逸枝を中心とする無産婦人芸術連盟が結成されたのは、一九三〇(昭和五)年の一月でした。構成員は、伊福部敬子、神谷静子、城しづか、住井すゑ子、高群逸枝、野副ますぐり、野村考子、平塚らいてう、二神英子、碧静江、松本正枝、望月百合子、八木秋子、鑓田貞子の一四名。そして、続く三月に、この結社の機関誌となる『婦人戦線』が創刊され、それは、翌年(一九三一年)六月刊行の第二巻第六号まで続きます。
創設同人のひとりである松本正枝もこの雑誌に論考を寄稿します。しかし、憲三は、「松本さんの『婦人戦線』論文はほとんど(あるいは全部)延島さんの代筆。たぶん住井すゑさんはご存知でしょう」1と書いていますので、松本はこの雑誌の活動にほとんど加わっておらず、実質的には、夫の延島英一が関与していたことになります。これが、『婦人戦線』を巡るおおかたの環境でした。
それから四〇年以上の時が経過しました。ところが、事もあろうに松本は、逸枝と自分の夫の延島がその当時恋人関係にあったことを、小説家の瀬戸内晴美に暴露したのでした。
それを聞いた瀬戸内は、自身の『談談談』で、政治家の小沢遼子と中山千夏を相手に、こう書いていますので、以下に引用します。
瀬戸内 ……だから私は男性で、内助の夫の系列というのを書こうと思って、岡本かな子と一平、高群逸枝と橋本憲三がいいと思って水俣へ行ってみたの。ところがだんだんいろんなことがことがわかってきてね。仲がいいかと思っていたら、その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって。 中山 普通との反対みたいね2。
瀬戸内が水俣の憲三宅を訪ねたとき、本当に憲三は、このようなことを瀬戸内に話したのでしょうか。「共用日記」によれば、憲三が瀬戸内に会ったのは、一九七三(昭和四八)年の二月一日のことで、このときがはじめてです。しかも、面談したのは、午後の八時三〇分から一〇時五〇分までの二時間と二〇分です。「その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって」といった内容のことを、憲三が初対面の瀬戸内に二時間余の短い会話のなかにあって語ったとは、にわかに信じることはできません。
続けて瀬戸内は、小沢と中山に対して、こんなことも話題にします。
瀬戸内 ……きのう私が訪ねて行ったおばあちゃまのところできいてみたの。「婦人戦線が潰れたところがよくわからないんですけど、逸枝さんはよく聞いてみると、男を作って、しょっちゅう逃げ出していたそうですが、ほんとうですか?」「ええ、ほんとうですとも。われわれの時代のアナキストは恋愛に対してもアナーキーで、逸枝さんはそれを実行なさいました。人の亭主でもなんでもおかまいございませんの」「だれか逸枝さんの相手で覚えている方ございませんか?」「はあ、ございますとも」そのおばあさんはそれからちょっと出ていってお茶を入れて、「うちの人です」(笑い)。 小沢・中山 へえー(笑い)3。
瀬戸内は、「きのう私が訪ねて行ったおばあちゃまのところできいてみたの」といっていますが、この「おばあちゃま」というのは、たぶん松本正枝のことでしょう。そして、瀬戸内は、小沢遼子と中山千夏を相手にしたこの対談について、「本書のための語り下ろし 昭和四十八年五月十日赤坂にて」4と書いています。それであれば、「おばあちゃま」を訪ねたのは、前日の五月九日で、水俣訪問から約三箇月後のことになります。そこから類推しますと、「その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって」と語ったのは、憲三本人ではなく、松本その人だったものと思われます。
瀬戸内の『談談談』が世に出たのは、一九七四(昭和四九)年二月です。憲三がこの本を手にしたのは、それから半年後のことでした。といいますのも、八月七日と翌八日の憲三の「共用日記」に、次のような文字が書き込まれているからです。
八月七日「石牟礼氏に電話。夕方みえる。みやげものもらう。お茶も。10時に辞去。辺境五と瀬戸内氏の談談談をもらう。睡眠薬服しすぐ就寝」。 八月八日「けさ、談談談を散見したら、一項目、さんたんたる事実無根の記事あり。……」5。
こうして憲三は、瀬戸内の『談談談』に事実無根の記述を見出すのでした。昨日人から聞いた醜聞を、真偽を確かめることもなく、さもおもしろそうに他人にいいふらし、さらにそのうえに、それを自慢げに文字に書く、瀬戸内晴美という作家に対して、憲三は、強い不信感を抱いたにちがいありません。
『談談談』における「事実無根の記事」を読むおよそ五箇月前の、一九七四(昭和四九)年三月二六日に憲三は、同じく瀬戸内が書いた「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」が掲載された『文芸展望』(筑摩書房)の五月号を手にしました。そしてその二日後に、記述内容を疑問視する憲三は、はじめて瀬戸内に手紙を書くことになります。
それでは、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」には、どのようなことが書かれてあったのでしょうか。憲三の瀬戸内宛ての反駁の手紙は、手紙としては実に長大なもので、そのなかで、「……というのはちがいます」「……混同ではないでしょうか」「……といったおぼえはありません」「……のことは私はしりません」「……全く考えられないことです」などといった表現を使って、幾つもの誤謬を指摘するのですが、そのうちの最大の核心部分は、『婦人戦線』のころの同人であった松本正枝(本名は延島治)が、逸枝の恋人が自分の夫の延島英一であったことを、聞き手の瀬戸内晴美に語る、次の場面でした。
逸枝の印象を訊くと、 「そうですねえ」 と、ちょっと遠い所を見る目つきをして、 「とにかく変わった人でしたから」 といい、口辺に微笑とも苦笑ともとれる笑いを浮べながら、 「あの人はアナーキストでしたからね……恋愛もアナーキーに実践なさいましたよ」 という。 「ということは、橋本さんの他に恋人がいたということでしょうか」 「ええ、アナーキーな恋ですから」 「その頃の恋の相手の方を御存じでいらっしゃいますか」 正枝さんは、小さな肩をちょっと落とすようにして、ふっと座を立つと部屋を出ていった。玄関のつきあたりにあった炊事場でお湯をわかしてきた薬かんをさげてほどなく部屋にもどってきた人は、白い柔和な表情で、またふっと軽く微笑して坐りながらさらりといってのけた。 「存じておりますとも」 さっきの話のつづきのつもりらしい。 「うちの主人でしたから」6
さてそれでは、本当のところ、逸枝と英一の関係はどのようなものだったのでしょうか。それを解き明かす証拠となる一次資料、たとえば、双方の当時の日記や書簡類が残されていないようですので、断定することはできません。それにしてもなぜ、どのような事情があって松本正枝という女性は、真偽は別として、かくも簡単に自分の夫の過去の品行を他人に打ち明けたのでしょうか。他方、それにしてもなぜ、どのような判断があって瀬戸内晴美という作家は、必ずしも真実とは限らない正枝の発話をそのまま信じて、自分の文にやすやすと取り入れたのでしょうか。疑問が残ります。
しかしながら、瀬戸内自身は、正枝をこう評価していますので、以下に引用します。
正枝さんの話し方は決して逸枝さんと夫との情事を非難しているふうではなく、過去の事実として語っているという感じを受けたし、高群逸枝という天才女人の多面的な性格の説明にはなっても、逸枝の人格の瑕瑾として感じるような話し方ではなかった。 ユーモラスで皮肉なことを、全く飄々とした顔でいってのけるのは、この人の天性のものか、晩年身につけたものかわからなかったが、私には好感が持てた7。
瀬戸内は、はっきりと、ここで「情事」という言葉を使って、逸枝と延島の関係を断定しています。明らかに瀬戸内は、事前に憲三に確かめることも、何か別の資料に当たることもなく、ひたすら正枝の語りに好感を寄せているのです。つまり、伝記執筆に必要とされる、事象にかかわるクロス・チェックがなされていないのです。一方、憲三にとって、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」は、自分の認識とは程遠い記述が至る所で散見される内容となっており、憲三はこの文を、ペンが剣に変貌した一種の凶器として、心身が震える思いで受け止めたのではないかと推量されます。
「この写しはあなたに参考にしていただこうと、気息えんえんながら起きて書いたものです。雑誌にいつかのせる気になるかも知れないとの潜在意識もあったらしくて」8と書き添えて、憲三は、この手紙のコピーを道子に託します。事実その手紙は、「瀬戸内晴美氏への手紙」という題で、憲三の死後四年が立った一九八〇年一二月に刊行された『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)において、実際そのとおりに、公開されることになります。疑うことなくこれは、憲三から道子に手渡された遺言書に近いものでした。憲三の無念は、彼を慕う、静子の無念でもあり、道子の無念でもあったのです。
こうして憲三は、一九七六(昭和五一)年の五月、静子と道子の必死の看取りのなかにあって息を引き取ります。それから四箇月後の九月、今度は、『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』と題された私家版本が、世に出るのでした。そのなかに、松本正枝の「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」という一文が掲載されていました。そこには、次のように、「高群逸枝のある恋愛事件」が活写されていました。
ラブレターを先に女性から手渡されてどうして男性がそれを受けないでいられましょう。「据膳食わぬは男の恥」という言葉を英一が教えられたのはその時だったでしょう。思想的に大いに共鳴しあいしかも肉体的に喜びを分ちあえる友はそうざらにいないでしょう。彼女は橋本氏にないものを彼に見出したのでしょう9。
こうして、自分の夫の英一と逸枝のあいだに、肉体関係があったことを、誰にはばかることもなく、明言するのです。そして、瀬戸内の「日月ふたり」については、次のように言及します。
一つの事件を三人三様にいい立てるのですから、「日月ふたり」を文芸展望に発表されて橋本氏を高群氏という素材を名器に仕上げた人と評する瀬戸内さんの多大な研究・取材は実に大きいと思います10。
最後にこの文を、松本はこのような言葉で結ぶのでした。
故人となった高群氏の「婦人戦線」時代を高く評価する人々、反面「実り少ない時期であった」と過小評価する、むしろ否定する橋本氏。しかし、高群氏をあの当時私が尊敬していた事、また今でも尊敬している事はかわりありません11。
松本の「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」が所収された『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』が私家版本として公開されたのは、一九七六(昭和五一)年九月でしたので、逸枝の死去(一九六四年六月)からすでに一二年が立っていました。他方、憲三の死去(一九七六年五月)からは、まだ四箇月しか立っていません。なぜこの時期の出版になったのでしょうか、そして、その出版目的は一体何だったのでしょうか。
私家版本ですので、店頭での販売はなされなかったものと思われます。しかし、海賊版も出るほど『高群逸枝雑誌』は好評でしたので、かつての購読者から静子か道子にこの本が送られてきたかもしれません。もっとも、ふたりがこれを目にしたことを示す資料は残されていません。それでも、もし読んでいたとするならば、ふたりの胸中はいかがなものだったでしょうか。死者といえども、守られるべき尊厳も人権もあるはずです。憲三を亡くし服喪のさなかにある両人には、耐えがたいものが残ったものと推量されます。
のちに女性史研究者の堀場清子は、『婦人戦線』の同人であった住井すゑに、『婦人戦線』における松本正枝名の論考は、自伝特集号の際の文以外はすべて延島英一の代作であったことを確認したうえで、自著の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』のなかで、次のように自身の見解を述べていますので、ここに紹介します。
[『解放戦線』は]延島英一の主宰で、解放社から5冊まで出た。逸枝は毎号力作の論文を寄せ、その高揚感から、英一との間に稀有の思想的共鳴があったと感じさせる。彼の妻松本正枝(本名延島治)は、1970年代になって瀬戸内晴美氏に、『解放戦線』は「二人の恋の記念碑」と語り、故事を白日の下に曳き出した。二人が‶恋愛関係″だったか否かを、私は審かにしない。……英一の側に恋愛感情のあったのは事実であろう。『婦人戦線』最後の2冊(2巻5号・6号)の「松本正枝」書名の論文は、あげて高群攻撃である。振られた男の恨み節とでもいうべきか。それにしても、代作によって『婦人戦線』同人になっていた(晩年に至るも同様の姿勢だった)、延島治という人の心理が、私には解りにくい12。
しかし、『高群逸枝の生涯 年譜と著作』が出版されるのは二〇〇九(平成二一)年の六月のことで、すでに前年の四月に静子は亡くなっていました。
私は、第九章において瀬戸内晴美の「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」を取り上げ、この小説が、いかに存命中の憲三を苦しめたか、その様子について書き記しました。それでは、それにかかわって、憲三が亡くなったのちの瀬戸内の行動は、どのようなものだったのでしょうか。瀬戸内の交友録である『人なつかしき』(筑摩書房、一九八三年)のなかの「『日月ふたり』のひとり 橋本憲三」における記述内容に、それを求めたいと思います。瀬戸内の水俣訪問の年月は特定できませんが、憲三が没して、数箇月から一、二年ほどが経過した時期ではないかと推量されます。したがって瀬戸内は、松本正枝の「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」を読んでいたにちがいありません。
憲三氏があんなに早く亡くなるとは思っていなかったので、その訃報に接した時はショックであった。何より、あれほど気に病んでいた憲三氏の疑いを、きっぱりと晴らす努力をしないまま憲三氏に逝かれたことが辛かったし、悔やんでもたりない後悔に臍を嚙まされる思いであった。 私はやはり「日月ふたり」を最後まで書きあげるべきだと思った。そうすることで、憲三氏のこの世で最も気にしていられた事柄の答えが出るだろうと考えた13。
瀬戸内がここで、「あれほど気に病んでいた憲三氏の疑い」といっているのは、逸枝と延島とのあいだにあったとされる、瀬戸内が書くところの「情事」のことでしょう。瀬戸内は、連載五回目の「日月ふたり(最終回)――高群逸枝・橋本憲三」の末尾にすでに「(了)」の文字を付していたのですが、どうやらここへ来て、それを再開する気持ちになったようです。瀬戸内の文は続きます。
私はおくればせながら水俣へ出かけ、憲三氏のお悔やみを静子さんに申しあげた。静子さんはとても喜んでくれて、全くおもいがけないことを私に申しつけられた。憲三氏の戒名をつけてくれといわれるのであった14。
瀬戸内は何を目的に、水俣まで足を運んだのでしょうか。「『日月ふたり』を最後まで書きあげる」意思があることを、わざわざ伝えるためだったのでしょうか。静子は、「日月ふたり」の連載に、憲三がいかに苦しんでいたのかをみぢかにいて知っていたにちがいありません。したがって、もし、そうした意向を示すために来水したのであれば、静子は決して「喜んで」瀬戸内を迎え入れることはなかったろうと思われます。あるいは、そのとき本当に静子が「とても喜んで」応対したのであれば、瀬戸内は、自分が書いた「日月ふたり」が憲三を苦しめたことに対しての弁明ないしは謝罪のために来たのかもしれません。瀬戸内は、静子が「憲三氏の戒名をつけてくれ」と要請したように書いていますが、しかし、もし自分の罪滅ぼしのために弔問に訪れたのであれば、瀬戸内自らが戒名を申し出た可能性が残ります。静子の書く文のなかにも、戒名のことに触れた箇所があります。「兄の遺言書の第一條に、『葬式ごとは一切しないこと』とあり……そういうことでしたので、兄には法名がなく、のちにおまいりをいただいた瀬戸内寂聴様にお願いして、贈っていただいております」15。しかしながら、兄の遺言を忠実に守ろうとしていた静子本人が、瀬戸内に戒名を願い出るとは、とても考えられません。そこで推測するのは、戒名がないことを静子から聞かされた瀬戸内の方から、憲三に与えた不快感を償うために、戒名を申し出たのではないかということです。そのとき静子は、遺言を理由に、おそらく固辞したにちがいありません。それでも、遠路わざわざ弔問に来た客の申し出をむげに断わることもできず、つい受け入れてしまったというのが真相で、「瀬戸内寂聴様にお願いして」の「お願いして」というのは、瀬戸内の厚意に配慮して、あえて自分が「お願いして」いるようにみせかけた、一種の擬態的な謙譲表現ではないかというのが私の考えるところです。
瀬戸内の文は、さらにこう続きます。
私は母屋の仏間に通されて、心から読経し、世にも不思議な稀有な愛に結ばれた夫妻のために回向した。 私は静子さんに「日月ふたり」を必ず完成すると誓った16。
しかしながら、「日月ふたり」の執筆が再開され、完成した形跡はありません。これも、極めて不可解なことです。「必ず完成すると誓った」意思の弱さ、あるいは言葉の軽さだけが残ります。水俣訪問の様子は、次のような語句で終わります。
最も感動したのは、憲三氏の生家で憲三氏の御祖先の仏壇の前に坐った時であった。橋本家の人々の大らかさとあたたかさは、静子さんでほぼ想像できたが、橋本家の方々にお逢いして、いっそうそれが橋本家の家風から生まれるものだということを納得したことであった。この家族だから、逸枝のような人物が受け入れられたのだとうなずけた。 神経質な憲三氏だけが、ひとり際立っているように感じられた17。
やはり瀬戸内にとって憲三は、理解を超えた異質な人間だったのでしょう。あるいは、そうした憲三像を意図的につくり上げることによって、「日月ふたり」を「(了)」とした原因に仕立て上げようとしたのかもしれません。瀬戸内は、「神経質な憲三氏だけが、ひとり際立っているように感じられた」と書きます。しかし、憲三と藤野の主治医として橋本家の人たちと日常的に接していた佐藤千里は、以下のように、藤野に愛された憲三の姿を描写します。
[藤野は]ここ十年余り、腎性高血圧で床に臥っていたが、床の中から家族や従業員の一人一人にまで気を配る様は、憲三がよく口にしていた「家刀自」の呼称がぴったりだった。 ふじのは、殊の他この弟を愛していたらしく、危篤の憲三を、家人の背に負われて見舞った時、「憲さーん、憲さーん、がん張らんばなあ」としぼるような声で呼びかけていた様が、私には昨日のように思い出される18。
藤野も、静子も、道子も、みな周りの女性たちは、憲三を愛していました。「神経質な憲三氏だけが、ひとり際立っているように感じられた」といった瀬戸内の観察を立証するにふさわしい資料(エヴィデンス)は、調べる限り、残されていません。
瀬戸内は、「橋本家の方々にお逢いして」と書きますが、訪問の年月については、何も述べていません。もし、藤野の存命中であれば、「橋本家の方々」は、静子と藤野を指すでしょう。しかし、藤野は、「腎性高血圧で床に臥っていた」にちがいなく、瀬戸内と会話ができたかどうかは不明です。もし会話ができていたとしても、藤野が、「神経質な憲三氏だけが、ひとり際立っているように感じられた」という印象を瀬戸内に与えるようなことは、まずなかったのではないかと思量します。他方、すでに藤野が他界していれば、応対したのは、「橋本家の方々」ではなく、静子ただひとりということになります。そのようなわけで、「ひとり際立っている」神経質な男として憲三を見る瀬戸内のまなざしは、極めて異質、あるいは異常としかいいようがありませんし、そうしたまなざしは、このとき、間違いなく静子にも伝わったものと思われます。
おそらくこの間、「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」のみならず、瀬戸内の『談談談』における憲三についての描写それ自体についても、静子は、兄の怒りを自分のものとして受け止め、大いなる不満を抱き続けていたものと想像されます。といいますのも、道子が預かっていた瀬戸内宛ての憲三の手紙が、『高群逸枝雑誌』の終刊号において、いよいよ公開されることになるからです。それについては、次の第一四章「もろさわようこの『高群逸枝』とそれへの静子と道子の反論」において、触れてみたいと思います。
(1)橋本憲三「瀬戸内晴美氏への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、59頁。
(2)瀬戸内晴美『談談談』大和書房、1974年、⑳⑥頁。
(3)同『談談談』、同頁。
(4)同『談談談』、⑳④頁。
(5)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、186頁。
(6)瀬戸内晴美「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」『文芸展望』第5号、1974年4月号、424頁。
(7)瀬戸内晴美『人なつかしき』筑摩書房、1983年、69-70頁。
(8)前掲「瀬戸内晴美氏への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、52頁。
(9)松本正枝「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』私家版(国立国会図書館デジタルコレクション)、1976年9月、31-32頁。
(10)同「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』私家版(国立国会図書館デジタルコレクション)、33-34頁。
(11)同「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』私家版(国立国会図書館デジタルコレクション)、34頁。
(12)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、58-59頁。
(13)瀬戸内晴美『人なつかしき』筑摩書房、1983年、70-71頁。
(14)同『人なつかしき』、71頁。
(15)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、8頁。
(16)前掲『人なつかしき』、71頁。
(17)同『人なつかしき』、同頁。
(18)佐藤千里「高群逸枝・橋本憲三を支えた人 その(一) 橋本ふじの(藤野)」『詩と真實』通巻第350号 8月号、1978年7月、46頁。