中山修一著作集

著作集29 余滴を集めて――石牟礼道子研究  石牟礼道子小伝――「最後の人」との契りから道行きまで

まえがき

一九六六(昭和四一)年六月二九日、一五時一一分、国鉄水俣駅のホーム。その時が来ました。石牟礼道子は、こういいます。「いよいよ東京行き霧島に乗る。厳粛な気持ち。はじめて夜汽車に乗ることになった。瀬戸内海見えず。関門トンネルに気づかない。憲三氏とつい話しこんでしまったので」

同道の「憲三氏」という男性は、女性史学者としてその名を残す高群逸枝の夫です。二年前にすでに妻を亡くしていました。車中ふたりは、どのようなことを話題にしたのでしょうか。想像するしかほかに手立てはありません。逸枝のこと、「森の家」のこと、全集刊行のこと、水俣病のこと、さらには、連載中の「海と空のあいだに」のこと、そして、ふたりの今後のこと――。翌日の午後東京駅に着くまでのおよそ二五時間、ふたりの会話が途切れることはなかったでしょう。実にこうして、六九歳の憲三と三九歳の道子の一昼夜にわたる、生まれ変わりへ向けての厳粛なる道行きが、進んでいったのでした。

道子は、憲三について、こう吐露します。

ほとんど宿命的にかかえこんでしまった故郷水俣の出来事についても、同郷のよしみで直感的に把握していられた。その上突如としてこの森にかけこみをした盲目的衝動をも、たぶん理解されていたのだっただろう。静と動との極点を、わたしはゆきつもどりつせねばならなかった

水俣病との対峙、そして逸枝と憲三への恭順、このふたつが、道子の内面を駆け巡っていました。まさしくこの時期に形成された両要素が動力となって、こののちの道子の生涯を先導することになるのです。道子は、それについて、以下のように分析しています。

 水俣のことも、高群ご夫妻のことも、一本の大綱を寄り合わせるかのごとき質の仕事であった。二本の荒縄をよじり合わせて一本の綱を作る。人間いかに生きるべきかというテーマを、二つのできごとは呼びかけていた

ここに引用した文は、そののちの道子の生涯を規定する極めて重要な言説であるように思われます。といいますのも、人間のいのちと暮らしについての無自覚な生後体験から、民衆へ寄せる私的かつ詩的な独自のまなざしへの昇華、――そしてその、まさしく着床された土着的魂に導かれて描かれる普遍的な人類族母の史的再生。これが、その後の石牟礼文学を通底する「人間いかに生きるべきかというテーマ」の原像ではないかと考えるからです。

逸枝が亡くなるまで憲三が一緒に暮らした「森の家」。憲三の導きにより道子はこの「森の家」に滞在します。

七月三日のノートに、道子は、こう書きました。

 今夜更に高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った。それは橋本静子氏に対する手紙の形で(つまり、静子氏を立会人として)あらわした。午前三時これを書き上げる

ここに道子は、自身の後半生を、逸枝と憲三に契ったのでした。立会人の静子は、水俣に住む憲三の妹です。道子の「最後の人」は、かくして書き始められます。

 たぶんこのような一文を草せねばならぬ日が確実におとママれるのを予感しながら、あの「森の家」の一室で、ノートの表題を「最後の人」と名づけたのだった。
「最後の人としたのですか。なるほど、うん。よい題だなあ」

このとき憲三は、道子にとっての「最後の人」が自分であることを十分に理解していたことでしょう。そして憲三は、道子にこういいました。「その、僕が生きている間に、書きあげて、読ませて下さると、ありがたいのですがね」

「最後の人」は、憲三が主宰する『高群逸枝雑誌』の初号(一九六八年一〇月)から連載されますが、憲三の死去に伴い、この雑誌も廃刊となり、「最後の人」もそれをもって終了します。しかし、「最後の人」は、すぐにも単行本になることはありませんでした。それが、『最後の人 詩人高群逸枝』という書名のもとに世に出たのは、二〇一二(平成二四)年一〇月のことです。最初の雑誌掲載から四四年が経過し、道子はこのとき、八五歳になっていました。

『最後の人 詩人高群逸枝』の発刊の二箇月前、版元である藤原書店の藤原良雄が、道子にインタヴィューしたときのことです。藤原が、憲三について、道子に問いただします。

石牟礼 はい。憲三さんのような人、見たことないです。純粋で、清潔で、情熱的で、一瞬一瞬が鮮明でした。おっしゃることも、しぐさも。何かをうやむやにしてごまかすというところが感じられない。言いたいことははっきりおっしゃる。
――「最後の人」というのはどういう思いで。
石牟礼 こういう男の人は出てこないだろうと。
――憲三さんのことを。
石牟礼 はい。高群逸枝さんの夫が、「最後の人」でした

ここにあって道子は、自分にとっての「最後の人」が、書名にある「詩人高群逸枝」の夫である「橋本憲三」だったことを公言するのでした。

ちょうどそのとき、道子は、新作能「沖宮」を書いていました。内容は、少女のあやが、霊界の天草四郎に守られて、天草灘の海底に沈む〈沖宮〉へ向かう道行きです。道子は、自分の思いをあやに託し、四郎を憲三に見立て、道行きの先には、大妣君である逸枝が住んでいることを想定していたものと思料します。こうして、事実上の絶筆となる「沖宮」は完成し、道子のいう「水俣のことも、高群ご夫妻のことも、一本の大綱を寄り合わせるかのごとき質の仕事であった」、その仕事を巡る一大叙事詩がここに幕を下ろしたのでした。

憲三に導かれての道子の、水俣から逸枝の霊が住む東京の「森の家」への現実世界における道行き、いまやそれが自叙伝的能作品へと昇華し、浜辺から見送る人びとの涙を背に受け、雨乞いの人身御供となって小舟に乗ったあやの、族母の大妣君である逸枝をはじめとする憲三の姉妹たちが待つ〈沖宮〉へ向けての道行きとなり、かくして読経の響き渡るなか、あやは、途中同道の四郎との夢にまで恋願った心中を果たすことになるのです。

ここに私が書き記す「石牟礼道子小伝――『最後の人』との契りから道行きまで」は、その物語詩の全体的概略が、自身の多弁や駄弁を可能な限り排し、残されている動かしがたい一次資料に根拠(エヴィデンス)を求めることにより、再構成されたものです。それでは、第一部「吐血した魂の一条の光明との出会い」の第一章「石牟礼道子の『魂が吐血した状態』の前半生」から書き始めることにします。

(1)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、246頁。

(2)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、12頁。

(3)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、287頁。

(4)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、247頁。

(5)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、8頁。

(6)同「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、10頁。

(7)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、453-454頁。