誰しも人は最期を迎えます。静子も例外ではありません。憲三と藤野を看取ったのは、近所で開業する女医の佐藤千里でした。しかし、静子に死期が迫ったときは、すでに佐藤は水俣を離れて、熊本市内に居住していました。佐藤のもとに、静子の孫から電話がありました。「おばあちゃんが、三日前から何も食べんようになって……」1。翌朝、さっそく佐藤は静子を訪ねます。以下は、佐藤が書く、そのときの静子の様子です。
半年前と何等変った様子もなく、にこやかに私を迎えたシズコに、一瞬私は狐にだまされたような気がして室内を見回した。古い肘掛椅子もベッドも元の位置で、壁にはシズコの両親や兄夫婦の写真が同じ位置に掛けてあり、机の端に重ねてある文庫本の数冊も変りなかった2。
室内の様子に、何も変わりはありませんでした。そして同時に、食べ物を口に含まないという静子の強い意思にも変わりがなかったようです。
「手足の不自由な患者さんには、こうして食べてもらうのよ」と強引に粥の匙を運んだ私をシズコは苦笑しながら拒んだ。しかし遂には口を開いて飲み下し、ついでに押込んだ持参のチョコレートも食べて「ありがとう、おいしかった」と頭を下げた。しかし、二日目からはもう口を開いてくれなかった。そしてその後は飢えたように話を続けた。兄夫婦の質素だが愛に満ちた日常のこと、私が立会うことになった兄憲三の最後のこと、九十二歳まで楽しんだ外国旅行の思い出等である3。
静子の絶食は続いていました。それを聞いた佐藤は、二度目の訪問をします。そのとき、ひとりの女性を誘いました。「『高群逸枝の作品を読む会』を主宰していた女性の来訪がよほど嬉しかったのだろう。百歳近い老女とは思えない位若やいでいた」4。
佐藤は、おそらく配慮のうえでのことでしょうが、実名を挙げていません。しかし、この、「『高群逸枝の作品を読む会』を主宰していた女性」が、石牟礼道子であることは、まず間違いないでしょう。そのときまでに道子はすでに水俣を出て、熊本市内に仕事場を設けていました。その女性に静子は、こう言葉をかけました。
枯木が倒れるように自然に朽ち果てたいと思うんだけど、周りの人達になるべく世話をかけたくないの。お金を出し合って飛行機をチャーターし、ゴビ砂漠の真中辺りに置いてきて欲しいなんて、貴女達と話したこともあったわね5。
それに対して女性は、不満そうに、こう答えます。「厄介な病気で、何とかして一日でも長く生き延びたいと必死で療養している人も多いのに、ぜいたくだと思うわ」6。佐藤とその女性が辞するとき、静子はふたりの手を握って、「私が死んだら抹香くさい事は止めにして、上等の酒でも飲んでお祝いしてね」7と、告げました。
佐藤が三度目に水俣に行ったのは、静子の絶食が五十日以上も続いていた三月の中旬のことでした。暖かい陽ざしが新緑に降り注ぎ、ウグイスが鳴いていました。その日静子が、「あとどの位したら母や兄達の所に行けるかしらね。せいぜい二・三週間と計算していたのは、私の大きな誤算だった」8といって苦笑すると、佐藤には返す言葉がすぐに見つかりませんでした。その後佐藤は、持病のリウマチが悪化し、続くお見舞いは断念することになります。
そうしたなか、例の女性から連絡がありました。「ポータブルトイレに自力で移ることが困難になったと悲しそうでした。でも私が行くと嬉しそうに話され、不思議としか言いようがありません」9。それから六日目の、二〇〇八(平成二〇)年四月一五日、静子は息を引き取りました。食を断って七五日が立っていました。享年九六歳でした。亡骸は、熊本大学医学部に献体することが事前に取り決められていました。見送った女性は、このように佐藤に報告しました。
大学から迎えに来たシンプルなワゴン車で、名残の桜がひらひら散りかかる中を、シズコさんは自分で望んだように、家族と友人二人に見送られてゆっくり水俣川の土手を上って行かれました10。
静子が遺していた紙片には、「生き抜いて、そして死んでいくことはこわくない。むしろ勇気リンリン」11と、書き記されていました。
静子の遺体を乗せた車が、桜の散るなか水俣川の堤を過ぎ去るとき、それを見送る道子の胸には何が去来したでしょうか。かつて北海道での講演の際に演題に使った「いのちの切なさ 美しさ」だったかもしれません。
逸枝亡きあと、道子が、「森の家」の憲三の胸に飛び込んだのは、一九六六(昭和四一)年六月のことでした。ここで道子は、憲三と逸枝のふたりと自身の後半生にかかわって契りを結びます。立会人は、水俣に住む憲三の妹の静子でした。以下に引用するのは、そのとき静子に宛てて出された道子の手紙の冒頭の一節です。
深い感謝の気持でこの手紙を書きます。このたびの上京について、私自身にとっては破天荒なことであり、はためにはずいぶんづかづかとしたお願いを、みなさまによっておききとどけ下さいましたことに、貴女さまの御配慮が全面的に動いて下さいましたことを、その経緯の積み重ねがありましたことを、私は肝にめいじているつもりでございます12。
道子は、静子を立会人として、「森の家」で魂の蘇生を成し遂げました。その静子が、いま亡くなり、帰らぬ人になりました。これで、「森の家」を知る、憲三、藤野、静子のみなが黄泉の客となって、道子から旅立っていったのでした。ひとり道子は遺されました。哀愁が忍び寄ります。そのとき道子は八一歳。その後に続く道子の最晩年の物語は、次の最終章「死者を柱に道子が『沖宮』を書く」で描くことにします。
(1)佐藤千里「或る旅立ち」『全作家』第72号、全作家協会、2008年、11頁。
(2)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、同頁。
(3)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、同頁。
(4)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、同頁。
(5)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、12頁。
(6)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、同頁。
(7)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、同頁。
(8)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、同頁。
(9)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、同頁。
(10)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、同頁。
(11)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、同頁。
(12)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、247頁。