中山修一著作集

著作集29 余滴を集めて――石牟礼道子研究  石牟礼道子小伝――「最後の人」との契りから道行きまで

第六部 遺された静子と道子の苦界浄土

第一四章 もろさわようこの「高群逸枝」とそれへの静子と道子の反論

橋本静子は、一九七〇(昭和四五)年二月に夫の英雄を、続く一九七六(昭和五一)年五月に兄の憲三を、そして、一九七八(昭和五三)年六月に姉の藤野を、この三人の肉親を立て続けに亡くし、この時期、傷心の日々が続いていたものと思われます。そうしたなか、一九八〇(昭和五五)年の秋のある日、一冊の本が集英社から送られてきました。見るとそれは、集英社刊の円地文子監修『文芸復興の才女たち』(近代日本の女性史 第二巻)でした。これは、女性史に関する論集で、そのなかにもろさわようこが執筆した「高群逸枝」がありました。読み通した静子に、体の震えが止まらない、大きな憤りが吹き出してきたにちがいありません。何ゆえに、こうまで兄が罵倒されなければならないのか――。さっそく静子はペンを取り、もろさわに宛てて手紙をしたためました。これが、すでに廃刊となっていたはずの『高群逸枝雑誌』が息を吹き返し、「終刊号(第三二号)」として発刊されなければならなかった動機となる部分でした。この誌面に、その手紙は掲載されます。

それでは、一九八〇(昭和五五)年一二月二五日に刊行された『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)の「編集室メモ」に目を向けてみましょう。ここに、橋本静子と石牟礼道子のそれぞれの名で、ふたつの文が所収されています。静子の文の前半部分に、この号を出すに至った背景が書かれてあります。長くなりますが、これこそが静子のこころではないかと思われますので、そのまま引用します。

 『高群逸枝雑誌』は兄がひとりの手作りをたのしんだもので、私は終始を門外に居ました。家の孫三人に続いて同居の従業員夫婦の三人の子守りをしなければならず、姉が倒れて寝たままとなったりの事情などもありました。兄の没後も四箇年を過ぎました今、集英社の本に触発されました形で不本意にも終刊号を借ります仕儀となりましたことをなにとぞお許しくださいませ。また、兄生前をお支えいただきましたことを遅ればせながら深く御礼申し上げます。まことにありがとうございました。
 『高群逸枝雑誌』を身近かにお支えくださいました石牟礼道子様お一人だけに事情を申し上げて終刊号を諒承していただきました。志垣寛様の御遺族の志垣美多子様、村上信彦様、鹿野政直様には、それぞれの玉稿の転載を御許可いただきましたことを厚く御礼申し上げます。編集は、水俣在住中の数少ない兄の知友であられた渡辺京二様にお願いしました。渡辺様は雑誌『暗河』の高群逸枝小特集の件で私宅をお訪ね下さったこともあり、その御縁を頼らせていただいた訳でございます。兄の主治医であられた佐藤千里様には、精神安定剤や栄養剤をおねだりしましたばかりでなく、おはげましや有益なご助言をいただきました。ただありがたく、御礼を申し上げる言葉もございません。失礼をいたしましたことはなにとぞ、御あわれみで御寛怨くださいますよう、臥してお願い申し上げます。
 あたたかい陽ざしの此の頃を、兄夫婦の墓家と下段の私どもの墓家を毎日訪ねています。レリーフによりかかりますと、途端に私は八歳の少女になり「イツエねえちゃん。どうしよう?」とたずねます。「静子さん、もういいのよ。あなたもここにいらっしゃい」と声が返って来たように思いました。人は皆、死ぬことに決まっているのに。「お手紙」を書いたことにこころがいたみます

一方、「編集室メモ」になかの道子の文には、こうした文字が並びます。後半部分の一節です。

 思えば逸枝が古事記伝一冊を机上に置いて、研究生活への第一歩とした三十七歳と同じ歳に、そこへゆくことを許された私は、小学校国語読本によって初めて文字と出逢ったものの、女学校にもゆけなかった。逸枝にくらべれば文盲に等しく、帰郷した後も勉強し表現することがはばかられる身であった。そのようであったゆえに、誰にも気兼ねせず、あまつさえ夫に助けられて学問をした女性がいた、そのことを知っただけで、わたしの内部に核融合反応のような事が起きた。
 役に立たない同人を先生はお叱りにならず、水俣病のことで書くビラにお目を通され、失明寸前を発見して頂き、医者につれて行って下さった。
 お言葉の数々をテープに採らせて頂けばよかったが、不器用で思いもつかなかった。後世の為に如何ばかり意味を持ったかと悔まれるが、堀場清子氏による「おたずね通信」が残されたことは私どもの喜びである。
 折にふれて洩らされる御言葉を私は、卓越した思想家、批評家の言として拝聴した。真の意味のラジカルさを身をもって行った人の言葉はじつに透明であった。御臨終には主治医の佐藤千里氏が立ち合われた。その間のことは『草のことづて』(筑摩書房刊)に記したのでここでは割愛した

この『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)は、次の論考で構成されていました。

もろさわよう子様へ 橋本静子
高群逸枝の入院臨終前後の一記録 橋本憲三
  終焉記 橋本憲三
  高群さんと橋本君 志垣寛
瀬戸内晴美氏への手紙 橋本憲三
橋本憲三氏の生涯 鹿野政直
高群逸枝の女性史学 村上信彦
朱をつける人 石牟礼道子

このなかの「瀬戸内晴美氏への手紙」は、第九章「瀬戸内晴美の『日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――』」ですでに言及していますように、「この写しはあなたに参考にしていただこうと、気息えんえんながら起きて書いたものです。雑誌にいつかのせる気になるかも知れないとの潜在意識もあったらしくて」と書き添えて、生前憲三が道子に託していたものでした。「日月ふたり」の第三回を読んだ憲三が、このとき瀬戸内に宛てて出した手紙のコピーで、疑問と抗議を示す内容となっています。その意味で、まさしくこれは、憲三から道子に手渡された遺言書に近いものでした。こうしてここに、ついに日の目を見ることになるのです。

最初の「もろさわよう子様へ」と最後の「朱をつける人」に挟まれた論考は、いずれも旧稿からの転載であり、そのほとんどについて、本稿の他章において言及していますので、本章では、静子の「もろさわよう子様へ」と道子の「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」に限定して、触れることにします。

静子の文である「もろさわよう子様へ」は、次の言葉ではじまります。

 集英社から『近代日本の女性史』第二巻が贈られました。この本のもろさわ様の御担当になる『高群逸枝』を拝見しましたので、初めてお手紙を差上げます。
 兄憲三をいわれもなく侮辱されていますし、二人の四十五年の共生が憲三の卑しい志のゆえんであったと、意図してお書きになっているように思います。憲三には、いずれも「婦選会館」のかかわりで二度の面識と言われながら、二回の瞥見で他人の七十九歳の生を斬られたことは無謀だと思いました。
 昭和三十九年(一九六四)六月十日、逸枝の代々幡葬祭場における葬儀で、「憲三の妹静子」(二〇七頁)としてお見知りいただいているようでございますが、逸枝国立東京第二病院入院前後の時にも私はもろさわ様を存じあげていません。……
 文章とは無縁で一行の活字もありません。性格は父母からの血が流れており、理不尽に対しては正直に腹を立てますから、おとなしい方だとは申されないかも知れません。生来、お茶目だと言われています。地位、名声、職業、風采などでは人を見ず、品性や志、それと人柄のあたたかさ、詩情などの情感にひかれます……
 姉逸枝の国立東京第二病院前後にかかわりました遺族のうち、ひとりの生き残りでもありますので、兄憲三のことと合わせて、私の見たこと、感得したことをお伝えしたいと思います

こうした前書きのあと本論に入り、もろさわの文のもつ誤謬や偏見の数々を、その頁を明記しながら、指摘してゆくのでした。それでは、そのなかから幾つかを引いてみます。

まず、憲三の容姿にかかわってのもろさわの描写箇所についてです。もろさわは、こう書いていました。

やや小柄で口数のすくない憲三は、同じ部屋うちのはすむかいの机に、ときおり姿をみせたが、外交的で気配たくましい陽気な女たちの出入り多い場所柄のせいもあってか、来たのも帰ったのもまわりがあまり気づかぬ目立たぬ人だった。憲三は少年のおり傷つけた左眼が失明しているため、首をいささか左にかたむけ、肩をいからせ勝ちにしていた。物資のない戦中に使われた粗末ななわ編みの古びた買い物袋をいつも下げて持ち、膝のつきでた古ズボンをはき、ちびた下駄をせかせか飛び石に鳴らして、婦選会館へ入ってくる彼は、その気配に都会人のダンディズムはみじんもなく、野の少年のひねこびたなれの果てといったおもむきの人でもあった。それから絶えて会うことがなく、十年余の歳月があったのだが、彼は当時と同じく、大人の男の気配を相変わらずその身に宿してはいなかった

これは、明らかに外見的差別(ルッキズム)や障害者差別に近い表現です。しかし、この文について静子は、こう書いて受け流します。

 このような御評価を読んで、私にはかえって兄の人柄がこの上もなくこのましくなつかしく思われました。「外交的で気配たくましい陽気な女たちの出入りの多い場所柄」(二〇四頁)とお書きになっている婦選会館で、憮然としている兄の様子が偲ばれました

「それから絶えて会うことがなく、十年余の歳月があった」のち、市川房枝の紹介で逸枝は国立東京第二病院に入院します。市川房枝、鑓田貞子、浜田糸衛、高良真木といった面々のあとについて、もろさわも、逸枝を見舞いに病院へ向かいます。これが、婦選会館で遠目に見知って以来、もろさわが憲三を見る二回目の機会でした。もろさわは、ひとりずつ順番に病室に入り、最後に自分も病室に入ると、長話になり、逸枝の容体が悪化することを心配した憲三から注意を受ける場面を描いています。これについて、一方の静子は、こう書きます。

 病妻の全責任者は夫でありまして、責任者の申し入れを無視されてまでも、病者の不治性を知りながら何故に押し入ろうとされたのでしょうか。……ここはもう夫婦の領域。よろわないで、身つくろいしないで居れるのは夫婦か親子まで。他人はみだりに介在してはいけないし、病人の保護者からもとめられた時に、お手をさしのべられるのが、親切でありご友情とおもいます

病室での面会のあと、控え室に入った市川らが、逸枝の病状を憲三に告げることになりますが、その場面についてもろさわは、こう書いていました。

 控え室へもどると、市川たちが、事実を憲三に告げることに決めていた。誰かが呼びに行き、やがて煩わしげに現れた憲三に対し、市川が主になって、逸枝の病状はそれなりの覚悟をしなければならない事態であることを言い聞かせた。はじめから体を硬直させ聞いていた憲三は「そういうことは、ぼくには耐えがたい」と、両掌で顔を覆い、椅子からくずれ落ちた。失神したのである。弱気であるというより、妻の存在を生き甲斐にしてきた憲三にとっては、世界のくずれる衝撃だったのだ。……
 注射のせいだろうか、十数分たつと、憲三は安らかな眠りから覚めるみたいに、おだやかな身じろぎと共に眼をあけた。ご気分はいかがですかと問うと、彼はそれに答えず、あんた誰? と言った。苦笑とともに私が名のると、彼は、鼻の先でかすかにうなずき、そのままそそくさと起き上がり、私にひと言の挨拶もなしに、妻の病室へあわただしく行ってしまった。彼には妻へのおもいだけがあって、他をかえりみるゆとりがないのだと、あたたかくつつんでおもいやらなければ、いささか腹立たしくなる態度だった

他方、この文について静子は、こう書きます。

妻は死ぬのではなかろうか。死なせてはならぬと、さぞかしうろたえたことでしょう。夫婦で四十五年もの長い間を暮らしていれば、椅子からくずれ落ち、失神もし、欠礼して、足も地につかないで病室へよろめき入ったのであろうと、兄の苦境が新しく思い遺られてかわいそうでなりません。
 兄憲三とは物ごころついてから、姉逸枝とは八歳からのつき合いですが、もっとも良い夫婦振りと見ていますので、お記述の状況を拝見いたしまして、二人のいたみは私のいたみとなり、ひとを愛することの哀しみをかなしみ、一時は行を読み進めませんでした。狂乱、狂死とまでいかなかったことを、ありがたいことと思っております

続いて静子は、逸枝の遺体を前にした霊安室での市川と憲三とのやり取りのなかで、市川が葬式のクラスを差配しようとしたことについても、市川が逸枝の死亡広告に名前を出すのを断わったことについても、また、市川が憲三の貯えが数百万円であったことに驚き、先日憲三に渡した「見舞金」の返却を求めたことについても、もろさわの文のその箇所を引用しながら、それに対する自分の意見を述べるのでした。総じて、霊安室での市川と憲三のあいだに生じた反目にかかわる静子の考えは、このようなものでした。長くなりますので、全文紹介はできませんが、要所要所をつなぎあわせてみます。

 ご記述をみますと、市川房枝様は他人のプライバシーの中に入られています。他家の葬式に、祭式のクラスをご自分の勝手で当惑なされることはございません。逸枝の入院にさきだって、一切の金銭のご相談もいたして居らず、物乞いはいたしていません。……
兄の言った数百萬は一から九までのどの数百萬かは分りませんが、人生五十年といわれた頃の七十才の妻と、六十七歳の老夫婦では、子もなく年金もなくてこれ位(一から九のどの数百萬か知れませんが)のたくわえは、ある方が健全な生活体制ではないのでしょうか。少し位の余裕はもたないと、経済がひっぱくしてしまっていてはしごとに根性がすわりません。
 四十五年も連れ添い、昨日まで手も取り合い言葉も交わした妻を、もう灰にせねばならぬのに、遺体に寄り添うのもくちづけをするのも人目をはばかる余裕などないことなども、すべてにご批判の目でご覧になっていますが……「人の死」にのぞまれたかたがたの非人間性を思います。
 らいてう様は私どもへご会葬くださり、過分の御香料をお恵みいただき、引き続き御愛情を賜りました。「このときを境にして、市川、鑓田、竹内茂代らは憲三と絶縁」(二〇七頁)とありますが、このことは、その後らいてう様から変らぬ御厚誼をたまわりましたことと思い合わせますと、政治家と文学者の違いを思わずにはおれません10

そして静子は、憲三と逸枝の夫婦について、かくも明確に語るのでした。これも長くなりますので、断片断片をつなぎあわせます。

 逸枝は死の床で、「自分もお兄様を神様とおもっている」と、私にこたえています。[全集が]自分の手に成っていれば、巻末には、二人で歩いた越しかたの感慨をかたり、深い愛をかたり、感謝の言葉で結んだことを私は確信いたします。……
 二人が意中としたものは、「男は女を支配しない女は男を支配しない共同の社会」であり、そして「愛は創造するもの」とのぞんだのです。私はそう受け取っています。憲三は憲三の得手をふるい、逸枝は逸枝の得手で志に向かったもので、逸枝は先生、憲三は生徒、先生と生徒の落差を家事などで埋めた同志、同学、そして夫婦です。学問に志せば憲三は普通水準、逸枝は天才でした。……
 学問は日日に発展し停滞があってはならず、後学は批判、検討、修正して次なる後学へ引き継がねばならないと思います。逸枝はその著書で後学へ後をたのむと訴えています。二人は女性史学への門戸の前に辿りついただけのものです。
 憲三は他の多くの男性と同じく……男性上位の体質でした。……或る日、女性の位置まで降りて来たのです。そして、男女が同等のところで住んで見れば、居心地よくてたのしくて、有頂天になって暮らしたのです。二人には、男の仕事、女の仕事という区別はありませんでした。こういう楽しい生き方に導いてくれてありがとうと、それからずっと思っていて、「神様」と呼んだのは、『小僧の神様』のあの神様と同義語です11

『小僧の神様』は志賀直哉の短編小説です。神田の秤屋で丁稚奉公する小僧が、金持ちのお偉いさんに鮨をご馳走になり、その人を神様と崇めるようになるというのが、この小説の粗筋です。

こうして最後に静子は、「もろさわよう子様へ」を次の言葉で結びました。

 何ヶ月か前に、郷土紙上の市川房枝様のお名前が出ている記事で、憲三のことがあしざまに書かれていてはらが立ったと、近親者からも聞いています。今回のことといい、何度もむしかえし活字になさらねばならないお心が理解できません。
 私は文筆とは無縁で、一行も活字にした経験はございませんが、亡兄の縁にせがみ、『高群逸枝雑誌』終刊号の誌面を借りて、当面した一人だけの生存者として、真意をお届けいたしました。
  昭和五十五年十月二十五日記12

それでは次に、道子の「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」を見てみたいと思います。

静子が、もろさわの「高群逸枝」について、その誤謬を正そうとして正面から論じたのに対して、道子は、背後に回り、そのなかで侮蔑的に描写されていた逸枝と憲三を救い出そうとして、論理的にというよりは、むしろ詩的に、ふたりに備わる幾多の美質を説こうとします。道子は、まず、こういいます。

……本稿は、『高群逸枝雑誌』の発刊と終刊に立ち会いながら、ただただ無力でしかなかったひとりの同人として、森の家と橋本憲三氏の晩年について、いまだ続いている服喪の中から報告し、読者の方々への義務を果たしたい13

憲三の死から四年が過ぎてなおも服喪に身を置く姿を見ると、単なる「ひとりの同人」の域を超えた道子の、「森の家」で静子を立会人として「高群夫妻とそして自分とに、後半生を誓った」14決意の強さが蘇ります。道子は何としてでも、敬愛する逸枝と憲三を、落とされた闇のなかから救済し、その名誉を回復せねばならないのです。それが、道子が自覚する、まさしく「義務」だったのでした。

また、「わたしたちの逸枝はしかし、詩人としての出発に当ってまことよい理解者にめぐまれたといわねばならない」15という一文のなかの、「わたしたちの逸枝」という表現にも、注目する必要があります。といいますのは、逸枝は、単に「憲三の逸枝」ではなく、もはや「憲三と道子にとっての逸枝」という位置づけがなされているからです。これもまた、「森の家」で静子を立会人として「高群夫妻とそして自分とに、後半生を誓った」ことに、由来しているものと思われます。

それでは、道子は、逸枝と憲三の夫婦をどう見ているのでしょうか。その視点を表わしたものが、以下の文です。

 私どもが夫婦の生き方に心をゆすぶられてやまないのはなぜなのか、愛の形はいろいろあろうけれども、この二人においては徹底的に相手に対して真摯にむきあい、慢性的な弛緩やなれあいが、みじんも感ぜられないからであろう16

また道子は、自身の出自と重ねて、逸枝の作品を語ります。

 筆者も血縁の中に父なし子やいわゆる精神異常者らが一人ならず二人ならず居て育ったが、逸枝もまた、生命がこの世の煉獄からも出生し、血の河を流れて野に出る姿を眺め、その意味を考え抜いたに違いない。『放浪者の詩』を読めば文章上の修辞ではなく、地獄の焔に遭う人であったことが読み取れる17

道子は精神を病んだ文盲の祖母のもとで育ちました。道子の父が酒乱であれば、逸枝の父もそうでした。道子は、若い弟を鉄道自殺で失いました。憲三は、幼い妹を不慮の事故で亡くしています。加えていえば、憲三は、幼い日の事故で左眼を失明。同じく道子の左眼も、すでにこのとき、その視力のほとんどが失われていました。

さらに道子は、これまでの「恋愛事件」を念頭に、憲三の言葉を交えて、こうも語ります。

 「擬恋もあったのです。彼女はなんというか、恋の上手な人だったものですから。誰だって彼女を見れば、恋せずにはいられなかったのでしょう。」(憲三氏の言葉)ということであれば彼女の持っていた蜜の香りがどのようなものであったか、悩殺されたものたちがいてもしかたがない。それにしても、憲三に向けてのみ終生積極的に愛を訴え、それを確認したがり、共に「完成へ」と歩んだのは、よくよくその夫を好きであったと思われる18

さらに加えて、入院中の逸枝の気持ちを、こう察します。

死の数日前水俣から上京して、病院を見舞った義妹の静子さんに、「森の家に行ったら、ぜひ『留守日記』を読んで下さい」とわざわざ彼女がいったのは……森の家に帰りたいのを訴えていたのではあるまいかと思えてならない19

それでは『留守日記』から、一節を引いておきます。一九四三(昭和一八)年二月一七日から二四日まで、憲三は、父親の三回忌のため水俣に帰省しますが、この間逸枝は、「留守日記」を書きます。留守中逸枝は、以下のように、陰膳をして憲三の無事を祈ったのでした。

 ご飯をたべてきた。はじめて新しく炊いた。のりとざぜん豆のおかず。夫にもよそい、お茶も二人ぶん。上にあがると、きのうとおなじ夕焼けである。窓からみていると、あの欅の下から夫がやってくるような錯覚がおこる。こたつに火をいれる。むこう側の夫の影にあいさつして机にむかう。影はふかく頭をたれてねむっている。ああまた日没時だ。風がさびしい。かきおとしたが、のこりのぼた餅をたべた。ちょうどお母さんが夫からもらってたべてくださったであろう時刻に。つめたくはあるが、うまかった。いまごろ水俣ではどんなだろう20

おそらく、このときの憲三の水俣帰省は、ふたりが離れて時を過ごす、最初の機会だったものと思われます。母親の姿を見失った幼子のような逸枝の姿が目に浮かびます。静子は、逸枝のこの日記を読み、憲三に向けた逸枝の愛の深さを改めて知ったものと思われます。そして同時に、強い思いをもって逸枝が、一日も早く退院して「森の家」に帰り、再び憲三と一緒に暮らしたがっていることに気づかされたにちがいありません。なぜ憲三は、自宅で逸枝を看取れなかったのか、その悲しみを、静子も道子も共有していたものと思量します。

ここで、結婚を前にした逸枝が、憲三に宛てて書いた若き日の手紙の一節を想起したいと思います。

 若い、氣高い、血氣が、妾をおそひます。ああ、妾どもの高潮した青春よ。妾はそれを決して萎らせないでありませう。……妾を愛して下さい。愛して下さい。愛して下さい。強く強く愛して下さい。
 妾はあなたに抱かれて死にませう21

ここから、自分が死ぬときは憲三の腕のなかで、という逸枝の思いが伝わってきます。しかし、病院は完全看護。神と崇めて止まない妻に、そうしてあげられなかった夫の無念は、いかほどだったでしょうか。さらにいえば、憲三が死亡広告と葬儀の費用としてそれなりの資金を用意していたことに対して憤慨し、死亡広告に友人代表に名を連ねることを拒んだことは、それぞれにそれぞれの考えがあるとしても、逸枝の遺体の前にあって、その死に打ちひしがれている本人を前にして、これまでに分け与えたものを返してほしいという言葉を市川から浴びせられたときの憲三の、その思いは、いかほどだったでしょうか。

憲三は、入院に際して受け取っていた「お見舞い」のお金を、葬儀後市川に返金しました。しかし、もろさわは、「市川は主宰する婦人問題研究所を通じ、昭和二十四年(一九四九)から昭和三十六年(一九六一)末まで逸枝の研究に対する物心両面で援助をつづけていた」とも、「それだけの貯えがあるなら、人からの寄金はもらうべきではなかった」と、憲三に対して市川が言い放ったとも、書いていますので、市川が逸枝の霊前で返還を求めたのは、単に数日前に渡していた「見舞金」のみならず、この間の一二年にわたる「物心両面」での援助と「人からの寄金」のすべてだったのかもしれません。しかしながら、これが、人が人に対して行なう「援助や寄付」の真のあるべき姿であるかどうかは、人によって、その見解は異なるにちがいありません。

一方、憲三については、こう書きます。道子は「森の家」で、自身の出発作となる『苦海浄土』の初稿となる「海と空のあいだに」を書いていました。

 その後の著書はすべて『椿の海の記』に至るまで、師が最初の読者、批評者であった。いかに透徹し卓越した批評家であられたことか。水俣のせんすべない事情はえんえんにひき続き、今に至るも恩師から託された御志を果たせないでいる。御死去に逢い、はなはだしい気落ちからいまだに立ち直れないのである22

ここで朱線を引いて、こころに留めておかなければならない箇所は、憲三の「御死去に逢い、はなはだしい気落ちからいまだに立ち直れないのである」という文言でしょう。

道子の文の特徴は、至る所で話題が切り替わり、ストーリーが四方に発展していくことにあります。この「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」においても、文の途中で、道子が、市川房枝ともろさわようこに触れる箇所がひとつだけありますので、以下に、引用して紹介します。もっともこれは、本題の「弱法師」を語るうえでの単なる枕詞として使われているにすぎません。場面は、すぐにも切り替わります。

 この稿を書く途中に、もろさわ・ようこ様の御労作(『文芸復興ママの才女たち』集英社)を拝読する機会にめぐまれた。深く考えさせられる事であった。市川房枝女史にも、もろさわ・ようこ様にも水俣のことで御高恩をこうむっており、長く忘れがたいこととして、ここに深謝をのべておかねばならない。さて、もろさわ様による、逸枝死去の夜の場面、憲三が、「妻の遺体に寄りそって接吻をくり返し『約束どおりあなたの自伝は、かならずぼくが完成させますからね』とそのたび・・・・・ごとに・・・云っていた」という箇所まで読み至ったとき、紙面が消去されてその下から幻聴というべきか謡曲のあの「弱法師よろぼし」がろうろうと聴こえ始め、それよりというもの幻覚の能舞台が浮上してやまない23

こう書いた道子は、ここから、「幻覚の能舞台」におけるシテとワキの独自の詞章を導入しますが、流れは、文盲のシテの弱法師による憲三と逸枝を扱った謡へと進みます。おそらくこれが道子に聞こえる「幻聴」なのでしょう。

ワキ 「おうこれなるまがきの梅の花が、弱法師が袖に散りかかるぞとよ。
シテ 「そうてやな。〽憲三が妻の逸枝は芹摘みに、憲三は窓に、窓には梅の花24

このシテの謡曲は、逸枝の『妾薄命』のなかの次の歌に由来しているものと思われます。

憲三が妻の逸枝は芹摘みに
憲三は窓に
窓には梅の花25

この歌は、極めて示唆に富みます。といいますのも、「逸枝が芹を摘み、憲三が窓辺にいてそれを待つ」情景を、「逸枝が原稿を書き、台所にいながら憲三がそれを待って編集する」情景へと置き換えるならば、どうでしょうか。逸枝と憲三とのあいだの、前代にはほとんど見ることのなかった革新的な夫婦の役割分担の形式がほのかに見えてくるからです。それは、すでに紹介しています、静子が「もろさわよう子様へ」で書いていた以下の文と完全に合致します。

 憲三は他の多くの男性と同じく……男性上位の体質でした。……或る日、女性の位置まで降りて来たのです。そして、男女が同等のところで住んで見れば、居心地よくてたのしくて、有頂天になって暮らしたのです。二人には、男の仕事、女の仕事という区別はありませんでした。

ここに、道子も静子も、憲三の人間性の本質を見出したのでした。

他方で、私自身に聞こえてくる、この場面での「幻聴」はといえば、道子が最晩年に書く新作能「沖宮」のもともとの種子は、このときのシテの「そうてやな。〽憲三が妻の逸枝は芹摘みに、憲三は窓に、窓には梅の花」の台詞にあったのではないかという、独自の推量です。

さて、道子の文はさらにここで一転し、「弱法師」から「朱をつける人」へと分け入ります。いよいよこの文のクライマックスです。

一九七八(昭和五三)年の暮れ、道子は、沖縄の久高島に行き、その地に残るイザイホーの名で知られる祭儀を見学しました。道子はこう書きます。「一二月一四日(昭和五十三年)初日の『夕神アシび』から始まった神事の第三日目、『花さし遊び』の日が、とりわけわたしには感銘深く思われた」26。「『夕神アシび』から始まった祭儀は三日目に入り、『花さしアシび』の中の『朱つき』『朱つきアシび』へと展開してゆく」27

イザイホーは、三〇歳を超えた島の既婚女性が神女となるために行なわれる、一二年に一度開催される一種の通過儀礼で、そのなかのひとつの儀式が、根人と呼ばれる男性主人が、ナンチュと呼ばれる巫女の額と両頬に朱印をつける神事です。道子の論考の題に用いられた「朱をつける人」は、そこに由来します。

道子が「久高島で十二年に一回、午年うまどしに行なわれるイザイホーの神事をまのあたりにした時、胸に去来してやまないことがあった」28。それは道子にとって、「今は亡き森の家のふたりに、生命の奥の妙音を聴くような、あるいは生命の内なる宇宙の、光源の島にたどりついたような秘祭」29だったのでした。道子は、「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」を、次の言葉で結びます。

 深い感動の中にいて、「花さしアシび」の中の朱つけの儀式、素朴な木の臼に腰かけているナンチュと、その額にいましも朱をつけるようとしている根人の姿に、著者には高群逸枝とその夫憲三の姿が重なって視え、涙ぐまれてならなかった。
 逸枝がいう憲三のエゴイズムは、男性本来の理知のもとの姿をそのように云ってみたまでのことであったろう。その理知とは究極なんであろうか。久高島の祭儀に見るように、上古の男たちは、懐胎し、産むものにむきあったとき、自己とはことなる性の神秘さ奥深さに畏怖をもち、神だと把握した。そのような把握力のつよさに対して女たちもまた、男を神にして崇めずにはおれなかった。そのような互いの直感と認識力が現代でいう理知あるいは叡智ではあるまいか。
 憲三はその妻を、神と呼んではばからなかった30

こうして、もろさわから憲三に浴びせられた罵声への反論として書かれた、道子の「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」は終わります。

(1)橋本静子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、100頁。

(2)石牟礼道子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、101頁。

(3)橋本憲三「瀬戸内晴美氏への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、52頁。

(4)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、3-4頁。

(5)もろさわようこ「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』(近代日本の女性史 第二巻)集英社、1980年、204-205頁。

(6)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、5頁。

(7)同「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、7頁。

(8)前掲「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』、203-205頁。

(9)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、6頁。

(10)同「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、9-11頁。

(11)同「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、13頁。

(12)同「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、19頁。

(13)石牟礼道子「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、78頁。

(14)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、247頁。

(15)前掲「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、84頁。

(16)同「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、93頁。

(17)同「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、87頁。

(18)同「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、91頁。

(19)同「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、92-93頁。

(20)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、310-311頁。

(21)橋本憲三『恋するものゝ道』耕文堂、1923年、193-194頁。

(22)前掲「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、94頁。

(23)同「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、94-95頁。

(24)同「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、95頁。

(25)高群逸枝『妾薄命』金尾文淵堂、1922年、136頁。

(26)前掲「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、96頁。

(27)同「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、97頁。

(28)同「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、96頁。

(29)同「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、同頁。

(30)同「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、99頁。