アジア・太平洋戦争は、一九四一(昭和一六)年一二月八日、マレー半島への上陸とともに、ハワイの真珠湾攻撃にはじまり、その後日本軍の戦線は拡大し続けた。しかし、一九四二(昭和一七)年六月のミッドウェー海戦で大敗を喫すると、戦局は大きく傾き、南太平洋の日本軍は次々と壊滅の道をたどっていった。神近市子は、米軍による本土空襲が近づく気配を感じていた。「昭和十八年にはいると、英軍がベルリンを夜間攻撃しはじめた。もはやドイツの敗色は濃厚であった。日本では学徒兵が動員され、国民兵の兵役が四十五歳まで延長されて、“決戦はこれからだ”と叫ばれていたが、私は早晩東京もベルリンのように絨毯爆撃の猛威にさらされると考えた」147。疎開の開始である。神近の回想は続く。
そんなとき、私の頭に浮かんだのが、旧知の中溝家のある府下(都制が敷かれたのが昭和十八年)の鶴川だった。そこには、富本憲吉氏が、「ひとりで静かに絵を描きたい」ということで一軒の茅葺き小屋を借りておられたが、氏は、その家をまだ見ていず、家賃の交渉もしていない段階だった。そこで私は富本氏にたのんで、その家を譲ってもらうことになった148。
こうして本郷の下宿間を出て、鶴川での神近の疎開生活がはじまった。 詩人の深尾須磨子が祖師谷へ疎開するのも、一枝との縁であった。その経緯から疎開生活中の一枝との交流までが、『わが青春・深尾須磨子』の第三章「祖師ケ谷時代[前期]」のなかに描かれている。著者は高野芳子。高野は深尾との出会いを、こう回想する。「私がはじめて深尾須磨子に会ったのは、昭和十八年二月七日、太平洋戦争がはじまって間もない頃のことであった。誰からの紹介もなしに、おさげ髪の先にリボンを結んだ十七歳の少女は、期待と畏れに胸をはずませて、その扉をたたいた。九州の片田舎の女学校から、女子大に入ってまだ一年もたたない女の子にしては、いささか生意気に過ぎたであろうか」149。深尾、五四歳、詩人としてすでに社会に認められた存在であった。若くして深尾の詩に強い感動を経験していた高野は、この日をきっかけに、しばしば休日になると、高田馬場駅に近い「寂光莊」と呼ばれる深尾の家を訪れるようになった。しかし、「いよいよ、東京空襲がはじまりそうだというので、誰もが疎開をしだした。……『神近市子が鶴川にしたらよいというんだけどねえ』など、考えあぐんでいるうちに、耳よりな情報が入ってきた。富本一枝さん……が知らせてくれた。富本家のすぐ近くに手頃な小屋があいているというのである」150。この小屋には、入り口の引き戸を開けると土間があり、その土間を挟んだ右手に五畳半の和室、左手に八畳の和室がついていた。裏手には、錆びついた手押しポンプとほこりだらけのゴエモン風呂があった。深尾は、一九四四(昭和一九)年の春もまだ浅いある日、この小屋に引っ越し、こうして疎開生活がはじまった。女子大の寮に住んでいた高野も、ほとんど週末にはここへ来て、深尾と一緒に過ごした。
次の挿話は、疎開中の出来事についての高野の回想である。このときまでに高野は、深尾のことを「マダム」と呼ぶようになっていた。
「何か、たきつけにつかう紙くずないかしら」「いいものが、ある、ある」マダムは行李いっぱいにつめこまれた手紙類を持ちだしてきた。おどろいたことに、その殆んどが富本一枝さんからのものであった。私は、焚き口に手紙をポンポン投入れて火をつけた。読んでみたい誘惑にかられた。胸をドキドキさせながら、文面に目をはしらせると、「どうじゃ、ようもえとるか」マダムがのぞきにきた。「そんなものを読んではいけない。いいか、封筒に入れたままもすんだ」私はワルサをみつけられた子供みたいに小さくなって、その上に枯枝をくべ、古い柱のきれっぱしをのせた。実によく燃えた。メラメラと燃えあがるほのおをみつめながら、私は、一枝さんの情熱がゴエモン風呂をわかしていることにあわれさを感じた151。
また、疎開生活のなかでは、こんなこともあった。深尾は高野芳子のことを「ヨシコ」と呼んでいた。
「深尾さん、まだ起きていらっしゃいます?一枝です、ちょっとここ あけて頂けないかしら」……白い着物をゾロリと着流して、一枝さんは素手に大きな魚を一匹、高々とかかげるようにぶらさげて立っていた。一枝さんの目は少しつりあがり、うるんでみえた。月の光に、青ぐろくヌメヌメと魚のうろこが光り、尾っぽをつかんだ手がこきざみにふるえている。……マダムは殊さらにとりすましたうけこたえをしているが、いっこうに手をだそうとはしない。素手で受けとるには、何やら気味がわるすぎるのだ。私はあかりをつけて急いで大皿を探した。皿にのせてもらった魚は、ずっしりと意外な重さで、なまぐさい匂いが立ちこめた。……「あの方、どうかなさったのかしら」「さっきから 魚をさげて じっとその辺に立っていたのかもしれないよ」「まさか」「ヨシコのことが気になって 気になってしようがないのかもしれない」「どうして?どうしてなの?」「そんなことは分らなくたっていいんだよ。さあおやすみ」と言われても、おいそれと眠れるものではなかった152。
その出来事から一夜が明けた。ヨシコは、マダムから同性愛について話を聞いた。ヨシコの回想は、こう続く。
翌日 女と女が愛しあう、いわゆる同性愛について、ギリシヤの女詩人サッフオあたりまでさかのぼって解説してもらえたのは、もうけものだったが、「ほら、以前同居していらした荻野綾子さん、あの方とはどうだったの?」「何が?」「何がって、その…今のおはなしみたいな…」と、ためらいがちに投げてみた質問も、「アホーやなあ、そんな噂を真にうけとったのか」と、軽くいなされた。そうであったのかもしれず、なかったのかもしれず、確証はない。だが、「何もびっくりするには及ばない。そんなこともあるというだけの話だよ。ゆうべのことだって…」といわれても、前夜のできごとが、それとどう結びつくのか、私には判じ難かった153。
それにしても、ヨシコは、マダムと荻野綾子の関係を知っていた。どのような経緯で知ったのであろうか。それはわからない。しかし、このふたりの関係は、すでに多くの人が知るところとなっていた。というのも、すでに一九三〇(昭和五)年五月号の『婦人公論』に「同棲愛の家庭訪問」と題した記事が掲載されており、深尾須磨子と荻野綾子、吉屋信子と門馬千代子、金子しげりと市川房枝の三組のカップルの「同棲愛」家庭が紹介されていたからである。深尾須磨子と荻野綾子のカップルについて、訪問者であるその記事の記者は、冒頭、このように書いていた。「一枚の表札に『深尾』と『荻野』が仲よく並んでゐる。晝間なのに格子戸の鍵がかゝつているのは、女ばかりの住居の用心のためであろう。案内を乞ふ聲に應へて出て來たのはステージでお馴染みの荻野さんだ」154。この雑誌が発売されたときは、ヨシコはまだ五歳前後の幼子だったことを勘案すれば、ヨシコがこのことに気づくきっかけは、長じてその後に誰かに聞かされたことによるものであろう。
マダムとヨシコの会話は続く。マダムは、憲吉の心情を察して、「憲吉さん、お気のどくだと思うだろう」と、ヨシコに問いかけてみた。
「憲吉さん、お気のどくだと思うだろう」と同意を求められても、何がどうお気のどくなのか見当もつかず、私には返事のしようがなかった。その大きな魚は、“もったいながりや”のマダムも、さすがに食べてみようとは言いださず、庭の隅のいちぢくの木の下に穴を掘って埋めてしまった155。
富本家につながる坂を上っていく女たちの姿が、この時期しばしば見受けられた。陽の息子の岱助も、一九四四(昭和一九)年の六月の誕生日で、七歳にまで成長していた。ヨシコと岱助は、なかなかの仲よしだった。「女子大生といっても、一人娘でのんびり育った子供気分のぬけきらない私と、年にしてはオシャマなこの男の子はヘンに気があった」156。あるときのことである。
岱ちゃんと畦道でもち草をつんでいると、富本邸へ上がっていく坂道に、小ぶとりの男の姿が見えた。「あの人ね、男みたいだけど、本当は女なんだよ。名前は、オモべ・ワルコ」もどってから大真面目でマダムにその話をすると、彼女ははじけたように笑いだした。「バカだねえ、岱助にかつがれたりして、あれは、軽部清子なんだよ」と、この風変りな女性の話を一くさりきかされた。作家の大谷藤子さんも、しばしば富本邸への道を上っていった157。
そののちヨシコは、画家の堀文子との会話のなかで、「祖師ケ谷の話が出て、ちょうどその頃、堀さんも何回か富本邸へ訪ねてきたことがあるとききおどろいた」158ことも、回想している。
このころヨシコや岱助が目撃した女性はその一部で、一枝が特別に親しくしていた多くの女性たちが、このように、富本家へと続く坂道を上っていったものと思われる。大和の安堵村から東京の千歳村へ移住してこのかた、その真の実態はどうであれ、すでに言及している資料に明確に残っている名前に限って列挙しても、それなりの数になる――深尾須磨子、軽部清子、横田文子、堀文子、そして大谷藤子。
一九三五(昭和一〇)年の『中央公論』一二月号の「新人傑作集」に所収されている「血縁」が、大谷藤子の作家としてのデビュー作のひとつであろう。一九六三(昭和三八)年に憲吉が亡くなると、ただちに筆を執り、「失われた風景」と題するエッセイに仕上げ、富本家を訪問していた当時を懐かしんだ。「私は戦争中から戦後にかけて、しげしげと富本家を訪ねた。陶芸家として第一人者である先生を訪ねたのではなく、夫人と親しくしていたからだった。ときどき泊まり込んだりした」159。大谷は、泊まり込んだ翌日のある朝のことを鮮明に記憶していた。
私はいまでも思い出すが、富本家に泊った翌朝早く、近くの雑木林を歩きまわったことがある。朝霧が丘にたなびいて、すがすがしい初夏の季節だった。私の着物は朝露にしっとりと濡れ、みづみづしく照り映えた若葉の香りがあたりにたちこめていた。私はその香りをなつかしみ、ほっとひと息つくような思いだった。なんという静かな自然のたたずまいだろう。私は心のやすまるのをおぼえた。そのとき先生[憲吉]の仕事場になっている建物のあたりに人影が見えた。遠くから眼を凝らすと、それはたしか先生だった。こんなに朝早く、中止しているはずの仕事場に先生は入っていくのだろうか。邸から道を距てたところにある小づくりな建物が先生の仕事場になっていた。私が近づくと、先生はうつむいて、ろくろをまわしておられた160。
ところで長男の壮吉も、一九四四(昭和一九)年の一月の誕生日で、一七歳にまで成長していた。七歳の孫の岱助が、軽部清子のことを「オモべ・ワルコ」と呼ぶくらいだから、当然息子の壮吉も、母親一枝を頻繁に訪ねてくる女友だちについて、さらには、修復の見込みがもはや期待できそうにない憲吉と一枝の夫婦関係について、何らかの強い思いを抱いていたであろう。学友に、西部グループの創業者の堤康次郎を父にもつ堤清二がいた。清二は、自分の出生にかかわって悩みをもっていた。そうしたことから、壮吉と清二のふたりは接近し、終生の友となる。壮吉は、自分の苦しみを清二に打ち明ける機会をしばしばもったことであろう。清二は、それを自分の問題と重ね合わせて、共有しようとしたにちがいない。戦後大学を出ると、壮吉は映画監督の道を選び、一方清二は、実業家として腕を振るうとともに、「辻井喬」の筆名で文芸の世界に入り、壮吉が亡くなると、その鎮魂歌ともいうべき作品「終りなき祝祭」を上梓するのである。著者の辻井喬は、その「終りなき祝祭」の「序章」で、「壮吉は終生、両親の関係を映像化することを願い続けていた」161と述べ、壮吉の助監督を長年務めていた人物から聞いた話として、以下のことを紹介する。
その助監督の話とは彼[壮吉]が三島由紀夫の短篇を素材にした作品を撮っていた時のことである。夜、ロケーションの先の宿舎で酒が入った時、
「僕ね、同じ三島由紀夫の原作でも『午後の曳航』の方を撮りたかったんだ」と言い出した。この『午後の曳航』のクライマックスは、母の情事を少年が隣室の腰板の穴から覗く場面なのである。助監督が「自分も読んでいる」と答えると、
「あの少年と同じ経験しているんだ。もっとも僕の場合、相手は女性なんだよ、男じゃない、父親はほったらかしにされて、一晩中部屋の中を歩いている。そんな両親の様子を僕が見ている」と彼[壮吉]は言った162。
それでは、三島由紀夫の「午後の曳航」のクライマックスの場面に対応して、辻井喬の「終りなき祝祭」では、その場面が、どうのように描かれているのであろうか。主人公は田能村壮吉。その父親は善吉、母親は文。勤務していた学校の生徒を連れて飛騨高山に疎開していた善吉が、途中で一度東京の自宅にもどる。着いたのは夏の夜の一〇時に近かった。玄関から入ろうとしたが、家のなかは静まりかえっている。秩父の知り合い先へ疎開したのかと思い、善吉はそっと庭先に回ってみた。
床まである上部がガラスの戸が開いたままになっている。善吉は留守のあいだに草がずいぶん伸びたと思った。部屋のなかには中空に上った月の光の奥になっていてよく見えない。蚊帳が吊ってあるのが分った。夜具が白く浮上ってくる。人が浴衣を着て寝ている姿がぼんやりと見えてきた。声を掛けようと一歩踏み出して善吉は思いとどまった。彼女の動きが不自然なのだ。と、腕のようなものが、白い浴衣の肩を捕えた。寝ているのは一人ではない。小さい呻き声が聞え、それを制止するような囁きが続いた。……「誰ですか、あんたは」文の怯えた声があがった。……隣の部屋から誰かが起きたらしく、そっと、部屋の奥に入ってきた。壮吉らしかった163。
著者の述べるところによれば、「終りなき祝祭」は、壮吉が死に向かう病床で書き残した手記が土台になっている。手記自体は公表されていないので、正確には何もわからない。これまでの自分の人生のなかにあって壮吉が受け止めた、消しがたい強固な思いが反映されているだろうと想像される反面、心身の衰弱とあいまって、正確な記憶が徐々に溶解した内容となっている可能性もあるのではないだろうか、とも思われる。いずれにしても、手記の実態は別にして、「純文学書下ろし特別作品」という文字が添えられたこの「終りなき祝祭」は、あくまでも創作という虚構空間での出来事の描写であり、したがって、描かれている内容がすべて真実あるとは限らない。おそらくは、そのほとんどが絵空事であろう。しかしながら、内容や形式はどうであれ、生前公に口に出せなかった苦悩の実相を、あるいは逆に、何としてでも口に出したかった苦悩の残像を、没後、本人に代わって、友人の筆をして語らしめた真の力は、それは一体何だったのであろか。「手記を読み終った時、私には田能村善吉と妻の文の愛憎の構造をはっきりさせることが、旧友の心を慰める一番の方法のような感じがしてきた」164。この言葉で「序章」は終わり、「第一章」の田能村文の検挙の場面から物語ははじまる。
一枝と俳人の中村汀女が知り合うのも、戦争末期の耐乏生活を強いられていた、ちょうどこの時期であった。汀女は、自伝『汀女自画像』のなかで、こう書き記している。
作家の大谷藤子氏とは近所だから知り合い、そして紹介してもらったのが富本一枝氏である。さっそく買い出しに連れられた。小田急線の鶴川に住まっておられる神近市子氏を「たよる」というのであった。初対面、わが家にあったビールを二本おみやげにした。神近家にはいろいろな人たちが来ていられたようだ。その日もさっそくビールをあけられていたが、富本一枝氏が、「あら、私にも飲ませて下さいよ」と言われたのに、私はちょっと驚いた。「女にもやはり飲む人がいるのだなあ」といった感じであった。神近家を中つぎにしてそこから三里入ったところの農家へ行く。ひたすらに歩けばよかった165。
こうした一枝の買い出しに一緒に行ったのは、汀女だけではなかった。しばしば大谷藤子も一枝に同伴することがあった。一枝の戦時スタイルがおしゃれだったことが、大谷の記憶に残っているし、何よりも一枝は、大谷にとって不思議な魅力をもつ存在であった。
私は夫人に誘われて食糧の買い出しに出かける日が多かった。電車で三十分ばかり乗り、それから一里の道を歩くのである。低い山々の間にある村の街道を、長身の夫人は網袋をしょって軽快な足どりで歩いて行った。私は夫人がそのころ人々の日用品になっていたリュックサックをしょっているのを見たことがない。麻のしゃれた網袋の中には食糧を包むための風呂敷や袋がいれてあるのだった。……夫人は不思議な魅了があって、そばにいると私を仕合せな気持ちにさせた。「神近さんのところへ寄りますよ」166。
往復二里の買い出しの帰りに、ふたりして神近市子の家に立ち寄り、一休みすることもあった。「『お茶だけでなく、何かお出しなさいよ』夫人は神近氏にこう言ったりして、のびのびとした。……『これいつあげましたか』夫人はそんなことを言いながら、お菓子皿をとりあげてつくづく眺めたりした。……その[神近の住む]農家も、後になって空襲で焼けた。……『ほんとうに丸焼けですよ』夫人は気の毒そうに言って、とりあえず衣類などを行李につめて届けるのだった」167。
一枝が大谷と一緒に買い出しに行った帰りに立ち寄るとき、神近は、若き日の自分と尾竹紅吉(一枝)との女同士の親密なかかわりを思い出したかもしれなかった。のちに神近は、雑誌のインタビューに答えて、このようなことを告白している。
また、尾竹紅吉のことですが、平塚[らいてう]さんと同性愛だったというお話があります。それで奥村博さんの出現かなにかで、尾竹さんが平塚さんに反感をもつことがあるんです。そのときに、精神的な同性愛というようなものでしょうね、尾竹さんが私に密着していたことがあったのです。で、あそこに来いとか、あそこに移ってこいとか、だから私は彼女の家に、一ヶ月ぐらい泊まっていたことがあります168。
空襲が激しくなってくると、村々を訪ねて食料を調達するこうした買い出しの生活も限界に達し、米軍が投下する焼夷弾から命を守るために、富本家も、祖師谷の家を離れ、疎開を余儀なくされた。大谷は回想する。「富本さん、家中で秩父の私の実家に疎開してみえたりしました」169。
一九四五(昭和二〇)年四月、米軍、沖縄本土に上陸。八月、広島と長崎に原爆投下。そしてポツダム宣言を受諾し、日本は敗戦した。八月一五日、終戦のこの日を、当時東京美術学校の教授をしていた憲吉は、疎開で出張していた岐阜県の飛騨高山で迎えた。一枝と子どもたちは、大谷の実家のある埼玉県の秩父で――。すべてが終わった。憲吉五九歳、一枝五二歳の暑い夏だった。
(147)前掲『神近市子自伝――わが愛わが闘い』、224頁。
(148)同『神近市子自伝――わが愛わが闘い』、同頁。
(149)高野芳子『わが青春・深尾須磨子』無限、1976年、15頁。
(150)同『わが青春・深尾須磨子』、36頁。
(151)同『わが青春・深尾須磨子』、49頁。
(152)同『わが青春・深尾須磨子』、50-51頁。
(153)同『わが青春・深尾須磨子』、51頁。
(154)「同棲愛の家庭訪問」『婦人公論』第15巻第5号、1930年5月号、18頁。
(155)前掲『わが青春・深尾須磨子』、52頁。
(156)同『わが青春・深尾須磨子』、46頁。
(157)同『わが青春・深尾須磨子』、52頁。
(158)同『わが青春・深尾須磨子』、同頁。
(159)大谷藤子「失われた風景」『學鐙』第60巻第12号、1963年12月号、42頁。
(160)同「失われた風景」『學鐙』、44頁。
(161)辻井喬『終りなき祝祭』新潮社、1996年、7頁。
(162)同『終りなき祝祭』、同頁。
(163)同『終りなき祝祭』、200-202頁。
(164)同『終りなき祝祭』、19頁。
(165)中村汀女『汀女自画像』日本図書センター、1997年、92頁。
(166)前掲「失われた風景」『學鐙』、42-43頁。
(167)同「失われた風景」『學鐙』、43-44頁。
(168)神近市子「雑誌『青鞜』のころ」『文學』第33巻第11号、1965年11月、64-65頁。
(169)前掲『「女人芸術」の世界――長谷川時雨とその周辺』、134頁。