※全文をPDFファイルでダウンロードしてご覧いただけます。 [PDFファイルについて] 『著作集19』PDFダウンロード (0.4MB) 更新日:2024年4月5日
ここに公開する著作集19『翻訳/モリスの芸術論と社会主義論』は、ウィリアム・モリス(一八三四-一八九六年)によって書かれた芸術と社会主義に関する論考のなかから以下の代表的な一〇編を選んで翻訳し、公表年順に構成したものです。多くは、英国の社会主義運動が高揚した時代の講演のための原稿として執筆されています。 小芸術(一八七七年)The Lesser Arts [1877] 民衆の芸術(一八七九年)The Art of the People [1879] 生活の美(一八八〇年)The Beauty of Life [1880] 生活の小芸術(一八八二年)The Lesser Arts of Life [1882] 金権政治下の芸術(一八八三年)Art under Plutocracy [1883] 芸術と社会主義(一八八四年)Art and Socialism [1884] 芸術の目的(一八八七年)The Aims of Art [1887] 社会主義の理想(一八九一年)The Socialist Idea [1891] 共産主義(一八九三年)Communism [1893] いかにして私は社会主義者になったか(一八九四年)How I became a Socialist [1894]
次の著作集20『翻訳/モリス「ジョン・ボールの夢」』は、一八八六年一一月一三日から翌一八八七年一月二二日まで、社会主義同盟の機関紙『コモンウィール』に連載されたウィリアム・モリスの中世の農民反乱を扱った A Dream of John Ball を訳したものです。一二章から構成されています。
続く著作集21『翻訳/モリス「理想郷からの知らせ」』は、一八九〇年一月一一日から同年一〇月四日まで、社会主義同盟の機関紙『コモンウィール』に連載されたウィリアム・モリスの革命後の未来社会を扱った News from Nowhere を訳したものです。三二章から構成されています。
このように、著作集19、著作集20、そして著作集21の連続する三巻は、モリスの芸術思想と社会思想を知るうえでの基礎となる論考および物語文を翻訳したもので、詩集を除く、ひとつの簡略化された「日本語版モリス選集」となっています。娘のメイが編集しました実際の「ウィリアム・モリス著作集」は全二四巻で構成されていますが、このたびの訳業に際しましては、私は、以下のとおり、そのなかの第一六巻、第二二巻、および第二三巻に所収されている文を底本として使用します。
May Morris (ed.), The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge/Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XVI, vol. XXII, and vol. VVIII.
著作集19『翻訳/モリスの芸術論と社会主義論』、著作集20『翻訳/モリス「ジョン・ボールの夢」』、および著作集21『翻訳/モリス「理想郷からの知らせ」』の各巻の冒頭に、それぞれの巻の解題に相当する「訳者前言」を付すつもりでいますので、個々の作品の本国における執筆の背景や日本における紹介の経緯などにつきましては、そちらに譲るとしまして、ここでは、三巻全体を通してのモリス思想の特徴と意義について触れてみたいと思います。
最初に、私がいま思う結論から述べさせていただきます。これまでの自身の研究により、私は、著述家としてのモリスを、人生の前半部分になしえた詩作の部分が豊饒な人類愛的感性と強健なロマン主義的反抗精神とをつくりあげ、それを背景としながら、人生後半にあって、デザイナーとして実践的に感じ取ったヴィクトリア時代の悲惨な状況に直面する芸術と社会を救済するために、主として講演というかたちをとって大衆に訴えかけ、最終の晩年に至り、そうした、社会に抗う人びとについての中世のひとつの歴史事例を「ジョン・ボールの夢」に求め、他方で、闘争に勝利したあとの未来に生きる人びとについてのひとつの想像世界を「理想郷からの知らせ」に乗せて語った人であると、そのように概観しています。したがいまして、モリスという人物は、単なる静的な詩人でも社会思想家でもなく、運動に必要とされる芸術と社会についての詩人の抱える直截的論理を動的に世に投げかけた、前代に存在しない極めてラディカルな「運動理論家」であり、そしてまた、そうした運動にかかわる過去の出来事と未来の様相とを、極めて豊かな構想力でもって描いてみせた、実に稀有な「詩人=歴史家」ではなかったのかという認識に、いま私は立っているのです。モリスは、大芸術ではなく、小芸術を擁護しました。権力者の側ではなく、民衆の側に立ちました。そして思うに、男性の立場よりもむしろ、女性の立場を優先させて見守りました。モリスの著述は、どれもこれもすべて、小さきもの、弱きもの、名もなきものの存在を、自身が習得した独自の実践的かつ歴史的観点に立って鼓舞し、勇気づけるものでした。それでは以下に、その内実を、執筆の時間軸に沿って個別的に見てゆきたいと思います。
一八八〇年二月にバーミンガムで「生活の美(The Beauty of Life)」について講演したとき、モリスは、こう語りました。
つくり手と( ・・・・・ ) 使い手にとっての( ・・・・・・・・ ) 喜びとして( ・・・・・ ) 民衆によって( ・・・・・・ ) 民衆のために( ・・・・・・ ) 製作された( ・・・・・ ) 芸術がかつては存在していたことを、文明化した全世界が忘れ去ってしまった。
モリスにとっての芸術は、中世の芸術がそうであったように、分かちがたく実際の民衆の生活に寄り添って存立するものであり、「芸術のための芸術」という新たに生まれた近代的な観点とは対極に位置するものでした。つまりモリスは、芸術の本質を、生活感情と美意識の物質化であり、手による労働の喜びの結晶であると考え、その結果、芸術の機能を、製作者と使用者を豊かに結び付ける生産的で精神的な媒介物として理解していたのです。
モリスの考えでは、本来的に、大芸術たる絵画や彫刻と、小芸術(いわゆる装飾芸術)たる家具やテクスタイル、さらに金属細工やガラス器などのすべての生活用品とは、ひとつの空間(たとえば教会の内部)のなかにあって上下の隔たりなく共存し、互いに助け合う関係として存在していました。ところが、ルネサンス以降、壁画や天井画は次第に自立化して額縁に収まり、小宇宙を形成するようになり、同じく彫刻も、壁龕やものの表面から離れて、独自の存在を主張する傾向にありました。一方で、取り残された装飾芸術は、その行く手を失っただけでなく、加えて新たに、生産手段が手から機械に取って代わられようとしていました。モリスが生きたヴィクトリア時代は、そうした傾向が決定的なまでに拡大した時代でした。モリスは、そこに芸術の危機を感じ取り、強い不安を覚えます。その認識が最初に示されたのが、一八八〇年の「生活の美」に先立つ、一八七七年一二月にロンドンで行なわれた講演「装飾芸術(The Decorative Arts)」でした。その後「小芸術(The Lesser Arts)」に改題されますが、以下に、そのなかの一節を引用します。
ふたつの芸術の関係が崩壊し、別々のものになったのは、いまだ比較的新しい時代になってからのことであり、大変厄介な生活状況下での出来事でした。思いますに、そうした分離が起こることによって、それに付随して、芸術にとっての病がもたらされました。つまり、小芸術は、取るに足りない、機械的な、知力に欠けたものになり、流行や不誠実さによって余儀なくされる変化に抗しきれなくなっているのです。一方の大芸術も、このしばらくのあいだは、偉大な精神と見事な手わざをもった人間によって製作されてきているとはいえ、小芸術の助けを受けず、両者は互いに助け合わなかったために、必然的に民間芸術としての権威を失うことになり、一部の有閑階級の人びとにとっての無意味な虚栄を満たす退屈な添え物、すなわち巧妙な玩具にすぎないものになっているのです。
この講演のなかでのモリスの関心は、一部のお金持ちの所有欲を満たす形式へと堕落した絵画や彫刻といった大芸術ではなく、分割された一方の小芸術の方にありました。このときモリスは、小芸術を、「すべての時代にあって人間が、日常生活上の見慣れた事柄を多少とも美しくしようと努力してきたことに依拠する一大芸術であり、つまりはそれは、広範な主題であり、大規模な産業である」とみなし、この芸術を論じることは、「世界の歴史の大部分を論じることになるだけではなく、同時に、世界史研究にとっての極めて有益な手段となりうる」という認識を示します。モリスの考えるところによれば、世界の歴史は装飾の歴史と同義であり、装飾の危機は、とりもなおさず、世界の危機を意味したのでした。
中世が終焉すると、ヨーロッパ社会は、資本主義と機械生産へ向けての文明化の道を選びます。一九世紀英国のその到達点のなかから、その動きに抗うようにして、モリスの思想は生まれます。それは、同時代の芸術の衰退と社会の醜悪さを指摘し、それに比べればまだしも豊饒な芸術と共同体が存在していた中世に着目し、その時代を、依拠とすべき原点としてとらえ、生産的効率と経済的利潤の拡大へと邁進する近代化の道程を断罪し、民衆の連帯のもとにそれを乗り越え、近未来における新世界誕生への展望を切り開こうとするものでした。
英国の一八八〇年代は、社会運動が激化した時代でした。モリスもデモの隊列の先頭に立ちます。しかし、支配者や権力者に抗議するこうした示威運動の出現は、このときが最初ではありませんでした。夢想者は、次第に自分が、一三八一年のケント州で起きたジョン・ボールを指導者とする農民反乱に遭遇していることに気づき、そこから物語が展開してゆきます。夢想者は、政治活動家たるモリス本人と考えてよいでしょう。ジョン・ボールにとって救済されなければならないのが、農民のいのちと生活であり、それを抑圧しているのが国王による課税の強化でした。農民による反乱軍は、旗を押し立てて進行しました。その旗には、「アダムが耕し、イヴが紡いだとき、誰がジェントルマンだったのか」という文字が並んでいました。著者のモリスはこの文言を、「初期世界の象徴」と書いています。初期世界にあっては、自然の脅威はあったものの、重くのしかかる、支配者と被支配者の分け隔てなどは存在せず、誰しもが等しく平和な生活を営んでいたのです。
さらにモリスは、この「ジョン・ボールの夢(A Dream of John Ball )」と題された歴史小説のなかで、中世農民の抗議運動の先頭に立つジョン・ボールに、民衆に向かって、こう語らせます。
フェローシップは天国であり、その欠如は地獄である。フェローシップは生であり、その欠如は死である。
この言辞は、一八八〇年代の社会情勢に抗して闘争のなかに身を置いていたモリスの、自身の指導のもとに大衆運動に参加していた社会主義陣営に属するすべての連帯者に送らんとする言葉だったにちがいありません。
「ジョン・ボールの夢」に続いてモリスは、「理想郷からの知らせ(News from Nowhere )」を執筆します。そのときまでにモリスの脳裏には、近未来に革命が起こり、その後に新しい世界が生まれ、そこにあっては、階級が消滅し、平等な男女が喜びのある労働を楽しみ、その成果物である芸術が生活に安らぎを与える――そうした解放された楽園の映像が投射されていたにちがいありません。「理想郷からの知らせ」は、モリス自身にとっては、当時の社会と労働と芸術の置かれている暗黒的状態を適切にも分析した結果の、極めて個人的な文学的所産といえるかもしれませんが、他方それは、誰もが共有可能な極めて普遍的な未来社会へ向けての淡くも強靭な展望をはらむものでした。モリス本人はそれを、「ヴィジョン」という言葉でもって表現しています。以下は、「理想郷からの知らせ」の最後に述べられている言葉です。
そう、そのとおり!私が見てきたように、もしほかの人もそれを見ることができるならば、そのときそれは、夢というよりは、むしろひとつのヴィジョンと呼ばれるようになるかもしれない。
「理想郷からの知らせ」が世に出る四年前の一八八六年九月に、フリードリヒ・エンゲルスは、ある人に宛てた手紙のなかで、モリスのことを「根強いセンチメンタルな社会主義者」と書き記しました。おそらく、このようなモリスに対する認識が、今日に至るまで、「科学的社会主義」とは相容れない負の部分となってモリス評価の底流を形成していたものと思われます。しかし、誰もが知るとおりに、モリスは、壁紙やテクスタイルなどの日用生活品を扱う「モリス商会」のオーナー=デザイナーであり、社会民主連盟や社会主義同盟を足場として行動する政治活動家でもありましたが、単にそれだけではなく、『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』や『地上の楽園』を代表作とするヴィクトリア時代の偉大なる詩人のひとりでもあり、詩人の夢からしか到達しえない、あるいは、詩人の夢を借りなければ容易に可視化できない、経済学上の「学術的」分析とは明らかに異なる、そうした、みずみずしい「体感的」把握がもたらす社会主義もまた正当にも存在していたのであって、その事実は、決して軽々に手放されるべきではないのではないかと思われます。「科学的」に対置されるところの「夢想的」(戦前の日本にあっては「芸術的」)を冠する「夢想的社会主義」という立脚点が、積極的にモリスを評価する地平となりうるのか、そのことがいま、この二一世紀において改めて問われているといえましょう。
一八九八年までに、News from Nowhere は、フランス語、イタリア語、ドイツ語に翻訳され、日本にあっては、『平民新聞』において、一九〇四(明治三七)年一月三日付の第八号から四月一七日付の第二三号までの連載を通して紹介されます。これは、枯川生(堺利彦)による抄訳で、「理想郷」というタイトルがつけられていました。連載後、ただちにその抄訳は単行本としてまとめられ、「平民文庫菊版五銭本」の一冊に加えられます。発行所である平民社の編集室の後ろの壁の正面にはエミール・ゾラが、右壁にはカール・マルクスが、そして、本棚の上にはウィリアム・モリスの肖像が飾られていました。しかし、連載を終えると、不幸にも訳者の堺利彦は、官憲の手によって獄窓の人となるのです。当時、社会主義弾圧下の日本にあってモリスを紹介する行為には、まさしくいのちをかけた、正義のための不退転の決意が寄り添っていたのでした。
ここをひとつの起点として、News from Nowhere は、爾来百数十年になんなんとする日本へのモリス紹介の歴史のなかにあって、これまで多くの優れた文人たちによって訳されてきました。訳書題も時代とともに移り変わります。終戦以降は「ユートピアだより」がほぼ定着します。私自身もこれまで、慣例に従いながらも漢字表記を使って、「ユートピア便り」を訳語としてきました。しかし、それにもかかわらず私は、「理想郷からの知らせ」というタイトルをあえて新たに用いることにしました。それは、このユートピアン・ロマンス(夢想的物語)の翻訳者として、自分の身の危険を顧みず、勇敢にも日本の最前列に立つことを決意した堺利彦に敬意を表し、彼が使用した「理想郷」という文字をどうしてもここで再現したかったからです。News from Nowhere を訳したからといって、少なくとも今日にあっては投獄されることはありませんが、夢を語り、理想を掲げることが困難になる時代が、いつまた来るかもしれません。今日の世界を概観すると、戦争や核兵器の放棄に手をこまねいています、なぜ平和主義に徹することができないのでしょうか。原子力発電から自然エネルギーに転換することに躊躇しています、なぜ過去の教訓に学ぼうとしないのでしょうか。差別や迫害が横行し難民が生まれています、なぜ人権が守られないのでしょうか。気候の変動を止めることができません、なぜ自然のなかに生きる道を模索しないのでしょうか。富める者と貧しい者、多数者と少数者、そして勝ち組と負け組のあいだに理不尽にも大きな溝が存在します、なぜ同じ人間が平等に生を享受できる地平が用意されないのでしょうか。全体的に見ると、明らかに人類の生存が脅かされているのです。しかしそれは、いまに限ったことではありません。そうした状況は、かつては中世の「ジョン・ボールの夢」のなかに現われ、一九世紀イギリスの社会主義運動のなかで再び強く問われ、それを乗り越えた人びとの姿を、いま私たちは「理想郷からの知らせ」というユートピアン・ロマンスから読み取ることができるのです。しかし、すべての問題が解決されているわけではありません。私がいま確信していることは、理想を語ることを諦めてはいけないということです。そのためにも、モリスの芸術と社会に対しての語りと実践は、多くのヒントを与えてくれます。これが、著作集19、20、21の連続する三巻でもってモリス作品を訳そうと思い立った大きな理由です。これまで多くの人たちの努力により書籍化された訳文に不満があるわけではありませんし、自分なりに原文も読んできました。しかし私は、個々の単独の訳書や、原文の斜め読みや拾い読みからではわからない、モリス著作の全体を流れる内なる鼓動のようなものに耳を傾け、可能な限り、身体的に直接、それに触れてみたかったのです。上記の、決して安泰とはいえない、いやむしろ深刻化が加速している、かかる二一世紀の社会状況のなかにあって、もう一度モリス勉強の原点に立ち返り、そこから改めて思考の営みを再開し、デザイン史家としてのわずかに残された自身の生をまっとうしたい、これがいまの私の偽らざる心境です。この思いが、ひとりでも多くの読者の胸に届き、これから翻訳するモリス思想のほぼ全貌が少しでも広く共有されるようになれば、こだまとなって訳者へ向けての望外の幸せがおそらく近寄ってくるにちがいありません。先立って、ここに心からのお礼を申し上げます。それではこれより、自分の能力のすべてを使って訳業に当たります。しかし、不適切な訳や誤った訳が、意に反して含まれるかもしれません。それはすべて訳者である私の責任です。その場合は、卒直にお許しを請いたいと思います。
二〇二三年一〇月三一日 南阿蘇の森のなかの寓居にて もうすぐ迎える七五歳の誕生日を待ちながら 中山修一