集者は、あの人がいちばん素敵だといったものである。そこに日本女性の近代的完成の姿があった。彼女は柔軟な態度で、しきりに若い世代に期待し、「社会主義にならなければ」と言っていた199。
「富本一枝の黒い麻のキモノに白い博多帯、そして何よりも男もののような桐の正目の分厚い下駄」という装いが、どうして「日本女性の近代的完成の姿」として井手の目に映ったのであろうか。その説明はない。推測するに、井手は、「男尊女卑」から「男女同権」へと向かう近代的な性のあり方に照らして、一枝の着こなしをもって、男との十全たる対等性を表象している図像として認識したのではないだろうか。しかしながら、この図像は、近代化の過程を潜り抜け、時間をかけて徐々に完成したものではない。明らかに一枝にとって、この着こなしは、若き日の男物のセルの袴にマント姿にはじまる、一貫した、変わることのない図像なのである。決して一枝は、生涯にわたって、ブラウスにスカート、そしてハイヒールといった女性性を表象する図像を自分の性別表現に用いることはなかった。あるいは、それを否定してきたとさえいえる。そのように考えるならば、この日の一枝の身のこなしは、「日本女性の近代的完成の姿」として理解するよりも、むしろ、「一枝個人の身体的性と異なる心の性を直截的に表現した進化形」として理解する方が、妥当ではないかと思われる。もっとも最後まで、一枝は、性自認に関して明確にカミング・アウトすることはなかった。
その一方で、この座談会で一枝は、「しきりに若い世代に期待し、『社会主義にならなければ』と言っていた」と、司会者の井手は回想している。しかしながら、自分がいかにして社会主義者になったのかとか、自分が思い描く社会主義とはどのようなものなのかとか、その実現のためにはどのような戦略と運動が必要なのかとか――こうした論点に一枝が明確に言及した資料は、いまのところいっさい見出せない。したがって、「社会主義にならなければ」という言葉は、若者に期待を寄せて、檄を飛ばしているようにも受け止められるものの、他方、一枝特有の空虚で観念的な一種呪文のようなものにも感じられる。もしその見方が正しければ、単純にも一枝は、自己の「心の轉移」にかかわって、「社会の変革」を展望していたことになる。
そうしたなか、翌一〇月、井手文子の『青鞜 元始女性は太陽であった』が、弘文堂から世に出た。「まえがき」の文頭において井手は、次のように書く。
「新しい女」の雑誌『青鞜』が発刊されてから、今年一九六一年はちょうど五〇年目にあたる。『青鞜』については、最近、思想史の面からも文学史の面からも、また婦人運動史の角度からも注目されはじめ、日本の近代化に果した役割が評価されはじめた。しかしこの雑誌と、雑誌を核にした女性集団の動きの全貌は、まだ歴史のなかに正当に位置づけられていない200。
かくして本書において、半世紀の時の流れを経たいま、「この雑誌と、雑誌を核にした女性集団の動きの全貌」が、原資料に照らし出されて歴史のなかに配置された。他方「まえがき」の文末において井手は、「平塚らいてう、富本一枝その他の生存されている当事者の方々は、すべて温かい手をさしのべて下さった」201ことに対して感謝の意を表した。数年前に一枝から聞き取ったことが、第三章の「愛と性の自由」の執筆の際、その行間に反映されていったものと思われる。こうして、青鞜の尾竹紅吉にかかわる歴史研究の最初の原像が、井手文子というひとりの女性研究者の筆力を得て、ここに産み落とされたのであった。
それでは一枝は、井手のこの『青鞜 元始女性は太陽であった』を、どう読んだであろうか。その感想は、残されていない。想像するに、結婚直後に書いた「結婚する前と結婚してから」では、青鞜時代の自分をシャボン玉に例え、数年前に書いた「青鞜前後の私」では、下駄と草履を片方ずつはいた人生として、自分の歩んできた道を語った一枝である。必ずしも、自分がたどったこれまでの生き方に対して自信をもって全面的に肯定しているわけではない。そうした自分が、そのままのかたちで過去の人物として歴史のなかに納まることに、一枝は、何か焦りのようなものを感じたかもしれなかった。しかし、内容が事実であれば、それはもはや消し去ることはできない。一枝が多く口を開かないのも、そうしたことに遠因があった可能性もある。その後、いとこの尾竹親は、一枝の青春とその後について、こうした見方を示した。
青春時代に受けた心の傷あとが、その後の彼女の人生のなかに後遺症として尾を引き、言葉というものに対する彼女の考え方を、大きく制約していたのではないかと思われる。従って、一枝にあっては、青春というものが、遠い過去の形のままで凍結され、肉体だけが老化した感じを受け、彼女のなかには、明治と大正の女が、そのまま生き続けている印象が強かった202。
『青鞜』発刊五〇周年にあわせて一九六一(昭和三六)年一〇月に出版された、『青鞜 元始女性は太陽であった』にあっては、その主題からして当然のことなのではあるが、一枝は「青鞜の紅吉」という一時代に留め置かれている。それでは、それ以降の一枝の実像は、どうだったのであろうか。親が観察するように、内面にあって「明治と大正の女が、そのまま生き続けている」、まさしく「遠い過去の形のままで凍結され、肉体だけが老化した」状態だったのであろうか。さらに親は、「私の知る晩年の一枝は、寡黙で、非常に用心深い女性であったように思う」203と書く。晩年の一枝がもしそうであったとするならば、それは何に由来していたのであろうか。ひとつには、いま述べてように、わずか一年あまりの短い青鞜時代に若い一九歳の娘が引き起こした自由奔放な過去の出来事にかかわって、発刊五〇周年を機会に再び照明があてられた驚きや戸惑いに由来していたとも考えられる。またひとつには、一枝の場合、生まれながらにして体と心の性が一致していなかった可能性があり、もしそうであったとするならば、このことがもたらす精神的悲痛と混乱に由来していたのではないかとの推測もできよう。それ以上に、いまひとつには、憲吉との結婚生活の破綻による離別がもたらした辛苦と孤独に由来していたことも十分に想像される。しかし、いずれもが基底にあって相互に関連し合っており、そのことを考慮に入れるならば、どれかひとつの事由がそうさせているのではなく、複雑に絡み合った重い心的状態が、一枝をして「寡黙で、非常に用心深い女性」に仕立て上げていたものと推量される。
一九六二(昭和三七)年の六月、「京都市東山区山科御陵檀ノ後七ノ三」に新築中であった住まいが完成し、憲吉と石田寿枝はそこへ引っ越した。転居通知は、東京の家族へも届けられた。そのはがきを手にしたときに一枝の心中にはどのような思いが湧き上がったであろうか。それを確認できる資料はいまも見出すことはできない。このとき一枝は、満年齢にしてすでに六九歳になっていた。
年は一九六三(昭和三八)年に変わった。「父の病気が肺がんだと知ったとき、私は、離れ住む父のところにすぐにもゆきたいと思いました。……一月半ばの寒い日のことです。車窓にうつる風景が夜の明けはじめから白く変わってきて、その年はじめてみる雪げしきとなりました」204。陽は、以前に石田と会っていた。いつのことだったのか、どのような話をしたのか、そのことを正確に語らせる資料はないが、おそらくそのとき、父を母のもとに返してほしいと、石田に懇願していたのではないだろうか。そのため、京都へ行くのは、陽にとってつらかった。「父と暮らしているひとと、私はずっと昔、ひどくいい争ったことがあったのです。お互いに顔もみたくないといい切って別れて以来のことだったので、とりわけ気持ちが重いのでした」205。陽は夫に同伴してもらっていた。そして、一枝から預かった手紙を携えていた。新居を訪ねるのも、はじめてであった。「私たちが通されたのは十畳の日本間で、そこにはいままで父が描いていたかと思われる絵巻きがひろげられ、絵筆のしたくが整っています。……庭に植えられた四方竹の細かい枝が時おり雪の重みをはじきとばしています。二、三時間もたったかと思われたころ、おりをみて父に母からの手紙を渡し、内緒ごとのように声を低めて、『お困りになれば私、もって帰りますから。』とつけ加えた」206。無惨な結果になった。「家に戻ってからも、私は持ち帰ってきた母の手紙のことをなかなか母にはいいだしにくいのでした。父が読んでくれたとは伝えたのですが、父の手で破かれたその閉じ目にはあわただしく引きさいたあとがあまりにも生々しい痕をとどめていたからです」207。
それは紺紙に認められた西行法師の歌でした。
――逢うことを夢なりけりと思い分く心の今朝は恨めしきかな――
余白に母の見舞いのことばが、二行ほど追記されてありました208。
らいてうが記するところによると、その見舞いの言葉は、「あたたかな春日のいちにちもはやくきて、おからだのためによい日となるようねんじて居ります。」209というものであった。らいてうは、この紺色に書かれた手紙について、このように述べている。「この紺色に一枝さんが、最後のおもいをしたためた手紙は、一枝さんの生前から、陽ちゃんが掛け軸に表装しておかれたそうですが、わたくしがこのことを聞いたのは、一枝さんが亡くなってのちのことです」210。憲吉によって引き裂かれた手紙ではあったが、陽にとっては、決して粗末にできず、母親の偽らざる真心を表わしたものとして、大切に残しておきたかったのであろう。いずれにしても、破かれた手紙と、そのなかに書かれてあった内容――ここに憲吉と一枝の最後の思いが、明らかににじみ出ていた。いうまでもなく、決して交わることはなかった。
『朝日新聞』が報じた憲吉死亡に関する複数の記事211を総合すると、一九六三(昭和三八)年六月八日夜の九時半に大阪府立成人病センターで肺がんにより憲吉は死去、その後、六月一〇日の午後、京都市東山区山科御陵檀ノ後七ノ三の自宅で密葬、一三日に天皇陛下により供物料が贈られると、続く一四日の閣議で政府は、従三位、勲二等旭日重光章を憲吉へ贈ることを決定、翌一五日の午後二時から奈良県生駒郡安堵村東安堵の生家において告別式が執り行われた。また、辻本勇が『近代の陶工・富本憲吉』のなかで記述しているところによれば、村道には奈良県の計らいで玉砂利が敷かれ、告別式は、故人の遺志を奉じての簡素極まるもので、喪主を壮吉、葬儀委員長を今村荒男が務め、五〇〇有余名による会葬とともに、四〇二通もの弔電が届き、恭しく霊骨は、菩提寺円通院の墓に埋葬された212。
(190)前掲『薊の花――富本一枝小伝』、192頁。
(191)富本一枝「村の保育所」『暮しの手帖』第16号、1952年6月、36頁。
(192)同「村の保育所」『暮しの手帖』、41頁。
(193)富本一枝「春未だ遠く」『暮しの手帖』第19号、1953年3月、143頁。
(194)「まないた」『婦人民主新聞』、1966年10月2日、1頁。
(195)松島栄一「あとがき」、松島栄一編『女性の歴史』(講座女性5)、三一書房、1958年、199頁。
(196)座談会「婦人運動・今と昔――この半世紀の苦難の歩み――」『朝日ジャーナル』第3巻第36号、1961年、67頁。
(197)同座談会「婦人運動・今と昔――この半世紀の苦難の歩み――」『朝日ジャーナル』、76頁。
(198)同座談会「婦人運動・今と昔――この半世紀の苦難の歩み――」『朝日ジャーナル』、77頁。
(199)前掲「華麗なる余白・富本一枝の生涯」『婦人公論』、346頁。
(200)井手文子『青鞜 元始女性は太陽であった』弘文堂、1961年、1頁。
(201)同『青鞜 元始女性は太陽であった』、4頁。
(202)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、247頁。
(203)同『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、255頁。
(204)高井陽「アザミの花――母(富本一枝)、父(富本憲吉)の断片」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』ドメス出版、1985年、5頁。
(205)同「アザミの花――母(富本一枝)、父(富本憲吉)の断片」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』、6頁。
(206)同「アザミの花――母(富本一枝)、父(富本憲吉)の断片」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』、7-8頁。
(207)同「アザミの花――母(富本一枝)、父(富本憲吉)の断片」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』、8頁。
(208)同「アザミの花――母(富本一枝)、父(富本憲吉)の断片」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』、同頁。
(209)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった④』大月書店、1992年、311-312頁。
(210)同『元始、女性は太陽であった④』、312頁。
(211)『朝日新聞』が報じた富本憲吉死亡に関する記事は、次のとおりである。『朝日新聞』、1963年6月9日(夕刊)、11頁。『朝日新聞』、1963年6月10日(夕刊)、7頁。『朝日新聞』、1963年6月14日(朝刊)、15頁。および『朝日新聞』、1963年6月14日(夕刊)、6頁。
(212)辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』双樹社、1999年、196-197頁。