中山修一著作集

著作集29 余滴を集めて――石牟礼道子研究  石牟礼道子小伝――「最後の人」との契りから道行きまで

第八部 再び苦界に落とされる静子と道子

第一九章 栗原弘の「逸枝著作の改竄説」とそれへの道子の反論

栗原葉子と栗原弘のふたりの校訂になる『日本古代婚姻例集』が高科書店から刊行されてから三年が経過した一九九四(平成六)年の九月、同じ版元から栗原弘の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』が世に出ました。著者の栗原弘は、その「はしがき」において、こう述べています。

 高群逸枝は『母系制の研究』『招婿婚の研究』という大著を発表し、日本の原始古代社会に母系制が存在し、女性の地位が高かったことを主張した。今日、この高群学説には批判と賛同が複雑に交錯し、どちらかといえば、批判の方が多いといえるであろう。しかし、婚姻史・女性史の分野では今なおその影響力は少なくないといえる。筆者は大学院生の頃、村上信彦の論文に影響を受け、高群学説に傾倒した。その当時は、同学説が正しいと信じて二、三の論文を執筆した。その後、高群の遺稿『平安鎌倉室町家族の研究』と『日本古代婚姻例集』の出版にたずさわり二著を世に送り出した。二著は、高群学説の実証部であった。筆者は二著の校訂作業の過程で、高群学説の実証には根本的な誤りがあることに気付いた

「筆者は大学院生の頃、村上信彦の論文に影響を受け、高群学説に傾倒した。その当時は、同学説が正しいと信じて二、三の論文を執筆した」と、栗原は書きます。その論文には、『高群逸枝雑誌』の二九号、三〇号、および三一号に掲載された「柳田国男の婚姻史像」も含まれるものと思われます。自身が書いているとおり、当時栗原は、明らかに、「高群学説に傾倒した」人物だったのです。

憲三の死によって、この雑誌は、三一号で事実上の廃刊となります。しかし、もろさわようこの「高群逸枝」を読んだ静子はその反論の場として、道子の協力を得て、『高群逸枝雑誌』を復刊したのでした。三二号となる終刊号の「編集室メモ」のなかで、ただひとりの同人であった道子は、この雑誌を振り返って、「この間、村上信彦氏を始め、河野信子、石川純子、西川祐子、栗原弘、寺田操諸氏の御高作を頂くことが出来たのは、甲斐ない同人の慰めであった」と書きます。

ところが栗原は、「その後、高群の遺稿『平安鎌倉室町家族の研究』と『日本古代婚姻例集』の出版にたずさわり二著を世に送り出した。二著は、高群学説の実証部であった。筆者は二著の校訂作業の過程で、高群学説の実証には根本的な誤りがあることに気付いた」と、書き記したのでした。『平安鎌倉室町家族の研究』と『日本古代婚姻例集』の遺稿がどのような経緯で静子の手を離れ、出版されるに至ったのか、その経緯の不明瞭さもさることながら、「二著の校訂作業の過程で、高群学説の実証には根本的な誤りがあることに気付いた」という言葉が目に飛び込んできたとき、おそらく道子は、仰天したものと想像されます。この変節は、一体何に由来するのか、これも想像するしかありません。純粋に研究遂行上のひとつの到達点だったのかもしれませんし、疑うわけではありませんが、何か別に隠された意図があったのかもしれません。

栗原弘の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』の「はしがき」は、さらに次のように続きます。

 高群学説の誤謬には洞富雄から鷲見等曜まで、実にさまざまな批判が行われてきた。筆者はそれらの多くが正しいことが理解できるようになった。しかしながら、従来の批判は、彼女がひたすら真実を追求した結果が不幸にも誤っていたとする見解に立っていたと思われる。ところが、筆者の追調査によれば、高群学説の誤謬は彼女の極めて意図的な操作改竄の産物であったことを確信するに至った

このなかで、先行する高群史学の批判書として栗原が言及しているのは、洞富雄の『日本母権制社会の成立』(淡路書房、一九五七年)と鷲見等曜の『前近代日本の家族の構造――高群逸枝批判――』(弘文堂、一九八三年)であると思われます。このふたつの書物は、専門書であったこともあり、静子と道子の目に留まらなかった可能性がありますが、栗原の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』は、地元紙である『熊本日日新聞』の書評で取り上げられ、評者が、逸枝の書は「極めて意図的な操作改竄の産物」であるとする著者の知見に言及していたこともあり、大きな驚きのなかにあって、おそらく静子も道子も、この書評を読んだものと思われます。

書評の執筆者は、かつての『高群逸枝雑誌』への常連寄稿者であった、女性史研究家の河野信子でした。そのなかで河野は、この『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』を、次のように紹介しました。「高群逸枝の著作たちには魔力がある。読み始めたら、やめられなくなるのである。大著『招婿婚の研究』もまた例外ではない。本書はこの『招婿婚の研究』を〈だまし絵つき一大叙事詩〉とみなして、このだまし絵の図(だまし絵には地=ぢ=と図があって、そのいずれをとるかによって、人はそれぞれに異なった見解をもつ)を綿密に累積する手法で解析したものである」。続けて河野は、本書の特徴と、それが歴史学に及ぼしている影響について、以下のような見解を示します。

 『日本霊異記』『今昔物語』『蜻蛉日記』をはじめとする数多くの文献史料の検討を経て、高群型抽出法には、ただの〈うっかりミス〉でない「意図された」抽出加工法が使われているといった結論を、栗原氏は提示した。……
 本書は、母系反証の書というよりは、史料の密林のなかの抽出法検証としてのまとまりを持ったものである。だが、本書の図もまた反証法のスタイルをとっているために、既に女たちのなかから、栗原氏の反証に対する反証といった、反例探しがはじまっている

それでは、『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』には、どのようなことが具体的に書かれてあったのでしょうか。その内容の中心となる部分を、幾つか以下に引用します。著者は、次のように、高群史学が「整然とした誤謬・・・・・・・」によって成り立っていることを説きます。

このように、高群が、事実に反して、妻方提供型を主流として描いたことによる誤謬・説明不足には、実に明快な法則性がみられる。
  婚姻の前半期(詳述)  婚姻の後半期(略述)
  外祖父と外孫(詳述)  祖父と内孫 (略述)
  母子関係  (詳述)  父子関係  (略述)
  両親と娘  (詳述)  両親と息子 (略述)
  夫と妻方  (詳述)  妻と夫方  (略述)
  家の女系伝領(詳述)  家の父系伝領(略述)
右のように、極めて意図的に、一方に偏った叙述構成となっている。このような「整然とした誤謬・・・・・・・」こそ、高群自身が、自身の誤謬を認めていた、動かぬ証拠というべきである。意図の内容を一語でいえば、族制上の非父系的(高群によれば母系制)側面を前面に押し出して、父系的側面を無視したわけである

それでは、こうした「整然とした誤謬・・・・・・・」は、いかなることが原因となって生じたのでしょうか。高群史学にあっては、「男性史から女性史を自立させ、女性解放の歴史的根拠を打ち立てることが目標とされていた」とみなす著者は、「整然とした誤謬・・・・・・・」の発生要因を、自身が抱く「理想」を優先させ、見出した「史実」を隠蔽したことに求めようとします。

 以上のような前提に立脚する高群の歴史研究は、避けて通ることができない難問を内包していた。一方で極めて実証的な作業を行いつつ、他方では、立証不可能な理想像を追い求めていたからである。ここでは、理想像への憧憬の強さが、客観的事実における整合性の範囲を逸脱し、過去の史実を改変させる危険性が内在していた。すなわち、高群史学とは、女性に関する歴史を、冷静にみようとする存在史ではなく、女性に生きる希望を与えることを使命とした当為史であったと言えよう。ここに、高群史学の特質(生命)があり、また問題点もあったのである。高群が、歴史研究の全生活中で、最大のエネルギーを投入したのが、五〇〇家族の調査であった。ところが、高群は、五〇〇家族の数量的分析結果をどこにも発表していない。五〇〇家族という膨大な事例を婚姻形態に分類し、それを各時代別に数量的に示せば、読者には、各時代の婚姻居住形態が一目瞭然で理解されるはずである。しかし、高群は、それらの正確な調査結果の報告を、明らかに拒否している。理由は、はっきりしている。高群が発見した史実・・と彼女の理想・・とが、齟齬していたからである

こうして著者の栗原弘は、高群女性史学に「意図的な操作改竄」あるいは「整然とした誤謬・・・・・・・」という烙印を押したのでした。

一九九四(平成六)年の九月に『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』が刊行されると、学問の世界へとその影響は広がってゆきました。その一例を、翌年(一九九五年)一〇月に福岡市女性センター「アミカス」を会場に比較家族史学会との共催によって開かれたシンポジウム「『国家』と『母性』を超えて――高群女性史をどう受け継ぐか」に求めることができます。発表者は、石牟礼道子、栗原弘、西川祐子の三人で、司会を上野千鶴子が務めました。

道子は、このとき栗原と西川と対峙します。おそらく複雑な思いがあったものと想像されます。といいますのも、一五年前に刊行された『高群逸枝雑誌』の終刊号(三二号)の「編集室メモ」において道子は、繰り返しの引用になりますが、「この間、村上信彦氏を始め、河野信子、石川純子、西川祐子、栗原弘、寺田操諸氏の御高作を頂くことが出来たのは、甲斐ない同人の慰めであった」と書いていたからです。

道子の心中には、栗原の豹変にかかわって驚きと怒りが渦巻いていたものと推量します。加えて、前の第一八章「二冊の逸枝の校訂本の発刊と著作権者としての静子の立場」で言及していますように、栗原夫婦による二冊の校訂本の刊行についても、少なからず不信と不満をもっていたにちがいありません。また、第一五章の「道子の瀬戸内小説への反論文『本能としての詩・そのエロス』」において示していますように、自著の『森の家の巫女 高群逸枝』のなかで、松本正枝の言説を評価し、市川房枝の言動を暗に支持していた、もうひとりの発表者である西川祐子についても、道子は、それ相応の不快感を抱いていたにちがいありません。その意味で、このシンポジウムは、道子にとって一種の修羅場だったのでした。

各自の当日の発言内容をまとめた、このシンポジウムの報告書は、一九九七(平成九)年三月に、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)として、早稲田大学出版部から公刊されました。そのなかに、道子の「表現の呪術――文学の立場から――」を見ることができます。そこに、「当日のレジュメ」も再掲載されており、道子は、その冒頭に、こう書いています。

 かの有名な、
 われ日月の上に座す
 詩人 逸枝
というのを、まだわたしは読めていないと近頃思う。栗原弘氏の提出された、高群逸枝の歴史改竄説以来、結構このあたりでも、藪の賑わいが聞こえてくるからである。逸枝の業績を一瞥もしないで「やっぱりそうか」と鬼の首でもとったような揶揄が聞こえてくるけれども、もとよりそれは栗原氏の望まれることではあるまい。私は、壮大な仮説の古典として高群史学を読みたい

当日の道子の実際の発言がどうであったのかは再現できませんが、その後に起稿した「表現の呪術――文学の立場から――」のなかから幾つか以下に引用して、「高群女性史をどう受け継ぐか」という主題に対しての道子の考えを探ってみることにします。道子は、どのような観点に立って、栗原の説く「意図的な操作改竄」から逸枝を救済したのでしょうか。まず道子は、「詩人としての逸枝」について言及します。

 栗原さんから投げかけられました高群さんの歴史歪曲説は大変ショックでございます。……
栗原説の事件で、わたくし、はっといたしましたのは、かの有名な、
 汝洪水の上に座す神エホバ
 われ日月の上に座す詩人逸枝
という詩を若年の折に、発表致しまして、大方の顰蹙を買いました。……
 詩人、芸術家というものは、その現身は世俗の中にあるほどに、巷を歩けば千の矢が飛ん来るという事も作品に書き付けております。そういう風にしか生きられないのが詩人ではないでしょうか。……
同時代の詩人たちにくらべて、熊本時代も処女詩集の時代も『婦人戦線』のときも、異性との家出事件も、「森の家」も、終始一貫、彼女は、一般社会からみれば、異様で、エキセントリックで、トラブルメーカーでさえありました10

次に道子は、「詩から学問へ」という文脈で、逸枝の業績を語ります。

詩というものは、その世に対して即効的で有効性のあることをいえるわけではない。表現と言うのはそういう宿命を持っています。ですから、その詩は、一種、呪術的に成らざるを得ない。古代呪術の力をもった詩人が希にいます。学術論文でそれをやろうとして、人跡未踏の女性史というものに取り組んだ時、彼女の内なる詩は点火されて……鳥瞰的な表現を幻視したのではないか。そういう欲求がせめぎ合ったのではないか。……
高群さんは、こうあって欲しいという女たちの国を最高に良い形で作り上げてみせる、という詩と学問との刺激的調和を、誰も書いた事のない、一種の飛躍的新世界。神話劇みたいな大叙事詩を書こうとする衝撃が、噴火状態になって出てきたのだと思います。そのとき、彼女にはやはり歴史上の女たちが乗り移って、心象世界の核に成ったのだと思います。
 そうすると、今まで調べてきた平安・鎌倉・室町の五百家族、藤原氏の日記の全部を読破するということで蓄積してきた資料の中から、彼女の詩的な欲求に応じて、資料の方が波頭を立てて彼女と呼応したのだと思います11

このように道子は、まず最初に詩人の幻視があり、次に史料から聞こえてくる歴史上の女たちの声に耳を傾け、最終的にそれを歴史的時間軸に並べ直し全体が俯瞰できるようにしたものが高群史学ではないかと、いうのです。栗原学説が、「意図的な操作改竄」という用語を使って高群史学を否定的にみなしたのに対して、明らかに道子は、それを肯定的にとらえ、詩人のもつ創造的エネルギーの産物として理解したのでした。果たして逸枝は、日本史学上の「ペテン師」ないしは「犯罪者」だったのでしょうか。それとも、女性史という新しい学問の「創造主」ないしは「預言者」だったのでしょうか。道子は、憲三の言葉を紹介して、このようにまとめます。

 橋本憲三先生は、常々、「あなたは、高群逸枝を信じなさい」とおっしゃっていました。私が聞こうとすると、早くも察知されて、「信じなさい、マルクスが、初期の頃に、人類の精神の富ということをいいましたが、高群が定説化した女性の為の精神の富は、みんなで、実らせて行く価値があるとぼくはおもいます。だから信じなさい」、といわれたことが、今思い当たります。その後、私は、水俣の事情とか、視力の事情とかがあって物理的に時間がとれなくて、勉強ができていませんが、今までやれずに来たのも幸運と思います。皆さんの実りのある研究成果を頂戴する事ができて、有難いと思っています12

それでは最後に、再び「当日のレジュメ」から一節を、少し長くなりますが、引用します。といいますのも、これが、このシンポジウムにおいて、道子が最もいいたかったことではないかと、推量するからです。

 人跡未踏であった女性史の原野にわけ入るのに、地母神たちの力に押されて、伏在する女たちの意識の総体に言葉を与えてきた逸枝を読みたいと思う。誰がこのことをなしえたろうか。壮絶である。お手本はなかった。創りあげてゆく仕事だった。創作というより創造であった。国づくりでさえあった。その体系は自ずから鉱脈の露頭がつながるようにあらわれたのではないだろうか。彼女自身「ボダ」をかぶりながらの仕事である。「一坑夫」の仕事だと謙遜している。
 学問的業跡というものは、いつかは乗り越えられる運命にある。そして学問というものは、乗り越えられてこそ意味があるのではないだろうか。しかしながら、あとからあとから出現する学説が流砂のように去ったあと、その流砂に洗われて、古典となって発光しながら横たわる作品もある。
 書かれる前から高群逸枝は古典として出現したのだった。それゆえ、稀なる介助者があらわれた。夫妻の業跡の意味を私はそうとらえたい。二人を洗う歳月の砂は、むしろ必要なのである13

道子の「表現の呪術――文学の立場から――」が所収された『ジェンダーと女性』が発刊されたのは、一九九七(平成九)年の三月一〇日でした。逸枝が亡くなって三三年の歳月が、そして憲三が亡くなって二一年の月日が、そろそろ流れようとしていました。発刊の翌日、道子は七〇歳の誕生日を迎え、それからおよそ四箇月が立った七月二五日に、静子は八六歳になりました。この間道子は、決して変わることなく、憲三については「先生」の敬称をつけて「橋本憲三先生」と書き、他方で、道子と憲三の契りの「立会人」となった静子をしっかりと支えました。おそらく道子は、一部この本を静子に献呈したにちがいありません。そのなかに見出した、「書かれる前から高群逸枝は古典として出現したのだった。それゆえ、稀なる介助者があらわれた。夫妻の業跡の意味を私はそうとらえたい。二人を洗う歳月の砂は、むしろ必要なのである」という道子の予言に、静子は、何かこころが洗われる思いをもったのではないかと推量します。

さてそこで、一方に『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』における栗原の「意図的な操作改竄」説を、そしてもう一方に「表現の呪術――文学の立場から――」における道子の「詩と学問との刺激的調和」説を置き、少しここに私見を述べてみたいと思います。

高群史学の革新的なところは何でしょうか。逸枝の関心は、かつてこの日本という国に、「母系制」は存在していたのか、また、「招婿婚」は存在していたか、その有無を見極めることにありました。といいますのも、その存在が実証できるならば、長い歴史のなかにあって、ある時期、女性が中心となって生き生きと暮らしていた時代があったことが判明するからです。そのことが明らかになれば、女性中心の時代から、女性を抑圧する男性中心の時代へ移行し、いまや、それに異を唱える女性解放の時代へ入っているという、女性の生活にかかわる全体的通史の記述が可能になります。実際逸枝は、『母系制の研究』において「母系制」の存在を、『招婿婚の研究』において「招婿婚」の存在を、歴史的な文献資料に基づいて発掘し、その発掘された知見を全面に押し出して、その後、全四巻からなる『女性の歴史』を世に問うたのでした。こうした逸枝の一連の著作によって、この国における女性史学の幕が上がり、ここに高群史学の学問上の革新的意義がありました。

それではここで、上で記述した内容にかかわって、それを例証するうえでの、逸枝自身の発話内容を、三点引いておきます。

マグレナン、モルガン等の説では、古代の雑婚時代には、人は母あることを知っても父あることは知らない。これが母系の淵源であるというのである。……
 そこで問題は、わが日本に母系制度の時代があったか否かということである。このことはこれまで男性史家の研究の手がまだまわりかねていて、女性史家のために未開拓のまま残されている処女地である14

「わが日本に母系制度の時代があったか否か」と書くように、逸枝の関心は、まず「母系制」の存否を確認すべく、その研究にありました。そのあとに、「招婿婚」の存在の有無が問われることになります。

次に、逸枝は、このようなこともいっています。

 外国には、たとえばエンゲルスの「家族私有財産および国家の起源」とか、ベーベルの「婦人論」などの、いわば女性解放の聖典ともいっていいものがあったが、わが国にはそれらしい学問の名に値するものといっては一つもなかった。
(中略)
 もっとも、たとえば河田嗣郎の「家族制度の発達」(明治四二)「婦人問題」(同四三)とか、堺利彦の「男女争闘史」(大正九)とかは、主として前記の外国文献等によった尊敬すべき編著であるが、その日本史ないしは日本女性史的観察となると幼稚というほかないものであった15

「その日本史ないしは日本女性史的観察となると幼稚というほかない」いう認識が、逸枝をして、女性史学の構築へと向かわせます。さらに逸枝は、次のように書きます。

 日本では、女性解放の思想や運動は、明治以降顕著になったが、女性自体の被圧迫史ないし生活史については、ほとんどなんらの研究努力もはらわれていなかった。歴史を無視して現実の把握ないし未来の展望が可能であろうか。私はそうかんがえた。
(中略)
 そこで私は、日本女性史をテーマとし、「女性史」という新しい学問の一分野の開拓――つまり、女性史学の樹立というようなことをかんがえた16

「歴史を無視して現実の把握ないし未来の展望が可能であろうか」と書く逸枝は、歴史学こそが、現実と把握と未来の展望を提供するものであって、いまの女性はどのような状態にあるのか、さらには、今後女性はどのように生きてゆくべきかという問いに答えるためには、女性の生活史の確立が急がれるわけであり、「男性史家の研究の手がまだまわりかねていて、女性史家のために未開拓のまま残されている処女地である」という学問上の認識に到達していたのでした。

ここからわかることは、逸枝の関心は、女性がどう生きてきたかという歴史の全貌にあり、加えて、ひとつの学問の新しい誕生、つまりは「『女性史』という新しい学問の一分野の開拓――つまり、女性史学の樹立」にかかわる学問的営みにありました。

換言すれば、逸枝の関心は、「女性史学」として確立されたのちのこの学術領域における、たとえば、この国の古代社会にはいかなる種類の婚姻形態が存在し、その構成比率がどうであったのかというような、分節化された個別の学術上の関心が醸成されるうえでの大前提となる、女性の生活にかかわる史的全体像を提供することだったのでした。

その文脈から、栗原の高群史学批判を概観すれば、何が見えてくるでしょうか。一言でいえばそれは、確立された学術上の世界にあって分節化された個別研究の視点に立つ、そこからの、女性の生活にかかわる史的全体像構築へ向けてかつて展開された原初的な学問的営為に対する批判ということになります。つまり、そこにあるのは、同一土壌のなかにあっての同次元的な批判ではなく、異なる別次元に足を置いた地点からの批判ということになります。たとえていえば、逸枝は、一羽の鳥になって天空から、いまだ誰も見たことのない、「女性の歴史」という「未開拓のまま残されている処女地」を見ているのであって、栗原は、すでに発見された誰もが知る「女性の歴史」の大地に立って、もはや過ぎ去ったその鳥の軌跡を眺めているのです。おそらくそれが理由となって、栗原の視野は、高群史学をもって「意図的な操作改竄」や「整然とした誤謬・・・・・・・」といった虚なる像を引き寄せてくるのでしょう。高群に倣って、もし栗原が大空の高い所から、地上で構築されつつある「女性の歴史」の学的全貌の現状を鳥瞰できていたならば、そのような批判には、おおよそたどり着くことはなく、むしろ、「未開拓のまま残されている処女地」をさらに実り多いものへと開拓することにかかわって学術上の果たすべき貢献ができたのではないかと愚考します。本来的に研究者がたどり着かなければならない先は、荒れ野を開拓し、果樹園という新天地を求めての学的努力以外にはないものと、私は承知します。

それではここで、栗原の「意図的な操作改竄」説と道子の「詩と学問との刺激的調和」説を比較考量してみましょう。

一九五三(昭和二八)年の一月、逸枝の大著『招婿婚の研究』が大日本雄辯會講談社を版元として上梓されます。「奥付」の右隣りの頁に「著作目錄(女性史研究)」があり、そこには、既刊書のみならず、次のように、未確定原稿も挙げられていました。

平安鎌倉室町家族の研究  四〇〇字詰 二、〇〇〇枚稿本
日本古代婚姻例集     四〇〇字詰   八〇〇枚稿本

前章の「二冊の逸枝の校訂本の発刊と著作権者としての静子の立場」において詳述していますように、このうちの「平安鎌倉室町家族の研究」は栗原弘の校訂によって、また、「日本古代婚姻例集」は栗原葉子と栗原弘の校訂によって、上梓されました。とりわけ、「平安鎌倉室町家族の研究」は、五〇〇の家族調査によって成り立っていました。

栗原は、「五〇〇家族という膨大な事例を婚姻形態に分類し、それを各時代別に数量的に示せば、読者には、各時代の婚姻居住形態が一目瞭然で理解されるはずである」といいます。このことから、栗原が定量的分析の立場に立っていることがわかります。一方道子は、「今まで調べてきた平安・鎌倉・室町の五百家族、藤原氏の日記の全部を読破するということで蓄積してきた資料の中から、彼女の詩的な欲求に応じて、資料の方が波頭を立てて彼女と呼応したのだと思います」と書きます。この立場は、まさしく定性的分析と呼ぶにふさわしいものであり、逸枝の学問的立脚点を見事に言い表わしていると思われます。「資料の方が波頭を立てて彼女と呼応した」という語句に朱線を引いて、ここに強調しておきたいと思います。

道子が唱える、「人跡未踏の女性史というものに取り組んだ時、彼女の内なる詩は点火されて……鳥瞰的な表現を幻視したのではないか。そういう欲求がせめぎ合ったのではないか」という主張には、確かに真理が含まれています。といいますのも、道子の「詩と学問との刺激的調和」という言辞にこそ、すべての学問の誕生にかかわる秘儀が隠されているように思料されるからです。つまり着目すべきは、逸枝という人間は、完成したひとつの学問が何代にもわたって継承されてゆくなかで活躍した一学徒ではなく、誰も見たこともない全く新たな学問が産み落とされる、まさにその瞬間に立ち会った詩人=学者だったのです。したがいまして、高群史学は、女性史学の原初的成果の高鳴りであり、その意味で、高群史学を「意図的な操作改竄」の産物とみなす後発の栗原の主張の次元とは、大きく異なるものであったと判断されます。

結論的にまとめれば、古代、中世、近世、近現代のそれぞれの時代にあって女性がどう暮らしていたかを、限定的に、個別かつ詳細に検証することは、極めて重要であると思います。他方、日々蓄積された、そうした個別知見を集成して、定期的に、女性の暮らしが通覧できる通史として書き表わす必要性もまた強く感じます。女性史であれ美術史であれ、あるいはまた政治史であれ、いかなる歴史研究であろうとも、精緻な個別主題にかかわる記述(特殊研究)と、文脈をもった全体史にかかわる記述(通史研究)、性格も目的も違うこれら双方の研究を両輪として、学問は発展するものと私は確信しています。その観点に立てば、逸枝は、ひとりの生涯にあって、女性史にかかわる「個と全体」の有機的関連性の地平に立ち、果敢にもその記述に取り組んだ、日本で最初の、実に稀に見る才能をもった学者であったと思います。いみじくも道子が指摘したように、そこには詩が必要でした。詩こそが、新たな学問の創造なり、学問的規範の変更にとってなくてはならない必須の「ヴィジョン」となるものでした。「女性史学」は、詩人である逸枝こそが創り上げることができた学問だったのです。その意味で、道子がいうように、逸枝の著作は、「あとからあとから出現する学説が流砂のように去ったあと、その流砂に洗われて、古典となって発光しながら横たわる作品」であると思料します。その立場に立てば、栗原が唱える「意図的な操作改竄」説は、学問の発展とは直接関係をもたない、道子がいうところの「鬼の首でもとったような」横やり的で自己顕示に満ちた発言であったものと考えます。

その一方で私は、上記の問題以上に、栗原の次の言説に強い危惧を感じます。といいますのも、栗原は、単に『母系制の研究』や『招婿婚の研究』といった学術の範囲を超えて、逸枝の「意図的な操作改竄」を、意図的にすべての著作にまで敷衍化しようとしているからです。その箇所を以下に引用します。

 高群の誤謬問題について、参考になるのは、『火の国の女の日記』である。その中で、高群は、酒乱の父に苦悩した家族であったにもかかわらず、「一体的同志的」結合を遂げた理想的夫婦であるかの如く描写している。これは、明らかに、自己の理想的夫婦像を、父母に投影した、事実に反する虚構である。彼女の場合は、通常一般の人間が、親族の恥を隠すために、事実を改竄する性質のものと一線を画さなければならない。というのは、自己の理想のために、事実が曲げられるのは、彼女の著作に共通しているからである。高群は、自分の父母の過去の事実を正確に把握しており、また叙述のための方法論上の錯誤があったとは思われない。その上で、高群は、極端な事実の変容をおかしているのである。……ただし、『母系制の研究』『招婿婚の研究』は研究書であり、日記と同等に扱うことはできない。もちろん、それは通常の人ならばそうなのである。高群はそうではない。彼女には、詩も研究書も日記も同等の作品なのである。それ故に、すべてに共通した創作原理が存在している17

しかしながら、よく読めばわかるように、実際には逸枝は、『高群逸枝全集』の第一〇巻の「火の国の女の日記」のなかで、父親の酒乱ぶりについて、はっきりとこう書いているのです。

 酒のみがはじまると、子供部屋のない家なので……家を追い出されて、しょんぼりと立っていただろう小さかった私のおもかげが、いまも目に浮かぶようにみえてくるのである。こうして子どもの私は、酒の座のいとわしさや、喧騒や、そこに露出される人間どもの悪鬼めいた姿などにしょっちゅうおびえていたが、いっぽうではまたそうした人間どもに同情もするといった複雑な人生観の芽ばえをも引きだしていたのだった18

さらに、父親の酒癖の悪さについては、『婦人戦線』の「自伝」のなかで、逸枝は、このようにも表現しています。一三か一四歳になったころの話です。逸枝に思いを寄せる少年がいました。

 酒亂の父が母をぶんなぐろうとして追つかけたりする。近所の子供達は、面白がつて見物する。そんな時、彼は近所の人達とともに子供達を追つぱらつたり、母を逃がしたり、父を寝かしたりしてくれた。さわぎが静まつて、弟達も寝てしまふ頃まで、彼はわたしの家の石段のそばに立つて、わたしのことを心配してくれてゐた19

また父親の勝太郎は、酩酊すると自制を失い、横溢する性欲を妻にぶつけ、暴力を振るうことも日常的でした。

 わたしの次に弟達が生れた。……この頃から、わたしの家には、呑んだくれどもが、毎日のやうにやつてきた。その上、子として浅ましくも、悲しく感じられたことは、父の母に對する限りなき欲望の追求である。おお、そのため美しかつた母は瘠せ衰へた。また彼女は、子供に対する氣兼ねからも、われらの「呑んだくれおやじ」の暴力に烈しく抵抗し、そして大ていそれが原因となつて、踏まれたたかれた20

加えて逸枝は、自分の自伝的小説である『黒い女』に、このようにも、書いているのです。

 私は父を恐れてゐた。が愛してもゐた。父は飲んだくれではあつたけれど、それが悪人だらうか21

逸枝が父親の酒癖について書いているこれだけの実例を挙げれば、栗原が書くところの、「高群は、酒乱の父に苦悩した家族であったにもかかわらず、『一体的同志的』結合を遂げた理想的夫婦であるかの如く描写している。これは、明らかに、自己の理想的夫婦像を、父母に投影した、事実に反する虚構である」という一文が、いかに事実に基づかない虚妄の言であるかは、すぐにも明らかになるでしょう。したがいまして、これにより、「彼女には、詩も研究書も日記も同等の作品なのである。それ故に、すべてに共通した創作原理が存在している」と決めつける、その前提が崩れたことになります。前提が崩壊した以上、栗原の結論も、それに従い自然消滅します。それでも、逸枝の「詩も研究書も日記も同等の作品」であり、そこには「すべてに共通した創作原理が存在している」ことを主張しようとするのであれば、「詩も研究書も日記も」一著一著そのすべての逸枝の著述にかかわって、いかに「創作原理」が働いた虚偽の作品となっているのかを、信頼できる一次資料に基づいて余すことなく例証すべきではないでしょうか。それができなければ、もはや学術的な価値をもった有益な指摘どころではなく、単に威圧的で攻撃的なだけの傲慢な言説の領域へとはかなくも帰結するのではないかと思量します。

栗原の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』のなかに、逸枝の「詩も研究書も日記も同等の作品」であり、そこには「すべてに共通した創作原理が存在している」という言説を目にしたとき、静子と道子は、どのような思いに立たされたでしょうか。詩人としての逸枝の人格の全否定です。そして、学者としての逸枝の人格の全否定です。静子も道子も、何も語っていません。無言のなかに、人の悲しみが隠されているように思います。

(1)栗原弘『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』高科書店、1994年、i頁。

(2)石牟礼道子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、101頁。

(3)前掲『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、i頁。

(4)河野信子「著作を綿密に解析」『熊本日日新聞』、1994年11月13日、11面。

(5)同「著作を綿密に解析」『熊本日日新聞』、同面。

(6)前掲『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、359頁。

(7)同『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、368頁。

(8)同『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、同頁。

(9)石牟礼道子「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、早稲田大学出版部、1997年、213頁。

(10)同「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、206-209頁。

(11)同「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、209-211頁。

(12)同「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、211頁。

(13)同「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、214頁。

(14)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、263頁。

(15)高群逸枝『愛と孤独と 学びの細道』理論社、1958年、9-10頁。

(16)同『愛と孤独と 学びの細道』、9-10頁。

(17)前掲『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、364頁。

(18)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、28頁。

(19)高群逸枝「高群逸枝――わが戀の記――」『婦人戦線』(特輯自傳)第1巻第10号、1930年12月、21頁。

(20)同「高群逸枝――わが戀の記――」『婦人戦線』、19頁。

(21)高群逸枝『黒い女』解放社、1930年、63頁。