中山修一著作集

著作集29 余滴を集めて――石牟礼道子研究  石牟礼道子小伝――「最後の人」との契りから道行きまで

第五部 橋本静子とともに最期の憲三に寄り添う

第一一章 憲三の苦悩を共有する

瀬戸内晴美の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」が掲載された『文芸展望』(第五号)が発売されたのは、一九七四(昭和四九)年四月でした。そのなかに、次の一節があります。松本正枝(本名は延島治)の視線から描かれています。

 駅からわが家の方への一本道を歩いていくと、向うから逸枝が歩いてくる。今日もきれいに化粧して、袂の長い派手な着物を着た逸枝は、少女がするように、長い袂を両手で持ってひらひら蝶々のように両脇で躍らせながら、浮きたつような足どりでステップをふんでくるのだった。人の目も全く眼中にないように、その姿は何か抑えきれぬ喜びをそういうそぶりであらわしているとしか見えなかった。
 よほど嬉しいことがあるにちがいない、まるで子供のような人だ。ずっとそんな逸枝の姿を見つめながら正枝が近づいて声をかけると、逸枝は雷に遭ったように硬直して路上に突っ立ってしまった。大きな目をうつろに見開き、息もとまったように正枝をみつめてあえいでいる。
「どうなさったの、うちへいらっしゃったんじゃなかったの、延島はいませんでしたかしら」
 その道はわが家への一本道なので、正枝はこう問いかえした。逸枝はようやく夢からさめたように、
「あなた、まだ会社じゃなかったの、どうなすったの」
 と訊いた。詰問するような調子に、正枝はふたたび驚かされた。逸枝はそんな正枝の横をすりぬけると、挨拶もせずに駅の方へ走り去っていった。
 家に帰ると英一が同じように愕いた表情で迎えた

「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」を著わした道子はそのなかで、上の文を引用すると、それに続けてこう書きました。

 逸枝亡きあとに書かれたこの作品を読まれて憲三氏の苦悩は深刻だった。長い袖を両手に抱え、蝶のようにひらひらゆくような逸枝をかつて見た覚えがないといわれるのである。……正枝氏はそのような逸枝を、ご自分の夫君と愛を交わした姿と受け取られ、瀬戸内氏も、憲三との一体的夫婦の伝説がやぶれ逸枝に恋人がいたとされているのだが、わたしはそこに立ち入る気はない。逸枝は憲三氏の眼に触れるように延島氏からの求愛の手紙を常にそれとなく机辺に置いており、その間の事情と処理については、憲三氏自身の手記が残されている。(『高群逸枝雑誌』終刊号)

「逸枝亡きあとに書かれたこの作品を読まれて憲三氏の苦悩は深刻だった」と、道子は書きます。注目すべき点であろうかと思われます。そして道子は、最後にこの文をこのように結ぶのでした。

蝶のように浮き立つ足どりの逸枝はじつは詩の刻の人なので、健全な日常にいきなり出逢ってたちすくむ姿の背後には、彼女の詩篇のすべてが放電するように広がってゆくのをわたしは見る

この結語に、道子は何を含意させようとしたのでしょうか。おそらく道子は、逸枝のその姿に、表題のとおり「本能としての詩・そのエロス」を見ているのでしょう。

詩人の情感は、文字や文のうえだけでなく、舞や踊りにみられるように、身体のもつたおやかさにも現われるものであり、そうした非日常な身体表現を見誤って、「愛を交わした姿」であるとか「恋人がいた」といった世俗用語に置き換えてしまうことに内在する虚しさ――道子は、そのようなことを暗に示そうとしたのではなかろうかと、私は思料します。

もっとも、瀬戸内は、この場面を「駅からわが家の方への一本道を歩いていくと、向うから逸枝が歩いてくる」と描写していますが、実際に正枝が瀬戸内に語ったのは、そうではなかったのではないかと思われます。といいますのも、実際のところ正枝は、「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」において、その場面を、次のように書いているからです。

 ある日私は会社から帰る線路際の道を歩いて行くと先へ蝶のように両手で長い袂をヒラヒラさせながら足取りも軽く女の人が行くので、人道車道の区別のない道でめずらしい人だと思いながら段々近づいたら何と高群さんだったのです。門外不出と宣言している人なので驚き後ろから声をかけると、高群さんはびっくりした様子で立上がり忽ち厳しい表情であら松本さんいつも今頃お帰りですか?……ええいつも今頃と返事をしながらどちらへ? 「これから延島さんにお願いがあってお宅へ伺うところ」……

おそらく正枝は、数年前に取材に来た瀬戸内に、このようなことを語ったであろうと思われます。しかし瀬戸内は、それを逆転させて、「何か抑えきれぬ喜び」を表わしながら英一の家から帰る途中の場面に作り替え、正枝の留守中に、あたかも英一と「情事」があったかのように書き表わすのです。なぜ取材時に聞き取った証言内容を尊重しないのでしょうか。しかし、もしこれが、瀬戸内の小説執筆の手法であるとすれば、そこには、尊ぶべき人権も名誉も、何もないことを意味します。もっとも、取材時に聞き取ったであろうと思われる内容も、必ずしも真実であるという保証はどこにもありませんが――。

一九七三(昭和四八)年二月一日の憲三の「共用日記」(妻の逸枝が亡くなってからは事実上憲三単独の日記)に、瀬戸内の訪問が、こう記されています。

午後八時三十分-10時50分、瀬戸内さん、村上彩子さん(筑摩書房)とみえる。石牟礼さん同道

翌二月二日の日記には、次のような文字が並びます。

午前一一時、瀬戸内さん村上さん、Mさん。瀬戸内さんお墓まいりしてくださったと。紅梅白梅がさいていたと。室にいらず、そのまま水俣駅へ(庭で静子あう)

「Mさん」とは、石牟礼道子のことでしょう。このとき憲三は、庭に二階建ての建物を建て、一階を、藤野と静子が経営していた、食品や日用雑貨を扱う橋本商店の倉庫に貸し、二階を、自室と『高群逸枝雑誌』の編集室にあてていました。このとき筑摩書房の村上彩子が同伴していることや、その五箇月後に「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」が筑摩書房発刊の文芸雑誌である『文芸展望』に登場することから推し量れば、このときの訪問は、逸枝と憲三の伝記を書くに当たっての事前の了解をとるためだったのではないかと思われます。

瀬戸内は、『文芸展望』に「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」を連載するに先立って、松本正枝と思われる女性に会って取材をしています。そのことが見て取れるのは、瀬戸内が、自著の『談談談』のなかで政治家の小沢遼子と中山千夏を相手に語る場面においてです。その箇所を、以下に引用します。

瀬戸内 ……だから私は男性で、内助の夫の系列というのを書こうと思って、岡本かな子と一平、高群逸枝と橋本憲三がいいと思って水俣へ行ってみたの。ところがだんだんいろんなことがことがわかってきてね。仲がいいかと思っていたら、その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって。
中山 普通との反対みたいね

瀬戸内が水俣の憲三宅を訪ねたとき、本当に憲三は、このようなことを瀬戸内に話したのでしょうか。上の引用で示していますように、「共用日記」によれば、憲三が瀬戸内に会ったのは、一九七三(昭和四八)年の二月一日のことで、このときがはじめてです。しかも、面談したのは、午後の八時三〇分から一〇時五〇分までの二時間と二〇分です。「その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって」といった内容のことを、憲三が初対面の瀬戸内に二時間余の短い会話のなかにあって語ったとは、にわかに信じることはできません。

続けて瀬戸内は、小沢と中山に対して、こんなことも話題にします。

瀬戸内 ……きのう私が訪ねて行ったおばあちゃまのところできいてみたの。「婦人戦線が潰れたところがよくわからないんですけど、逸枝さんはよく聞いてみると、男を作って、しょっちゅう逃げ出していたそうですが、ほんとうですか?」「ええ、ほんとうですとも。われわれの時代のアナキストは恋愛に対してもアナーキーで、逸枝さんはそれを実行なさいました。人の亭主でもなんでもおかまいございませんの」「だれか逸枝さんの相手で覚えている方ございませんか?」「はあ、ございますとも」そのおばあさんはそれからちょっと出ていってお茶を入れて、「うちの人です」(笑い)。
小沢・中山 へえー(笑い)

瀬戸内は、「きのう私が訪ねて行ったおばあちゃまのところできいてみたの」といっていますが、この「おばあちゃま」というのは、たぶん松本正枝のことでしょう。そして、瀬戸内は、小沢遼子と中山千夏を相手にしたこの対談について、「本書のための語り下ろし 昭和四十八年五月十日赤坂にて」と書いています。それであれば、「おばあちゃま」を訪ねたのは、前日の五月九日で、水俣訪問から約三箇月後のことになります。そこから類推しますと、「その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって」と語ったのは、橋本憲三本人ではなく、松本正枝だった可能性が派生します。もしそれが真実であったとするならば、瀬戸内は、小沢遼子と中山千夏のみならず、多くの読者に対して、憲三にかかわっての虚偽の印象を植え付けたことになります。

瀬戸内の『談談談』が世に出たのは、一九七四(昭和四九)年二月です。憲三がこの本を手にしたのは、それから半年後のことでした。といいますのも、八月七日と翌八日の憲三の「共用日記」に、次のような文字が書き込まれているからです。

八月七日「石牟礼氏に電話。夕方みえる。みやげものもらう。お茶も。10時に辞去。辺境五と瀬戸内氏の談談談をもらう。睡眠薬服しすぐ就寝」。
八月八日「けさ、談談談を散見したら、一項目、さんたんたる事実無根の記事あり。……」10

こうして憲三は、瀬戸内の『談談談』に事実無根の記述を見出すのでした。昨日人から聞いた醜聞を、真偽を確かめることもなく、さもおもしろそうに他人にいいふらし、さらにそのうえに、それを自慢げに文字に書く、瀬戸内晴美という作家に対して、憲三は、強い不信感を抱いたにちがいありません。

上に引用した『談談談』のなかからの二箇所は、逸枝と憲三の名誉にかかわって公然と事実を指示して毀損するものであるといわざるを得ません。この場合、指示された事実の内容に関して、その真偽が問われることはありません。つまり、書かれている文の内容が、真実であろうと虚偽であろうと、逸枝と憲三の名誉感情や自尊感情が公然と著しく毀損されていれば、刑法が定める名誉棄損罪が成立する可能性を排除することはできないのです。何ゆえに瀬戸内は、憲三にいわせれば「さんたんたる事実無根の記事」をかくも平然と書くのでしょうか。憲三は、いうまでもなく存命中の人物です。憲三の苦しみはいかほどだったでしょうか。

『談談談』を憲三に手渡したのは道子です。静子は、瀬戸内の来水のとき庭で会っています。そこから推測すれは、ふたりとも『談談談』を目にしたことでしょう。憔悴しきった憲三をみぢかで見ていた静子も道子も、なぜ瀬戸内はこのようなことを書かねばならなかったのか、その真意を測りかねるとともに、その残忍さに、こころを痛めたものと推量します。他方で、「逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくる」――そうした逸枝と憲三の姿が、間違いなく世間の読者のなかにあって、当事者の思いを踏み越えて浸透していったものと思われます。

以上、瀬戸内晴美が書いた、伝記小説「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」と人物談義である『談談談』とに関連して、道子や静子を含む、直接の当事者である憲三の胸の内を構成してみました。

それでは次に、戸田房子のモデル小説である「献身」を巡っての、その三人の思いを描写してみたいと思います。しかし、「献身」に対する直接の反応は残されていないようです。そこで、この小説の主題となっている逸枝の臨終に際しての、市川房枝とそのグループの実際の言動に対する、憲三、道子、そして静子の反応について構成してみたいと思います。

まず、逸枝が息を引き取るまでの移りゆく場面を再現してみます。以下に用いる「共用日記」からの引用文は、どれもすべて『高群逸枝全集』第一〇巻の第六部「翼うばわれし天使・一九六三年(六九歳)-一九六四年(七〇歳)」からの抜粋です。煩雑さを避けるために注番号と引用頁の明示は割愛します。時は、一九六四(昭和三九)年の五月、逸枝が亡くなるおよそ一箇月前のことです。「K」が憲三であることは、いうまでもありません。

「K、五月十日の夜明けとともに五時三十分K医師の来診をもとめて友人たちにも電話。十時三十五分竹内博士。その結果、病院入りを納得させられる」。

五月一一日「二時市川[房枝]さんらみえる。竹内[茂代]さんの選択、市川さんの厚生省を通じての配慮で、国立東京第二病院に決定。K、市川さんらと病院に出かけ、帰家四時三〇分、逸枝は[市川]みさをさんにつきそわれて今朝よりぐっとよくなっている。奇跡とよろこぶ」。しかし、「逸枝は、共同室ときくといやがり、ぜひ個室にしてほしいという」。

五月一二日「九時十分救急車で出発。特別室ながら二人室に入る」。

憲三は、個室でないことが気になっていました。加えて、この病院が「完全看護制」で、自分が付添人として逸枝のそばにいることができないことを知ったときは、「彼女の不運の姿が目に浮かび椅子にかかったまま失神した」のでした。これまで、「森の家」では他人の訪問を断わり、長いあいだ、夫婦ふたりだけの水入らずの暮らしをしてきた憲三にとっては、予想だにしない、不測の事態に遭遇したのでした。一方、何年も家から一歩も出ることなく書斎の机に向かっていた逸枝にとっては、救急車はいうまでもなく、病院も病室も、全くなじみのない異質の空間だったにちがいありません。それでも、付添婦だけは、何とか病院側から提供されることになりました。入院初日のこの日は、時間が来ると握手を交わし、夜のことを付添婦によく頼んで、やむなく病院をあとにしました。

五月一三日「逸枝は眠れなかったろう。さびしかったろう。いまごろ熱心に待っていることだろう。しばらく待っていてください。まだふらつく頭をかかえて口上書をまとめる。八時四十五分できる。これから飛んでいく。……口上書(個室あっせん依頼)を面会室で友人たちに手渡してたのむ」。

「個室については入院前日の病院あいさつの帰途、Kが病人の要求をきくまでもなく逸早く市川さんにそのあっせんを依頼した。病院費用については自宅ですでに用意がある旨を通じてあった。そして、あらためて入院翌日文書でもって依頼するとともに、K自身も庶務課長、婦長、主治医に頼んだ。……幸い可及的早く南側の明るい静かなもっともよい場所の一人室に移ることができてうれしかった」。

「主治医は病名ないし病状についてKがたずねても、はっきりしたことは何もあかしてくれなかったが、Kは百科事典の『腹水』の項目からあれこれとたどっていって、重大な覚悟を要することを察知し、できうるかぎり現在の患者をまず安静させ、体力を維持して、療養を長期にみちびくことを考え、あまり友人たちの面会が多くて、しかも病人が自分を殺してげんきよく応対につとめて疲れるので、主治医に話して『面会謝絶――主治医』の標札を病室の入口に掲示してもらった。むろん主治医の方でもそれを必要としたのだろう」。

「重大な覚悟を要することを察知」した憲三と、市川房枝の関係者たちは、そのことを、憲三の妹で、水俣に住む橋本静子に連絡しました。以下は、静子の文からの引用です。

 前に、姉と私ども夫婦の水俣の居宅にお越しいただいている浜田糸衛様、高良真木様のお知らせと、兄憲三の知らせも届き、姉逸枝の急病を知りました。夫と私は羽田に着き、旧知の高良様のご運転のお車のご供与をいただきました。
 同乗のかたから、「普通の人ではすぐに入院することができないのを、市川先生の国会議員の肩書きで入院することが出来た」とうけたまわりました11

しかし、その車が向かったのは、逸枝が入院している国立東京第二病院ではなく、市川の執務室のある婦選会館でした。当然ながら、静子は、落ち着きませんでした。「世事に才覚のない兄憲三に、入院ごとのお手助けを感謝申し上げましたが、早く病体をみきわめて、なんとしてでも早急に全快させねばと気負っていて、兄夫婦に早く会いたいと念願してばかりいました」12。病院に連れていってもらえたのは、やっとその後のことでした。面会を終え、その足で、「森の家」にたどり着きます。

 兄と夫と私とで食事もしないで善後策を話し合い、早急に態勢をととのえました。姉フジノが当座用にと持たせて寄越した百萬円を兄に渡し、「いつでも、いくらでも、要るだけ送るから言ってよこせ」との伝言も伝えました13

六月七日「病院の廊下で[日曜日のため昼間自宅に帰ろうとしていた]付添いさんにあい、午前八時入室。逸枝の寝顔のあまり美しさに、さめるまで立ったままみとれていた。また呼吸のやすらかさ。彼女は神だ」。

「十時、主治医みえる。そんなに食べられないなら、注射するかも知れないと告知される。昼食には病院の流動食はたべたくないといい、牛乳とアイスクリームを、二人でわけあってたべた。……私は立ったり、椅子にかけたりして、一日彼女と接近して看護した。胸から頸部にかけて鈍痛。ときどき後頭部と額の鈍痛」。

この日の夕刻、逸枝と憲三が交わした最後の会話の場面を、以下に再現します。

私「私はあなたによって救われてここまできました。無にひとしい私をよく愛してくれました。感謝します」。
彼女「われわれはほんとうにしあわせでしたね」。
私「われわれはほんとうにしあわせでした」。力を入れてこたえ、さらに顔を近づけて私が「……」というと、彼女ははっきりうなずいて、「そうです」といった。
 彼女は心からそれをゆるし、そしてよろこんでいるのだった。いまこそわれわれは一心になったのだ。
 七時十分に付添いさんが帰室したのちも九時までいたが、いよいよかえりのあいさつのとき、逸枝はかたく私の手をにぎり、「あしたはきっときてください」とつよいことばでいった。
 これまでにない異様なショックを受けた。しかし、とどまることがゆるされない。……私は、祈り祈り帰家。
――病院からのれんらくで十一時にかけつけた。そのとき、もう彼女の偉大な魂は一生の尊い使命を終え、永遠のねむりにはいっていた。

そのあと逸枝の遺体は霊安室に運ばれ、そこへ、平塚らいてうや市川房枝、そして志垣寛らが駆けつけます。志垣の妻が、熊本県師範学校女子部で逸枝と同級であり、志垣自身は、かつて憲三を平凡社に入社の斡旋をしたことがあり、今回の告別式に当たっては葬儀委員長を務めます。以下は、のちに志垣が書く、そのときの霊安室の様子です。

 六月七日、国立第二病院の死亡者室に横たえられた亡き人の枕頭には、従来長い間彼女のためにあらゆる協力と奉仕をいとわなかつた数々の名流婦人があつた。彼女たちに囲まれたたゞ一人の故人の骨肉者は夫憲三君一人であつた。橋本夫妻がいかに貧乏であつたかは、彼女たちがよく知つていた。だからこそ彼女たちは年々逸枝さんの研究費を扶け、治療費を扶け、そして今は死後の葬式まで心配していた。
 しかし橋本君にしてみれば、せめて葬儀位は亭主たる自分の手で、自分の心ゆくまゝにとり行いたいと念願した。そのかげには憲三君をこの上なくいたわしく感じていた憲三君の妹さん(水俣在)があつた。妹さんは逸枝さんの臨終には居合せなかつたが、亡くなる数日前に訪ねて、治療費として百万円をおいて行つた。橋本君は今こそその金で逸枝を自分の思う通りに葬りたいと思つていた。
 名流婦人たちは、橋本君の意中を察せず葬式万端、自分たちの手でとり行うべくすでに枕頭には葬儀やが呼ばれていた。初め橋本君は彼女たちからのがれたくて、葬儀は熊本でとり行うといつて彼女たちをおどろかせた。しかしせめて「告別式」だけはとのたつての要望から、橋本君も折れて、葬儀やが招かれたわけだ。その席上、橋本君は最高葬儀を注文し、彼女たちの眼の前で即金を渡した。これには流石名流婦人たちがびつくりしてしまつた。貧乏をうりものにする似而非ものであると怒つた。橋本さんがあんなお金持ちとは夢さえ思わなかつた。そんなにお金があるなら、先刻さしあげた「見舞金」は返してほしいといつた名流婦人もあつた。もちろんその金は返した。わたくしが現われたのはそれらの事件のあとであつた。
 名流婦人たちは死亡広告に名を連ねる事を拒み、葬式にも列せず、僅かに平塚雷鳥、守屋東、伊福部敬子、住井すえ等々の数女史にすぎなかつた。
 故人は原始女性は太陽であつたという平塚女史の言葉を実証すべく一生の研究を続けた。しかし女性解放は男性を奴隷化することとはいわなかつた。男も認め、女も認むることが故人の心ではなかつたろうか14

ここでは、この言説のなかの「葬儀は熊本でとり行うといつて彼女たちをおどろかせた」と「名流婦人たちは死亡広告に名を連ねる事を拒み」、「先刻さしあげた『見舞金』は返してほしいといつた名流婦人もあつた」、「葬式にも列せず」の三点について整理し、事実関係を明らかにしたいと思います。

一点目――「葬儀は熊本でとり行うといつて彼女たちをおどろかせた」と「名流婦人たちは死亡広告に名を連ねる事を拒み」を巡っての事実関係について。

六月八日および九日にかけて、主要な新聞紙上において、高群逸枝の死亡記事が掲載されました。地元紙の『熊日』も九日の朝刊九面で報じました。記事に加えられた逸枝の写真は、黒の罫線で囲まれていました。次の引用は、その記事からの抜き書きです。「高群逸枝さん(本名橋本イツエ、女性史研究家、評論家)は東京・目黒の国立第二病院入院中、七日午後十時四五分ガン性腹膜炎のため死去、七十歳。……十日午前十時から自宅で密葬。本葬は熊本で行なう予定。日時その他未定」。ここにはっきりと「本葬は熊本で行なう予定」と書かれてあります。これが喪主である憲三の意向でした。そしてまた、これは逸枝の希望でもあったと思われます。といいますのも、生前逸枝は、憲三の実家に帰省し、橋本家の空華塔(納骨堂)に参拝したおりの気持ちをこう書いているからです。「塔の中にはすでに子一人、孫一人の骨壺が納まっていた。私たちの憲平ちゃんも骨はないが祭ってある。……いずれ私の骨もこの墓にはいることであろう」15

しかしながら、本葬を熊本で行なうことについては、何かの事情により変更せざるを得なかったようです。志垣が書くように、名流婦人たちからの「せめて『告別式』だけはとのたつての要望から、橋本君も折れて」しまったのかもしれません。二日後に出される死亡広告がそのことを物語ります。『熊日』においては、死亡広告は一一日朝刊四面に掲載されました。「夫 橋本憲三 親戚代表 橋本英雄 高群晃 友人代表 家永三郎 志垣寛」の連名によるもので、「告別式」を、熊本ではなく、自宅、つまりは「森の家」で行なうことが、以下のように告知されたのでした。

高群逸枝(橋本イツエ)こと六月七日午後十時四十五分永眠いたしました 茲に生前の ご厚誼を深謝しご通知いたします 追て来る六月一五日午後三時より五時まで自宅にて仏式により告別式を相営みます

友人代表を務めたのは、東京教育大学文学部の日本史の教授の家永三郎と、同郷熊本県の出身で教育評論家の志垣寛のふたりでした。平塚らいてうの名も、市川房枝の名も、ここにはありません。戸田の小説「献身」のなかのこの場面に、市川房枝をモデルにしたと思われる人物が、「死亡広告のことは、私の素志と相容れない点がありますので、私の名前を出すのは遠慮いたします。どうかあしからず」16と、憲三に告げる一節がありますので、市川本人が拒んだものと考えられます。らいてうには、断わる意思はなく、市川の思いとの対立を避けようとして、一歩身を引いたのではないかと思料されます。といいますのも、市川と違ってらいてうは、翌日の逸枝のひつぎの「森の家」帰還に立ち会っており、告別式にも参列していることがそれを例証しますし、それにもまして、何よりも、憲三との変わらぬ友愛が、その後の最期まで継続するからです。一方、憲三と市川の関係は、これで断絶します。

こうした死亡広告は、かつて逸枝の母親の登代子が亡くなったときも、夫の勝太郎によって出されており、憲三はそれをしっかりと踏襲したといえます。逸枝は、そのことについて、こう書いています。「母が死んだとき父は九州日日と九州の両新聞に家族連名の死亡広告を出して、有縁の人たちに知らせることを忘れなかったが、またこれは母への最後の父の敬意でもあったろう」17。戦後、『九州日日新聞』と『九州新聞』が合併して『熊本日日新聞』が生まれます。この引用文の一節は、五年前に『熊日』に連載された「今昔の歌」のなかにおいて逸枝が披露したものです。したがって、逸枝の、この死亡広告を見て、親子二代にわたる死亡時対応の継承にかかわって何か深い思いに駆られた『熊日』購読者も、少なからずいたにちがいありません。要するに死亡広告は、高群家の先例に従うものであったのです。

二点目――「先刻さしあげた『見舞金』は返してほしいといつた名流婦人もあつた」を巡っての事実関係について。

逸枝が入院した際、憲三が病院側に要求した「個室と面会謝絶」が原因となって、市川とその周囲の人たちに不快感を生じさせたようです。憲三は、このように書きます。

 個室と面会謝絶の件は、思いがけなく、一部にまさつをおこした。Kは、生命の尊厳と、ひたすら彼女の心にしたがった。それを知った逸枝は「私たちは自分たちのこれまでの流儀を押し通しましょう」といった。
「でもそれは感謝とか友情とかの問題とはべつですね」
「そうですとも」18

市川房枝は、戦前の『母系制の研究』発刊のころから今日まで、親身になって逸枝を支えてきた後援者のひとりでした。おそらく市川は、逸枝に最良の医療を施すために、善意をもって参議院議員という立場から厚生省に働きかけ、国立東京第二病院への入院の斡旋をしたのでしょう。そして、時間の許す限り病室を訪れ、手を握りしめながら、思い出を語り、感謝の言葉をお互い交わし合って、最後の日を迎えたかったものと想像されます。市川を取り巻くほかの女性たちも、おそらくこれと同じ心情だったにちがいありません。そうした、市川とそのグループの女性たちの思いからすれば、「個室と面会謝絶の件」は、個室にかくまい、他者の面会を拒絶しようとするかのような、憲三の卑劣な性格が投影された、後援者に対する陰険な行為と映っていたのでしょう。その延長として、霊安室での憲三と市川の確執はあったものと推量されます。

しかし一方で、夫である憲三には、妻に対する固有の別の感情がありました。つまりそれは、残り少ない時間にあって多くの後援者たちが見舞いに押しかけ、それに無理をして応対する状況が続けば、妻の心身の衰弱は一気に進行するにちがいないという懸念でした。もっとも、そもそも三十余年ものあいだ「森の家」に引きこもり、来客を断ち、机を友に生活してきた逸枝でしたので、個室と面会謝絶を強く望んだのは、むしろ逸枝の方だったのかもしれません。

さらに、完全看護という医療制度も、常にこの間、憲三を脅かしていたものと考えられます。のちに憲三は、道子にこう語ることになるのです。

 完全看護制などということがわかっていれば、入院などさせなかったのです。ここで、彼女が求め続けていた森の家でのいとなみを終わることができたのに、僕がうかつにも気付かなかったから、彼女のいとなみを断ってしまった……19

完全看護制を敷くこの病院は、憲三にとって、決められた短い時間以外はもはや自分が入り込むことができない、いままでに経験のなかった、ふたりを分かつ異界でしかありませんでした。あくまでも憲三は、ふたりして長く暮らしてきた自宅で、逸枝をしっかりと胸に抱き、最後の別れの言葉を交わしたかったのではないかと思われます。実際にそれができなかったことは、まさしく「慙愧の極み」として、その後終生憲三を苦しめ、そうした後悔の弁が、上記引用のごとく、みぢかな道子へ向けられたのではないかと推察されます。

しかし、市川房枝たちと憲三のあいだに生じた不信感は、個室と面会謝絶の問題だけに止まりませんでした。それは、金銭に関する問題でした。以下に、それにかかわる、憲三の妹の静子が兄の口述を筆記した市川房枝に宛てた手紙の写しが公開されていますので、長くなりますが、ここに全文紹介します。

拝啓
 故高群逸枝こと、国立東京第二病院入院につきましてはご高配をたまわりましてまことにありがとうございました。そのせつ、金参万円也と記入されたご封筒を手わたされ、お見舞い金と思いちがいをいたしました。
 そのとき療養費についておたずねになり、当座用にはとりあえず五〇万、その他充分の用意があることをお答えいたしました。
 死亡いたしまして霊安室での通夜の席において、みなさまの前であの金は返して欲しい旨を申し入れられ恐縮いたしました。
 葬儀を完了いたしまして、せいりにとりかかりましたので本日書留郵便をもってご返金申し上げます。お受け取り下さい。故人は参万円のことについてはなにも知りませんでした。旧来からの御厚情、深くお礼申し上げます。
  昭和三十九年六月十七日 橋本憲三
  市川房枝様20

この手紙が公開されているのは、「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」と題された文においてですが、さらにそのなかで、筆者である憲三は、市川からの金は「入院前日の五月一一日に自宅で受け取った……貳万円返金すべきところをあやまって参万円にしてしまった」21と、書き加えています。

それでは、市川が憲三に渡した金が「お見舞金」でなかったとすれば、市川は何の目的で、貳万円を差し出したのでしょうか。自分の知る無一文に近い憲三を哀れみ、今後支払いに窮するにちがいない入院費用の一部に充ててもらうことが念頭に置かれていたものと考えられます。しかし憲三が、それなりの資金を用意していることを知るや、それまでしばしば折に触れては金品を援助してきていたことも含め、自分の厚意が無にされたと思い込み、返金を求める行為に走ったのでしょう。

憲三の胸には、その行為はどう映ったのでしょうか。喪主はあくまでも自分であり、葬儀は遺族の考えを踏まえて行なわれるものであり、たとえ有力な後援者であろうとも、市川は、そうした個人の領域に強引に割り込んではいないか、さらには、返金要求にしても、言い出すのが本当にそれにふさわしい場所であったのか、そうしたことを思うにつけ、何か怒りに近い虚しい感情が湧き出してきたものと思量されます。

また、静子の胸の内はどうだったでしょうか。入院の知らせ受けて空路羽田に着いた静子と夫の英雄を乗せた高良真木が運転する車がまず向かった先は、逸枝と憲三が待つ病院ではなく、市川の執務室でした。そして、同乗者からは、「市川先生の国会議員の肩書きで入院することが出来た」ことを聞かされました。静子は、死を争うこの時期にあって、お礼を強要するかのような権力者の狡猾さの一面に触れ、いたたまれない感覚を味わったものと思います。のちに静子は、このようなことを書いています。

 らいてう様は私どもへお会葬くださり、過分の御香料をお恵みいただき……その後らいてう様から変わらぬ御交誼をたまわりましたことと思い合せますと、政治家と文学者の違いを思わずにはおれません22

市川の執務室に向かう車中で交わされた会話のことや、霊安室での市川の口から見舞金の返還が要求されたことについて、のちに道子は、憲三から詳細に聞かされたものと思われます。

道子は、「森の家」に滞在していたおりに、「最後の人」のために取材ノートをつけていました。以下は、一九六六(昭和四一)年一一月一七日からの抜粋です。

午後三時半これを書いている。今日はとても暗いですねと先生電気をつけて下さる。一時まで、彼女死去直前直後の、市川房枝、平塚らいてう、竹内茂代、高良眞木、浜田糸衛女史らの話をきく。諸関係の中での人間の孤独、彼女の孤独。異次元の世界。限界状況に至ればさけられない種々相について考え道子少し目まい。入院前後のこと、面会謝絶の事。二万円を返してほしいと通夜の席で言われた事、葬儀屋のこと、三万円返した事、解剖の話、私の面目は丸つぶれなりましたという発言(市川)、個室のこと、療養費のこと23

この文のあとに続いて、上で紹介した、静子が憲三の言を口述筆記した市川宛の手紙文が、登場します。この手紙文を自分の取材ノートに書き写すとき、道子は、「少し目まい」を感じながら、かつて憲三と静子が体感したものとほぼ同じ気持ちを追体感したのではないかと思われます。

他方、市川房枝の随想集『だいこんの花』(新宿書房、一九七九年)においても、市川房枝の養女である市川ミサオの回想記『市川房枝おもいで話』(NHK出版、一九九二年)においても、逸枝の臨終にかかわるこの一件については、いっさい触れられていません。市川が逸枝の重要な後援者のひとりであったことは、多くの婦人運動に当時加わっていた人たちは承知していたものと思われます。そうであれば、その責任のうえからも、市川は、逸枝臨終に際してのこの「事件」と、その結果生じた憲三との「断絶」とについて、一見明らかに姑息な手法にしか見えかねない、戸田の書く「献身」の公開などに頼らず、自ら進んで口を開いて、自分にとっての「真実」を白日の下に堂々と語る必要があったのではないかと、私は愚考します。

私の見るところによれば、「献身」が世に出たとき、筆舌を超える表現しがたい鈍い波動が憲三を襲ったにちがいありません。戸田房子という作家は、逸枝の入院や臨終に立ち会った形跡はありませんので、浜田糸衛や高良真木のような人に取材したか、あるいはそうした人が、戸田を使って書かせたのではないかと、憲三は即座に直感したのではないでしょうか。

最後に、三点目――「葬式にも列せず」を巡っての事実関係について。

すでに示しています志垣の文からの引用にみられるように、逸枝の告別式に参加したのは、「僅かに平塚雷鳥、守屋東、伊福部敬子、住井すえ等々の数女史にすぎなかつた」ようです。それでは、それ以外の、生前逸枝との親交があった女性たちは、どのような行動をとったのでしょうか。

逸枝が亡くなっておよそ一箇月半が経過した六月二二日に、婦選会館で高群逸枝を追悼する会が催されました。『婦人展望』は、その様子を、短くこのように伝えています。

去る六月七日死去した女性史研究家高群逸枝の追悼会が六月二十二日午後二時~五時婦選会館においてひらかれ、次の諸氏が出席、故人をしのんだ。市川房枝、鑓田貞子、浜田糸衛、稲津もと、高良真木、中島和子、近藤真柄、児玉勝子、武石まさ子、市川ミサオ、両沢葉子24

しかし、この追悼会は、逸枝をしのぶ場というよりは、憲三への悪口を並び立てる場と化したのではないかと想像されます。

生前逸枝は、こう書いていました。人が人に贈与することの危険性についての逸枝の認識が開陳されている箇所です。

 ……もっと甚だしい場合では、たとえば他から進んでなされた贈与などでも、多くの場合、それが通俗的な取引的観念もしくは恩恵的観念を結果的に形成し、両者間に、ともすれば、怨疾とか心おごりとかが、かもしだされる危険を伴うおそれがあるからである25

この逸枝の言説は、市川による自分への支援を念頭において書かれたものではおそらくないでしょうが、霊安室での市川と憲三の確執を先取りしているように読むこともできそうです。

逸枝の臨終の際の市川と憲三の反目を、市川の立場から書いた小説が、戸田房子の「献身」でした。世に出たのは、一九七四(昭和四九)年の七月です。それに加えて、それに先立って発表されていた小説「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」と交友録『談談談』の、この瀬戸内晴美の二作が、関係者のあいだで話題になっていたものと思われます。その渦中にあって、いわれのない罵詈雑言と誹謗中傷を受けて最晩年を過ごす憲三がいました。その一方で、それを横で見ていて悲しみに耐える静子と道子がいました。憲三の思いに立てば、どれもすべてが「事実無根」――人の口に戸は立てられず、憲三にとって、不当にも容赦なく襲いかかる外界からの痛みと不安は、もはや死をもってして逃れるしか、ほかに手立てはなかったかもしれません。このころの憲三の口に上るのは、「私はいつも死を欲しているのである。それもはっきりいえば自然死ではなくて自死なのだ」26という言葉でした。その時々に、静子も道子も耳にしていたにちがいありません。

(1)瀬戸内晴美「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」『文芸展望』第5号、1974年4月号、427頁。

(2)石牟礼道子「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」『思想の科学』思想の科学社発行、1982年1月号(通巻349号)、44頁。

(3)同「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」『思想の科学』、同頁。

(4)松本正枝「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』私家版(国立国会図書館デジタルコレクション)、1976年9月、30頁。

(5)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、178頁。

(6)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。

(7)瀬戸内晴美『談談談』大和書房、1974年、⑳⑥頁。

(8)同『談談談』、同頁。

(9)同『談談談』、⑳④頁。

(10)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、186頁。

(11)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、4頁。

(12)同「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、5頁。

(13)同「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、同頁。

(14)志垣寛「高群さんと橋本君」『日本談義』日本談義社、1964年8月、57-58頁。

(15)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、293頁。

(16)戸田房子「献身」『文学界』文藝春秋、1974年7月号、115-116頁。

(17)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、236頁。

(18)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、476頁。

(19)石牟礼道子「最後の人 第九回 序章 森の家日記9」『高群逸枝雑誌』第18号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1973年1月1日、27頁。

(20)橋本憲三「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、36-37頁。

(21)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、36頁。

(22)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、11頁。

(23)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、318頁。

(24)月刊『婦人展望』、1964年7月号、3頁。

(25)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1966年、496-497頁。

(26)橋本憲三「題未定――わが終末記 第一回」『高群逸枝雑誌』第8号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1970年7月1日、24頁。