前の第一九章「栗原弘の『逸枝著作の改竄説』とそれへの道子の反論」において引用していますように、道子は、「書かれる前から高群逸枝は古典として出現したのだった。それゆえ、稀なる介助者があらわれた。夫妻の業跡の意味を私はそうとらえたい。二人を洗う歳月の砂は、むしろ必要なのである」と予言しました。
予言どおりに、さらに新しい「二人を洗う歳月の砂」が、「表現の呪術――文学の立場から――」の発表から二年後の一九九九(平成一一)年二月に、沖合からの流砂となって静子と道子の立つ渚にたどり着きます。それは、平凡社から刊行された『伴侶 高群逸枝を愛した男』という本でした。著者は、栗原弘の妻の栗原葉子でした。
それでは、栗原葉子という人は、書題にある「高群逸枝を愛した男」、つまり橋本憲三とどのようなかかわりをもった女性だったのでしょうか。前々章の第一八章「二冊の逸枝の校訂本の発刊と著作権者としての静子の立場」において詳述していますように、すでに栗原葉子は、夫の栗原弘とともに、逸枝の『日本古代婚姻例集』を校訂し、世に出していました。その校訂本の「あとがき」には、栗原葉子の筆になる、こうした文言が並べられています。
私達は水俣の図書館で道を尋ねて高群のお墓を詣でたあと、憲三氏を訪ねたのだった。そのとき何を語ったのかほとんど記憶がない。ただ氏は、「革命はおきませんかネ」とつぶやかれた。倉庫の二階のその部屋にはベッドのうえに高群の大きな写真が飾られていて、氏の部屋の窓から逸枝の眠る山の中腹を望みながら「自殺しようとは思いませんが生き永らえようとも思いません」とおっしゃるような生活を送っておられた。憲三氏はその三年後の昭和五十一年死去された。七九歳であった。…… 氏の葬儀の後、憲三氏の令妹橋本静子さんから高群の未完の遺稿「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」、高群の使っていた書物十冊ほど遺品分けのように譲り受けた。他の遺品のほとんどを静子さんは水俣市の図書館に寄贈された1。
ここからもわかりますように、著者の栗原葉子は、最初の水俣訪問のときに憲三に会い、少なくとも憲三の葬儀後には、静子とも面識をもっていたのでした。
橋本憲三については、夫との会話の中で度々話題にのぼっていたことだった。だが、私は自分で執筆するつもりはなく、堀場清子氏か石牟礼道子氏がいずれ書かれるであろう決定版憲三論の、ただ、読者でありたいと思っていた。で、待った。待って、待って、待ちくたびれて、とうとう大胆にも自分で筆を執ることを決意した2。
すでに前章において紹介していますように、道子は先のシンポジウムで、こう語りました。「熊本時代も処女詩集の時代も『婦人戦線』のときも、異性との家出事件も、『森の家』も、終始一貫、彼女は、一般社会からみれば、異様で、エキセントリックで、トラブルメーカーでさえありました」。その逸枝を支え、生涯をともに過ごしたのが、夫の憲三でした。
さて、『伴侶 高群逸枝を愛した男』は、憲三に関するはじめての評伝ですので、静子も道子も、その内容に強い関心を向けたものと思われます。とりわけ、記述内容に関わる憲三からの執拗な追及によって「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三――」の連載が中止に至ったと語る著者の瀬戸内晴美の言説について、そして、逸枝の入院と臨終に際しての市川房枝のグループと憲三とのあいだに生じた確執について、さらには、著者の夫の栗原弘が指摘した、逸枝作品の「意図的な操作改竄」について、著者の栗原葉子が、それをどう書くのかが、ふたりにとっての最大の関心事となったにちがいありません。しかしながら、栗原葉子のこの『伴侶 高群逸枝を愛した男』について、静子や道子が言及した形跡は残されていません。そこで、考えられるふたりの視線を想定し、そのまなざしから、この著作を読み解いてみたいと思います。論点を整理すると、五点に集約され、以下に順次論じてゆきます。
一点目――。
とりわけ静子と道子が関心をもったのは、直近の、著者の夫の栗原弘が唱えた、逸枝作品の「意図的な操作改竄」説についてだったのではないかと思われます。果たして著者は、それにかかわって、どう書いているでしょうか。以下がその該当箇所になります。
厖大な文献から練り出された高群史学の心臓部は、日本では平安中期になって夫婦の同居が開始され、その婚姻形態は夫が妻の家に住む妻方居住婚が一般的で、婿取式後の夫婦は絶対に夫の家に帰らないという点にあった。それを根拠にして、日本の婚姻制度は古代より一貫して家父長制であったのではなく、古代母系家族から家父長的家族へ移行したとするのが高群学説の骨格であった。だが、彼女とほぼ同じ一〇年をかけて原資料に当たって逐一検証した栗原弘によれば、高群が自説の根拠とした平安中期の妻方住居婚の事例は、高群が調査した五百家族中、藤原道長家族のたった一例のみ。道長家族は主流どころか例外的一例に過ぎなかった。が、問題点はこの次である。《女性の地位が高かった母系古代から、父系に移行して女性の地位は低下したのだ》という予めの構想のために、逸枝は調査結果そのままを提示するのではなく、史料操作や改竄まで行って婚姻史を体系化してしまったのである3。
それでは、そうした逸枝の行為を、憲三はどう見ていたのでしょうか。その本の筆者は、このように推断します。
ところで、こうした逸枝の「意思的誤謬」を、夫の憲三が知らなかったということがありうるだろうか。逸枝の書く一行一句一字を余さず読み、書き過ぎた指の痛みや背の凝りまで体験を共有していた憲三が、これを知らなかったという方が不自然である。否、それどころか、憲三は隅から隅まで知り尽くしていたのであった。……あるがままの客観的史実の上に構築するのが、実証史学の学問的誠意と真理であるとするならば、憲三は、いわば歴史学の自殺行為にも等しい改竄の共犯者だったのである4。
「憲三は、いわば歴史学の自殺行為にも等しい改竄の共犯者だったのである」と断じる、栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』を読んで静子と道子は、どのような感想をもったでしょうか。いかなる人であれ、自分の身内の人間が「共犯者だった」と書かれて、無関心で過ごせる人はいないものと思われます。
上の引用にあるように、栗原葉子は、「が、問題点はこの次である。《女性の地位が高かった母系古代から、父系に移行して女性の地位は低下したのだ》という予めの構想のために、逸枝は調査結果そのままを提示するのではなく、史料操作や改竄まで行って婚姻史を体系化してしまったのである」と書きますが、これについては、すでに、前章の「栗原弘の『逸枝著作の改竄説』とそれへの道子の反論」で私の見解を述べていますので、もはや繰り返しません。あえてここで言葉を足すならば、私は、「今まで調べてきた平安・鎌倉・室町の五百家族、藤原氏の日記の全部を読破するということで蓄積してきた資料の中から、彼女の詩的な欲求に応じて、資料の方が波頭を立てて彼女と呼応したのだと思います」という道子の理解に連なりたいと思います。といいますのも、私は、いままでに誰も見たことのない学問が最初に可視化される場合には、まず詩的想像力があり、その力を借りて、新たな研究領域が「創造」され、そののちにあって、個別研究が開花してゆくものと信じているからです。「女性史学」が現在までにおいてかくも活性化していることから判断しても、高群の学問的貢献は、瞠目に値するものと考えています。
それでは、逸枝の研究目的は、どこにあったのでしょうか。一言にいえば、『母系制の研究』も『招婿婚の研究』も、最終目的である通史執筆のための基礎となる個別研究であり、『女性の歴史』(全四巻)を書くうえでの、それに先立つ特殊研究に相当します。「母系制度」と「招婿婚」がこの国において存在していたかどうか、もしそれを実証できるならば、文献史料に残る最後の一例がいつなのか、これが、女性の全史を書こうとする逸枝にとって重要な関心事でした。したがいまして、栗原弘やそのほかの研究者にみられるような、古代中期にどのような種類の婚姻形態がいかなるかたちで存在し、これらがどうした比率で構成されていたのかといった数量的な関心事とは、全く次元が異なるのです。そのように理解する私の目には、栗原弘が説く、逸枝著作に向けられた「意図的な操作改竄」説は、異質の文脈からの乱暴な割り込み的な主張にすぎないように映ります。正直に申して、私は、その説の学問的有効性にかかわって同意することはできません。
二点目――。
栗原葉子は、上での引用にあるように、「憲三は、いわば歴史学の自殺行為にも等しい改竄の共犯者だったのである」と書いています。憲三をもって「共犯者」と断じる以上は、「正犯」を逸枝とみなしているのでしょう。上記の「一点目――。」で述べていますように、私は、逸枝の学問的営みは、犯罪行為であるとは思いません。しかし、憲三が「共犯者」であると断定するのであれば、栗原葉子は、いつ、どこで、どのような動機があって、憲三は、逸枝と共謀にかかわる相談をしたのか、その犯行にかかわる全容を、動かぬ証拠をもって立証する必要があるものと思量します。それができなければ、逸枝の女性史研究を「犯罪」とみなす言説は、逸枝と憲三の人権を侵害し、名誉を毀損するものとなりかねないだけではなく、冤罪を構成する可能性さえ残ります。私が渉猟した一次資料を閲覧する限りでは、逸枝と憲三を犯罪者に仕立て上げるにふさわしい根拠(エヴィデンス)は存在しません。
他方、栗原弘も、前章で引用していますように、「筆者の追調査によれば、高群学説の誤謬は彼女の極めて意図的な操作改竄の産物であったことを確信するに至った」と書いていますが、「意図的な操作改竄」を主張する以上は、つまり、逸枝の研究手法を犯罪視する以上は、いつ、どこで、どのようにして、「意図的な操作改竄」という犯行が行なわれたのか、一次資料(エヴィデンス)に基づいて明らかにすべきではないかと愚考します。といいますのも、この点に関する全容解明は、今後の高群研究における不可欠な要素となるものと考えるからです。もし仮に立証できなければ、栗原の、「筆者の追調査によれば、高群学説の誤謬は彼女の極めて意図的な操作改竄の産物であったことを確信するに至った」という見立てに学問的普遍性はなく、あくまでも単なる栗原個人の「確信」犯的思い込みにすぎないことになるのです。
学問に向かう自身の姿勢について、逸枝は幾多の言説を残しています。参考までに、関係する言説のなかから五つを選び、以下に引いておきます。
私は学問が偏見を破る大きな武器であることを知った。……固定観念や既成観念への、火の国女性的なたたかいも、このへんからはじまった5。 研究は、道のない道をみずから汗して切りひらいて行くのだから、根気が必要で、飛躍はぜったいに許されない。私の上着は光線を一方からうけるので右半身が色あせ、おなじ方の袖は手首とひじのところが、いつもすり切れるのが例だった6。 婦人解放およびその運動の推進力となる女性史は、女性被圧迫の歴史を筋みちをたてて科学的に立証するものでなければならない7。 私の研究も/ようやく整理の段階に入った 心には種々のものがみちあふれ/なにか読めば/つれて湧くものがある 喜びと不安-/私は私の心にいう/「科学者であれ」8 この道に入ってはや一五年/その間にまわりの畑や森は宅地となり 国も破れ/あらゆるものは移ろい変わった だが変わらないのは私の労作(しごと) ああ無限の学究/はてしない道よ9
これらの言説が、果たして、「犯罪者」の発話として読めるでしょうか。私は、学者としての逸枝の生涯が、密かに意図的に犯罪行為が遂行された、後世の人間から指を指されることになる歴史であったとは、にわかに信じがたく、同じく静子も道子も、その思いは、私のそれに近いものであったのではないかと思量します。
三点目――。
栗原葉子は、「あるがままの客観的史実の上に構築するのが、実証史学の学問的誠意と真理である」と書きます。私も、全くそのとおりであると思います。異存はありません。しかしながら、栗原の『伴侶 高群逸枝を愛した男』には、そのことが十全に投影されていません。といいますのも、自身の文が他者の文の無断使用で成り立っている箇所が散見されるからです。以下に、その事例を三つ挙げ、対照します。いずれの例も、この本の書き出しの部分です。
球磨地方は古くから木材や木炭や楮などの産地であったが、筏で流す木材以外の物資は、みな川船で八代には運ばれた。……戻りの曳船は……一勝地で一泊して…… (栗原葉子『伴侶 高群逸枝を愛した男』平凡社、1999年、24頁) 球磨地方は木材、木炭、楮などの産地ですから、木材は筏で流すのですけれども、……八代で荷さばきをして、戻りの、上りの船が一勝地で一泊するわけです…… (石牟礼道子「最後の人 第十八回 第四章 川霧 1」『高群逸枝雑誌』第31号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1976年4月1日、25頁) 嵐が吹いて、雑木林が向こうまで透けて見えるようになる頃には、落葉をかき分けると、むかごと呼ぶ山芋の実が転げ出てくる。その実を白い細糸に通して輪にし、熱い灰の中に埋めて焼くのが子供たちの楽しみで、プーンと香ばしい焦げた匂いがしてきたら食べ頃だった。 (栗原葉子『伴侶 高群逸枝を愛した男』平凡社、1999年、25頁) 山里では嵐が吹いて、雑木林が疎らに透けて見えるやうになる頃、その下の落葉を漁ると中から鬼灯大の山芋の實が、いくつとなく轉げ出た。山里の子供達は争つてそれを拾つて、白い細糸に通した……そのひめの輪を熱い灰の中に埋めてゐた。……間もなくひめは焦げて快よい匂ひが、ぷんと二人の嗅覺をそそつた。 (橋本憲三・高群逸枝『山の郁子と公作』金尾文淵堂、1922年、59-60頁) 夕方になると、うち連れて何十艘となく入ってきていた川船が、全くその姿を見せなくなった。また、往来も火の消えたような寂しさで、すうと威勢よく幾台もの俥が客を乗せて、燕のように入り乱れて飛び交った賑やかな昔の面影もみられなくなった。 (栗原葉子『伴侶 高群逸枝を愛した男』平凡社、1999年、30頁) 夕方になると打連れて何十艘となく這入つて來た河船も全くその姿を見せなくなり、往來は恰度火の消えたやう、すうと威勢よく幾臺の俥が燕のやうに入り亂れて飛び交つた昔の面影は、再び見られなくなつて了つた。 (橋本憲三・高群逸枝『山の郁子と公作』金尾文淵堂、1922年、9-10頁)
剽窃や盗用という概念は、研究者や研究機関によりその解釈は幾分異なりますので、ここでは使用しません。しかし、「実証史学の学問的誠意と真理」をいうのであれば、きちんと原文を引用し、注番号を付したうえで、巻末にその出典(著者名、書名、出版社名、発行年、該当頁など)を記すべきだったのではないかと思量します。こうした箇所がここだけなのか、全編にわたっているのかは、すべてを調べたわけではありませんので断言できませんが、いっさい本文にあって、一次資料を引用したことを示す注が施されていないのは事実であり、したがって、書かれている内容を出典に当たって追検証をすることはできません。つまりそれは、栗原葉子がいうところの「実証史学の学問的誠意と真理」から程遠く、記述内容の真実性が担保されていないことを意味するのです。
あえて、参考までに、版権にかかわって以下に書き記しておきます。前々章の第一八章「二冊の逸枝の校訂本の発刊と著作権者としての静子の立場」において示していますように、静子は、「遺言による高群逸枝著作権継承者」と書いています。そしてまた、憲三死去後の一九八一(昭和五六)年に朝日新聞社から橋本憲三と堀場清子の共著になる『わが高群逸枝』(上下二巻)が出版されますが、両巻の奥付には、コピーライト表示があり、そこには「© S. HASHIMOTO K. HORIBA 1981」と表記されています。ここから、橋本憲三の著作に関する版権の継承者もまた橋本静子であることがわかります。このように、静子は、著作物にかかわる権利関係を大事にしていた人物でした。その静子が、上に挙げた、橋本憲三と高群逸枝の『山の郁子と公作』からの「無断流用」に接したとき、いかなる思いに駆られたでしょうか。
他方、憲三が責任者となって発行する『高群逸枝雑誌』に掲載された道子の、「最後の人 第十八回 第四章 川霧 1」からも、栗原葉子は借用しています。どこにも、「許可を得た」とは書かれていませんので、これも「無断借用」に該当するものと思われます。これを読んだ道子の、栗原葉子へ向かう視線は、どのようなものだったでしょうか。
静子も道子も、栗原葉子の、版権についての意識のなさと、それがもたらす、明らかなる著作権の侵害とに、驚きと怒りを禁じ得なかったものと愚考します。
四点目――。
瀬戸内晴美、戸田房子、もろさわようこ、西川祐子といった人たちによる伝記執筆にかかわって推移するこの段階にあって、栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』は上梓されました。
そこで静子と道子は、著者の夫の栗原弘が指摘した、逸枝作品の「意図的な操作改竄」について、著者の栗原葉子が、それをどう書いているか、という点だけではなく、記述内容に関わる憲三からの執拗な追及によって「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三――」の連載が中止に至ったと語る著者の瀬戸内晴美の言説について、さらには、逸枝の入院と臨終に際しての市川房枝のグループと憲三とのあいだに生じた確執について、著者の栗原葉子は、それをどう書いているのかという点にも、関心を寄せたものと思われます。
つまり、このことを私の立場から換言すれば、栗原葉子は、かかる先行研究を、どの視点から、どう考察しているかということになります。そこでここでは、『伴侶 高群逸枝を愛した男』を書くに当たって栗原葉子は、既往研究をどのように分析しているかにかかわって、論じてみたいと思います。
栗原葉子は、瀬戸内晴美の「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三――」には触れますが、その反論である憲三の「瀬戸内晴美氏への手紙」には目を伏せます。また、もろさわようこの「高群逸枝」には言及しますが、その反論である静子の「もろさわよう子様へ」も、道子の「朱をつける人」も、無視します。さらに栗原葉子は、夫の著作である『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』の正当性は主張しますが、その反論である道子の「表現の呪術――文学の立場から――」には、聞く耳をもちません。栗原弘は、高群女性史学に対して「整然とした誤謬(・・・・・・・)」という名辞を与えました。その表現に倣うならば、栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』には、「誤謬」かどうかは別にして、先行文献の扱いにおいて、際立つ「整然とした偏り」が明らかにみられるわけであり、その点をここで強調してもいいかもしれません。そうした偏りは何に由来するのでしょうか。本人は何も書いていませんので想像するしかありませんが、夫が、逸枝を「正犯」に見立てたのを受けて、妻は、憲三を「共犯者」に仕立て上げることに、自身の役割を見出した可能性も排除できないのではないかとも思われます。そうであれば、これが、この本の執筆に際しての裏に隠された真の意図ということになります。
最重要事項として伝記作家に求められるのは、資料を取り扱うに際しての中立性と公平性です。いうまでもなく、そのことが担保されていなければ、対象人物の真実性に肉薄することはできません。逆に、もしそこから逸脱して恣意的に資料の選別を行なうならば、その結果、明らかに書かれる内容は、自ずと偏向へと向かいます。もっとも、そのことが最初から確信的に意図されているのであれば、もはや批評の対象にさえならないものと思量します。しかしそれは、関係者を傷つける結果を招来します。あってはならぬ行為です。
栗原は、当該書の「あとがき」のなかで「小著を橋本憲三と高群逸枝の墓前に一冊……捧げます」10と書いています。捧げられた憲三と逸枝は、自分たちの言動に「犯罪」という烙印が押されてしまったその書を読み、草葉の陰で何を思ったでしょうか。もはや、あえて想像することはここでは控えます。
五点目――。
すでに部分的に引用していますが、改めて以下に、『伴侶 高群逸枝を愛した男』の「あとがき」から一節を引いて、それについて考察してみたいと思います。
私は自分で執筆するつもりはなく、堀場清子氏か石牟礼道子氏がいずれ書かれるであろう決定版憲三論の、ただ、読者でありたいと思っていた。で、待った。待って、待って、待ちくたびれて、とうとう大胆にも自分で筆を執ることを決意した。だから、こうして書き上げた今も、大先輩の前に頭を垂れて審判が下されるのを待っている気分である11。
「大先輩の前に頭を垂れて審判が下されるのを待っている気分」というのは、いかなる気分なのでしょうか。その心理の背後には何があるのでしょうか。そしてまた、一見挑発とも受け止められかねないこの一節の文を読んだであろう、堀場清子と道子はどう受け止めたでしょうか。それを明確にするだけの資料は残されていないようです。
しかし、確かな動きがありました。本人たちが「審判」を下す目的で上梓したのかどうかもわかりませんが、遅れること二〇〇九(平成二一)年に、堀場は『高群逸枝の生涯 年譜と著作』を世に問い、一方の道子は、二〇一二(平成二四)年に『最後の人 詩人高群逸枝』を世に出すのでした。前者の作品は、これよりのちのさらなる実証研究になくてはならない、精緻を極めた、逸枝の「年譜と著作」が綴られ、後者の作品において道子は、自身にとっての「最後の人」が橋本憲三その人であることを告白するのでした。
以上、五つの視点から、栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』を読み解きました。これは、私にとっては、本稿「石牟礼道子小伝――『最後の人』との契りから道行きまで」を執筆するうえでの先行研究分析の一端を担います。しかし他方では、静子と道子の心中を思い計るうえでの避けて通ることのできないひとつの考察でもありました。
論じていますように、このような一方的観点に立った、著者にとって都合のいい憲三批判の単なる羅列に、静子も道子も、言葉を失ってしまったのではないかと愚考します。ふたりは、この本について、何も語っていません。これもまた、必要不可欠な、逸枝と憲三の「二人を洗う歳月の砂」であってみれば、多弁を労せず無言のうちにそれを甘受し、いつかは、逸枝の作品同様に、ふたりの「一体化した近代の夫婦」像も、神話世界の「双頭の蛇」のごとくに、あらゆる歴史の流砂に耐え忍んだ古典像となって発光するにちがいないことを静かに夢想していたのかもしれません。
生前にあってのみならず、逸枝と憲三の死後にあっても、ふたりに関心をもつ人の波は絶えませんでした。憲三の存命中、瀬戸内晴美は、自身の小説の連載断念に至った原因を憲三の意固地でヒステリックな性格のせいにしました。戸田房子は、逸枝と憲三の夫婦仲に土足で割り込んでは、自説を展開しました。憲三の死去後も、もろさわようこは、風体貧しく、品行卑しき男として憲三を罵りました。西川祐子は、『婦人戦線』時代にあって逸枝と自身の夫が性的関係にあったことを告白した妻の松本正枝の行為を勇気あるものとして賞賛しました。栗原弘は、逸枝が書いたすべての著作が事実を隠蔽した偽造品であると推断しました。栗原葉子は、人前に仁王立ちし、ふたりの恥部を隠す熱演者として憲三を描写しました。こうした幾度となく押し寄せてくる受難のなかで、憲三同様に静子も道子も、自身の晩年を過ごすのでした。静子にとっては、なぜここまで、兄夫婦が誹謗中傷の渦に巻き込まれなければならないのか、自分自身、理解ができなかったかもしれません。それは、憲三をもって自身の「最後の人」とみなす道子も同じであったでしょう。といいますのも、道子が描く憲三像は、次のようなものだったからです。
一人の妻に「有頂天になって暮らした」橋本憲三は、死の直前まで、はためにも匂うように若々しく典雅で、その謙虚さと深い人柄は接したものの心を打たずにはいなかった12。
苦界に落とされた静子と道子の、その後に訪れるそれぞれの最期につきましては、場を替えて、次の第九部「最期の道子の『最後の人』との道行き」を構成する、第二一章「桜吹雪のなか静子が世を去る」と第二二章「死者を柱に道子が『沖宮』を書く」のなかで描写することにします。
(1)高群逸枝編、栗原葉子・栗原弘校訂『日本古代婚姻例集』高科書店、1991年、i頁。
(2)栗原葉子『伴侶 高群逸枝を愛した男』平凡社、1999年、250頁。
(3)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、189頁。
(4)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、190-191頁。
(5)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、62頁。
(6)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、229頁。
(7)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、246頁。
(8)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、332頁。
(9)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、333頁。
(10)前掲『伴侶 高群逸枝を愛した男』、253頁。
(11)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、250頁。
(12)石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、53頁。