中山修一著作集

著作集29 余滴を集めて――石牟礼道子研究  石牟礼道子小伝――「最後の人」との契りから道行きまで

第三部 「最後の人」の執筆と水俣病闘争への参加

第七章 『苦海浄土』の上梓から水俣病闘争へ

「高群逸枝記念碑」の除幕式からさかのぼる半年前の一九六九(昭和四四)年一月二八日、道子の出世作となる『苦海浄土 わが水俣病』が講談社から刊行されました。道子は、その「あとがき」に、こう書きました。

 ここにして、補償交渉のゼロ地点にとじこめられ、市民たちの形なき迫害と無視のなかで、死につつある患者たちの吐く言葉となるのである。
「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。……上から順々に、四十二人死んでもらおう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」
 もはやそれは、死霊であり、生霊たちの言葉というべきである

死をもって死をあがなうことを望む、この「死霊であり、生霊たちの言葉」は、膠着状態にあった水俣病患者の補償問題を巡る、まさしく宣戦布告となるものでした。四月、水俣病患者家庭互助会は一任派と訴訟派に分裂します。一任派とは、厚生省(現在の厚生労働省)が誘導する、第三者機関による裁定に「白紙委任」をもって身をゆだねようとする人たちを指します。しかしこれでは、原因企業であるチッソ株式会社(一九六五年に新日本窒素肥料株式会社からチッソ株式会社に社名変更)の責任を白日のもとに晒すことはできません。一方、訴訟派は、法廷の場において責任の所在を明確にしたうえで、前例なり法的規範なりのなかにあって賠償を勝ち取ろうとしました。六月、水俣病患者および家族のうちの一一二人は、チッソ株式会社を相手取り、損害賠償請求訴訟を熊本地方裁判所に起こします。いわゆる「第一次訴訟」と呼ばれるものです。

そうしたなか、熊本日日新聞社は、『苦海浄土 わが水俣病』に対して熊日文学賞を道子に授与します。しかし道子は、これを辞退します。一二月一四日の『熊日』の一五面を開くと、「『水俣病』にかかわること 熊日文学賞の辞退について」という見出しの道子の寄稿文が目に入ります。読んでも、辞退についての具体的な理由は何も書かれてありません。「水俣病市民会議会員」という所属名のもと、書き手としてのいまの心境が幾分詩的に綴られているのみです。以下は、この文の末尾の一節です。

 ものを書くなどということは、本来処世の道とは外れ、度しがたい世界にかかわることだと、私にはおもえる。まして、余生を生きている命でもって水俣病にかかわり、ひとたびは死んだ祖たちやはらからたちを生む、産親にならねばなどと、こいねがうなどとは。
 なんと、夜とも昼とも、おどろおどろして定めがたい心象風景の中をのみ、さすらっていることであろう。
 つつしんで熊日文学賞をご辞退申上げるゆえんである。

本人が書くように、道子は、「余生を生きている命」のなかにありました。これは、「森の家」で蘇生した、わずかながらのいのちの鼓動にほかなりません。いつ潰え去るかわかりません。逆に、もはや一刻も早く潰えたいという思いもないわけではありません。そのなかにあって道子は、「ひとたびは死んだ祖たちやはらからたちを生む、産親にならねばなどと、こいねがう」のでした。

「森の家」で自らの魂が復活するときの、そのときの「産親」が高群逸枝、その人でした。そうであるならば、逸枝の代わりとなって今度は自分が、物言わぬままに死んでいった水俣病患者たちの、貶められ、卑しめられ、辱められた魂を蘇生させる「産親」にならねばならぬ――、こう道子は、しかとこころに誓うのでした。死霊の魂救済へと向かう強固な原理的精神が、ここにありました。これが、これよりのち大きく開花する石牟礼文学の基底をなす主旋律です。文学賞という華やかな俗世とは無縁の苦界にあって、道子はこのとき、やっとの思いでかすかな息をしていたのでした。

年が変わり、一九七〇(昭和四五)年が訪れました。一月二〇日の憲三の日記に、こう記されています。「Mさん、妙子さん(妹)、久木野日当野ゆき。居室の前の県道(旧国道)から窓べに立っている私をみて自動車をおりてあいさつ。きょうから山の家びらきとのこと」。この日道子は、訪問者を謝絶して一日一〇時間、執筆に専心した逸枝の「森の家」に倣うかのように、白浜町(通称日当猿郷)にある自宅の書斎を出て、「山の家」に設けた仕事場へ移ったようです。憲三は次の日、この「山の家」を訪ねました。

 私は翌朝家の前からバスに乗って久木野に向かい、竹下橋下車、近道をとって急坂を登っていった。……その戸をたたいた。たたきながら「しまった」と独語した。自分はいま明らかに不時の闖入者だ。これは世田谷の森の生活の鉄則を忘却した行為だ。私は深く恥じた

新しく設けられたこの「山の家」の仕事場で書かれた可能性もある、「亡命」と題された短文を、道子は『熊日』に寄稿します。次は、四月二九日の六面に掲載されたその文の書き出しの部分です。

 故あって、この春は逃亡行の春だった。
 合間に「水俣病に対する企業の責任――チッソの不法行為」というむずかしい論文を、学者さんたちと共同執筆するための研究会や、「水俣病を告発する会」の例会や、「高群逸枝雑誌」の二人会議に出没していたから、シッポを出して歩く狸のようなものである。

『熊日』に「亡命」が掲載された翌月の五月二〇日、道子は、憲三に手紙を書きます。緊迫した様子が、そこには綴られていました。このときの道子の心情がよく表われています。長くなりますが、断片的に以下に、引用します。

 体力も気力も限界にきています。……毎晩徹夜で人の相手をしたり手紙をかいたり。水俣病がひとつの極点にきているので、もう私も、自分では手のつけられないモノに化身してしまって……母がねむらない私をオロオロしてみにきます。……
 急速に歯車がまわり出し、すべての小状況、大状況に対して、無限の違和感を重くひきずっていますが(人間関係ママ)、自分の感懐を点検するゆとりはいま皆無です。……
 無名の人々の魂魄に立ちあうには、自分も一無名者にならねばならぬとだけおもいます。私にいま出来るのは皆さんの雑用だけです。……
 ご遺言状のことで(裁判のきめ手)、また、東京基地をつくるため仲間と出京します。二十五日ごろ「補償処理委員会」の結論が出されるでしょう。
……どうかおねがいですから、逸枝雑誌は、村上さんと河野さんのお原稿でお出し下さるようおねがいいたします。(この度は、)東京に行ったら、どのようになるか判断つきかね、期限のお約束、安易にできませんのです。あるいは、告発の会の巻きぞえでタイホ、などありえますのです。……
……森の家のまぼろしをみながら、出発いたします。……

この手紙を書き終えた道子は、前年に渡辺京二が呼びかけて熊本市内に発足していた「水俣病を告発する会」のメンバーや水俣病の患者らとともに、厚生省の補償処理委員会の会場へ乗り込むために、逮捕されることを覚悟のうえで、東京に向かいました。道子は、その「処理」の様子を、こう書きます。

 昭和四五年五月末〈水俣病補償処理委員会〉(座長・千種達夫)は、厚生省に患者代表とチッソ首脳を呼び、死者最高四百万円(実質は三百万前後)で、公式に認定されている患者たちの大半を、文字どおり、〈処理〉し去った

道子の上京により、創刊号(一九六八年一〇月)に第一回を掲載して以来、休むことなく連載されてきていた「最後の人」が、第七号(一九七〇年四月)掲載の第七回を最後に途切れます。第八号(一九七〇年七月)は、村上信彦の「高群逸枝と柳田国男5」と河野信子の「現代の喪失『女性の歴史』覚書2」で構成され、加えて、道子の穴を埋めるかのように、憲三の「題未定――わが終末記」の第一回が登場するのでした。

東京から帰ると、ただちに道子は、憲三を訪ねたものと思われます。七月五日の憲三の「共用日記」には、次のようなことが書き込まれています。

10時-12時Mさんと話す。非常な仕合せであった。高群雑誌についてある了解。朝から原稿書き(さびしい風の日です)

「仕合せであった」理由も、「ある了解」についても、不明です。しかしこのとき、憲三の体調がさらに衰えを見せ、自死さえ考えていたことは確かですので、そのことと、何か関係があったのかもしれません。憲三は、道子が訪れる数日前に発刊された『高群逸枝雑誌』第八号に掲載された「題未定――わが終末記」のなかで、このようなことを書いています。「私は昨年の三月から感冒のため臥床がちとなり、そのうちかぜはとれたが全身の神経炎らしい極度の不快感を覚え、その日の天候によって心身の乱調が顕著に知覚されるようになった」。そして、こうも告白するのでした。

 私はできるだけ長生きしたいと希望しているのではないのだ。売薬を利用したり病院にいったりするのは、当面の‶肉体的苦痛″からのがれたいためである。じつをいえば私はいつも死を欲しているのである。それもはっきりいえば自然死ではなくて自死なのだ。私一個にのこされた仕事があるから、つまり「まだ生きている」のだ

一方、らいてうの体調も芳しくなく、このような内容の手紙が、憲三のもとに届きました。「……まだ自伝もなかなか書き上がりませんが、老齢のため手術は出来ないものらしく、気長に治療をする覚悟をしております。〈渋谷区千駄ヶ谷 代々木病院より〉」。それに対して憲三は、一二月一二日に、「平塚さんにおみまい状(代々木病院三階病棟)」10を書いています。そして、年が明けた一九七一(昭和四六)年五月二四日、らいてうはその人生に幕を閉じます。次は、二日後の二六日の「共用日記」からの引用です。

平塚らいてうさん逝去。24日午後10時36分。本日の朝日新聞で妹よりつたえられ驚く。故人の霊前に報告とともに霊位をまつり白いバラを捧げ冥福を祈る。/弔電のあと、弔文を敦史明生ママ[曙生]さんあてに書き、香奠をおくる。山上11

続く、五月三〇日の「共用日記」には、「らいてうさん葬送の日。遙拝」12の文字が記されています。

思い起こせば、一九二六(大正一五)年の四月のある日、らいてうからの伝言を受け取って感動した逸枝は、近刊の『戀愛創生』を添えて、らいてうに一通の書簡を送りました。以下は、その一部です。

 長い間今日を期待しておりました。あなたからのご伝言を承ることは私にとっては当然なことでございます。私はあなたを母胎として生まれてきたものでございますし、私ほどあなたのために、激昂したり、泣いたりしたものがございましょうか13

逸枝はここに、「私はあなたを母胎として生まれてきたもの」と、はっきりといっています。つまり、逸枝が自覚する自身の母親が、らいてう、その人なのです。娘の逸枝が世を去り、いまここに、母/妣であるらいてうも、隠れるのです。のちに道子が自覚する自身の妣君が逸枝であることを考えれば、三代にわたる妣の系譜に遺されたのは、もはや道子独りということになります。

この間、一九七〇(昭和四五)年四月一日刊行の『高群逸枝雑誌』第七号に掲載された「最後の人 第七回 序章 森の家日記7」を最後に、道子の「最後の人」の執筆が止まっていました。次は、一九七一(昭和四六)年一〇月二七日の憲三の「共用日記」からの引用です。

午後Mさんみえる。一昨日東京から帰ったと。信州そばにゆく。/『苦海浄土』第二部のこと。/自叙伝のこと。その他。/高群評伝のために、これから定期的に私の聞書をテープにとること。談話――ニュース多岐にわたる。十五日までに高群雑誌原稿を書くと14

「十五日までに高群雑誌原稿を書く」というのは、翌年(一九七二年)一月一日発刊予定の『高群逸枝雑誌』第一四号に掲載する「最後の人 第八回 序章 森の家日記8」の原稿を「一一月一五日までに」書くという意味でしょう。これは、「最後の人」の執筆再開を意味します。しかし、「最後の人 第八回 序章 森の家日記8」を書き上げるや、再び、執筆が止まります。続く「最後の人 第九回 序章 森の家日記9」が『高群逸枝雑誌』に登場するのは、一九七三(昭和四八)年一月一日刊行の第一八号です。この間道子は、再び水俣病闘争に身を投じることになるのでした。

二度にわたる「最後の人」の休載と、道子にとっての水俣病闘争は、完全に時期的に重なります。一九六九年一月の『苦海浄土 わが水俣病』の刊行から一九七〇年五月の「補償処理委員会」の粉砕を目指しての上京までを第一幕としますと、第二幕は、新認定患者の川本輝夫らがチッソとの自主交渉闘争を開始する、この年(一九七一年)の一〇月から、水俣病裁判にかかわって熊本地裁で判決が下される一九七三(昭和四八)年三月までということになります。

人口約五万人の水俣で、およそその一割以上がチッソの従業員であったり関係者であったりする、いわゆる企業城下町にあって、事を荒立てることなく、政府の示す調停案を受け入れようとする一任派の存在もありました。その一方で、加害企業の責任を問い、被害者の救済と補償を、司法の判断にゆだねて希望をつなごうとする訴訟派の人たちもいました。しかし、また別のグループの動きもありました。すでに亡くなった人たちや、いま生きて死者のごとき存在にある人たちは、自分の口で自分の苦しみや悲しみを訴えることはできません。もとより法廷はこうした吐血した魂魄の表現の場ではなく、たとえ裁判において勝訴したとしても、この無念さは、誰の胸に伝わることもなく、血と地に埋もれて残ることになります。そのこころを代弁して、責任企業であるチッソの経営者に直接訴えかけ、誠意ある謝罪と補償を引き出そうとする活動家やそれを支援する義人はいないのか――。さらには、死者の霊を慰めるために文を書く文学者や、映画や写真でもってそれを表現する映像作家はいないのか――。加えて、この病は、単に一企業の犯罪的行為がもたらした結果というだけに止まらず、日本の近代化の過程に忌まわしくも宿る、生産至上主義や利益至上主義の副産物でもあり、それを問おうとする批評家や学者はいないのか――。水俣病の病理は深く、こうした設問に対しての納得ゆく解答がない限り、この事件に幕を引くことはできない――。一方の裁判闘争に期待を寄せながらも、他方で、こうした独自の考えのもとに、ある種衝動的に、そして衝撃的に立ち上がったのが、自主交渉闘争に参加した患者や文化人たちであり、そして、多くのその支援者たちでした。道子の姿も、この集団のなかにありました。

一九七一(昭和四六)年一〇月六日、熊本県は、川本輝夫ら一六名を水俣病患者に認定します。一一月一日、「いよいよ新認定患者(以後川本派、ないし、自主交渉派とよばれる)グループ一八世帯、チッソ水俣工場正門前(鹿児島本線水俣駅前)座り込み」15。しかし、当事者能力のない工場を相手では真の交渉とはなりえず、一二月六日、自主交渉派は、東京の丸の内にあるチッソ本社前に陣取りました。それより二日後の八日、社長との会談が実現します。直接社長に自分たちの要求を認めさせようとする自主交渉派と、政府の中央公害審議会の指示に従おうとする会社側とのあいだには、大きな立場の開きがありました。以下は、川本輝夫と社長が交わした、そのときの会話の一部です。

川本 ……わしゃ今日は、血書書こうとおもうて、カミソリもって来た。
社長 (息をひくようなかすかな声)え?
川本 血書を書く、血書を。要求書の血書を。
社長 !……
川本 あんたはそして、わしの小指を切んなっせ、ほら。
社長 ……
川本 その返答はわしが……あんた、社長の指もわしが切る、いっしょに。
社長 いや、それはごかんべんを16

日はとっくに暮れていました。十数時間に及ぶ話し合いも、患者側の要求は受け入れられず、社長は担架で運ばれる結末となりました。以降、年越しの座り込みが続きます。道子はそれを、こう描写します。

 遠くこころに昏れる雪景色をふり払い、わたくしは起きて、ふたたび路上に寝ているものたちの姿をまじまじとみる。
「こうなればもう、東京乞食じゃなあ」
 なぜそのようにいうとき、こうもはればれと互いの顔がまぶしいのか。
 ……よろばいいでてここに辿りきたったものたちと、これに相寄り殉ずる無名者たちの集団。……そのような景色の上に照る一九七一年大晦日から一九七二年への、まだ明けやらぬ元旦東都の月。
 丸の内東京ビル、チッソ本社前。……あまねく全身をうち晒してその底にねむるものたちが、こころの中の渚に打ちあがり、ひくひくと地の霊のごときものに化身しようとして、元旦の満月とまみえていた17

こうして川本派による自主交渉闘争は、次の一九七二(昭和四七)年へと持ち越されてゆきました。そうしたなか、道子の視力低下は、限界にまで達していたようです。この年の六月二二日の「共用日記」には、「石牟礼さんから手術直前のたより。15日。あと2年生きるために手術と(順天堂病院眼科)」18と、書かれてあります。道子の祖母の「おもかさま」も失明していました。道子も、そうなる不安を抱き、手術に臨んだものと思われます。おそらく手術はうまくゆき、何とかそれ以上の進行を食い止めることができたにちがいありません。それから四箇月の月日が流れ、今度は水俣病の闘いにとっての、大きな朗報がもたらされました。一〇月一五日の『熊日』の朝刊は、一面トップで、こう伝えたのでした。

 四大公害訴訟をしめくくる水俣病裁判は十四日結審、来年三月に予定されている判決を待つばかりとなった。公害の恐ろしさと悲惨さを法廷で思い切り訴え、チッソへの恨みをぶっつけた原告の患者家族、全国の支援団体の人たちは「これからが公害追放の真の闘いだ」と決意を新たにしている。患者たちは近く東京のチッソ本社に出向き、「即刻、原告の要求に応ぜよ」と迫る一方、水俣病裁判の報告キャラバンやチッソ糾弾の署名運動を全国的に展開する。判決での完全勝訴を目ざすのはもちろん、公害の原点だった‶ミナマタ″を、公害絶滅の原点にしようという決意も高まった。

この日の紙面の九面に目を移しますと、道子の寄稿文「魚に曳かれて」が掲載されています。そのなかで道子は、末尾の一節を、このように締めくくりました。

 窓の外の秋がかなしくて頭の芯がうずいた。ずうっと前に、この夫婦とこんな話をした。
 「なして、水俣の茂道あたりにおいでなはりました?」
 「わしゃ熊本近辺の人間で料理屋しょったけん、水俣の魚がおいしゅうして、水俣の魚に曳かれて、魚食いにな」
 爺さまがそういうと、婆さまがにこにこっとさしうつむき、ちいさな声でこう言ったのだ。
 「なんの、わたしが昔、あんまりよかおなごだったけん、わたしにひかれて来なはったとばい」

次の年(一九七三年)の三月、熊本地裁で水俣病訴訟(第一次訴訟)に判決が下り、原告が勝訴します。その後、訴訟派と自主交渉派は合流し「水俣病東京交渉団」を結成すると、東京本社でチッソとの交渉を開始し、七月、「補償協定書」に調印するに至り、この時期激化した水俣病闘争が、事実上の終焉を迎えました。こうして、道子にとっての水俣病闘争第二幕も、ここにその幕を降ろすのでした。次の一節は、道子の「まだ灯らぬ闇の中から」から引いたものです。

 水俣病裁判の判決が出たあとの訴訟派と、それを待機していたチッソ本社内の自主交渉派が合同して行った東京チッソ本社での交渉が、最後のつめにはいったときからわたしは帰郷し、ほとんど外に出なくなった。
 高群逸枝さんの故事にならい、積極的な意思で外部を遮断し、残された仕事を仕上げるためでもある。予定の仕事と残りの命をくらべると、人いちばいスローモーションの私は、世間との義理もおつきあいもひたすらごじたいして、だれにも逢わずにとじこもってしまっても、仕事を残したまんま、死んでしまうことになる19

このときの道子は、おそらく、「世間との義理もおつきあいもひたすらごじたいして」執筆に専念した結果でしょうか、実に多産な仕事ぶりを発揮します。闘争資金の捻出のために企画された、道子を編著者とする『水俣病闘争 わが死民』(現代評論社、一九七二年四月)に続いてこの時期、闘争にかかわる初出原稿を集成した『流民の都』(大和書房、一九七三年三月)、『苦海浄土』の第三部となる『天の魚』(筑摩書房、一九七四年一〇月)、さらに加えて、自身の過酷な出自と育ちを語った論集である『潮の日録 石牟礼道子初期散文』(葦書房、一九七四年一二月)を上梓するのです。

またこのとき、道子は、雑誌の刊行にも乗り出します。一九七三(昭和四八)年の秋、水俣病闘争の同志であった松浦豊俊と渡辺京二とともに編集兼発行人となって季刊誌『暗河』を創刊するのです。この号の「編集後記」に、このような道子の言葉があります。

*このような異常世界が、日常と化してしまっては、わたくしたちがついこのあいだまで、たしかに持っていた筈の、あの当たり前の「日常」というものの原型はもう、見ることが出来なくなるのかもしれません。……お月さまの光の下の、山野の吐く息づかいのような雑誌になれば、と思っています20

また、渡辺京二は、こう書き記します。

 創刊号の執筆者は石牟礼・赤崎・石本の三氏が水俣市、三原氏が福岡市に在住する以外はみな熊本市の住人である。……私は七年前に「熊本風土記」という雑誌を出して十二号にして休刊にいたらしめた前科者である。……ただ私は、「風土記」の中心的な書き手であった石牟礼・松浦・上村の各兄姉の力作が「暗河」創刊号の誌面の中心となっていることに、やや心なぐさめられる思いがする21

かくして道子は、水俣病訴訟の判決言い渡しを境として、一九七三(昭和四八)年以降、新たな文筆活動の道へと入ってゆくのでした。

それでは、この時期の道子の暮らしと仕事のありようは、どのようなものだったのでしょうか。道子は、このように書いています。

 いま自分の家と、秘密の仕事場の間を往き来するばかり、活字だけでわずかにこの世への片道通信を発しているわたしのことを、家のものたちは、半ばあわれがり、
 「おるげのもぐら殿」
 とか、「もぐらじょ」などという。じっさい、おてんとうさまに当たると、光やなまな風がまぶしすぎて、水晶体のないまなこがくらみ、心臓がいかれてしまい、掘り出されたオケラのようなあんばいである22

それでは、仕事の方は、どうでしょうか。

 もっとくだいていえば、この世に不幸感を持っている魂の歴史を自分のものにして、自分もそのなかにいま生きている意味を、納得したい、というのが、そろそろ、ものを書き出した十代の頃からの気持ちだった23

この初心が、一九七三(昭和四八)年に、一気に開花してゆきます。この年、「椿の海の記」の第一回を『文芸展望』の創刊号に、そして「西南役伝説」の第一回を『暗河』の創刊号に発表し、連載がはじまるのです。両作品ともに、「この世に不幸感を持っている魂の歴史」を叙述するもので、前者は自分自身の、後者は下層の人びとの魂を扱っていました。そしてこのとき、もうひとつ、道子の胸を占めている、強い思いがありました。

 水俣病問題にかかわっていて、おくれた主要なテーマはいまひとつあり、それは、わが国だけでなく、世界のなかでも今までかえりみられなかった「女性の歴史」をはじめて書いた詩人高群逸枝の評伝を書きたいことである。……
 彼女へのわたしの関心は、その業績にふれるには、あまりに無学、晩学で、これから勉強しなければならないけれど、水俣病にかかわっているうち、最初の予定にはなかった左眼の失明や、残りの視力もおぼつかないので、それには触れられそうもない。それより彼女の仕事に一貫しているこの世への愛や、その裏にある深い孤独や、詩人の魂ともいうべきものに、近づきたいと思っている。とはいえ、私の視力は時間の問題なので……本当は書ける日があるのかどうかおぼつかない24

「本当は書ける日があるのかどうかおぼつかない」と語る道子でしたが、「この世への愛や、その裏にある深い孤独や、詩人の魂ともいうべきものに、近づきたい」という思いが、道子の背中を強く押したのでしょうか、途絶えていた「最後の人」の執筆再開がここにはじまります。一九七三(昭和四八)年一月一日刊行の『高群逸枝雑誌』の第一八号に「最後の人 第九回 序章 森の家日記9」が登場し、ちょうど一年後の第二二号に「最後の人 第十回 第一章 残像1」が掲載されると、それ以降、「『恋愛論』解説 高群逸枝のまなざし」を掲載した第三〇号を除いて、憲三が亡くなる年(一九七六年)に発刊される第三一号の「最後の人 第十八回 第四章 川霧1」まで、休むことなく連載は続いてゆくことになるのです。事実上、これで『高群逸枝雑誌』は廃刊となります。

この間道子は、自身の「最後の人」である憲三の苦悩に寄り添っていました。その情景については、次の第四部「最晩年の憲三に浴びせられる悪意と悪口の数々」を構成する三つの章のなかで描いてみることにします。

(1)石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』講談社、1969年、289頁。

(2)橋本憲三「題未定――わが終末記 第一回」『高群逸枝雑誌』第8号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1970年7月1日、22頁。

(3)同「題未定――わが終末記 第一回」『高群逸枝雑誌』第8号、23頁。

(4)石牟礼道子からの手紙文。『高群逸枝雑誌』第8号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1970年7月1日、13頁。

(5)石牟礼道子『天の魚』筑摩書房、1974年、205頁。

(6)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、165-166頁。

(7)前掲「題未定――わが終末記 第一回」『高群逸枝雑誌』第8号、21頁。

(8)同「題未定――わが終末記 第一回」『高群逸枝雑誌』第8号、24頁。

(9)「たより」『高群逸枝雑誌』第11号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1971年4月1日、30頁。

(10)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、167頁。

(11)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、170頁。

(12)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。

(13)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、233頁。

(14)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、171頁。

(15)前掲『天の魚』、219-220頁。

(16)同『天の魚』、169-170頁。

(17)同『天の魚』、6-7頁。

(18)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、175頁。

(19)『石牟礼道子全集・不知火』第六巻/常世の樹・あやはべるの島へほか、藤原書店、2006年、539頁。巻末の「後記」によれば、初出は、『西日本新聞』(1974年4月6日)に掲載された「まだ灯らぬ闇の中から」のようですが、その日の紙面にはその形跡を確認することができませんでした。

(20)『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、創刊号、1973年秋季号、167頁。

(21)同『暗河』創刊号、168頁。

(22)前掲『石牟礼道子全集・不知火』第六巻/常世の樹・あやはべるの島へほか、540頁。巻末の「後記」によれば、初出は、『西日本新聞』(1974年4月6日)に掲載された「まだ灯らぬ闇の中から」のようですが、その日の紙面にはその形跡を確認することができませんでした。

(23)同『石牟礼道子全集・不知火』第六巻/常世の樹・あやはべるの島へほか、497頁。巻末の「後記」によれば、初出は、『九重華』(1973年9月11日)に掲載された「未完なる叙事詩を書くこと」のようですが、この雑誌の存在を確認することができませんでした。

(24)同『石牟礼道子全集・不知火』第六巻/常世の樹・あやはべるの島へほか、497-498頁。巻末の「後記」によれば、初出は、『九重華』(1973年9月11日)に掲載された「未完なる叙事詩を書くこと」のようですが、この雑誌の存在を確認することができませんでした。