中山修一著作集

著作集29 余滴を集めて――石牟礼道子研究  石牟礼道子小伝――「最後の人」との契りから道行きまで

第四部 最晩年の憲三に浴びせられる悪意と悪口の数々

第八章 秋山清の『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』

道子が水俣病闘争から離れ、「最後の人」の執筆に邁進していたころ、一方の憲三は、その間、どのような生活を送っていたのでしょうか。妹の静子は、こう回想しています。

 憲三は東京の仕事の後片付けをすませ、水俣の姉妹のところへ引き越して来ましたが、窮鳥を待ち構えた姉フジノの懐へは入らず、自分の家を売却した金の一部で姉の屋敷内に二階建を造り、一階と二階半分を姉の店の倉庫に貸し、家賃と自分の食事代を相殺させてけじめをつけました

このように、おそらく「森の家」の本や屋敷を処分した代金は、水俣で憲三が住む二階建ての家の建設と、逸枝の墓廟の造営と、加えて『高群逸枝雑誌』の刊行の費用に使われたものと思われます。外国旅行はおろか国内旅行さえも楽しむわけでなく、かといって美酒や美食に打ち興じるわけでもなく、極めてつつましい生活ぶりだったようです。この二階半分の居室で憲三は、ときには道子を加えて『高群逸枝雑誌』の編集作業を行ない、窓から見える、秋葉山の中腹に建立した妻の墓碑に手をあわせては、日々、ありし日の逸枝の面影にこころを寄せていたにちがいありません。

建物の外回りの階段や、母屋と建物のあいだに茂る庭木については、道子がこう語ります。

 東京の森の家とくらべたら、寝るだけの部屋の、卒然たるリアリズムなんですよ。地上からこの二階に通じる露台というか、階段が建物の外にあります。……森の家の樹木群には及ぶべくもありませんが、あの森の樹々のたたずまいをいたく恋いしたっている静子が、それを再現すべく願望して、心をくだいていて、松や梅や槙の間に、もちの木、いすの木、百日紅、楓、寒椿、八つ手、ゆすらうめ、南天、すすき、すずらん、バラ、彼岸花などが育っています

あわせて、この時期の憲三の執筆と健康の状態についても見てみたいと思います。道子の「最後の人」の連載再開とあたかも入れ替わるかのように、これまで『高群逸枝雑誌』に連載されてきた憲三の「題未定――わが終末記」は、一九七二(昭和四七)年七月一日刊行の第一六号に掲載された第九回をもって休載となります。連載開始の時期から比べて、さらに体力や気力が衰えてきたようです。その号の巻末の「編集室メモ」に、そのことがよく現われています。

私は前号の終末記の原稿をベッドの上で書いているとき鼻から血を出した。はじめ気分が悪くなり、次の瞬間、「ふいに思考がふっ切られ、目が見えなくなり、頭の中にモヤのようなものが立ちこめ、鼻から赤い血がぽたぽたと紙の上に落ちてきた」のである。……こういった中で、15号はかなりの編集ミスをおかした。発送は他の援助にあずかった。現在は小康状態

それから一年が立った一九七三(昭和四八)年八月三日の「共用日記」には、「突然、尿の排出がわるくなり、下腹部張る。午後5時ころ上田病院に静子とゆく。前立腺肥大にて手術(入院を要す)」との記述があります。八月七日「市立病院にゆく。(上田病院の紹介をもって)。静子と」。続く八月一三日「市立病院に入院。精密検査はじまる」。半月後の八月二八日、「十時すぎ一時退院で帰室。21号編集にかかり、早速第一便原稿を下田印刷に送る。夜になり、あとのもの全部おわり、投函する」

こうした、悪化する体調と逆比例して、憲三が「森の家」を離れ、帰郷した水俣の地で『高群逸枝雑誌』を発刊すると、美しい花に引き寄せられるチョウのように、多くのたよりが舞い込み、一方で、大学の学生や教員たちがしばしば訪ねてくるようになりました。しかし、必ずしも、歓迎されるべき訪問者たちばかりではありませんでした。この手術を挟んで、その前年から亡くなるまでの約四年間、憲三は、身体的のみならず、精神的にも大きな困苦を抱えてゆきます。主としてそれは、この時期の外部からの高群逸枝巡礼者たちによってもたらされました。

連載最後となる「題未定――わが終末記 第九回」が掲載された『高群逸枝雑誌』(第一六号)の発行から四箇月が立った、一九七二(昭和四七)年一一月一三日、詩人の秋山清が、自宅を訪ねてきました。このことにつきましては、次の年(一九七三年)の六月に思想の科学社から上梓される、秋山の『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』に詳しく、そこからの引用をもって、構成したいと思います。

「橋本さんはいますか」
「どなたですか、身体がわるくてあまり人と会わんようにしているのだが――」
 と機嫌のよくなさそうな返事の後で、彼は部屋の中の寝台から起き上がる気配だった。私が名をいって紹介状を差し出すと、彼の気むずかしい顔もいくらか和らぐかに見えた

憲三は、以前秋山が『日本読書新聞』に書いていた自叙伝「小組のへそ」を読んでおり、そのことや渋谷定輔の『農民哀史』のことなどが話題になり、いよいよ本題に入ります。秋山は「『高群逸枝全集』から何故に、アナキズムの立場から書いた多くの論説が脱落させられたか、それを敢えてしたのは、本人の意思か、本屋の要求か、橋本憲三自身の意向によるものか」を、遠慮することなく憲三に問いました。それに対して憲三は、概略このように答えました。「あれらを書いた時期、まだ彼女は未熟だった。本人も自分のその頃書いたものをそのように見ていたらしく思う。それらしいことが『火の国の女の日記』にも書かれてあったと思う。要するにそれから以降の研究が主ですから」10。この返事は、「現在高群逸枝に集まっている強い注目の中には、あの頃の論説を重く見ているところからのもの」11に起因しているものもあるのではないかと確信する秋山を必ずしも満足させるものではなく、さらに秋山の質問が続きます。「『婦人戦線』の諸論文、『女人芸術』誌上のマルキシズムとの文学論争、さらにはそれ以前の、たとえば『婦人公論』誌上で山川菊栄ととり交わした恋愛論争などを、単行本として刊行するか、全集の別冊としてでも出すことはどうか。私はそれをすすめますよ」12。この提案に対して憲三の反応はこうでした。「いや、私は肥後モッコスですから、一度きめたことは――」13。「何が肥後モッコスだ!」――出そうになった言葉を自身で引き取りました。秋山の真意は、「昭和三、四、五、六年ごろ、アナキズムを拠りどころとして展開した高群逸枝の論争、主張、啓蒙などの活動が、未熟な時期であった、という主観的な判断から、その人の生涯の業績の中でオミットされていいものか、ということ」14でした。帰り際、憲三は秋山に、『高群逸枝雑誌』に何か寄稿するように示唆したようです。それを受けて、翌年(一九七三年)の二月一七日、秋山は、憲三に宛てた手紙という形式をとり、採否は一任するとしたうえで、「全集の編集にたいする私の不審や疑問について、率直に問いただす文章を送った」15のでした。長文です。一言に要約するとその内容は、「全集」と称しながら、なにゆえに、とりわけ逸枝自身が編集者として責任をもつ『婦人戦線』に書いたアナーキズムを拠り所とした彼女の論文が、未熟な時期に書かれたものであったという理由から削除されたのか、その正当性を全集の編集者である憲三に直接問い、それら一連の論考のもつ歴史的重要性を指摘するものでした。さっそく憲三は、二月二一日にその返信をしたためます。

 お原稿一読しました。結論から申しまして、これは取捨をおまかせくださった寛大なお心にあまえてご指示どおり急ぎ返送させていただきたいと思います。
 原稿には私と見解を異にするところがあまりに多く、私が責任者となっている雑誌に掲載することでお説を私が認めたと誤解されることをさけたいのです。ご了承をお願いします16

それでは、この返信のなかで憲三が書いている「私と見解」とは、どのようなものだったのでしょうか。さかのぼること七年前の一九六六(昭和四一)年、「森の家」で全集の編集と校正に精を出していたとき、同居していた道子に、憲三はこう自身の考えを開陳しています。

 全集とは何でしょうね。全集をどう規定するか。選集という形もあるでしょう。ある基準でいえば、彼女の全集はこの二倍でも足りないくらいです。全集を出す意味について僕は彼女と対話するのです。
 つまり彼女のみていた真理、この真理でもって、彼女は孤絶したこの家の外の世界に貢献したといえばいえる。それに到達するまでの、彼女にいわせれば紙クズ。彼女によって否定されたものを全集にとりあげることは、彼女をはずかしめ、僕もはずかしめを受ける。これは僕の法治主義です17

憲三の立場に立てば、女性史学という学問の存在にかかわる啓示に先導されて、つまりは、すべからく人類が到達しなければならないひとつの大きな真理に導かれて、自身の大衆運動の戦線に幕を閉じ、いっさいの来客を断って「森の家」の書斎に独り恒久に蟄居した、まさしくそのときこそが、高群逸枝が学者として蘇生復活する瞬間であり、それ以前に彼女の身辺にみられたものは、そのために必要とされた、いわば産湯の残り湯であり、使用済みの布切れであり、これを全集に所収することは、清が濁によって、つまりは、清書された玉稿が書き散らされただけの紙クズによって混濁させられることを意味し、それを認めれば、「彼女をはずかしめ、僕もはずかしめを受ける」ということになるのでしょう。これが、編集者としての高群逸枝の業績についての評価であり、全集編集の方針となるものでした。しかし、そうした思いは、アナーキズムに関する論考が全集から欠落していることに不満を示す、アナーキストの詩人である秋山には理解してもらえず、その手紙から四箇月後の六月、秋山の『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』が世に出るのでした。それをおそらく手にしたであろう憲三が、そのとき、いかなる心的状況に立ち入ったのかは、裏づける資料もなく、想像するしかありません。

そこで、少し想像の翼を広げてみます。憲三が「高群逸枝全集」を編集するに当たって、アナーキズムに関する逸枝の論考を削除した理由については、思うに、以下のようなことが背後に存在していたからに相違ありません。

一九二九(昭和四)年の年末、逸枝ははじめて年賀状を印刷します。そこには、婦人論、恋愛論、女性史の三部作からなる「研究著述の計画」が書かれてありました。しかし、逸枝は、こう書きます。

だが運命はなお私には酷だった。それを投函した直後の十二月三十日に前から話のあった解放社からの『婦人戦線』発刊のことが決定したという通知があり、私の新コースに大きな番狂わせがもたらされることになってしまったのだった18

つまり、逸枝にとって『婦人戦線』を創刊し、その主宰者となってアナーキズムに関する論考を執筆することは、「大きな番狂わせ」だったのです。無産婦人芸術連盟を結成し、その機関誌である『婦人戦線』の刊行は、すべて憲三の意向によるものでした。それに対して、その後憲三は、逸枝に「女性史研究をすすめておきながら、いっぽう偶然のことで『婦人戦線』を持ち込んで、こんな手違いになったこと」19をあやまっています。『婦人戦線』は、逸枝にとっては「番狂わせ」、憲三にとっては「手違い」であり、したがって、そこに掲載された論考を「高群逸枝全集」に収録することは、憲三の立場からすれば論外ということだったにちがいありません。

もうひとつ、アナーキズムに関する文を、憲三が「高群逸枝全集」から外さなければならなかった理由が考えられます。それは、晩年にあって逸枝自身、アナーキズムから離れ、マルクス主義に傾倒していたという事実の存在です。

以下は、逸枝の『女性の歴史』(下巻、大日本雄辯會講談社、一九五八年)のなかにみられる文です。

アナキズムの欠点は、必然論でなく、発展説ではないこと、したがって婦人解放史に学的根拠を与ええないことであるとおもう。またそれは同時に実践への弱点でもあるといえる20

アナーキズムの欠点にかかわるこうした認識に、逸枝がいつ到達したのかは正確にはわかりませんが、明らかにこれは、逸枝にとってのアナーキズムからの撤退を意味します。

他方で逸枝は、マルクス主義にかかわって、このような理解に達していました。次は、一九六〇(昭和三五)年の日記に記されている一節からの引用です。

 寸感メモ。女性史については、あらゆる学問-社会・民族・歴史等が冷淡であるなかに、ただ一つ、マルクス主義史学のみが、これに関心を示していることを知ったとき、はじめてマルクス主義に無知であり反感さえもっていた私は、あらためてこれに敬意を感じはじめた21

以上の二点が、「高群逸枝全集」を編集するに際して、憲三が、戦前の逸枝のアナーキズムに関する論考を組み入れなかった主な理由であると思われます。

それだけではなく、戦前戦中に逸枝が書いた国体主義に基づく歴史書もすべて、全集に収録されることはありませんでした。晩年憲三は、こう述べています。

 全集の編纂は厳密な手続きと根気のいる仕事だった。第一資料あつめ。第二選択、第三ママ列、第四原本整理。これらの作業には程度の差こそあれ欠漏・不合理・不自然等がつきまとって編者をくるしめるものがある。全集ということばにもこだわりがないとはいえない。たとえば、世に網羅主義の全集はあってもおそらく網羅しつくした全集はあり得ないだろう。選集ということばもあるが、これも現実には代表作の意味よりはむしろ便宜主義を語っていると思う。私は主著主義をとることで自分を納得させた22

他方、生前の逸枝は、憲三にこう語っています。

日記一巻と追加研究一巻とができ上ったら「過去の紙くず」は一切焼いてしまって、また新しい出発をしましょう23

逸枝の全集を編むに当たって憲三は、「過去の紙くず」はすべて焼き捨て、「主著主義をとることで自分を納得させた」のでした。焼き捨てた「過去の紙くず」には、皇国史観に基づいて書かれた幾つもの評論文も歴史書も含まれます。これこそが、戦前にあって自分たちを規定していた旧い世界と戦後に新たに生まれた進歩的な世界――戦争を挟んで全く異なるこのふたつ世界のなかにあって生き抜かざるを得なかった者だけが経験する、一種不条理な宿命だったのかもしれません。憲三のつらさは、ここにあったものと思われます。

それでは、道子は、憲三と秋山の意見の違いについて、そばにいて、どう受け止めたのでしょうか。残されている資料に、それを立証しうるものはありません。しかし若い日、道子は共産党に入党しては、すぐにも離党しています。そして道子は、「社会運動はロマンチシズムではいけないと思う。また、各人にはそれぞれ長所がある。その長所をもって貢献すべきだと思う」24という、逸枝に語った憲三の言葉を、自分の文のなかで引用し、紹介しています。これらの傍証から推測しますと、逸枝がアナーキズムから撤退したことも、憲三が、逸枝のアナーキズムに関する論考を全集に収録しなかったことも、おそらく自分なりに理解できていたものと承知します。

(1)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、16頁。

(2)石牟礼道子「最後の人 第十二回 第一章 残像3」『高群逸枝雑誌』第24号、1974年7月1日、27頁。

(3)「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』第16号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1972年7月1日、30頁。

(4)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、181頁。

(5)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。

(6)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。

(7)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。

(8)秋山清『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』思想の科学社、1973年、8-9頁。

(9)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、9頁。

(10)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、同頁。

(11)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、同頁。

(12)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、10頁。

(13)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、同頁。

(14)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、11頁。

(15)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、156頁。

(16)同『自由おんな論争 高群逸枝のアナキズム』、同頁。

(17)石牟礼道子「最後の人 第六回 序章 森の家日記6」」『高群逸枝雑誌』第6号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1970年1月1日、27-28頁。

(18)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、233頁。

(19)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、237頁。

(20)高群逸枝『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958年、287頁。

(21)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、462頁。

(22)橋本憲三「『火の国の女の日記』の後」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、11頁。

(23)橋本憲三「三つの言葉 ✳後記にかえて」『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、483頁。なお、この引用文の字句は、高群逸枝『高群逸枝全集』第七巻/評論集・恋愛創生(理論社、1967年)の372頁に見出すこともできます。

(24)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、15頁。