一九六六(昭和四一)年の一一月二四日、ひと足先に道子は、「森の家」をあとにして水俣に帰りました。しかし、そこでの生活が懐かしく思い出され、憲三に手紙を書きます。以下はその一節です。日付は一二月二〇日。「森の家」の処分がすべて終わり、すでに憲三も水俣に帰っていました。
お話がしたいと思います。お話に飢えています。……わたくしはよく逃げ出していました。トンコたちのように。 おもえばまるでわたくしはあの鶏たちとよく似ていました。……結構お二人にいたわられて、愛されさえして、(実際それは本当でしたから)うつくしくしあわせに暮させていただきました。まるで窓から飛びこむように、彼女の書斎にもお茶の間にも寝室にさえ飛び込んでいたのですから1。
この文にみられる「愛されさえして」「寝室にさえ飛び込んでいた」といった字句に注目するならば、道子は単なるひとりの食客として過ごしたのではなく、この言葉は、明らかに「森の家」での同居中、憲三と道子のあいだに性的関係があったことを示唆します。そしてまた、この手紙文が、「寂滅(□□)の言葉はゆうべたしかめあった」という文言に隠された具体的な事実内容を示しているのかもしれません。
水俣に帰ると、年が明けた一九六七(昭和四二)年の一月、『高群逸枝全集』の第六巻「日本婚姻史/恋愛論」が出版され、翌二月、最終配本となる第七巻の「評論集・恋愛創生」が世に出ます。この「評論集・恋愛創生」の巻末にあります「解題/編者」において、憲三は、こう書きました。
あとにして思えば、死の当日、彼女はおそらく眼前の死の自覚なくて、はしなくも後事を私に託する発言をした。彼女を失っていまは廃屋と化した二階の一室、彼女が三十余年前に机上ただ一冊「古事記伝」を置き、「女性史学事始」をなしたその一室に、私はひとり老残を横たえて、未完のままのこされた彼女の自伝「火の国の女の日記」の整理にしたがい、その刊行について理論社社長小宮山量平氏の然諾および前述のように全集発行の申し入れを受けるにいたる。かくて「火の国の女の日記」は一九六五年六月に刊行、その書をも含む「高群逸枝全集」は一九六六年二月第一回刊行、同六七年二月最終回刊行をみる。彼女に負う私の義務もここに終わるのである2。
この文を含む「解題/編者」の末尾には、「遺影のもとで一九六七年一月一日橋本憲三しるす」とあります。この日、おそらく憲三の胸は、万感の思いで満たされていたにちがいありません。
この「解題/編者」を書き終わると、憲三の関心は、逸枝の墓廟の建立に向かいます。逸枝の生地は、現在の宇城市松橋町で、そこには弟の清人が住んでいました。また、憲三自身も、水俣市の出身ではなく、必ずしも、なじみの土地というわけではありませんでした。そこで憲三は、墓をどこに建てるか、少し迷ったようです。
建墓の場所について、第一に私の頭に浮かんできたのは、払川の彼女の両親の墓側だった。……高群家の当主清人氏にこのことをつげてその意向をただしたところ、たぶん自分を最後として払川には後継者がなくなるだろうし、またここはあまりに遠い。……むしろ帰住の地をすすめたいということだった。けっきょく、水俣になったのだった。 正直にいえば、私は水俣をついのすみかとは考えていないらしい。心はいつも世田谷の森の家から彼女が死んだ病院のあの一七号室にはせている。……ただ、骨だけは故山に埋めねばならない。故山は東京よりも彼女が愛したから。 墓所はぜひ私の居室からながめられるところをとのぞんだ。幸いにこののぞみはきかれて……秋葉山の小丘に九九坪の土地を恵まれた。 ……眼下段々畑のつきるところに市役所と図書館と第一小学校が麓と川の間に別天地をなし、全市街とそれを囲む山々と、海と、天草島を一望におさめる。もちろん私の小さな家もみられる。私の家から歩いて一五分の地点3。
墓廟の形状は、「幅および奥行き各三・八メートル、高さ二・三メートル」4の石積みで、製作は、大塚石材に発注されていました。一月二〇日の「共用日記」には、「大塚さん――昨々日から山口に石を注文に出かけ今朝帰ってきたと。雪のため、山元では三月はじめごろ出荷のみこみと、……明後日から墓所の整地はじめを依頼」5と、あります。そして、五月二二日、墓廟は完成し、逸枝の霊骨を入れる段取りが整いました。
夕ぐれ時、お骨を骨座にいれる。その他に、全集と愛用の万年筆。憲平の土。愛鶏たちのお骨。白ばら。静子と二人で。故人も安心しなはったろう。自分の家に入って。と病床の姉がいう6。
こうして六月七日の逸枝没後三年目の命日を前にして、無事納骨が終わりました。
墓廟の正面左手には、彫刻家の朝倉響子に依頼した、「高さ八五センチ、幅七〇センチ」7の逸枝の等身大胸像のレリーフがはめ込まれることになっていました。完成したレリーフが到着したのは、翌年(一九六八年)の八月一日でした。次は八月九日の「共用日記」からの引用です。「6時起床。静子をたのみレリーフを山下まで運ぶ。8時まえ上山、献花。大塚さんすでにあり、レリーフも上げあり。8時仕事はじめ」8。続く翌日、「8時上山、献花と昼べんとう。午後3時施工終了。下山」9。そして、次の一一日に、「午前清掃。ひとりで除幕式」10を執り行ないました。こうして旧盆に間に合ったことに、憲三はきっと安堵したことでしょう。
全集の完結、墓廟の建造に続く、三番目の憲三の大きな仕事は、『高群逸枝雑誌』の刊行でした。憲三は、この季刊誌に、逸枝に関する若手研究者の最新の成果や新たに発掘された関連資料などを掲載することにより、日本における女性史学の樹立者である妻の業績を顕彰しようと考えたのです。一九六八(昭和四三)年九月三日の「共用日記」には、「Mさん10時ごろ。高群雑誌の原稿『最後の人1』持参」11と記されています。「Mさん」が道子であることは、いうまでもありません。道子は、こう書きます。
そのお仕事は氏の晩年の日々の、せめてもの慰めであった。『高群逸枝雑誌』はそのような意図を秘めて出され始めた。同人は先生と弟子の私のふたりであった12。
そしてまた、道子は憲三を、このように見ていました。
彼女は神だ、とおっしゃる橋本憲三という人の生涯。(憲三氏を)いまだ書かれざる男性論としてみる場合、この人の懺悔僧あるいは布教者、いや彼女への帰依ぶりは徹底している。逸枝の下僕という言葉がいちばんぴったりする。いまだ描かれざる宗教画が私の中に組立てられる。彼女は神だ、といい、まさに神を仰ぎみている男性の顔は苦悶の極でもあり、神に近い13。
一〇月一日、『高群逸枝雑誌』の第一号が発刊されました。この号の誌面は、橋本憲三「『火の国の女の日記』の後」、高群逸枝「《拾遺》額田王」、石牟礼道子「最後の人1 序章 森の家日記(一)」、加えて「たより」欄から構成されました。「たより」には、四箇月前の六月七日の逸枝の命日に平塚らいてうから届いていた電文も転載されています。「本日、逸枝さんの五回忌をおむかえして、ご冥福のますますゆたかならんことを心からお祈りいたします。合掌」14。らいてうと逸枝夫妻との変わらぬ友情を、ここからも読み取ることができます。
他紙に先駆け、地元の『熊本日日新聞』が、一九六八(昭和四三)年一〇月四日、『高群逸枝雑誌』が創刊されたことを伝えました。とりわけ道子の「最後の人」に、関心が向けられています。以下は、「高群逸枝雑誌の創刊」(八面)という見出し語をもつ囲み記事のなかの一節です。
「最後の人」は長編評伝の第一回。「序章 森の家日記(一)」で、一九六六年夏、逸枝なきあと東京・世田谷の森の家が取りこわされる前に一度見ておきたいと上京した石牟礼氏が、残務整理もすませていよいよ、憲三氏とともに森の家をあとにするところから始まる。憲三氏は「瞑目したまま軽く呟くように、『逸っぺごろ、また水俣にゆきますよ』と熊本なまりでそういわれた」――それは逸枝自身が帰省のために森を出た昭和十五年八月の朝へと連想をさそい、さらに連想はさかのぼって招婿婚の研究当時の逸枝の日常へと連なったりする。逸枝の日記、憲三氏の談話ノートなどを随所に混じえながら、ある時は伝記風に、ある時は日記風に、書き進めていく。逸枝と著者との自由な対話といった趣のすべり出しである。
そして続けて、以下のように、今後の成果に期待を寄せるのでした。
雑誌は季刊の建て前をとり、研究論文、エッセー、評伝、創作など表現形式は自由、同人以外の寄稿も歓迎する。特定の学者一個人の研究を目的とする雑誌が、しかも地方で定期的に発行されるという例はきわめてまれであるが、この雑誌が息長く刊行され、成果をあげることを期待したい。
この創刊号の裏表紙の見返しには、『高群逸枝全集』を推薦する「高群全集に思う」と題された道子の文が掲載されています。そのなかで、憲三に言及した箇所を、次に引用します。
このような大事業をなして彼女が現世に得たものは名声にあらず富にあらず地位にあらずむしろその逆のものであったが、この事業の生涯の協力者であった夫憲三の至純の愛ひとつを抱きえた事は涙あふるる思いがする15。
こうして『高群逸枝雑誌』は、高群女性史学にとっての継続的な砦となることを目指して、水俣という小さな地方都市から産声を上げました。
年が明けて一九六九(昭和四四)年一月一日、『高群逸枝雑誌』の第二号が発行されました。この号には、道子の「最後の人2 序章 森の家日記(二)」と並んで、息子の石牟礼道生の「母への手紙」も掲載されました。大学生になっていた道生が、この時期、母親をどのように見ていたのか、その一端が、この文の末尾の詩片に現われていますので、その箇所を引用します。
なにもかも あなたがしっているところのものは すべて超越していて そんなことをさりげなく話すあなた そしてときには まだなんにも知らない 幼い少女の澄みきった心のように でも恥じらいながら知ろうとして またためらう娘のように16。
続く一九六九(昭和四四)年四月一日発刊の『高群逸枝雑誌』第三号の「たより」の欄には、らいてうからの手紙が掲載されています。前年の一二月三〇日に書かれたその手紙には、このようなことが記されていました。
いよいよ年も暮れようとしております、心ならずもご無沙汰申し上げましたが、あなた様のお心づくしで高群逸枝研究の雑誌が出ますことを心からうれしくおよろこびいたします。…… お立派なお墓が出来上がりましたことを知りうれしくおもいます。 この夏頃でしたが、やっとの思いで、お住いの跡――桜児童遊園を訪れました。……あの告別式の日の森のお家の印象はどこにも見出せません。 ……お二方さまのお住いの跡であることも、あのコウカンな女性史をおかきになったところであることも何一つの表示もないのを、また近所の人たちも全く何も知らないらしいのをたいへんさびしく感じました17。
おそらくこのとき、「高群逸枝記念碑」のようなものをこの公園に建立する思いが、らいてうの頭をよぎったようです。しかし、「その後私の健康がすぐれない日のみ多く病院のご厄介になったりしておりまして心ならずも年末を迎えてしまいました。この冬を何とか無事に乗り越えまして、春とともに元気を出したく念じております」18。そして、この手紙は、「お妹さまにも、今ちょっとお名前が浮びませんが御地の高群さん研究家のあのご婦人にもよろしくお伝え下さいませ」19という言葉でもって結ばれています。「お妹さま」が静子で、「あのご婦人」が道子であることは、明らかです。少なくとも逸枝の「森の家」での葬儀の際に、静子とらいてうは顔をあわせていますし、道子は、「森の家」滞在中に憲三に連れられて、らいてう宅を訪れています。
らいてうの体調がすぐれないなかにあっても、「高群逸枝記念碑」の建立の準備は進められてゆき、逸枝の没後五周年に当たる一九六九(昭和四四)年六月七日に、「高群逸枝記念碑」の除幕式が挙行されました。式典では、建碑世話人として一五名の名前が読み上げられられました。そのなかには、平塚らいてうや渋谷定輔に加えて、熊本出身の俳人である中村汀女の名前もありました。健康がすぐれず上京できなかった憲三に代わって、渋谷が遺族の挨拶文を読み上げました。碑の表には、逸枝自筆の詩章が刻印され、裏には、渋谷が原案を起草した、次のような由来記がはめ込まれています。
高群逸枝住居跡の碑 歴史学者詩人高群逸枝は深く武蔵野の森を愛し出世作「日月の上に」は一九二〇年ここの森の中で書かれました そして一九三一年研究所を設け定住し女性史の研究に献身して先駆的な不滅の業績をうちたて 一九六四年六月七日ここに偉大な生涯を終えられました 一九六九年春20
この除幕式については、「高群逸枝さんの記念碑 東京の旧居跡に完成」という見出しで、六月九日の『熊日』(三面)において取り上げられました。以下は、その一節です。
碑は「萬成」といわれる明るい茶色の自然石で、表面に「時のかそけさ春ゆくときのそのとき(ママ)[時]の時のか(ママ)[ひ]そけさ花ちるときのその時の」と高群さんの詩が刻まれている。橋本さんは病身のため除幕式に出席できず、手紙を送って「ありし日のかたみをとどめられることは故人の光栄はもとより、唯一人の家族である私にとっても感激です」と喜びの言葉を送ってきた。
こうして、逸枝と憲三が自宅兼仕事場として住まい、そしてまた、憲三の引導により、産所となって道子が蘇生した「森の家」――世田谷区に売却後、こうして子どもたちが遊ぶ公園になり、いまや、その片隅に建造された晴れの「記念碑」に、本人たちのみが知る幾多の物語と情感とが密かに刻まれることになったのでした。
(1)石牟礼道子『潮の日録 石牟礼道子初期散文』葦書房、1974年、219頁。
(2)『高群逸枝全集』第七巻/評論集・恋愛創生、理論社、1971年(第3刷)、374頁。
(3)橋本憲三「『火の国の女の日記』の後」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、5頁。
(4)同「『火の国の女の日記』の後」『高群逸枝雑誌』第1号、7頁。
(5)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、156頁。
(6)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(7)前掲「『火の国の女の日記』の後」『高群逸枝雑誌』第1号、7頁。
(8)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、159頁。
(9)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(10)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(11)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(12)石牟礼道子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、101頁。
(13)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、317頁。
(14)「たより」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、32頁。
(15)石牟礼道子「高群全集に思う」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、裏表紙見返し(ノンブルなし)。
(16)石牟礼道生「母への手紙」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、23頁。
(17)「たより」『高群逸枝雑誌』第3号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年4月1日、28頁。
(18)同「たより」『高群逸枝雑誌』第3号、同頁。
(19)同「たより」『高群逸枝雑誌』第3号、同頁。
(20)渋谷定輔「高群逸枝記念碑除幕式の経過」『高群逸枝雑誌』第5号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年10月1日、6頁。