中山修一著作集

著作集29 余滴を集めて――石牟礼道子研究  石牟礼道子小伝――「最後の人」との契りから道行きまで

あとがき

二〇〇八(平成二〇)年一一月から『熊本日日新聞』に連載されていた道子の自伝「葭の渚」が、二〇一三(平成二五)年五月の掲載を最後に中断に至ります。自伝は、道子が「森の家」を辞して水俣に帰り、『高群逸枝雑誌』の創刊号から「最後の人」を連載するも、水俣病闘争に全面的に関わろうとするところで途切れます。

地元紙『熊日』に連載された「葭の渚」が単行本になり、さらに『石牟礼道子全集・不知火』の別巻に所収されるのが、二〇一四(平成二六)年の五月です。そのなかで道子は、「自伝『葭の渚』は『熊本日日新聞』に連載したのだけれど、水俣病第一次訴訟の頃まで書いて息切れしてしまった。病状もよろしくなかったし、訴訟提起後の錯綜した時期を整理して叙べるには、体力・気力ともに尽き果てていた」と書きました。

本稿執筆中、私の脳裏には、自伝「葭の渚」が中断されることなく、最後まで書かれていたら、そこには何が語られていただろうかという思いが常にありました。といいますのも、すでに「まえがき」のなかで引用していますように、道子は、自伝「葭の渚」のなかで、こう書いていたからです。

 水俣のことも、高群ご夫妻のことも、一本の大綱を寄り合わせるかのごとき質の仕事であった。二本の荒縄をよじり合わせて一本の綱を作る。人間いかに生きるべきかというテーマを、二つのできごとは呼びかけていた

道子は、一九六四(昭和三九)年に逸枝が亡くなると、追悼文「高群逸枝さんを追慕する」を『熊日』に寄稿し、その後、憲三が住む東京の「森の家」に滞在したときに、『熊本風土記』に連載していた「海と空のあいだに」の最終稿を仕上げ、そして、憲三その人である「最後の人」を書き始めるのです。「海と空のあいだに」が、一九六九(昭和四四)年に『苦海浄土 わが水俣病』として単行本になり、一方の「最後の人」は、『高群逸枝雑誌』に連載後、二〇一二(平成二四)年に『最後の人 詩人高群逸枝』となって上梓されます。『苦海浄土 わが水俣病』が、道子四二歳の、『最後の人 詩人高群逸枝』が、道子八五歳の作品でした。おそらく、道子が自伝「葭の渚」を完結していたならば、この『苦海浄土 わが水俣病』から『最後の人 詩人高群逸枝』までを扱ったものと思われます。そして、その内容は、「水俣のことも、高群ご夫妻のことも、一本の大綱を寄り合わせるかのごとき質の仕事」の再現となる、そして、「二本の荒縄をよじり合わせて一本の綱を作る」作業に似た、そうした記述になっていたことが想像されます。そしてそれが、道子にとっての「人間いかに生きるべきかというテーマ」であれば、ぜひともそれを読んでみたいというのが、この間の変わらぬ私の願望でした。

もちろん私は、道子に代わって自伝を書くことはできません。また、ひとつの出来事である「水俣のこと」については、すでに道子を対象とした作家論も作品論も多数世に出ています。そこで、もうひとつの出来事である「高群ご夫妻のこと」については、どうだろうかと考えてみました。道子とその周囲の人たちが書き残した一次資料を丁寧に渉猟し、それを援用することによって、「大妣君」である逸枝、「最後の人」である憲三、そのふたりと織りなす道子の真実の生涯をそれらの資料に語らせることは可能ではないかという思いが立ち上がってきました。そうした目的のもと、でき上った作品が、この「石牟礼道子小伝――『最後の人』との契りから道行きまで」です。

いうまでもなく、道子にとっての生まれ変わりの場が「森の家」でした。その意味で、再生された道子の人生の出発点をこの「森の家」に見ることになります。他方、道子は、この家で見た逸枝の膨大な蔵書にこころを動かされて、自分もこれから勉強しなければならないことを肝に銘じます。そしてまた、この家で、憲三が編集する「高群逸枝全集」を道子が読み、道子が書く「海と空のあいだに」を憲三が読みます。これらのことから判断しますと、石牟礼文学の原点もまた、同じく、「森の家」にあるといっても過言ではないでしょう。「森の家」での憲三との生活がなかったならば、私たちがいまや知る後半生の道子の人生も文学も存在することはなかったのではないかというのが、私の思うところです。

さて、それはそれとして、擱筆したいま、いずれにせよ本稿が、執筆目的にあった適切な内容になっているかどうか、その判断を私は、読者のみなさまの手にゆだねなければなりません。そしてまた同時に、今後、若き有能な石牟礼研究者のあいだにあって、道子がこころから願っていた、「水俣のことも、高群ご夫妻のことも、一本の大綱を寄り合わせるかのごとき質の仕事」の実際が鮮明に現像されることにより、その結果、「二本の荒縄をよじり合わせて一本の綱を作る」大業の実態が見事に描出されてゆくことを祈りたいと思います。もし本稿がその一助になれば、それは、私にとって喜び以外の何ものでもなく、研究者としての存在の実感をそこに見出すことになるでしょう。

それでは、本稿を締めくくるに当たりまして、改めて、逸枝、憲三、道子の三者にみられる相互の視線を書き記しておきます。

まずは、逸枝が憲三に向けるまなざしです。

 Kは私の見てきたところではきわめて透徹した孤独の持主だった。この孤独は自他の偏見を超越した普遍的な性格のものだった。俗な言葉でまた彼のきらう言葉でいえばそれは神に通ずるものだった。私が尊敬したのは彼の孤独だった。彼は男性なので社会が男性に与える世俗的な条件のために心身をさいなまれていた。そこに彼のやむをえない矛盾や錯誤もおこり不当に誤解されることもまた多かった。私は会わない前から電光の一閃でそれらのことをほとんど全面的に直感していた

いうまでもなく「K」は、憲三のことです。妻が夫に「神に通ずるもの」を見るとき、それは、全面的な夫への「帰依」を意味するのではないでしょうか。他方でまた、逸枝は、「彼は男性なので社会が男性に与える世俗的な条件のために心身をさいなまれていた。……不当に誤解されることもまた多かった」と書きます。このことへの闘いこそが、「フェミニスト男子」としての憲三の、見まごうことのない本領であったものと思われます。わかりやすく、この逸枝の言説を反転して、多くの「フェミニスト女子」にあてはめるならば、「彼女は女性なので社会が女性に与える世俗的な条件のために心身をさいなまれていた。……不当に誤解されることもまた多かった」ということになります。

一方、憲三は逸枝をどう見ていたのでしょうか。

 あのひとは、あのひとの心は、人類とともにいつもあって、僕はそれをおもう……彼女はやはり天才者だった……。彼女は三十七歳で研究にはいったが、僕はもっと早く準備をしてやれたらなおよかったと思う。もっと早く気づくべきだった……

このように憲三は、妻の逸枝が「天才者」であることを自覚していました。そしてまた、執筆環境の整備が遅れたことを悔やんでもいました。

次は、道子が憲三に向けるまなざしです。

 彼女は神だ、とおっしゃる橋本憲三という人の生涯。(憲三氏を)いまだ書かれざる男性論としてみる場合、この人の懺悔僧あるいは布教者、いや彼女への帰依ぶりは徹底している。逸枝の下僕しもべという言葉がいちばんぴったりする。いまだ描かれざる宗教画が私の中に組立てられる。彼女は神だ、といい、まさに神を仰ぎみている男性の顔は苦悶の極でもあり、神に近い

憲三は逸枝を「神」とみなしていました。そして、道子が観察するところによれば、そのときの憲三の「顔は苦悶の極でもあり、神に近い」ものでした。

それでは最後に、憲三は道子をどう見ていたのでしょうか。

 秋晴れのよい日でしたね。あなたの古典的なあのお家にお伺いしたのは。かつてないことでしたが。ちょうど一〇年です。あれから。彼女が出発した頃にうりふたつでしたよ、本棚もなんにもない、しかし、本が二、三冊あって。うっかりすると世間にいれられない孤独な姿で……

死期が迫るなか、憲三の脳裏には、一〇年前の一九六六(昭和四一)年の美しい秋晴れの日の出来事が映し出されています。これが、静子を同伴させての二度目の石牟礼邸訪問でした。この日憲三は、東京の「森の家」をこれから解体するので、その様子を見ておいてほしい旨のことを申し出たのでした。しかしこれは、居場所を失っていた道子を救い出すための方便でもありました。

以上、逸枝、憲三、道子の三者にみられる相互の視線を引用しました。ここから何が見えてくるでしょうか。この国における「女性史学」の構築に向かう逸枝を、陰で献身的に支える「フェミニスト男子」として憲三。「うっかりすると世間にいれられない孤独な姿」の道子にさりがなく手を差し伸べる憲三。そうした憲三の受苦的で孤高なる振る舞いのなかに「神」を見る逸枝と道子。憲三という黒子がいなければ、おそらく逸枝のあの膨大な仕事はなかったでしょう。憲三についての幾多の道子の著述が存在しなければ、憲三は、いまなお歴史の闇に隠れたままになっていたにちがいありません。では、果たして道子の、「最後の人」たる憲三へ向けられた「慎んでいたい」という控え目ながらも切なる思いは、いかなる方法によって救済されるのでしょうか。


「最後の人」は「どうしてずっと単行本にされなかったんですか」という、最晩年の質問に対して、道子さんは、「慎んでいたいと思った。そのうち、だれかが見つけて読んでくださるだろうと、そんな気持ちでした」と、答えています。僭越も不遜も顧みず、そしてまた、浅学に非才を重ねるなかにあってここに書いた、「石牟礼道子小伝――『最後の人』との契りから道行きまで」は、「だれかが見つけて読んでくださるだろう」という道子さんの気持ちに対する、私なりの返歌です。「人の思いは、こんな単純なものじゃありませんよ」といわれることは十分承知しています。いかなる人間であれ、他者の魂の隅々までを十全に描き出すことはできません。それでも、ぜひとも道子さんのご霊前にこの駄文をお届けしたいというのが、いまの私の偽らざる気持ちです。道子さんと私の母とは同年の生まれです。道子さんのご子息と私も同年齢です。おふたりに面識はないものの、同じ熊本の空の下にあって同時代を生きた朋友という思いが、この間ずっとしていました。いかに稚拙であろうと、この一文を書き上げることができたことを私は誇りにいたします。


最後に一言。本稿の末尾にあります、「再録追記 石牟礼道子の『沖宮』における四郎とあやのモデルについて」は、参考までに、著作集23『残思余考――わがデザイン史論(下)』、第三部「高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子論」の第二話「石牟礼道子の『沖宮』における四郎とあやのモデルについて」を再録したもので、それをもって本稿の本文を補う追記とさせていただきます。

さらにまた、この著作集29『余滴を集めて――石牟礼道子研究』の巻末に、著作集27『余滴を集めて――高群逸枝研究』と著作集28『余滴を集めて――橋本憲三研究』をあわせた、三巻に共通する「写真集」を置きましたのでご活用ください。あるいは、著作集23『残思余考――デザイン史論(下)』、第三部「高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子論」の「第一話 『三つの巴』画像集」をご参照いただければ幸いです。なお、ここに使われています「三つの巴」とは、著作集18『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』において詳述しているとおり、高群逸枝、橋本憲三、石牟礼道子の三者の関係を同定した、私の独自の用語法です。


ところで、一七世紀の島原・天草の乱を主題とした石牟礼道子の「春の城」と、一四世紀のワット・タイラーの乱に題材を求めたウィリアム・モリスの「ジョン・ボールの夢」とを比較分析した文を、いつかは書いてみたいと思っています。それが可能となった暁には、著作集26『残思余考――すべては夢のなかから』に所収することになるにちがいありません。しかしそれは、最後の最後の楽しみとして残すとして、一応、本稿「石牟礼道子小伝――『最後の人』との契りから道行きまで」の擱筆をもって、ここに、「三つの巴」たる高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子にかかわる実質的研究を閉じることにします。

これより、いまだ手つかずの空白部分を残している、著作集17『ふたつの性――富本一枝伝』へ復帰し、それを書き終えたら、これまでの、私の学問上の寄り道も回り道も、すべてが終了します。それよりのち、老兵いまだ去りがたく、本来の私の研究領域でありますデザイン史・デザイン論とウィリアム・モリス論の世界に帰着し、いよいよそこを主戦場に、再び自己との戦いに入るつもりでいます。

もっとも、それもこれもすべて、病苦および老弱を前にした避けがたい相克という現実の時空にあっての立ち振る舞いということになります。この身を置いた森羅万象のうつし世に、別れを告げるその日まで、諦めず、そしてまた、くじけず、「全巻完結」というかすかな灯を頼りとし、強く強く、しっかりと、ここ「火の国」阿蘇の森のなかに生きて、これからも筆を握り続けたいと思います。

(1)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、410頁。

(2)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、287頁。

(3)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、217頁。

(4)石牟礼道子「最後の人4 序章 森の家日記(四)」『高群逸枝雑誌』第4号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年7月1日、23頁。

(5)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、317頁。

(6)石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、62頁。

(7)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、452頁。

(8)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。