中山修一著作集

著作集29 余滴を集めて――石牟礼道子研究  石牟礼道子小伝――「最後の人」との契りから道行きまで

第七部 道子の「癒し難い心の病」と魂の蘇生

第一六章 「癒し難い心の病」で山梨の病院に臥す

『高群逸枝雑誌』に連載した「最後の人」は、すぐに単行本になることはありませんでしたが、「椿の海の記」は、連載が終了し、書き直しが進むと、朝日新聞社によって書籍化されます。このときこの本は、次のようなコピーでもって紹介されました。「時は流れ、自然はくるい、人は死んだ。『苦海浄土・水俣』の、椿咲く海辺にその昔どんな世界があったのか……〈不知火の語り部〉と呼ばれる女流がはじめてそのラディカリズムの原点を幽玄の文体で詩情豊かにつづる自伝の詩」。述べていますように、臨終の際に憲三は、道子に「寒椿が」といい、それに対して道子は、「はい……」と答えました。これが最後の言葉となりました。しかしながら、実際に出版されたのは、この年(一九七六年)の一一月のことで、残念ながら、憲三の存命中には、間に合いませんでした。道子は、『椿の海の記』の「あとがき」で、こう綴ります。

 さらに脱稿間近には、高群逸枝さんの夫君橋本憲三先生のご死去をお見送りせねばなりませんでした。出発作の「苦海浄土」のある部分は、この御夫婦の「森の家」で書かせていただいたものでした。御臨終前の幾週間、毎日、「椿の海は、どれくらい進みましたか、見せて下さい」と朱書だらけのものを仰臥されたままご覧になり、微笑されていました。いま少し生きていて下さったらよかったのにと思います。いろいろな方々に助けられて生きている不思議を思います

この「あとがき」には、この文の前に、こうした一行が、唐突にも挿入されています。

 連載中、瀬戸内晴美氏の出家のことがあり、私の生涯にとって、意味の深い出来事となりました

読者は、これをどう読んだでしょうか。字義どおりに読み、おそらくそれ以外の読みには、つながらなかったものと思われます。しかし、一九七三(昭和四八)年四月の『文芸展望』の創刊号に道子の「椿の海の記」が掲載されると、次の第二号から瀬戸内晴美の「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」の連載がはじまるも、わずか五回の連載で終了します。その間、瀬戸内は出家し仏門へ入り、他方で憲三は、「日月ふたり」の記載内容に苦しみます。いまや、その憲三は黄泉の客となり、連載を終えた「椿の海の記」が、こうして三年の歳月を経て世に出ようとしているのです。そうした背景に思いを巡らせながら、いま一度この一行に目を向けるならば、どうでしょう、道子の複雑な心情が浮かび上がってきます。瀬戸内の出家の情報は、道子にとって、自身の「森の家」への駆け込みと重なり、生き直しの苦しみへのただならぬ共感として、重くその胸にのしかかってきたものと推量されます。しかしその一方でこのとき、「日月ふたり」の文が、自らが尊師として仰ぐ憲三をいかに悲しませたかをまぢかで見ていた道子は、自分の書く文は決してそうであってはならぬという強い思いを胸に深く刻んだものと思量します。生涯、道子は、自分のことや歴史上の人物を主題として書くも、決して存命中の実在人物をモデルにして書くことはありませんでした。しかも、自分が他者を語るのではなく、他者に語らせるところに道子の文の特徴はありました。最晩年に道子は、自伝『葭の渚』を書きますが、それさえも、「森の家」の生活を終えて水俣に帰ってきたところで途切れます。なぜでしょうか。もちろん、執筆を続けるうえでの体力や気力の問題もあったでしょうが、それだけではなく、それ以降のことを書こうとすれば、どうしても生きた他者のことに触れざるを得ず、その過程で、思いもよらぬかたちをとって傷つけ苦しませる事態へと避けがたく発展しかねないことを身に染みて知っていたからではないでしょうか。つまりまとめれば、家を出ることにかかわっては瀬戸内の行為を共有しつつも、書く文については瀬戸内を「反面教師」とすることを内に秘め、道子は、「連載中、瀬戸内晴美氏の出家のことがあり、私の生涯にとって、意味の深い出来事となりました」の一行を、前後の脈略を断って、あえてここに突如吐露したのではないか、これが、私の愚考するところです。

この「あとがき」の最後の語句が、さらに意味深長です。「ことばにうつし替えられないものは心にたまるばかり、わが胸に湧いて動かぬ黒い湖の底から、この一冊を送り出してしまうことになりました」。これをどう読めばよいのでしょうか。本文にある自身の生まれ育ちにかかわる黒い内容そのものについて語っているのかもしれません。その場合、この語句は、まだまだ書き足りないといった意味になるでしょう。しかし他方で、瀬戸内に対する背後に隠された自身の黒い思いを念頭に、語っているようにも読めます。それというのも、生前憲三が無念の思いで書いた、瀬戸内宛ての手紙を、道子は、発表する機会をいまかと待ちながら、このとき手もとに保持していたからです。これが公開されるのは、もう少し先になります。

年が改まり一九七七(昭和五二)年を迎えました。一月、新評論から河野信子の『火の国の女 高群逸枝』が、続く四月、大和書房から村上信彦の『高群逸枝と柳田国男――婚制の問題を中心に――』が、公刊されました。ふたりはともに、『高群逸枝雑誌』の常連執筆者で、両書とも、この雑誌への寄稿論文をもとにして、おおかた成り立っています。『高群逸枝雑誌』における河野の連載は、最初が「現代の喪失 『女性の歴史』覚書」、続いて「始原の時 『恋愛論』『恋愛創生』覚書」、最後が「女性史の方法覚書」といった連続する三つの主題に分けて、構成されていました。一方の村上は、前半の「高群逸枝と柳田国男」と後半の「私のなかの高群逸枝」というふたつの主題のもとに連載していました。

さらに七月になると、今度は、鹿野政直と堀場清子の共著になる『高群逸枝』が朝日新聞社から上梓されます。これは、「朝日評伝」シリーズのなかの一冊を占めるもので、逸枝に関する最初の評伝となりました。内容的には、「一.出発哲学」と「二.女性史学に立つ」の二部構成をとり、第一部を堀場が、第二部を鹿野が担当しました。「一九七七年六月七日 逸枝の命日に」この本の「あとがき」は書かれています。以下の引用は、そこからの一部抜粋です。

 この仕事の完成は、それを誰よりも楽しんで待っていて下さった橋本氏の終焉に、間にあわなかった。一周忌の御命日に、二日がかりのツメの仕事を終えたのは、何かの因縁でもあろうか。それにしても、氏から恵まれた信頼と御好意に、はたして私達は応ええたか。できあがってくる本の最初の一冊を、氏の墓前に捧げる瞬間を思う時、心のうちに、たじろぐ

おそらく「最初の一冊を、氏の墓前に捧げる瞬間」があったものと思われます。逸枝や憲三に代わって、静子も道子も、深い謝意を表明したにちがいありません。しかしこのとき、静子は、憲三から受け取った遺言書に沿って書籍の整理をはじめていたものと推察されます。熊本県立図書館に所蔵されているこの『高群逸枝』には、寄贈印が押され、そこには、「寄贈 昭和五二年八月一九日 水俣市幸町六-四一 橋本静子殿」とあり、欄外に「憲三氏実妹」と記されています。出版されて、早くも一箇月後に寄贈されたことを意味します。蔵書印には「53.3.10」の算用数字が印字されています。この間館内の審議を経て、この日正式に蔵書されたものと思われます。一方、熊本市立図書館の逸枝関係の蔵書を調べてみますと、『東京は熱病にかゝつてゐる』(萬生閣、一九二五年)の蔵書印が「53.1.14」となっていることがわかりました。寄贈印はありませんが、蔵書印の日付がほぼ同じですので、『高群逸枝』が寄贈されたほぼ同じ日に、おそらく静子の手によって寄贈されたのではないかと考えられます。熊本市立図書館には、ほかに『黒い女』(解放社、一九三〇年)が所蔵されています。この本は、逸枝から静子に宛てた献呈本です。表紙裏の見返しに、次のような献呈の辞が自筆されています。

風がわりな小説です。散文詩的または寓話的小説とでもいえば、わかりがよいかもしれません。心理的には自叙伝ともいえましょう。私の愛の哲学が語られていると思います。ほんの芽生えにすぎませんが。

日付は、亡くなる二年前の「一九六二年五月」で、文中の「わかりがよい」という語句は、「わかりが早い」と読めなくもありません。

以上のことを勘案しますと、おそらく一九七七(昭和五二)年の八月一九日に静子は水俣から熊本市内に行き、県立図書館に、鹿野政直と堀場清子の共著の『高群逸枝』を、市立図書館に、逸枝の『東京は熱病にかゝつてゐる』と『黒い女』を寄贈したものと思われます。ただ、両図書館とも、このときの寄贈リストが残されていませんので、この日ほかにどのような本が寄贈されたのか、あるいは、実際に図書館を訪れ手続きをとったのが、正確に静子本人だったのか、道子か誰かが代行したのか、そこまでは、現在のところ特定することはできません。

すでに上で示しましたように、憲三が亡くなると道子は、『婦人公論』(一九七六年一〇月)に「橋本憲三先生の死」を書いて追悼し、一方、上梓した『椿の海の記』(一九七六年一一月)の「あとがき」のなかで、心からの謝意を表わしました。しかし、ただそれだけに止まらず、憲三に寄せる道子の追慕の情は、さらにその後も続くのでした。

一九七七(昭和五二)年一月に刊行された季刊雑誌『暗河』第一四号は、「小特集・高群逸枝」を組みました。そのなかに、道子の「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」が現われます。これは、『高群逸枝雑誌』の廃刊で余儀なく中断に追い込まれた「最後の人」の続編、ないしは補遺といった性格のもので、副題のとおり、「橋本憲三氏の死」に臨み、胸に去来する数々の思いが綴られていました。なかでも、憲三が道子に語った言葉として興味を引くのは、次の一節です。といいますのも、逸枝と自身の関係を、ある視点から見事に告白しているからです。

 彼女にしてみれば、知的レベルにおいて、資質そのものにおいて、あらゆる意味において、僕はよほど幼稚にうつって見えるでしょうからね。ただ僕の云うことすることが、どんなことがあっても彼女を裏切ることがない。いうなれば僕への信用ひとつで、彼女はうごいたようなものです。
 それをあえてしたのは、それがどうしても必要だったからです。必要だったからです。そうするとやはり、そこに一個の生き物が出来た形になって、彼女はその生きものを自分流に、なんと云ったって自分流に仕上げてゆくんです

明らかに憲三は、「森の家」での逸枝と自分の関係が、「一個の生き物が出来た形になって」いることを自覚しています。想像するにこれは、二匹の蛇が互いに相手の尾を口にくわえた円形状の双頭の蛇(ウロボロス)のような状態に自分たちがあったことを告白するものではないかと思われます。その話を聞いたとき道子は、その後、逸枝の死によってできた抜け殻に、脱皮した自身が入り込み、三つの巴となって、三者の生命が蘇生し復活していったこの間の過程を、改めて認識したにちがいありません。一方、憲三について道子は、こうも描写します。

……その夫憲三もまた、馴れない人であったように思われる。この異質性については、同じ男性の側の理解者を待ってはじめて解明されるだろうけれど、橋本憲三の生き方は近代進歩主義が生み出したきわめて先駆的で特異な一ケースであったと思われる

このように書いた道子には、すでに紹介しています、鹿野政直が憲三を追悼するために『朝日新聞』に寄稿した文のなかにある次の一節が、念頭にあったのかもしれません。「もし日本男性史・・・というものが書かれるとしたら、橋本氏は、既成の男性像を身をもって否定した人間として……、いわば『新しい女』にたいする『新しい男』として、位置づけられるのが至当ではなかろうか」。

続く道子の「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」が掲載されたのは、同年(一九七七年)の六月に発刊された『暗河』の第一五号においてでした。そのなかで道子は、憲三をこう讃えます。

 一人の妻に「有頂天になって暮らした」橋本憲三は、死の直前まで、はためにも匂うように若々しく典雅で、その謙虚さと深い人柄はせっしたものの心を打たずにはいなかった

この号が世に出るとき、すでに道子の身は、山梨県塩山市の病院にありました。渡辺京二は、このように書いています。憲三の一周忌を迎える一九七七(昭和五二)年の五月のことです。

 この頃、道子は体調不良に悩んでいたが、五月上京し、山の上ホテルで雑誌「潮」のための原稿を執筆中ついに病臥、二十六日に山梨県塩山市の中村病院へ入院した

他方、道子は、こう書いています。

 なぜ山梨に出かけたかと言えば、いよいよ癒し難くなって来た心の病いを哀れんで、橋川文三先生が大菩薩峠の近くの病院に入るようすすめて下さったのである。精神科の病院かと思い込んで往ったところ、産婦人科の先生だったので驚いたが、じつはこの中村克郎先生こそが、『きけわだつみの声』の編集者であった。とどこおっている書き物を仕上げるよう、先生自ら机を抱えて来て辞書を引いて下さったり、奥さまも看護婦さんたちもお仕事の進み具合は如何ですかとおっしゃる。合間にかの地の名刹を片端から案内して下さり、その間雨乞いの観音さまに出逢うことになった。この世には深い導きの糸というものがあると思うことである10

道子はここに、「いよいよ癒し難くなって来た心の病い」という言葉で、自身の体調の不良を表現しています。すでに、第一章「石牟礼道子の『魂が吐血した状態』の前半生」において紹介していますように、おそらくこのときまでに道子には、「こういう家庭の中で育った私にも、狂気の血が伝わっているに違いない」、あるいは、「自分の中に狂気の持続があることを、むしろ救いにも感じていた」という自覚がありました。そこから類推しますと、「いよいよ癒し難くなって来た心の病い」とは、自身の内なる「狂気」の発症を意味するのかもしれません。その要因は、資料がなく、正確に明らかにすることはできませんが、ほぼ間違いなく、憲三の死に由来するものであったと思われます。といいますのも、静子を立会人として憲三と後半生を誓っていた道子ですので、その喪失感は大きく、少なからぬ精神的な痛手を被っていたのではないかと想像されるからです。しかし、勧められた入院先は精神科ではなく、『きけわだつみの声』のかつての編集者であった中村克郎が運営する産婦人科の病院でした。

入院中、道子は、中村をはじめとする、周りの人たちからの厚遇を受けます。「かの地の名刹を片端から案内して下さり」、そのおかげもあって道子は、あたかも運命の糸に操られるかのように、雨乞いの観音様に出会うのでした。それは、道子にとって、新たに知る幻想世界への誘いでした。それをきっかけに、道子の関心は、沖縄の久高島に残るイザイホーの秘儀へと向かいます。道子は、その事情を、こう書きます。

 沖縄・久高島のイザイホウをなんとか垣間見たいと思い始めた直接のきっかけは、山梨県塩山市の放光寺にある雨乞いの観音さまに出逢い、その無残な姿に激しくとらわれてしまったからだった11

こうして、その翌年(一九七八年)の暮れに、実際に希望がかない、道子は、イザイホーの祭儀を見学することになるのでした。

明らかに、「山梨県塩山市の放光寺にある雨乞いの観音さまに出逢い、その無残な姿に激しくとらわれてしまった」ことは、道子にとって大きな収穫となるものでした。そういえるのは、その後道子は、『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)に、イザイホーを題材にした「朱をつける人」を書きますが、この文のなかにあって道子は、「朱をつける人」を憲三に憑依させて、憲三を神格化しようとしているようにも読むことができるからです。さらにはまた、最晩年に書く新作能「沖宮」にあっては、主人公として登場する、おそらく道子であろうと思われる童女が、雨乞いのための犠牲となって彼方の沖に流されてゆく場面がありますが、これは、このときに出会った雨乞いの観音様の故事に倣ったものではなかろうかと思量されるからです。道子は、「この世には深い導きの糸というものがあると思う」という文言で言い表わしています。憲三の一周忌を迎える道子のこのときの心情を察すれば、この文言は「憲三による深い導きの糸」を含意するものであった可能性さえ残ります。

観音様との出会いに力を得て、次第に道子の心身は、回復に向かったものと思われます。それから一年が過ぎた翌年(一九七八年)の六月五日、道子の「忘れられない本」に関する文が『朝日新聞』(一〇面)に掲載されます。「忘れられない本」として道子が取り上げたのは、逸枝の『日月の上に』でした。その本にたどりつくまでの経緯が、前段において詳細に語られていますので、流れに沿って部分的に拾い上げ、つなぎ合わせてみたいと思います。

 書物などというものと無縁なままに人生の半ばを過ぎて、気がついたら水俣病の渦中にいた。ほとんど同時にわたしは、高群逸枝の著書と、その生き方に出遭った。
 それまでのわたしは新聞を読むことはおろか、読書というものを生活の中に持たない、あるいはそれを許されない南国の海浜の一主婦だった。……
 庶民、といわれているその他・・・大ぜい組・・・・の暮らし。一地域のそれを知るには、まず郷土史資料を勉強せねばと思い始めて、雨ママ降りなどの、村もおおやけに休む日に、図書館通いを始めた。……徳富蘇峰の寄贈になるその「淇水文庫」には、中野普という館長がおられた。篤実なこの館長に導かれて、入れてもらった資料室の一隅(いちぐう)に、高群逸枝著『女性の歴史』上巻の、ふるびた一冊が置いてあった。
 背表紙を見ただけで、全身を痺(しび)れるようなものがつき抜けたのは、異常なことだったが、あまりの無学さと深い飢えのために、幻覚がおきたのだったろう。その時、三十六歳だった。……学問の書として書かれてあるのに、わたしにはむしろ、旧約聖書のように読めたのである。そして彼女の著作には、もっと予言の部分、つまり詩篇(しへん)のようなものがあるのではないかと思った。

こうして道子は、偶然にも、三六歳になる一九六三(昭和三八)年の夏に「淇水文庫」の片隅において逸枝の書物に遭遇しました。しかし翌年に逸枝は亡くなり、実際に会うことはありませんでした。それから月日が流れ、一九六六(昭和四一)年、ついに道子は、逸枝と憲三が長年住んでいた「森の家」に、自身の生き返りを図るために駆け込むのでした。道子の文は、後段へと続きます。

思いもかけず、惨憺(さんたん)たる家に御夫橋本憲三氏とお妹静子さんの訪問を受け、東京世田谷の〈森の家〉に行くことになった。
 「心静かにここでお書きなさい。これがあなたのおっしゃる詩篇ですよ」と、憲三氏はおっしゃり、差し出されたのが、理論社から後に『高群逸枝全集』の第八巻として出されることになる、全詩集『日月の上に』の詩稿だった。それはまことに圧巻だった。文字の要る世界も、要らない世界も、いっしょくたの奔流となって、生命界の源をなしている。詩句の技巧などは、彼女の唄(うた)う力に破られて、可憐(かれん)な現代への予言者がそこにいた。

このとき道子が『朝日新聞』に書いたのは、「逸枝とのめぐりあい」についてでした。次の年(一九七九年)、今度は道子は、夢のなかでの「憲三とのめぐりあい」について『毎日新聞』に書きます。書き出しは、こうです。「今年の五月二十三日の朝方に夢を見た。その日は高群逸枝さんの夫君橋本憲三先生のご命日の前日に当たっていた」12。夢に出現した憲三は、古い表紙の大学ノートを道子に差し出しました。

 「あなたにお渡ししようと思いましてね、持って来たのですよ」。ご生前私は、彼女に関する資料をいただきたいとお願いしたことは一度もなかった。橋本先生ご死去の直前からそのあとにかけて、彼女の女性史研究の資料をめざして、多くの人たちが意思表示をはばからないのを知って、私はある困惑に包まれた。憲三先生が死の直前まで「彼女のゴミ類」を焼却しようとされ、妹の静子さんに実行させられたのは周知のことである。そのノートの一冊をあげようといわれて、夢の中ではあり、私は嬉しくもあり、かの困惑にも包まれて、手を出しかねていた。
 「彼女を読み解けますよ」と、先生はほほえまれ、インクの消えかかったノートを開いて手渡された。
 そこで私は目がさめた。ご命日のことを気にかけていたから、先生が夢の中でノートをくださったのだろう。早く『最後の人』(評伝高群逸枝)を完成するようにとの、ご催促かもしれない13

憲三が死して、このとき、もう丸三年が経過していました。「ご命日のことを気にかけていた」道子の胸中は、このように、夢に出るまでの追慕の情でもっていまだ満たされていたのでした。

(1)『暗河』第一五号に掲載されている『椿の海の記』の広告文の一部。

(2)石牟礼道子『椿の海の記』(朝日新聞社、1976年)の「あとがき」、ノンブルなし。

(3)同『椿の海の記』の「あとがき」、ノンブルなし。

(4)同『椿の海の記』の「あとがき」、ノンブルなし。

(5)鹿野政直・堀場清子『高群逸枝』(朝日評伝選一五)朝日新聞社、1977年、328頁。

(6)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、21頁。

(7)同「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』第14号、1977年冬季号、10頁。

(8)石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、53頁。

(9)渡辺京二「Ⅱ詳伝年譜(1969-2013)」『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、329頁。

(10)石牟礼道子「悶え神とイザイホウの神」『西日本新聞』1979年2月20日、11面。

(11)同「悶え神とイザイホウの神」『西日本新聞』、11面。

(12)石牟礼道子「夢の中のノート」『毎日新聞』(夕刊)1979年10月17日、3面。

(13)同「夢の中のノート」『毎日新聞』(夕刊)、3面。