中山修一著作集

著作集29 余滴を集めて――石牟礼道子研究  石牟礼道子小伝――「最後の人」との契りから道行きまで

第二部 橋本憲三の住む「森の家」へ駆け込む

第三章 一度目の滞在で逸枝と憲三に後半生を誓う

逸枝の死去ののち、東京の「森の家」では、『火の国の女の日記』の後半部分が憲三の手によって書き進められていました。一九六五(昭和四〇)年六月の逸枝の一周忌にあわせて、この自伝が刊行されると、迎えに来た静子と英雄の夫妻に付き添われて憲三は、遺骨をもって水俣に一時帰省します。そして、すぐにも東京にもどるや今度は、『高群逸枝全集』(全一〇巻)の編集に全力を注ぐのでした。第一回の配本は第四巻の『女性の歴史一』で、一九六六(昭和四一)年二月に刊行されました。およそこの二年間、静子は、二箇月に一度、二週間くらいの滞在予定で「森の家」に行き、憲三の編集作業の手伝いに当たります。

その間道子は、しばしば憲三に宛てて手紙を書き、自身の苦悩と逸枝への追慕の念を伝えたものと思われます。それについての、わずかな証拠が残っています。『火の国の女の日記』を執筆した時期、憲三は道子に手紙を書いています。「――もう二カ月も、誰とも、ひとことも対話しない日々が続いています。ただ姿なき彼女と――」。前後が省略されています。ここに何が書かれてあったのか、興味がもたれるところです。もし、そうした手紙類が現存するならば、この時期の憲三と道子の関係は、いっきに明確になるのですが――。

加えて想像するに、水俣にあって道子は、静子を訪ね、自分が宿す苦境の実際を同じく告白したにちがいありません。さらにそれを受けて、「森の家」で静子と憲三が、道子のことを話題に取り上げていた可能性も決して否定することはできないでしょう。現在のところ、逸枝の死去(一九六四年六月)から三回忌(一九六六年六月)までの二年間の憲三、静子、道子をつなぐ交流の軌跡は、一次資料(エヴィデンス)にあってどうしても十全に確認することができない、全くの空白部分となっています。しかしながら、この期間が三者にとって、濃密な関係構築の時期となっていたことは、その後に続く出来事から判断して明らかなように推量されます。

さて一方の道子は、逸枝が亡くなると、さっそく筆を執り、「高群逸枝さんを追慕する」という追悼文を七月三日の『熊本日日新聞』(六面)に寄稿します。以下は、その一節です。

 高群逸枝氏が、その女性史の中で、まれな密度とリリシズムをこめて、ほかに使いようもないことばで「日本の村」と書き、「火の国」と書き、「百姓女」と書き、「女が動くときは山が動く」と書いたとき、彼女みずからが、古代母系社会からよみがえりつづけている妣(ひ)であるに違いない。(注=妣は母)

道子は、『女性の歴史』以外の高群逸枝の著作について、「ほかの作品は『森の家』に行ってから徐々に読ませていただいたんです」と、述懐しています。しかし、この一著からの知識と感動のみをもってして新聞に追悼文を書き寄せるに至ったとは到底考えにくく、実際その文面を読む限りにおいても、淇水文庫で『女性の歴史』(上巻)を手にして以来、逸枝への関心は持続し、「高群逸枝さんを追慕する」を執筆するまでの約一年間、道子は、『女性の歴史』以外にも、入手可能な限りの逸枝の書物に目を通していたのではないかと推察されます。分量もあり、学術的な内容をもつ難解な部分もあります。道子にとって、自分の再生を賭した必死の読書だったにちがいありません。しかしその結果、このときまでに、すでに道子の内面には、逸枝をもって自分の妣/母とみなす慕情の念が、醸成されようとしていたのでした。換言すればそれは、逸枝を妣/母として、いま一度生まれ変わりたいという強い願望の発露だったにほかなりません。道子の暗部に、ほのかな希望の閃光が射した瞬間でした。

続く一九六五(昭和四〇)年六月、逸枝の一周忌にあわせて『火の国の女の日記』が出版されると、道子はそれを読み、逸枝にとって憲三という夫の存在がどのようなものであったのか、その真の姿にはじめて接し、強い感銘を受けたものと思われます。しかしそれに先立って、実際には道子は、「全集に組まれる前の『火の国の女の日記』の初稿ゲラ刷を読んでいる」のです。これは、明らかに憲三が、道子の求めに応じて「森の家」から送ったものであると思われます。こうした交流を背景に、すでにこの時期、憲三に会ってみたいという情感が道子に湧き上がっていたとしても、それはそれとして、決して不自然なことではなかったのではないでしょうか。

他方で、渡辺京二が『熊本風土記』を創刊すると、道子は、「海と空のあいだに」の連載を開始します。第一回が創刊号(一九六五年一一月)に、そして第五回が通巻七号(一九六六年六月号)に掲載され、最終的には第八回(通巻第一一号、一九六六年一一月号)まで続きます。これが、『苦海浄土 わが水俣病』(講談社、一九六九年)のおおかたの部分を構成する、事実上の元原稿となるものでした。

明らかにこの時期、道子は、死に傾く自身を生へと蘇らせるすべをひたすら逸枝の著作に見出そうとしていました。憲三との手紙のやり取りもしていました。そしてまた、原因不明の奇病が体を麻痺させ、それによりいのちを落とす人間の悲惨な姿に、血筋として自分が宿しているかもしれない狂死の発現を折り重ねるかのようにして、これまた必死になって、この病気と向き合っていたのでした。

そうしたふたりを取り巻く状況のなかにあって、いよいよ憲三と道子が巡り会う日が訪れました。憲三の「共用日記」には、次のような記述が残されています。時は、一九六六(昭和四一)年の五月と六月です。逸枝の三回忌(二周年)にあわせて、憲三が水俣に帰ってきたときのことでした。それは、道子の「海と空のあいだに」の第五回が『熊本風土記』に掲載された時期でもありました。

五月一六日 静子と石牟礼さん訪問。
六月七日 二周年。……石牟礼さんお花。/ささやかな法事。読経。
六月八日 午後石牟礼さん。世田谷にいきたいといわれる。ごいっしょしていいとはなす。
六月二九日 15じ11分きりしまで出発、一週二週で帰水の予定。石牟礼さん同道。帰りはべつべつか

五月一六日に、憲三と静子が石牟礼宅を訪れると、今度は、六月七日の逸枝の三回忌に、道子が花をもって憲三と静子を訪ね、翌八日に再び訪問して、「森の家」に行きたい旨を伝えます。それから三週間後の六月二九日、ふたりはそろって、西鹿児島発東京行きの急行「霧島」の一等車に国鉄水俣駅から乗り込むのです。この一箇月半のあいだ、三者でどのような会話が取り交わされたのか、そして、どのような取り決めがなされたのか、それを明らかにするための証拠となる一次資料は残されていません。その後に起こる出来事から推量するしかないのです。

それにしても、子どももある既婚女性が単身、遠路東京まで行って、妻を二年前に亡くした寡夫である男性と一週間ないしは二週間を過ごすに当たっては、それなりの覚悟と目的があったものと思われます。その一方で、初見に近い人妻に東京へ連れて行ってほしいと懇請された場合、思慮ある男性であれば、二つ返事でその申し出に同意するとはにわかに信じがたく、それであればそれは、わずか一箇月半という短時間のうちにまとめられた計画ではなく、この約二年間の三者の交流のなかにあって熟慮が重ねられた結果の成案であり、この三回忌にあわせて、実際に三人が顔をあわせて気持ちを確かめ合い、そのうえで、外部の人間からすれば無分別にも見えそうなこの計画が三者のあいだで共有されるに至った――この場合は、そう考えるのが妥当ではないかと、思量されます。

五月一六日に、憲三は静子と一緒に道子の家に行きました。憲三にとって道子に会うのは、これがはじめてだったのではないかと思います。しかし、すでに紹介していますように、静子の方は、栄町にいたころの子ども時分の道子を知っていました。道子は、こうも書き記しています。

橋本憲三氏の妹の静子さんという人をわたしは幼い頃から知っていた。というのも、水俣川の河口へうつる前に住んでいた栄町に、憲三氏の姉妹のお店がわたしの家の四、五軒先にあったのだ。食品の卸問屋をしておられた

道子はまた、次のように、静子のことを書いています。「静子さんは、わたしがどういう育ち方をしたか十分にご存知でいらしたにちがいない。祖母が街中をさまよっていた姿などもしょっちゅうごらんになっていただろう」。それだけではなく、精神病院を出るや鉄道事故で死亡した道子の弟のことや、道子自身の自殺未遂のことも、静子は知っていたにちがいありません。しかし、静子は、そうしたことを理由に道子を避けるようなことは決してなく、むしろ温かく包み込むような、理解ある態度で接しました。次は、道子による静子についての人物評です。「妹の静子さんは、たいそうのびやかな見かけの美女で、頭脳明晰な人だった。時々お手紙を頂いたけれども、切れ味のある名文である」

六月八日の午後、道子は憲三に、「森の家」がある「世田谷にいきたい」と懇願します。しかし、その理由や目的については何も書かれてありません。この間の状況から判断すれば、おおよそ道子は、次のようなことを憲三と静子に伝えたのではないでしょうか。「尊敬する逸枝先生を慕いながら、再び自分は逸枝先生を妣として『森の家』で生まれ変わり、これからの後半生を憲三先生の後添いとなって、逸枝先生とともに過ごしてゆきたい、静子さんを立会人として――」。そのように推測する理由のひとつには、道子が「森の家」で書いた日記の冒頭に、次のような文字が並んでいるからです。

わたしは 彼女を
なんと たたえてよいか
ことばを選りすぐっているが
気に入った言葉が見つからないのに 罪悪感さえ感じる
……
わたしは彼女をみごもり
彼女はわたしをみごもり
つまりわたしは 母系の森の中の 産室にいるようなものだ

別の箇所で道子は、こうも書いています。

 私には帰ってゆくべきところがありませんでした。帰らねばならない。どこへ、発祥へ。はるか私のなかへ。もういちどそこで産まねばならない。私自身を。それが私の出発でした

こうした文面を読むにつけ、産室としての「森の家」で、敬愛する妣なる逸枝の子宮に一度帰着し、そこから再び自分が生まれ落ちる――そのことへの道子の避けがたい衝動を、そこから感じ取ることができます。自分の出自、育った家庭環境、そしていまの結婚生活、そのすべてを産湯に洗い流し、別のもうひとりの「石牟礼道子」としてこの世に再誕生、つまりは再生を成し遂げる――何にもましてそのことを、道子は無心に願望していたのでした。

上京する前日の六月二八日、道子は、最後の行動に出ます。「橋本家へあいさつに行った。『うちのセンセイ』をつれていったのはひとまず進行したといえる」10。道子は夫の弘に、今回の東京行きをどう説明したかはわかりません。おそらくは本心を隠し、弘をあまり傷つけないように、水俣病の調査のためとか、それに類するもっともらしい理由をつけて説得したものと考えられます。

六月二九日、一五時一一分、水俣駅のホーム。その時が来ました。「いよいよ東京行き霧島に乗る。厳粛な気持ち。はじめて夜汽車に乗ることになった。瀬戸内海見えず。関門トンネルに気づかない。憲三氏とつい話しこんでしまったので」11。ふたりは、どのようなことを話題にしたのでしょうか。想像するしかほかに手立てはありません。逸枝のこと、「森の家」のこと、全集刊行のこと、水俣病のこと、さらには、連載中の「海と空のあいだに」のこと、そして、ふたりの今後のこと――。翌日の午後東京駅に着くまでのおよそ二五時間、ふたりの会話が途切れることはなかったでしょう。実にこうして、六九歳の憲三と三九歳の道子の一昼夜にわたる、生まれ変わりへ向けての厳粛なる道行きが、進んでいったのでした。

道子は、憲三について、こう吐露します。

ほとんど宿命的にかかえこんでしまった故郷水俣の出来事についても、同郷のよしみで直感的に把握していられた。その上突如としてこの森にかけこみをした盲目的衝動をも、たぶん理解されていたのだっただろう。静と動との極点を、わたしはゆきつもどりつせねばならなかった12

水俣病との対峙、そして逸枝と憲三への恭順、このふたつが、道子の内面を駆け巡っていました。まさしくこの時期に形成された両要素が動力となって、こののちの道子の生涯を先導することになるのです。道子は、それについて、以下のように分析しています。

 水俣のことも、高群ご夫妻のことも、一本の大綱を寄り合わせるかのごとき質の仕事であった。二本の荒縄をよじり合わせて一本の綱を作る。人間いかに生きるべきかというテーマを、二つのできごとは呼びかけていた13

ここに引用した文は、そののちの道子の生涯を規定する極めて重要な言説であるように思われます。といいますのも、人間のいのちと暮らしについての無自覚な生後体験から、民衆へ寄せる私的かつ詩的な独自のまなざしへの昇華、――そしてその、まさしく着床された土着的魂に導かれて描かれる普遍的な人類族母の史的再生。これが、その後の石牟礼文学を通底する「人間いかに生きるべきかというテーマ」の原像ではないかと考えるからです。

「産室」となる「森の家」でのふたりの生活がはじまりました。七月三日の日記に、「昨夜、というより今晩(一時)憲三氏(以下K氏と書く)より、ノートの御許し出る」14とあります。これは、尊敬してやまない憲三と逸枝を主人公とする伝記執筆のためのノートを意味します。この伝記は、水俣へ帰郷後、まず「最後の人」と題されて『高群逸枝雑誌』に連載され、そして最終的に、道子が八五歳のときに、『最後の人 詩人高群逸枝』として書籍化されます。それを思うと、まさしく道子の生涯は、これよりのち、「最後の人」とともに歩んでゆくことになるのでした。

同じく七月三日のノート(東京日記あるいは森の家日記)には、こう書かれています。

 今夜更に高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った。それは橋本静子氏に対する手紙の形で(つまり、静子氏を立会人として)あらわした。午前三時これを書き上げる15

その手紙は、次のように書き出されます。

 深い感謝の気持でこの手紙を書きます。このたびの上京について、私自身にとっては破天荒なことであり、はためにはずいぶんづかづかとしたお願いを、みなさまによっておききとどけ下さいましたことに、貴女さまの御配慮が全面的に動いて下さいましたことを、その経緯の積み重ねがありましたことを、私は肝にめいじているつもりでございます16

「高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った」という語句や「静子氏を立会人として」手紙を執筆していることから推測しますと、このとき道子は、女としての自身が寄って立とうとする立場を明確に「誓った」のではないかと思量されます。この手紙には、世俗的な「後添い」や「後妻」といった言葉はいっさい使われていませんが、配慮の「経緯の積み重ねがありました」という字句に目を向けますと、およそこの二年間にあって、しばしば道子は静子に会っては、そのことにかかわって暗に意思表示をしていたのではないかという推断の道が開きます。こうした「積み重ね」が、すでに引用で示しています、「突如としてこの森にかけこみをした盲目的衝動」となって、ここに顕在化したものと思われるのです。

「森の家」に入って一週間が立ちました。七月六日の道子の日記に、「桑原史成さんと渋谷で会う。……東大都市工学衛生工学研究室宇井純さんを訪ねる。留守」17との記述があります。桑原は、フリーの写真家で、そのとき二九歳でした。三四歳の宇井は、下水道を専門とする研究者で、東大の助手をしていました。ふたりは、ともに水俣病に関心をもつ旧知の仲で、水俣へも足を運んでいました。道子は、三人で会って水俣病に関して意見を交換したかったものと思われます。さらに、桑原には、頼みたいことがありました。「逸枝先生の写真集のこと道子話す。喜んで撮りたいとのこと」18。しかしこの日は、何か事情があってふたりに反目が生じ、道子は「森の家」を飛び出してきていたようです。続いて日記には、こう記されています。「やっぱり世田谷に帰りたくなった。小雨。十一時十分帰宅、九八〇円取られた。残念。先生の部屋ドンドン叩く。締め出されていた。大騒動して窓から侵入。ニクラシ。おとなり徳永夫妻起き出し御協力、先生オヤスミ。起きない」19

次の日(七月七日)の日記。「九時きっかりに桑原さんみえる。六時彼と渋谷で落ち合い、東大技術史研究会。沛然たる雨、本郷三丁目ウイジュンサン……十一時帰宅。締め出しなし」20

それから二日後の七月九日、道子は憲三に連れられて、平塚らいてう宅を訪問しました。以下は、そのときの道子の印象です。

 らいてう氏はやはり飛びぬけた女性。うしろ姿に優雅さの衰えぬ人である。「ベトナムが、ああいうことになりまして」という御挨拶。水の流れの中に水があるように、すいと自分の使命感を前に押し出す、するとみんなも流れていくという風である21

憲三はらいてうに、道子をどう紹介したのでしょうか。興味がもたれるところですが、残念ながら調べる限り、資料には残されていないようです。

翌七月一〇日――「先生おやすみ。桑原さん来る。書斎にて彼に説明。桑原さん撮影大車輪(九時半頃から)。まず化粧部屋から、階段、避暑室、階下、書斎。庭で先生。ボヤーッとお写りになったらよろしいと思いますと進言。彼を囲んで昼食の用意。お寿司、カキフライ、きゅうり、ビールなど。揚げとしいたけのおつゆ。先生楽しそう。桑原さんの笑う目が美しいとおっしゃる」22。そのあと、「明日、帰水の予定。ならば滞京予定を終了したものとして、二階で休息。深く熱い充足感」23。「深く熱い充足感」とは何でしょう。想像にゆだねるほかない意味深長な言い回しです。

その日の夕方、詩人の渋谷定輔がやって来ました。逸枝の『東京は熱病にかゝつてゐる』は、一九二五(大正一四)年一一月に萬生閣から上梓され、渋谷の『野良に叫ぶ』も同じ版元から翌年の七月に出版されています。萬生閣は実際上の平凡社で、両書ともに、発行者である下中彌三郎が、巻頭に「推薦文」を書いています。当時憲三は、下中を創業者とする平凡社に編集者として勤務していましたので、おそらく『野良に叫ぶ』の出版をきっかけに、下中の紹介により渋谷と知り合ったのではないかと思われます。

道子は、桜通りに出て、「ウィスキー小瓶、ビール小一本、鶏もつ、桃などを買う。いよいよ祝祭気分」24。こうして祝宴がはじまりました。「渋谷さんのプレゼント、開けてみようということでリボンをとる。美しい寒暖計。思わず歓声を上げる。うれしかった」25。寒暖計は、寒い日も暖かい日も、動じることなく常にひとつの場所を占めます。そこから、このプレゼントの意味を読み解くならば、ほぼ間違いなく寒暖計は、「婚約祝」あるいは「結婚祝」としての贈り物だったものと思われます。祝いの膳も佳境に入ります。「逸枝評憲三評、渋谷氏から熱っぽく出ると、やはり実体に迫っている感じがしてくる」26。では、「実体に迫っている感じ」とは、何を意味しているのでしょうか。いまや憲三の後添いとして逸枝とともにここに生きていることの真の実際感といったものでしょうか。渋谷は八時ころ家を出ました。続けて道子は、こう書きます。「厳粛なる夜。聖なる夜であるとも――」27。この一語から、この日が、憲三と道子が体を重ねて結ばれた最初の夜だったことが連想されます。

神秘に包まれた聖夜が明け、帰郷する七月一一日の朝が来ました。以下も、道子の日記からの引用です。

 六時目覚め。
 木立の中の深い霧。
 私の感情も霧の中に包まれてしまう。しかしそれは激烈で沈潜の極にあるものだ。
 沐浴。
 今朝の私は非常に美しい、貴女は聖女だ、鏡を見よと先生おっしゃる。悲母観音の顔になったと見とれる28

「九時半、逸枝先生にお別れつげる。彼女は私の内部に帰る。切ない。玄関を出る」29。こうして道子は「産室」を出たのでした。

それよりおよそ三箇月半後の一〇月三〇日の道子の日記に、「おなじ女をわけあえば兄弟分になるという後代の俗」30という文字が書き込まれています。この遺俗を念頭に置いて道子の場合を考えれば、「おなじ男をわけあえば姉妹分になる」ということになります。おそらくこうして道子は、この「産室」において逸枝の「妹」として生まれ変わったのかもしれません。他方で、すでに引用しています「わたしは彼女をみごもり/彼女はわたしをみごもり/つまりわたしは/母系の森の中の/産室にいるようなものだ」という道子の文から推量すれば、あるいは、「森の家」の「産室」で逸枝が道子をみごもるという神秘的な観念の幽玄世界に、道子は日々浸っていたのかもしれません。「森の家」を発つに当たって、上のように道子は「彼女は私の内部に帰る」と書いています。これこそが、ここにおいて道子が逸枝をみごもり、逸枝が晩年を過ごす地として望んでいた暖かい火の国に持ち帰り、再生なった道子の新たな生き方のなかで、これよりのち生涯にわたって「作品」というかたちをとって産み落としてゆくという、秘められた道子の強固な意思表示として受け止めることができる箇所であるにちがいありません。といいますのも、憲三に語った逸枝の晩年の言辞が、こう残されているからです。

日記一巻(「火の国の女の日記」)と追加研究一巻とができ上がったら「過去の紙くず」は一切焼いてしまって、また新しい出発をしましょう。あたたかいところへ行って、そこで私は「女性の歴史」で書けなかった未来像を叙事詩のかたちで書くでしょう。たぶん私の最後の詩篇となるでしょう31

換言するならば、この逸枝の言辞を読んでいたにちがいない道子の、「彼女は私の内部に帰る」という語句は、逸枝の詩学と学問の全き後継者としての、あるいは、揺るぎない再生産者としての、道子の宣誓の言葉だった可能性さえあるのです。

こうして、道子の「突如としてこの森にかけこみをした盲目的衝動」は終わりました。改めて、六月二九日から七月一一日までの約二週間は、六九歳の憲三と三九歳の道子にとって何を意味するものだったのでしょうか。この短い同棲期間は、道子にとっては「生命の復活」を意味し、ふたりにとっては「後半生を契る祝言」を含意するものであったにちがいありません。それを実証するにふさわしい、道子の言葉が残されています。

 世俗的なさまざまな意味で私の一生は、逸枝先生に御会いする(全集の前の『女性の歴史』)直前にすべて終りました。そして、逸枝先生との出遭いによって私はのっぴきならぬ後半生へと復活させられたといえましょう32

このときこの森は、さながら生命誕生の小宇宙と化していたのです。おそらく、立会人である静子に、つまりは事実上の産婆役であるその人に、その神聖なる一連の出来事を報告するためだったのでしょう、この日両人は「森の家」をあとにして、原郷の水俣へと帰ってゆくのでした。

(1)石牟礼道子「最後の人2 序章 森の家日記(二)」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、9頁。

(2)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、444頁。

(3)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、11頁。

(4)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、153頁。

(5)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、274-275頁。

(6)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、275頁。

(7)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、同頁。

(8)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、244-245頁。

(9)石牟礼道子「高群逸枝との対話のために(1)まだ覚え書の『最後の人・ノート』から」『無名通信』No. 3、1967年9月、1頁。

(10)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、246頁。

(11)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(12)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、12頁。

(13)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、287頁。

(14)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、247頁。

(15)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(16)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(17)同『最後の人 詩人高群逸枝』、258頁。

(18)同『最後の人 詩人高群逸枝』、258-259頁。

(19)同『最後の人 詩人高群逸枝』、259頁。

(20)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(21)同『最後の人 詩人高群逸枝』、261頁。

(22)同『最後の人 詩人高群逸枝』、264頁。

(23)同『最後の人 詩人高群逸枝』、265頁。

(24)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(25)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(26)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(27)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(28)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(29)同『最後の人 詩人高群逸枝』、266頁。

(30)同『最後の人 詩人高群逸枝』、297頁。

(31)高群逸枝『高群逸枝全集』第七巻/評論集・恋愛創生、理論社、1967年(第1刷)、372頁。

(32)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、248頁。