静子の「もろさわよう子様へ」と道子の「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」が掲載された『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)は、千六百部印刷され、定期購読者のほかに「全国国公私立大学の文学部法学部図書館、全国国公立図書館、全国主要新聞社本支社、主要雑誌社・図書出版社、女性史関係機関」1等に寄贈されました。
年が明け、一九八一(昭和五六)年を迎えました。終刊号発行に関する『朝日新聞』の取材に、道子は、次のように応じました。
同人は憲三先生と弟子の私のふたり。実際にはお手伝いもできぬままであった。終刊号をいつにするかと思っているうちに、妹さんがもろさわさんに長い手紙を書かれた。また憲三先生が書き残されたものもあった。この雑誌は逸枝ファンのための雑誌。それらを読者にお渡しするのが、遺族と、同人の義務と考え、ここに集録し、終刊号としました2。
このインタヴィューは、一月一四日の「点描」欄において、「32号を発行して終刊 『高群逸枝雑誌』」という見出し記事のなかで紹介されました。それに対抗するかのように、今度はもろさわようこが、『毎日新聞』に寄稿します。以下は、二月二六日の「視点」欄に掲載された、もろさわの「市川房枝さん」の一部です。
市川さんとはまったく無関係に、私が執筆した文章が原因になり、昨年末、市川さんに対する誤解をもとに編集された小雑誌が出た。このことについて市川さんは、誤解にもとづく悪口は言われ馴れている、事実はかならずあきらかになることを信じているので、気にしていませんと、濶達に笑っていた3。
もし、静子の「もろさわよう子様へ」と道子の「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」が、「誤解にもとづく悪口」であるとするならば、「事実はかならずあきらかになることを信じている」という他者依存の姿勢ではなく、自ら進んでその「誤解」と「事実」の内実について開陳することをもって道義とみなしたい私は、市川房枝本人と、その養女の市川ミサオの書いた書籍に当たってみました。しかし少なくとも、市川房枝の随想集『だいこんの花』(新宿書房、一九七九年)と、市川ミサオの回想記『市川房枝おもいで話』(NHK出版、一九九二年)とを見る限りにおいては、そのことについてはいっさい触れられていませんでした。
さて、続く三月、今度は『朝日ジャーナル』が、この『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)を取り上げました。まず、このような導入の文からはじまります。
キラと光りつつ、はじらう風情で南九州の片すみから出されていた『高群逸枝雑誌』の終刊号が昨年末に出た。この雑誌は、女性史学の創始者・高群逸枝(一八九四-一九六四)と一体の存在であった夫の橋本憲三が、亡妻の魂を抱きつつ編集していたものであり、七六年五月、憲三の死後、妹の橋本静子がいちはやく終刊を宣言していたから、あらためての終刊号に、おや? と思った人も多かろう。 静子による「編集室メモ」によると、この刊行は「集英社の本に触発され」てのことだという。「集英社の本」とは『近代日本の女性史2 文芸復興の才女たち』で、静子を‶触発″したのは終章の「高群逸枝」(もろさわようこ)の憲三認識のありようなのだが、いまはそれに触れる暇はない4。
この記事の執筆者は、もろさわの「高群逸枝」に触れることはありませんでした。しかし、この間のこの雑誌を、以下のように、高く評価しました。
雑誌は消えたが、そのなかからいくつかのすぐれた研究書が生まれた。『高群逸枝と柳田國男』(村上信彦、大和書房)、『火の国の女・高群逸枝』(河野信子、新評論)、『両の乳房を目にして』(石川純子、青磁社)は雑誌連載をもとにしてできたものであり、初の本格的評伝『高群逸枝』(鹿野政直・堀場清子、朝日新聞社)も、この雑誌なくしては生まれなかった5。
ここに言及されている、村上信彦の『高群逸枝と柳田國男――婚制の問題を中心に――』、河野信子の『火の国の女 高群逸枝』、そして石川純子の『両の乳房を目にして』につきましては、私の力をもってしては、どうしても十全に読み解くことができず、誤読が生じることを恐れ、本稿におきましてはいっさい触れていませんので、あえてここに書き添えます。
ところで執筆者は、最後にこの記事をこのような言葉で締めくくります。
そしてこの五月、橋本憲三・堀場清子による三千枚に及ぶ『わが高群逸枝』が朝日新聞社から出版される。石牟礼道子のライフワーク『最後の人』が一日も早く完成されることを祈る6。
『朝日ジャーナル』に『高群逸枝雑誌』終刊号についてのこの書評が出たとき、静子は、七〇歳になっていました。あえて終刊号として『高群逸枝雑誌』を発行し、憲三が書き残していた「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」「終焉記」「瀬戸内晴美氏への手紙」の三つの文と、それに加えて自身の「もろさわよう子様へ」の手紙とを、広く世に公開したいま、静子には、これまでに受けた度重なる兄への攻撃に対して、少しは撥ね返すことができ、なすべきことはすべて成し得たという安堵の気持ちがあったにちがいありません。またその一方でこのとき、「編集室メモ」に書かれてあるように、「イツエねえちゃん。どうしよう?」「静子さん、もういいのよ。あなたもここにいらっしゃい」というふたりが交わした会話を、深く胸にしまい込んだかもしれません。これ以降、逸枝や憲三にとって不名誉となる、他者が浴びせる言動に、もはや静子は口を開くことはありませんでした。
一方道子は、このとき五四歳になっていました。『朝日ジャーナル』のこの記事は、道子のことを、「憲三が亡妻の幻影をそこにみてたよりにした同人・石牟礼道子」7と形容しました。「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」を書いた道子の方は、憲三のことを、逸枝に対してだけでなく、自分にも朱をつけてくれた人として受け止めていたにちがいありません。道子にとって憲三は、「最後の人」であると同時に、「朱をつける人」だったものと思量します。
橋本憲三と堀場清子の共著『わが高群逸枝』(上下二巻)が、朝日新聞社から上梓されるのは、『朝日ジャーナル』にあるようにこの年(一九八一年)の五月ではなく、実際には、九月まで待たなければなりませんでした。この『わが高群逸枝』は、神奈川県の逗子に住む堀場が尋ね、熊本県の水俣に住む憲三が答えるという、距離を隔てた郵送による一問一答の形式で、憲三が死去する直前までの約一年半続けられた「おたずね通信」と呼ばれるものを集成したものでした。
すでに書いていますように、堀場清子と夫の鹿野政直が、はじめて水俣の憲三宅を訪問したのは、一九七四(昭和四九)年の九月のことでした。目的は、朝日評伝の一冊として『高群逸枝』を執筆するに当たっての基礎調査にありました。しかしそのとき、すでに憲三の体調は優れず、加えて、瀬戸内が『文芸展望』に連載していた「日月ふたり」の内容に苦しめられ、精神的に傷を負った状態にありました。そのため、十全に質問ができなかった堀場は、その後、質問状を書いていいかを憲三に問い合わせました。以下は、それへの返信内容です。
こんごいろいろご質問いただけますこと、大よろこびです。/ご質問は、ききづらいこと、常識的?には意地悪いと考えられそうなことがらでも、いっさいごしんしゃくなくお願いいたします。ありのままを(私自身が知っていることなら)正直にお答えできると思っています。真実に近づくためには8。
このとき、病床に臥す憲三には、死期が近まっているという意識があったでしょうし、一方で、瀬戸内の文にみられるような事実と異なる内容が今後次々と書き継がれてゆくことを恐れる気持ちもあったでしょう、そこで憲三は、堀場を信じ、自分の知る真実のすべてを伝え、いつの日か公開されることを望んだものと思われます。そうした憲三の思いは、瀬戸内へ宛てた手紙を道子に預けたことに、すでに現われていました。『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)に掲載された「瀬戸内晴美氏への手紙」の冒頭の注に、それを見ることができます。
*本稿は橋本憲三の瀬戸内晴美氏への私信の写しである。故人は石牟礼道子に「この写しはあなたに参考にしていただこうと、気息えんえんながら起きて書いたものです。雑誌にいつかのせる気になるかも知れないとの潜在意識もあったらしくて」と書き添えて本稿を託した9。
今度は、憲三は、「おたずね通信」を堀場に託すことを決意しました。こうして憲三と堀場の「おたずね通信」ははじまったのです。その間の事情を堀場は、『わが高群逸枝』(上)の「解説」のなかで、このように記しています。
昭和四十九年十二月のはじめ、四十一問の「おたずね第一信」を発送した。……こうしてはじまった一問一答を『おたずね通信』と名づけて、通し番号をふり、第一次目標を千問、第三次目標の三千問までは達したいとしたが、昭和五十一年五月二十三日の橋本氏の逝去によって、七百五問で中断した。亡くなる前日、別れの言葉とともに、氏は『おたずね通信』の束を私に托された10。
一方、『わが高群逸枝』(下)の「あとがき」において堀場は、まずその冒頭で、あるひとりの女性に対して謝辞を書きます。
『おたずね通信』が交わされていたころ、橋本憲三氏のお手紙の中に、毎回のように記されてくるお名前があった。「嫌な顔もせずにコピーしてくださるので、ほんとうに助かります。」「これからコピーをお願いに行くところです。」といったように。水俣市役所にお勤めの、新田とし子氏がその人である。当時水俣の町には、鮮明に写るコピー機が少なく、昼休みの一時間だけ、市役所のそれが市民の使用に開放されていた。新田さんは高群逸枝への共鳴者で、以前から橋本氏の編集事務のために、昼休み返上でコピー奉仕をしていられ、『おたずね通信』に関するいっさいのコピーもまた、新田さんのご好意に依存することとなった11。
「あとがき」の最初に無名の女性の献身に謝意を示すところに、著者の人柄の一端を知るような気がします。続いて、堀場の謝辞は、静子へと向かいます。
橋本憲三氏の令妹、橋本静子氏からいただいたご協力に対しては、どんな言葉をもってきても、私の謝意をあらわすに足りない。高群・橋本夫妻への、氏の愛と傾倒のおおい(ママ)さを想い、黙して、ただふかく敬礼する12。
その静子は、この、兄の遺作でもある『わが高群逸枝』をどのように読んだのでしょうか。最も知りたかったことは、兄が「瀬戸内晴美氏への手紙」のなかで、かくも苦しみを訴えていた、逸枝と延島の関係の真実だったのではないかと思われます。堀場は、こう書いていました。
この「事件」について、断定的な発言をするだけの材料を、私はもたない。だから、私なりの疑問点と、高群逸枝という人間に対する私なりの解釈とを記すに止めたい13。
このように前置きして、堀場は、疑問点を指摘します。それを短くまとめると、次のようになります。
(1)農民自治会婦人部に加入する過程を見ても、『婦人戦線』に書いた主要論文が夫の延島英一による代作であったことからしても、松本正枝が語る、夫と逸枝の「恋愛事件」だけが、無作為のものであるとは、考えにくい。 (2)「事件」が破局を迎える昭和六年の春までの半年間、連日延島は逸枝のもとに足を運び、性的関係があったように松本正枝は語っているが、住井すゑの証言によると、延島が毎日通っていたのは住井家であり、ましてや、憲三が在宅している家を、延島が頻繁に訪問することは、事実上不可能だったのではないかと思われる。 (3)一部のあいだで「憲三不能説」が根強く流布しており、これが原因で逸枝が延島に走ったという発想が導き出されている向きもあるが、夫との「一体化」を誓った妻が、それほどの欲求不満を抱いていたとは考えにくい。 (4)「恋愛事件」があったとされる半年間、同人の誰ひとりとしてそのことに気づかなかったのは、不思議に思える。他方、瀬戸内の「日月ふたり」でその「恋愛事件」が明るみに出ると、同人みなが、一様に、それを事実として受け入れたらしい点が、印象深い。 (5)昭和五年の年賀状に、逸枝は、これから研究生活に入ることを明言しており、この後の『婦人戦線』の刊行は、逸枝にとってはあくまでも「寄り道」であり、「恋愛事件」の破局が廃刊の原因であるとする意見には疑問が残る。
そして堀場は、「私の逸枝解釈としては、どうしても『事件』の否定へと傾かざるをえない」14という言葉をもって、この問題の結論としました。
これを読んだとき、静子と道子は、胸のつかえが下りたような、晴れ晴れしい思いに駆られたにちがいありません。といいますのも、すでに紹介していますように、『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)の巻末の「編集室メモ」において、道子の手により、次のようなことが書き記されていたからです。
お言葉の数々をテープに採らせて頂けばよかったが、不器用で思いもつかなかった。後世の為に如何ばかり意味を持ったかと悔まれるが、堀場清子氏による「おたずね通信」が残されたことは私どもの喜びである。
静子は、さっそくこの本を瀬戸内に送りました。「瀬戸内晴美氏への手紙」が所収された『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)も同梱したかもしれません。瀬戸内は、こう書いています。
最近、水俣の橋本静子さんから『わが高群逸枝』という本の上下を贈っていただいた。著者は橋本憲三と堀場清子共著の体裁である。…… この本は、堀場さんが昭和四十九年九月から、水俣に隠棲されていた橋本憲三氏と接触を持ち、氏の全面的な協力を得て、研究途上の数々の質問を発し、それに憲三氏が答えるというユニークな方法を採り、その往復書簡や、口答らしいものを中心に据え、未発表の原稿、日記、書簡等々の貴重な資料を投入した文字通りの労作である。高群逸枝研究としては、空前絶後といってはばからない、貴重で完璧に近い研究の見事な成果である15。
堀場と憲三の共著になる『わが高群逸枝』(上下二巻)におそらく力を得たのでしょう、「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」に続いて、道子も、満を持して一文を草しました。それは、『わが高群逸枝』の刊行から三箇月後の一九八二(昭和五七)年一月に公になった『思想の科学』掲載の「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」でした。この号は、「なぜ恋愛か?」を主題とするものでした。道子は、逸枝の愛について、こう理解を示します。
高群逸枝における愛の渇きとは、人類的羈絆への熱愛ゆえに片想いであり、従って男性への愛もさらに率直で豊饒きわまる本能のために、やはり片想いたらざるをえない。彼女はそれへの一体化を詩でなし遂げたとわたしには思える。詩は彼女の人生の実質だったから。彼女自身の自然とその本質がもっとも本来的に燃焼するのは詩の刻(・)だった。それが彼女のエロスの実質だった。彼女は詩の本能そのものであった故に、その破綻も充溢も共にあわせて普遍的な地上の恋愛者なのだった。橋本憲三が逸枝を供護したのは男の本能と叡知からであって、それはしかし右のような質のエロスを点ぜられた男の至福をも表している16。
これが、道子が示す、逸枝と憲三の愛についての抽象的な解釈になります。そして、いよいよ具体的事象を語ることになります。道子が着目したのは、瀬戸内の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝と橋本憲三――」のなかの、逸枝を描写した次の箇所でした。松本正枝の視線から描かれています。この箇所は、すでに第一一章「憲三の苦悩を共有する」において取り上げ、引用している部分でもあります。
駅からわが家の方への一本道を歩いていくと、向うから逸枝が歩いてくる。今日もきれいに化粧して、袂の長い派手な着物を着た逸枝は、少女がするように、長い袂を両手で持ってひらひら蝶々のように両脇で躍らせながら、浮きたつような足どりでステップをふんでくるのだった。人の目も全く眼中にないように、その姿は何か抑えきれぬ喜びをそういうそぶりであらわしているとしか見えなかった。 よほど嬉しいことがあるにちがいない、まるで子供のような人だ。ずっとそんな逸枝の姿を見つめながら正枝が近づいて声をかけると、逸枝は雷に遭ったように硬直して路上に突っ立ってしまった。大きな目をうつろに見開き、息もとまったように正枝をみつめてあえいでいる。 「どうなさったの、うちへいらっしゃったんじゃなかったの、延島はいませんでしたかしら」 その道はわが家への一本道なので、正枝はこう問いかえした。逸枝はようやく夢からさめたように、 「あなた、まだ会社じゃなかったの、どうなすったの」 と訊いた。詰問するような調子に、正枝はふたたび驚かされた。逸枝はそんな正枝の横をすりぬけると、挨拶もせずに駅の方へ走り去っていった。 家に帰ると英一が同じように愕いた表情で迎えた17。
道子は、上の文を引用すると、それに続けてこう書きました。
逸枝亡きあとに書かれたこの作品を読まれて憲三氏の苦悩は深刻だった。長い袖を両手に抱え、蝶のようにひらひらゆくような逸枝をかつて見た覚えがないといわれるのである。……正枝氏はそのような逸枝を、ご自分の夫君と愛を交わした姿と受け取られ、瀬戸内氏も、憲三との一体的夫婦の伝説がやぶれ逸枝に恋人がいたとされているのだが、わたしはそこに立ち入る気はない。逸枝は憲三氏の眼に触れるように延島氏からの求愛の手紙を常にそれとなく机辺に置いており、その間の事情と処理については、憲三氏自身の手記が残されている。(『高群逸枝雑誌』終刊号)18
そして道子は、逸枝のその姿に、表題のとおり「本能としての詩・そのエロス」を見ているのであって、最後にこの文をこのように結ぶのでした。
蝶のように浮き立つ足どりの逸枝はじつは詩の刻の人なので、健全な日常にいきなり出逢ってたちすくむ姿の背後には、彼女の詩篇のすべてが放電するように広がってゆくのをわたしは見る19。
つまり、あえて換言すれば、この道子の結語は、詩人の情感は、文字や文のうえだけでなく、舞や踊りにみられるように、身体のもつたおやかさにも現われるものであり、そうした非日常な身体表現を見誤って、「愛を交わした姿」であるとか「恋人がいた」といった世俗用語に置き換えてしまうことに内在する虚しさのようなものを暗に示しているのではなかろうかと、私は思料します。それはまた、瀬戸内の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝と橋本憲三――」における逸枝についての好奇的描写から、詩の本能とそこに内在するエロスという観点に立って、逸枝のかかる振る舞いを救い出そうとする試みであり、瀬戸内の表現を間接的に批判しているように読むことができるのではないか――これが、私の愚考するところです。
瀬戸内の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝と橋本憲三――」への、道子による暗示的な反論で、すべてが解決したのかといえば、決してそうではありませんでした。といいますのも、道子の「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」から二箇月が経過した一九八二(昭和五七)年の三月、西川祐子によって『森の家の巫女 高群逸枝』が新潮社から刊行され、そのなかで、再び松本正枝の言説が取り上げられることになったからです。
そのなかで、それに関連して西川は、次のように描写していました。
以前わたしが「高群逸枝と『婦人戦線』」(「思想」、岩波書店、一九七五年三月号)と題してこの雑誌の歴史をたどった小論を発表したとき、現在もそれぞれの分野で活躍しているかつての同人の方々から、「婦人戦線」の廃刊の直接の原因は資金難でも内部論争でもなく、高群逸枝の恋愛であったという注意を受けた。恋の相手は松本正枝の夫、延島英一。「婦人戦線」と同じく解放社から出され、高群も毎号のように執筆していた延島英一編集の「解放戦線」はふたりの恋の記念碑であったという指摘もあった。当時すでに瀬戸内晴美の小説「日月二人」(「文芸展望」一九七三年夏号-一九七五年冬号)がこの恋をとりあげていた20。
そして、この記述は、次のように続きます。
「婦人戦線」の同人たちは四十五年後に回想文(『埋もれた女性アナキスト、高群逸枝と「婦人戦線」の人々』、一九七六)を作ったが、そのなかで最も生き生きと当時を語っているのは松本正枝であって、「婦人戦線」という空間を造ることにうちこみ、燃焼して生きた時間があったことを感じさせる。彼女は高群逸枝が恋人すなわち松本自身の夫に、手紙をわたそうとして心も軽く両手で長いたもとを蝶のようにヒラヒラさせながら歩いていくところに偶然行きあった衝撃の印象を、まるで昨今のように鮮やかに描いている21。
西川は、「『婦人戦線』という空間を造ることにうちこみ、燃焼して生きた時間があったことを感じさせる」と書きますが、憲三や住井すゑの証言によれば、「松本正枝」を筆者名とする『婦人戦線』誌上の論考は、どれも夫の延島英一による代筆であり、それが事実であれば、延島英一の妻「松本正枝」(本名は延島治)は、名義を貸しただけで、実質的には『婦人戦線』の活動にほとんどかかわっていなかったものと思われます。また、西川は、「彼女は高群逸枝が恋人すなわち松本自身の夫に、手紙をわたそうとして心も軽く両手で長いたもとを蝶のようにヒラヒラさせながら歩いていくところに偶然行きあった衝撃の印象を、まるで昨今のように鮮やかに描いている」と書き、あたかも恋文でも渡すために逸枝は延島宅を訪ねたような印象を与えています。しかし、『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』に所収されている、松本正枝の「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」では、路上で正枝に出合った逸枝は、「どちらへ?」という正枝の問いに、「これから延島さんにお願いがあってお宅へ伺うところ」と、答えています。ふたりは家に入り、正枝が台所でお茶の用意をしていると、「これを」という逸枝の声が聞こえてきたものの、座敷にお茶をもってゆくと、もう逸枝の姿はありませんでした。「お願い」は、英一が妻に語ったところによれば、翻訳のことだったようです。明らかに西川の言説は、正枝の描くところを越えたものになっているのです。
それでは、西川のこの『森の家の巫女 高群逸枝』を、静子と道子は、どう読んだのでしょうか。それを例証する資料(エヴィデンス)は残されていないようですので、明確にすることはできません。しかしながら、熊本県立図書館に所蔵されている『森の家の巫女 高群逸枝』は、静子の名義によって寄贈されています。そこから判断しますと、間違いなく静子はこの本を読んでいます。おそらく道子も。しかし、堀場とも道子とも解釈を異にするこの本に、いい感じをもつことはなかったものと思われます。たとえば、次の箇所です。西川は、こうしたことを書いています。
橋本憲三が高群逸枝の死後、早い時期に森の家をひきはらった一つの原因は高群逸枝の最後の病い、入院、葬儀をめぐって橋本憲三と市川房枝をはじめとする後援の人びととの間に生活感情、経済観念、彼女の仕事の成果の所属についての考え方の違いが明らかになったためであった22。
市川房枝を頭とするそのグループとの反目が原因となって、敬愛する兄が、あたかも負け犬のごとくに、東京での居場所を失い、そそくさと田舎に逃げ帰ったかのように読み取れるこの一節に、静子は「これは違う」と、憤慨の声を上げたにちがいありません。
憲三は、急逝した逸枝の亡骸を、東京での残務整理が終わり次第、一刻も早く熊本に持ち帰りたかったのは明らかでしょう。そのことは、憲三の次の文が例証します。
『火の国の女の日記』の整理がついたら、骨をいだいて、最後の二人の眠りの場所へいそごう。彼女がいつも恋しがっていた、あたたかい南のふるさとの丘の日だまりに、人しれずいとなまれる妻夫墓に、まず妻をねむらせよう23。
憲三は、はっきりと「骨をいだいて、最後の二人の眠りの場所へいそごう」と書いています。ところが西川は、何ひとつ証拠を示すこともなく独断的に、上で引用したように、「早い時期に森の家をひきはらった一つの原因は……橋本憲三と市川房枝をはじめとする後援の人びととの間に……考え方の違いが明らかになったためであった」と書くのです。調べてもそれを裏づける資料は存在せず、私には、これは明らかに西川の作り話のように思われますし、なぜそのようなことをするのか、私の目には極めて不可解に映ります。
同じく西川は、「彼女の仕事の成果の所属」にかかわって憲三と市川とのあいだに対立があったごとくに書いていますが、憲三の遺言によって著作権の継承者となっていた静子は、これを読んで、「逸枝の著述物はあくまでも著者たる逸枝に属するものであり、後援者である市川らに帰属するものではない」との思いにかられたものと思料します。西川は、いかなる根拠(エヴィデンス)に基づいて、公然とこうした文を書いたのでしょうか。いっさい証拠となるものが示されていません。したがって、この文言の追検証は、いまや不可能な状態にあるのです。しかしながら、「彼女の仕事の成果の所属」という表現でもって西川は、市川の逸枝支援はあくまでも先行投資であり、没後著作権が市川の手に渡り、印税によって回収することが意図されていたことを示唆しているのかもしれません。
西川は、さらにその文のあとに言葉を継いで、「入院のために森の家を出て白昼の光に照らされたとたん、森の隠者は人びととの心をつなぐ力を失ったかのようである」24とも、書いています。しかし、これにもまた信憑性はありません。といいますのも、市川房枝との関係は、霊安室において今後の葬儀のあり方を巡っての考えの違いが露呈して以降、確かに断絶したものの、他方で、同じくその場にいた平塚らいてうとの憲三の友好は、生涯にわたり続いてゆくからです。「森の家」の跡地につくられた公園に、その後逸枝の記念碑が建立されるのも、らいてうをはじめとする、逸枝の人柄と業績とを真に偲ぶ人たちの尽力によるものだったことに疑いを挟む余地はありません。こうした事例をみぢかに見ていた静子が、自分の実の兄を、あたかも世間知らずの陰険な自己中心主義者であるかのごとくに、「人びととの心をつなぐ力を失ったかのようである」と書く西川の言説に、少なからぬ不快感をもったであろうことは、容易に想像できます。しかし、もろさわの「高群逸枝」を目にしたときに「もろさわよう子様へ」を書いて以降、もはや静子は、逸枝や憲三を扱った書籍や雑誌文に対して反論することはありませんでした。年齢も傾き、世間の悪意に対抗するだけの気力がすでに失われていたのかもしれません。
(1)橋本静子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、100頁。
(2)点描「32号を発行して終刊 『高群逸枝雑誌』」『朝日新聞』(夕刊)1981年1月14日、5面。
(3)視点「市川房枝さん」『毎日新聞』(夕刊)1981年2月26日、5面。
(4)談話室「『高群逸枝雑誌』の終刊」『朝日ジャーナル』第23巻第9号、通巻1150号、1981年3月6日、78頁。
(5)同、談話室「『高群逸枝雑誌』の終刊」『朝日ジャーナル』第23巻第9号、通巻1150号、79頁。
(6)同、談話室「『高群逸枝雑誌』の終刊」『朝日ジャーナル』第23巻第9号、通巻1150号、同頁。
(7)同、談話室「『高群逸枝雑誌』の終刊」『朝日ジャーナル』第23巻第9号、通巻1150号、同頁。
(8)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝』(上)朝日新聞社、1981年、vii頁。
(9)橋本憲三「瀬戸内晴美氏への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、52頁。
(10)前掲『わが高群逸枝』(上)、viii頁。
(11)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝』(下)朝日新聞社、1981年、363頁。
(12)同『わが高群逸枝』(下)、364頁。
(13)同『わが高群逸枝』(下)、183頁。
(14)同『わが高群逸枝』(下)、186頁。
(15)瀬戸内晴美『人なつかしき』筑摩書房、1983年、66頁。
(16)石牟礼道子「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」『思想の科学』思想の科学社発行、1982年1月号(通巻349号)、42頁。
(17)瀬戸内晴美「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」『文芸展望』第5号、1974年4月号、427頁。
(18)前掲「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」『思想の科学』、44頁。
(19)同「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」『思想の科学』、同頁。
(20)西川祐子『森の家の巫女 高群逸枝』新潮社、1982年、124頁。
(21)同『森の家の巫女 高群逸枝』、同頁。
(22)同『森の中の巫女 高群逸枝』、225頁。
(23)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、482頁。
(24)前掲『森の中の巫女 高群逸枝』、225頁。