中山修一著作集

著作集29 余滴を集めて――石牟礼道子研究  石牟礼道子小伝――「最後の人」との契りから道行きまで

第八部 再び苦界に落とされる静子と道子

第一八章 二冊の逸枝の校訂本の発刊と著作権者としての静子の立場

逸枝の死後、東京から水俣へ居を移した憲三の晩年の様子を、道子は、こう描写しています。

 水俣に移られてから、全集の売行と比例して訪問者たちがこの部屋に「防ぎようもなく侵入し」はじめていた。森の家の原則はくずれかけていた。卒論を控えた学生たちとか、新聞の人たちとか、いわゆる逸枝ファンの人たちだったが、なぜ氏が逸枝の蔭の人として終始されたか、その秘密を知りたい、隠されている・・・・・・それを直接氏の口からききたい、というのはその人たちのやみがたい希求のようであった。氏はたいてい寡黙に微笑して、例のように額の汗を拭きながら悪戦苦闘して答えられる

「防ぎようもなく侵入し」てきた訪問者のなかに、栗原弘と栗原葉子も含まれていたものと思われます。

憲三の一九七三(昭和四八)年七月一〇日の「共用日記」に、栗原弘と栗原葉子夫妻の来水の様子について、こう記されています。

栗原弘・葉子さん、河野さんの紹介名刺をもってみえる。同志[社]大院生(3年)、高群研究(婚姻)をしているとのこと。6時ごろ水天荘へ。葉子さんは同大学美術科出身。また院生になって勉強したいとのこと

続く七月二三日の「共用日記」には、「同志社大学院生(3年)栗原弘さんみえる。1月ぐらい下宿して、高群婚姻史についていろいろ質問したいとのこと。下宿について西条美代子さんを紹介する」、さらに七月三一日の「共用日記」には、「栗原さん、『平安鎌倉室町家族の研究』コピーはじめ、市役所で(ゼロックス)」との記載があります。

憲三が亡くなるのが、栗原弘と栗原葉子夫妻の水俣訪問から三年が立った一九七六(昭和五一)年五月です。それからさらに九年の歳月が流れます。栗原弘の校訂による『平安鎌倉室町家族の研究』が、一九八五(昭和六〇)年二月に国書刊行会から上梓されると、続いて六年遅れて、栗原葉子と栗原弘のふたりの校訂になる『日本古代婚姻例集』が、一九九一(平成三)年五月に高科書店から刊行されるに至ります。しかしながら、「平安鎌倉室町家族の研究」も「日本古代婚姻例集」も、憲三が述べるところによれば、「強いて採録するにもおよぶまいとして」、『高群逸枝全集』から除外されていた稿本だったのでした。

それでは、『招婿婚の研究』の基礎調査を集成した稿本である、この「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」は、執筆当時どう出現していたのか、その様相を、ここで確認しておきます。

まず、『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」に、この稿本について、こう記されていますので、以下に紹介します。

 昭和二十四年の年始状において、逸枝はつぎの近況報告をする-
 

 女性史第二巻『招婿婚の研究』は明年成稿の予定になっていまして、今年こそは私の生涯における最大の苦闘の年であろうと、自ら覚悟を新たにしています。

 と。

 こうして、二月十九日には冬嗣流篇家族表……約五〇〇枚を……五月二十三日には五摂家篇家族表約六〇〇枚を仕上げた。……
 五摂家篇のつぎには一般公家篇に入り、その約九〇〇枚を十月十三日に終わった。計約二千枚、これは後に『平安鎌倉室町家族の研究』と題された。カードのままの未整理分を加えて約五〇〇家族の調査だった。
 それからただちに婚姻表の執筆に入った。これは古代から織豊期におよぶ文献-諸家日記はもちろん-から婚姻の事実例を年代順にあつめたものだった。……この筆写や清書にはKも協力した(この転写は翌年五月までかかってようやく綴り込みになった)。約八〇〇枚。後に『日本古代婚姻例集』と命名された。未整理分を加えて約一〇〇〇例の調査だった

続く三年後の一九五二(昭和二七)年の逸枝の年賀状は長文で、このような内容で綴られていました。

 私は『招婿婚の研究』を旧臘二十五日脱稿しました。平均十時間の日課で十三年九ヵ月かかりました。……
 主題の招婿婚(婿取式)は、周知のように記紀以下の史籍、諸家の日記、宇津保・源氏・栄花・今昔・盛衰記・増鏡等一連の国文学の上に顕著に現われている、室町期娶嫁婚(嫁取婚)にかわるまでの支配的婚姻形態でまた現に全国各地に遺存してもいます。……
 研究は……方法としては、先ず十一年余を費やして数万枚のカード、約一千の採集婚礼例(八百枚)、五百の家族調査(成文二千枚)を用意し、これらにより、実証的帰納的に考察したものであり、読者は容易に原拠について論断の是非を批判し得るでしょう。
 研究にのみ没頭して出版の便宜をも一切失ってしまい、本になりうるか否かわかりませんが(切にその便宜を与えられたいと思います)、ここに成稿の報告ができますことを心からうれしく思います。
 当分の間推敲に従いながら、新年から通史研究に入り、第三巻『古代女性史』(4封建5現代)にかかり、かたわら前記家族調査を再整して『平安鎌倉室町家族の研究』をまとめます。
 つつしんで長い間のご援助を感謝申しあげなお最後まで御みまもりくださいますようお願い申し上げます

この年賀状から一年が立った一九五三(昭和二八)年の一月、逸枝の大著『招婿婚の研究』は大日本雄辯會講談社を版元として上梓されます。「奥付」の右隣りの頁に「著作目錄(女性史研究)」があり、以下のとおり記されていました。

著作目錄(女性史研究)
招婿婚の研究       A5判 一、二五〇ページ 新刊
母系制の研究       A5判   六五〇ページ 三版
古代女性史        着手中
封建女性史        豫定
現代女性史        豫定
平安鎌倉室町家族の研究  四〇〇字詰 二、〇〇〇枚稿本
日本古代婚姻例集     四〇〇字詰   八〇〇枚稿本
日本女性社會史      B6判   三一〇ページ 二版
戀愛論(歴史的考察)   B6判   三一〇ページ 二版
大日本女性人名辭書    A5判   七五〇ページ 三版
  (詩)
日月の上に(叙事詩)
東京は熱病にかゝつてゐる(叙事詩)
放浪者の詩
美想曲
胸をいためて

見てもわかりますように、「平安鎌倉室町家族の研究」および「日本古代婚姻例集」と同時に、いままさに執筆に入ったところの「女性の歴史」の通史もまた、書目として挙げられています。しかしながら、逸枝が亡くなるのは、逸枝にとっての最後の研究書となる『日本婚姻史』が世に出た翌年の一九六四(昭和三九)年六月です。結果として、「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」は出版に至らず、逸枝の死後、憲三の手に遺されたのでした。

存命中、逸枝は折に触れて憲三に、こんな話をしていました。

 「日記」一巻(『火の国の女の日記』)と追加研究一巻とができ上がったら、『過去の紙くず』は一切焼いてしまって、また新しい出発をしましょう。あたたかいところへ行って、そこで私は『女性の歴史』で書けなかった未来像を叙事詩のかたちで描くでしょう。たぶん私の最後の詩篇となるでしょう

「追加研究一巻」は、亡くなる前年に刊行された『日本婚姻史』を指すものと思われます。

道子は、『高群逸枝全集』の編者である憲三からおそらく聞き取ったにちがいない上の引用文に言葉を足して、さらに、こう述べています。

 過去の紙くずというのは、著書以外の、いくらか机辺にのこっている既発表ものの切り抜きをはじめ、未発表もののすべてを指していることはいうまでもありません。むろん私(編者)も同調しよろこんで、「そうしましょう」とこたえたものだった

「未発表もののすべて」のなかには、当然ながら、「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」が含まれます。もはやこれは、逸枝にとってみれば、「過去の紙くず」でしかありませんでした。

憲三は、こうした生前の逸枝の意向に従い、「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」のこのふたつの稿本については全集に収録しませんでした。採録しなかった理由について、憲三は、最終回の配本となった第七巻「評論集・恋愛創生」の「解題/編者」のなかで、次のように語っています。

 全集には、はじめ、もう一巻、「平安鎌倉室町家族の研究」を予定していたが、編纂の最終段階で検討の結果、この原稿には書き込みが非常に多くて接合不明の箇所なども少なくなく、ことに表類にいっそうその難があり、その他にも書き入れ指定が果たされていない等、そのまま活字製版に付することは可能でないため、やむをえず、これは除外されるにいたった。別に、「日本古代婚姻例集」の採録も一応考えられたのであったが、その成果の精髄は「平安鎌倉室町家族の研究」とともに「招婿婚の研究」に吸収されていることではあり、強いて採録するにもおよぶまいとして、同じく除外されることになった

逸枝にとっては「過去の紙くず」同然のものであり、憲三してみれば、「強いて採録するにもおよぶまいとして」『高群逸枝全集』から除外した、「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」が、それではなぜ、栗原弘と栗原葉子の校訂によって世に出ることになったのでしょうか。

以上のような背景を考えますと、『平安鎌倉室町家族の研究』(栗原弘校訂、国書刊行会、一九八五年)と『日本古代婚姻例集』(栗原葉子・栗原弘校訂、高科書店、一九九一年)のふたつの校訂本を手にしたとき、静子にも道子にも、強い驚きの情感が襲ってきたにちがいありません。しかし、静子も道子も、それについて何も語っていません。そこで、静子と道子が感じたであろうと思われる疑問や憤懣を、ここで整理し、ふたりに成り代わって、私が論じることにしてみたいと思います。問題点は、次の四点になろうかと考えられます。


(1)いかなる経緯をたどって、憲三が全集に入れなかった「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」の遺稿が、憲三の死後、「遺言による高群逸枝著作権継承者」10となっていた橋本静子から離れ、栗原弘と栗原葉子夫妻の手に渡ったのか。

(2)いかなる理由があって栗原夫妻は、未整理の下書きの段階にある原稿(「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」)を、つまりは、いまだ逸枝本人によって最終的な確定がなされていない原稿を「校訂」して世に出したのか。

(3)栗原弘と栗原葉子夫妻は、なぜ、高群逸枝の著作である「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」のふたつの稿本を校訂出版するに際して、「高群逸枝著作権継承者」である橋本静子に出版の内諾を得なかったのか。

(4)いかなる経緯をたどって、「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」のふたつの稿本は、栗原夫妻の手を離れ、熊本県立図書館(くまもと文学・歴史館)に所蔵されるに至ったのか。


それではこれより、これら四つの論点につきまして、順次考察を加えます。

まず、最初の論点についてです。

栗原弘は、自身が校訂した『平安鎌倉室町家族の研究』の「あとがき」において、その遺稿に接したときのことを、こう文字にしています。

 私が高群に傾倒したのは大学院に入学した頃であった。当時、私は女性史と民俗学に興味を持っていた。……村上[信彦]氏の力強い躍動的な筆致に感激し、高群の著作を次々に読み進み、『招婿婚の研究』を読み終えた。……ただその中で未完の『家族の研究』の存在を初めて知った。それから河野信子氏の御紹介を得て、橋本憲三氏を水俣に訪問することができた。昭和四十八年の初夏であった。高群逸枝雑誌編集室と称する倉庫の二階の一室で、橋本氏より白い厚紙で綴じられた分厚い四冊の稿本を見せていただいた。これが『家族の研究』であった。……私は橋本氏にお願いして『家族の研究』をコピーさせていただいた。私は、出版まで持って行きたい旨を橋本氏に伝えたが、もちろんその節に私が本気でやるとは橋本氏は思っていなかったであろう。この本について最も精通していた氏でさえ、出版をあきらめていたからである11

この「あとがき」によれば、栗原弘が校訂した『平安鎌倉室町家族の研究』は、「白い厚紙で綴じられた分厚い四冊の稿本」のコピーが底本となっています。ところが、それから六年後に出版された、栗原葉子と栗原弘のふたりの校訂になる『日本古代婚姻例集』の、栗原葉子の筆になる「あとがき」には、こうした文言が並べられているのです。

 私達は水俣の図書館で道を尋ねて高群のお墓を詣でたあと、憲三氏を訪ねたのだった。そのとき何を語ったのかほとんど記憶がない。ただ氏は、「革命はおきませんかネ」とつぶやかれた。倉庫の二階のその部屋にはベッドのうえに高群の大きな写真が飾られていて、氏の部屋の窓から逸枝の眠る山の中腹を望みながら「自殺しようとは思いませんが生き永らえようとも思いません」とおっしゃるような生活を送っておられた。憲三氏はその三年後の昭和五十一年死去された。七九歳であった。……
 氏の葬儀の後、憲三氏の令妹橋本静子さんから高群の未完の遺稿「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」、高群の使っていた書物十冊ほど遺品分けのように譲り受けた。他の遺品のほとんどを静子さんは水俣市の図書館に寄贈された12

ここで栗原葉子が明言しているのは、憲三の葬儀のあとに、逸枝の未完の遺稿「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」を妹の静子から遺品分けによって譲渡されたということです。果たしてこれは、真実でしょうか。

憲三が亡くなるのは、一九七六(昭和五一)年五月二三日です。翌日二四日の『熊本日日新聞』は、一五面で憲三の死去を報じ、「葬儀、告別式は本人の遺言で行なわない」と書きました。続いて、「故高群逸枝さん夫妻の遺稿 水俣市立図書館『淇水文庫』に寄贈」という記事が六月一日の四面を飾ります。そのなかで、淇水文庫に寄贈された遺稿の内容について詳報し、関連書物に関しては、「橋本さん自身の遺言もあって大部分の蔵書は高群さんを研究している早大文学部の鹿野政直教授などの研究者に渡される」と記されています。

先に書きましたように、栗原弘が校訂した一九八五(昭和六〇)年二月発刊の『平安鎌倉室町家族の研究』の「あとがき」には、手稿や図書の類の遺品を遺族から譲渡されたといった記載はいっさいなされていません。ところが他方で、その六年後の一九九一(平成三)年五月に発刊された、栗原葉子と栗原弘による校訂本である、『日本古代婚姻例集』の「あとがき」には、「氏の葬儀の後、憲三氏の令妹橋本静子さんから高群の未完の遺稿『平安鎌倉室町家族の研究』と『日本古代婚姻例集』、高群の使っていた書物十冊ほど遺品分けのように譲り受けた」と、書かれてあります。しかし、『熊日』の報じるところを参考にすれば、憲三の「葬儀」は行なわれなかったものと思われますし、したがいまして、葬儀後の、遺族や親近者が一堂に会しての「遺品分け」のような行事もなされなかったのではないかと思われます。それでは、栗原弘と栗原葉子の夫妻は、いつ、どこで、誰から、いかなる経緯のなかにあって「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」の遺稿を入手したのでしょうか。

それについて考えられる一例である、栗原弘校訂の『平安鎌倉室町家族の研究』(国書刊行会、一九八五年)においては、最初の水俣訪問のときにコピーしていた「白い厚紙で綴じられた分厚い四冊の稿本」が底本として使われ、一方、栗原葉子・栗原弘校訂の『日本古代婚姻例集』(高科書店、一九九一年)においては、『平安鎌倉室町家族の研究』の発刊以降、あるとき何らかのきっかけにより、第三者が所有していた「日本古代婚姻例集」の遺稿をもらい受け、それを底本として校訂作業が行なわれたとする、かすかな推論も、完全に否定することはできないかもしれません。もしそれが真実であれば、栗原葉子が『日本古代婚姻例集』の「あとがき」に書いている遺稿入手にかかわる文言は、真実を語っていないことになります。

そのような疑問が避けがたく生じるのは、さらに、こうした道子の言説が残されているからです。死期が近づくと、憲三は道子に、こう伝えました。

 遺言を静子にしたのですよ、元気なうちにしておいた方がよいのでね。もしや重態になっても誰にも知らせてはならない。旧友たちにも、身内にも。ましてジャーナリズムなどには。葬式などはいっさいしないこと、あなたも香典などもって来てはいけません。これは守って下さい。遺物などどこかに寄贈することも考えられるが、押しつけになるから一切を土に返すこと。それらいっさいを静子に託しました。あれは実行力がありますからね。……13

ここから判断しますと、遺言により、憲三の「葬儀」も、「遺品分け」のような儀式も、やはり行なわれなかったのではないかということです。もうひとつ道子の重要な証言が残されていますので、以下に引用します。

[橋本憲三先生]ご生前私は、彼女[高群逸枝]に関する資料をいただきたいとお願いしたことは一度もなかった。橋本先生ご死去の直前からそのあとにかけて、彼女の女性史研究の資料をめざして、多くの人たちが意思表示をはばからないのを知って、私はある困惑に包まれた。憲三先生が死の直前まで「彼女のゴミ類」を焼却しようとされ、妹の静子さんに実行させられたのは周知のことである14

道子の言説に従うならば、「橋本先生ご死去の直前からそのあとにかけて、彼女の女性史研究の資料をめざして、多くの人たちが意思表示をはばからない」、そうした状況のなかにあっての熱烈な希望者が、栗原弘と栗原葉子の夫婦だったのかもしれませんし、あるいは、別の第三者だったかもしれません。いずれにしてもそれは、道子を困惑させるものでした。そして道子は、「憲三先生が死の直前まで『彼女のゴミ類』を焼却しようとされ、妹の静子さんに実行させられたのは周知のことである」とも書きます。であるならば、おそらく憲三にとって、全集から外した「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」は、逸枝の「ゴミ類」にすぎず、遺言によりはっきりと憲三は、その焼却を静子に指示していたものと思われます。

一方、静子が、憲三の遺言に忠実な、しかも実行力のある「著作権継承者」であったことは、次の事例が証明します。

私は、本稿『余滴を集めて――石牟礼道子研究』の巻末に、「付録 三巻共通写真集――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」を付しています。そのなかに、「【図60】復刻版『女人藝術』における高群逸枝の『戀愛行進曲』の割愛案内文」があります。ここから、一九八六(昭和六一)年に龍溪書舎から刊行された『女人藝術』の復刻版においては、「著作権継承者の了解が得られませんでした」という理由により、逸枝が『女人藝術』に寄稿した文のすべてが削除されていることがわかります。すでに指摘していますように、静子自らが、自分のことを「遺言による高群逸枝著作権継承者」と書いていますので、『女人藝術』の復刻版が世に出るに当たって逸枝の文の掲載を見送る判断をしたのは、静子本人だったものと考えられます。

憲三の遺言書は現存していないようですが、おそらくそのなかに、『高群逸枝全集』以外の著作物は、今後いっさい人の目に晒してはならぬといったような指示がなされていたのではないかと想像されます。それであれば、どのような理由から、あるいは、どのようないきさつがあって、「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」の稿本は、栗原弘と栗原葉子の手に渡ったのでしょうか。不可解な謎としかいいようがありません。

このことに関連してあえて付け加えるならば、憲三の死去から五年後の一九八一(昭和五六)年に朝日新聞社から橋本憲三と堀場清子の共著になる『わが高群逸枝』(上下二巻)が出版されます。両巻の奥付には、コピーライト表示があり、そこには「© S. HASHIMOTO K. HORIBA 1981」と表記されています。ここから、橋本憲三の著作に関する版権の継承者もまた橋本静子であることがわかりますし、同時に、静子が、いかに著作物にかかわる権利関係を大事にしていた人物であったのかも、自然と浮かび上がってきます。

次に、二番目の論点である、本人にとって未確定の原稿である「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」が、なぜ、第三者によって出版に供されなければならなかったのか、この点につきまして、見てみたいと思います。

すでに指摘していますように、『招婿婚の研究』の巻末に設けられた「著作目錄」において、逸枝は、既刊図書とあわせて、次のように、この二冊の稿本をリストに挙げていました。

平安鎌倉室町家族の研究  四〇〇字詰 二、〇〇〇枚稿本
日本古代婚姻例集     四〇〇字詰   八〇〇枚稿本

ここから判断しますと、逸枝はこの二冊を、将来的には印刷に付し世に出したかったのではないかと推察することができます。しかし、これも、すでに引用によって示していますように、『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」には、『招婿婚の研究』が出版される当時にあって、『招婿婚の研究』執筆のための基礎調査であった、一方の「平安鎌倉室町家族の研究」については、「計約二千枚、これは後に『平安鎌倉室町家族の研究』と題された。カードのままの未整理分を加えて約五〇〇家族の調査だった」と、他方の「日本古代婚姻例集」については、「約八〇〇枚。後に『日本古代婚姻例集』と命名された。未整理分を加えて約一〇〇〇例の調査だった」と書かれています。ここから判断できることは、どちらの稿本も、「未整理」の状態にあったということです。その後、逸枝本人によって手が加えられ、最終の確定原稿になったことを示す記録はいっさい残されていません。憲三自身も、第七巻「評論集・恋愛創生」の「解題/編者」のなかで、実際にこのように語っています。あえて再度引用します。

 全集には、はじめ、もう一巻、「平安鎌倉室町家族の研究」を予定していたが、編纂の最終段階で検討の結果、この原稿には書き込みが非常に多くて接合不明の箇所なども少なくなく、ことに表類にいっそうその難があり、その他にも書き入れ指定が果たされていない等、そのまま活字製版に付することは可能でないため、やむをえず、これは除外されるにいたった。別に、「日本古代婚姻例集」の採録も一応考えられたのであったが、その成果の精髄は「平安鎌倉室町家族の研究」とともに「招婿婚の研究」に吸収されていることではあり、強いて採録するにもおよぶまいとして、同じく除外されることになった。

そしてまた憲三は、『高群逸枝雑誌』(第三号)に「平安鎌倉室町家族の研究」のなかのひとつの頁を、図版にして紹介しています。それは、本稿の巻末に付しています「付録 三巻共通写真集――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」において、「【図75】高群逸枝の原稿4/『平安鎌倉室町家族の研究』」として再掲しています。四百字詰め原稿用紙の余白いっぱいに書き込みや指示の矢印が入っています。見る限り、明らかに未完成の草稿段階にある原稿ですので、正確な判読は、書いた本人しかできないのではないかと思われますし、また未整理の原稿でもありますので、逸枝の存命中であれば、おそらく整理の段階で幾多の加除がなされていたにちがいないとも思われます。にもかかわらず、何ゆえに栗原は、「校訂」という手法にまかせて、躊躇することなく世に送り出したのでしょうか。著者である逸枝が生きてそれに立ち会っていれば、天地動乱の蛮行として、その目に映ったのではないかと愚考します。その思いは、憲三も同じだったものと思います。

次に、第三の論点についてです。なぜ、栗原弘と栗原葉子夫妻は、高群逸枝の著作である「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」のふたつの稿本を校訂出版するに際して、「高群逸枝著作権継承者」である橋本静子に出版の内諾を得なかったのでしょうか。

栗原弘が校訂した『平安鎌倉室町家族の研究』の「あとがき」にも、それから六年後に出版された、栗原葉子と栗原弘が校訂した『日本古代婚姻例集』の「あとがき」にも、出版に当たって橋本静子に了承を得たことを示す文言はありません。前者の「あとがき」に、「末筆ながら、水俣では橋本静子、田島美江子両氏に大変お世話になった」とありますが、これは、裏を返せば、水俣から帰ったのちの校訂の作業中、静子との交流が全く途絶えていたことを示唆します。また、後者の「あとがき」には、「昭和五十八年に死去された村上信彦さんにも感謝の意を述べたい。幾度か下さった親身溢れるお手紙は私達にとって大きな精神的支柱となった。またこの書の出版は橋本静子さんの全面的なご好意によって可能となった。改めて感謝したい」という文言はありますが、村上信彦からの「親身溢れるお手紙」の内容につきましては、いかなる言及もなされていませんし、静子が示した「全面的なご好意」の具体的内容につきましても、いっさい何も触れられていません。したがって、それが何を意味するのかは不明です。謝意を伝える順番から判断しても、栗原夫妻にとっての静子の位置づけは、「親身溢れるお手紙」の送り主である知人の村上信彦よりも低かったことがわかります。もし仮に、出版の許可を「高群逸枝著作権継承者」である橋本静子に事前に願い出ていたとすれば、おそらく静子は、『女人藝術』復刻版刊行のときと同じように、それを拒否したであろうと、私は思料します。

いまだ、著者である逸枝の死亡から『平安鎌倉室町家族の研究』の出版まで二一年、同じく『日本古代婚姻例集』の出版まで二七年しか経過していませんので、おそらく版権は切れていなかったものと思われます。しかし、両校訂書の刊行に際しては、版権が切れていると一方的に思い込み、そのため版権所有者の承諾は不要との判断があったかもしれません。たとえ仮にそうであったとしても、この遺稿が、「遺品分けのように譲り受けた」ものであってみれば、法的問題のみならず、道義上の問題としても、事前に遺族に出版の了解を得、そのことを「あとがき」において明記してもよかったのではないかとも思料します。因みに、『平安鎌倉室町家族の研究』の奥付には、コピーライトの表示はありません。一方、『日本古代婚姻例集』の奥付には、「©校訂者 栗原葉子 栗原弘」と記載されています。この表示は、明らかに校訂者の両名が版権を所有していることを示します。すでに紹介していますように、憲三の死後、憲三と堀場清子の共著である『わが高群逸枝』(上下二巻)が出版されるに当たっては、奥付に、「© S. HASHIMOTO K. HORIBA 1981」とのコピーライトにかかわる表示がありますので、それと比べれば大きな違いが存在していることがわかります。したがいまして、これもまた、私には大きな不明点として残ります。

少し想像してみます。遺族で「著作権継承者」である静子が、『平安鎌倉室町家族の研究』と『日本古代婚姻例集』の出版に接したとき、どのような思いに駆られたでしょうか。誰も望んでいないことを人知れず実行に移すおぞましさに驚愕したにちがいありません。いやむしろ、いまだ「ゴミ類」として焼却していなかった自分を責めたかもしれません。

「森の家」で生前憲三は道子に、「彼女にいわせれば紙クズ。彼女によって否定されたものを全集にとりあげることは、彼女をはずかしめ、僕もはずかしめを受ける」15と語っていました。憲三が全集に取り上げなかった「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」が世に出たことによって、遺族で「著作権継承者」である静子もまた、「はずかしめを受ける」事態へと陥ったのではないかと愚考します。

参考までに、逸枝作品の校訂本が、いまひとつありますので、ここで、コピーライトの表示の仕方、および、「あとがき」における静子への敬意の表わし方につきまして、見てみたいと思います。この本は、一九一八(大正七)年に、二四歳の逸枝がおよそ半年をかけて四国巡礼の旅に出かけたときに、旅先から『九州日日新聞』に寄稿した連載物を再整理したもので、堀場清子を校訂者として一九七九(昭和五四)年一月に朝日新聞社から刊行された『娘巡礼記』です。この校訂本の奥付を見ますと、「©1979 S.Hashimoto」と明記されており、版権所有者が「橋本静子」であることがわかります。また、校訂者の堀場清子は、この本の「あとがき」に、次のように書いて、静子への敬意を表わしました。

 最初の旅から六十年をへだてて、ふたたび逸枝の旅立ちの朝がきた。専念寺の和尚さんや桶屋の夫婦のうしろに立って、私も見送りの仲間に入る。高群夫妻にとって無二の理解者であり応援者であられた橋本静子氏の、よろこびに満ちた顔も、もとよりそこにある。
 笠の紅緒の紐をしめ、馴れない草鞋を踏みしめながら、いま逸枝は専念寺のかわいい山門をくぐる。あらたな読者の魂をたずねて、八十八ヵ所をめぐる巡礼娘の旅よ、さきくあれ16

ここに、校訂者である堀場の、静子に対する、そして逸枝に対する、溢れんばかりの愛情を感じ取ることができます。栗原弘の校訂本である『平安鎌倉室町家族の研究』の「あとがき」における、もうひとつの栗原葉子と栗原弘による校訂本である『日本古代婚姻例集』の「あとがき」における、静子への言及は、すでに上で紹介していますので、読み比べればわかりますように、堀場のそれとは明白な差があります。これは、栗原弘と栗原葉子の、静子との距離感が、いかに希薄なものであったかを例証します。しかし、それは校訂者としての個人の資質なり感性なりの問題であり、ここでそれについて何かを述べるつもりはありません。しかし、コピーライトの表示の問題は、版権が誰の手にあったのかを示す、法律的にも極めて重要な意味をもちますので、あえてここで問題にしたく思います。

繰り返しになりますが、問題点を整理します。憲三が亡くなるのは、一九七六(昭和五一)年五月です。そのとき、憲三の遺言により、妹の橋本静子が「高群逸枝著作権継承者」になります。それから三年の歳月が流れ、堀場清子校訂の『娘巡礼記』(朝日新聞社、一九七九年)が、その六年後に、栗原弘校訂の『平安鎌倉室町家族の研究』(国書刊行会、一九八五年)が、さらにそれから六年が過ぎて、栗原葉子・栗原弘校訂の『日本古代婚姻例集』(高科書店、一九九一年)が刊行されます。静子が亡くなるのは、二〇〇八(平成二〇)年四月です。したがいまして、これら三冊の校訂本は、静子存命中の刊行となります。

同様に、これもすでに言及していますように、『娘巡礼記』におけるコピーライトの表示は、「©1979 S.Hashimoto」です。『平安鎌倉室町家族の研究』にはコピーライトの表示は何もありません。『日本古代婚姻例集』におけるコピーライトの表示は、「©校訂者 栗原葉子 栗原弘」です。私は、『娘巡礼記』におけるコピーライトの表示が、最も適切な表記の仕方であると考えます。続く『平安鎌倉室町家族の研究』になぜコピーライトの表示がないのか、私には理解できません。他方、『日本古代婚姻例集』におけるコピーライトの表示が「©校訂者 栗原葉子 栗原弘」となっていることから推察しますと、このときまでに著作権が、「橋本静子」から「栗原葉子と栗原弘」に移ったように解釈できます。しかしながら私は、兄から譲り受けた、高群逸枝の著作に関する権利を、全くの赤の他人に静子が譲渡したとは、どうしても考えることができません。そのことを示す資料も、探す限りにあって、見当たりません。なぜ、著作権を巡ってこのような現象が起こったのでしょうか。私には、どうしても不可思議に思えてなりません。

それでは、このふたつの稿本は、その後、どのような運命をたどることになるのでしょうか。現在、この稿本はともに、熊本県立図書館(くまもと文学・歴史館)に所蔵されています。最後になりますが、これが、四番目の論点になります。

現在、熊本県立図書館のホームページにアクセスし、「くまもとデジタルギャラリー」の検索画面に「高群逸枝」の文字列を入力しますと、「くまもと文学・歴史資料館セレクション」三点が表示されます。そのうちのひとつが、「平安鎌倉室町家族の研究」で、閲覧できる一点の画像は、藤原冬嗣にかかわるおそらく最初の頁であろうと思われます。そこで、熊本県立図書館に問い合わせのメールをしました。このときの交信内容は公的利益にかなうものであるため、今後の公開にかかわって事前に相手先に通知をしていますので、それに従いその一部を、ここに書き記します。


(一)中山修一からくまもと文学・歴史館への質問第一信(二〇二四年一一月六日)

現在私は、ウェブサイトで公開しています「中山修一著作集」の第一八巻「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」を書いています。つきましては、「くまもとデジタルギャラリー」にあります、くまもと文学・歴史館資料コレクション「高群逸枝原稿 平安鎌倉室町家族の研究」(四綴)につきまして、以下にお尋ねいたします。

(1)この資料の入手経緯(入手時期や寄贈者名等)につきまして、そちらの記録に残っている範囲で結構ですので、ご教示ください。
(2)この資料は、栗原弘校訂『平安鎌倉室町家族の研究』と完全に一致しているかどうか、わかる範囲で結構ですので、ご教示ください。
(3)この資料は、いつでも自由に閲覧できるものなのか、もしそれが可能な場合、閲覧場所はどこなのかもあわせて、ご教示ください。

以上、三点をお尋ねいたします。お手数をおかけいたしますが、お返事をちょうだいできれば、うれしく存じます。ご高配にあずかりますよう、なにとぞよろしくお願い申し上げます。


(二)くまもと文学・歴史館から中山修一への返信第一信(二〇二四年一一月七日)

この度は、当館のHPをご覧いただき有難うございます。当館所蔵資料「高群逸枝原稿 平安鎌倉室町家族の研究」に関する、ご質問につきましては、以下のとおりです。

(1)入手経緯についてですが、この資料は平成七年(一九九五年)に当館に御寄贈頂きました。御寄贈者様につきましては、御容赦ください。
(2)原稿全てについての校訂を確認してはおりませんが、一致しているものと考えております。
(3)恐れ入りますが、自由閲覧とはなっておりません。研究目的に限りご利用可能で、まず「申請書」(別紙参照)をご送付いただく必要がございます。(申請いただいた後、お時間を頂戴いたします。)また、閲覧に関しましては、紙質等の研究などの現物でなければならない理由がない限り、画像での御提供(閲覧)となります。

色々と制約がございますが、資料保護等の観点から、ご理解いただきますようお願いいたします。閲覧のご希望等ございましたら、再度ご連絡頂きますようお願いいたします。


(三)中山修一からくまもと文学・歴史館への質問第二信(二〇二四年一一月八日)

さっそくのご回答、ありがとうございました。これに関連しまして、さらに以下に四点、ご質問させていただきます。

(1)貴館に所蔵されています当該資料「平安鎌倉室町家族の研究」は、真正の実物でしょうか、それとも、複写物を製本したものでしょうか。
(2)ご承知かと存じますが、当該資料のほかに、高群逸枝の遺稿をのちに校訂して出版されたものに、『日本古代婚姻例集』があります。こちらの手稿本も、当該資料「平安鎌倉室町家族の研究」とあわせて、貴館に所蔵されていますでしょうか。
(3)「御寄贈者様につきましては、御容赦ください」とのご回答ですが、そちらの公的記録には、寄贈年月日とともに、寄贈者名が明記され残されていますでしょうか、それとも、寄贈年月日のみで、寄贈者名は残されておらず、現在まで「寄贈者不明」として取り扱われているのでしょうか。
(4)当該資料は特別な理由がない限り、「画像での御提供(閲覧)」とのご回答ですが、「画像」とは、いまそちらのHPで公開されています一枚の画像を指しますか、それとも、全頁を画像として閲覧ができるような状態になっているのでしょうか。もし後者の場合でしたら、国立国会図書館が提供していますデジタルコレクションに準じて、個人送信によって個々人のPCにおいて閲覧が可能となるシステムになっているとありがたいのですが、そのようになっていますでしょうか。

以上、四点につきまして、ご質問させていただきました。お忙しいなか、誠に恐縮に存じますが、ご高配にあずかり、お返事をいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。


(四)くまもと文学・歴史館から中山修一への返信第二信(二〇二四年一一月一三日)

当館へお問い合わせいただき有難うございます。お尋ねのことにつきましては、以下の通りです。

(1)「平安鎌倉室町家族の研究」は実物を所蔵しております。
(2)「日本古代婚姻例集」につきましても当館で所蔵しております。
(3)寄贈者様につきましては、個人情報の観点から公表しておりません。御了承下さい。
(4)「画像での御提供(閲覧)」についてですが、資料全ての画像について閲覧が可能です。当館での閲覧サービスにつきましては以下の二点での御提供となります。
ア、当館にお越しいただき、画像をご覧いただく。
イ、当館にDVDと返信用封筒(DVDの枚数や、送料は利用者様ご負担)をお送りいただければ、データをこちらで入力しご返送いたします。
 但し、どちらの場合も、申請書(アとイでは申請書様式が違います。)が必要です。また、申請書到着後二週間程度のお時間を頂戴することがあります。ご了承いただきますよう、よろしくお願いいたします。

資料の閲覧等ございましたら、再度ご連絡いただければ幸いです。
 

以上が、「平安鎌倉室町家族の研究」に関する、熊本県立図書館(くまもと文学・歴史館)との交信内容の一部です。ここからわかることは、「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」の双方の真物を熊本県立図書館(くまもと文学・歴史館)が所蔵しているも、その入手経路は公開できないということです。栗原夫妻から熊本県立図書館へ渡った経緯を想像すれば、おおかたその可能性は、次の三つになるのではないかと思われます。ひとつは、両人が直接当該図書館に寄贈した、もうひとつは、両人が第三者に譲渡し、その後その人物が当該図書館に持ち込んだ、さらにもうひとつは、両人が古書店か古物商に売却し、それを当該図書館が購入した、以上の三つです。

さて、『平安鎌倉室町家族の研究』の「あとがき」において、校訂者の栗原弘は、こう書いています。

校訂内容は時間をかけておれば優れているということにはならない。けれども、私としては高群の著作の信用を落さないように出来る限りの努力はしたつもりである。それでもどこかに校訂ミスがあるのではないかと恐れる。その場合は後日訂正しなければならないので読者の御教示をお願いしたい17

もし、校訂ミスが見つかり、その場合には訂正しなければならないという自覚が本当にあるのであれば、研究者たる校訂者が校訂に使った原本である手稿本をやすやすと手放すことはないのではないかと思われます。熊本県立図書館(くまもと文学・歴史館)からの回答にあるように、寄贈されたのが間違いなく一九九五(平成七)年であったとするならば、県立図書館への帰属替えは、『平安鎌倉室町家族の研究』が世に出て一〇年後、『日本古代婚姻例集』が世に出て四年後に行なわれたことになります。なぜ栗原は早々に原本を手放し、将来発生する可能性のある「訂正」という重要な責務を放棄してしまったのでしょうか。これにつきましても、私の目には大きな疑問として映ります。

さらにそれに加えて、私は、こうした疑問ももっています。すでに引用によって示していますように、『日本古代婚姻例集』の「あとがき」において、校訂者のひとりである栗原葉子は、「氏の葬儀の後、憲三氏の令妹橋本静子さんから高群の未完の遺稿『平安鎌倉室町家族の研究』と『日本古代婚姻例集』、高群の使っていた書物十冊ほど遺品分けのように譲り受けた」と書いています。人は、「遺品分けのように譲り受けた」、いわば、亡くなった者を偲ぶよすがとなる形見の品を、自身の手もとにあって長く大切に保有することなく、かくもやすやすと他人に手渡すことが本当にできるものなのでしょうか。私の個人的心情からすれば、決して納得のゆくものではありません。

以上、「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」の逸枝の遺稿が、校訂本として世に出た経緯にかかわって、私の個人的視点から考察しました。おそらく、静子も道子も、完全にとはいわないまでも、私とある程度重なる思いを抱いたのではないかと思料します。その判断が正しければ、その思いには、栗原夫婦への強い不信なり不満なりが含まれていたものと推量します。

(1)石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、58頁。

(2)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、180頁。

(3)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、181頁。

(4)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。

(5)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、350-351頁。

(6)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、368-369頁。

(7)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、39頁。同様の記述を、次の資料に見出すことができます。『高群逸枝全集』第七巻/評論集・恋愛創生、理論社、1967年、372頁。

(8)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。同様の記述を、次の資料に見出すことができます。『高群逸枝全集』第七巻/評論集・恋愛創生、理論社、1967年、372頁。

(9)『高群逸枝全集』第七巻/評論集・恋愛創生、理論社、1967年、372頁。

(10)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、3頁。

(11)高群逸枝著、栗原弘校訂『平安鎌倉室町家族の研究』国書刊行会、1985年、1093-1094頁。

(12)高群逸枝編、栗原葉子・栗原弘校訂『日本古代婚姻例集』高科書店、1991年、i頁。

(13)前掲「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、56-57頁。

(14)石牟礼道子「夢の中のノート」『毎日新聞』(夕刊)1979年10月17日、3面。

(15)石牟礼道子「最後の人 第六回 序章 森の家日記6」『高群逸枝雑誌』第6号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1970年1月1日、28頁。

(16)高群逸枝著・堀場清子校訂『娘巡礼記』朝日新聞社、1979年、270頁。

(17)前掲『平安鎌倉室町家族の研究』、1096頁。