中山修一著作集

著作集29 余滴を集めて――石牟礼道子研究  石牟礼道子小伝――「最後の人」との契りから道行きまで

第五部 橋本静子とともに最期の憲三に寄り添う

第一二章 憲三の臨終を看取る

瀬戸内晴美の『談談談』を憲三が読んだのは、一九七四(昭和四九)年八月でした。そのおよそ一箇月前に、戸田房子の「献身」が掲載された『文學界』(七月号)が発売されます。この小説の内容は、逸枝の入院と臨終を扱うものでした。前章の「憲三の苦悩を共有する」で紹介しましたように、これもまた、憲三を奈落の底に陥れるものでした。おそらく憲三は、真実を無視して虚偽の世界を悠然と跋扈する女たちの姿を見て、恐怖さえ感じたかもしれません。

それでは、これに対して憲三は、どう向き合ったのでしょうか。それを見るためには、一九六四(昭和三九)年六月七日に逸枝が死去した直後の、周囲の人間の動きへとさかのぼらなければなりません。逸枝を慕う村上信彦のそのときの体験は、こうでした。

 取るものもとりあえず、国立東京第二病院に駆けつけ、霊安室に直行した。室の中央の台の上に遺体が安置され、顔に白布をかけてある。一方に一段高い畳敷の小さな部屋があって、先客が集まっている。平塚らいてう、市川房枝、浜田糸衛、高良真木、熊本から来られた友人の五人である。……だが私は興奮していた。「なぜもっと前に知らせてくれなかったのです」と廊下で橋本氏に食ってかかり、こんなことになるなら面会謝絶を無視して押し入ってでもいま一度会っておきたかった。面会謝絶を忠実に守ったばかりに唯一無二の機会を逸してしまった。おれはばかだった……。無念と怒りが渦巻いて、私は強く詰め寄った。さだめし血相を変えていたにそういない

このとき村上は、憲三から、東京では密葬のみとし、その後本葬儀を熊本で執り行なう予定であることを聞かされ、この日が事実上の最後の別れとなりました。しかしその後、周囲の意見に押されて、自宅の「森の家」で葬儀が行なわれることになり、案内状が送られてきたものの、村上は出席しませんでした。葬儀も終わった、六月一八日に村上は、らいてう宅を訪ねます。この日の話題は、主に逸枝のことでした。村上は、こう書いています。

いろいろ話しているうちに、らいてうが高群さんをどのように評価していたかも分かり、この二人の女性の関わりを興味ふかく感じた。そのとき私は十日前の霊安室でのはしたない振舞を詫びたのであるが、私がまず詫びねばならなかったのは橋本氏だったと分かる日が、やがてやって来るのである

村上が霊安室で顔をあわせた「熊本から来られた友人」というのは、当時鎌倉に住んでいた熊本出身の志垣寛だったかもしれません。志垣は、逸枝と憲三の古くからの友人で、逸枝の葬送の儀に際しては葬儀委員長を務めました。次の引用は、七月七日に橋本静子宛てに出された志垣の私信にある末尾からの一節です。

 平塚さんのきもいりで、近く例の女子連と会見することになっています。私が近く雑誌に逸枝さんのことを書くというのが評判になって、向うから会見を申込んできました。よく説明して納得させようと思っています

ここでいう「例の女子連」とは、逸枝の入院等で立ち回った、市川房枝の取り巻きの浜田糸衛や高良真木たちを指すものと思われます。次も、同じく志垣から静子に宛てて書かれた七月一二日のはがきの一部です。「市川女史一派の人々数人とあい、くどくど不平談をきゝました。要するに橋本君が金持ちだった事が不満の種でした」

当時志垣が書こうとしていた文は、「高群さんと橋本君」と題されて、『日本談義』の八月号(一六五号)誌上の「高群逸枝女史追悼特集」に掲載されました。内容の一部は、前章の「憲三の苦悩を共有する」においてすでに引用していますので、ここでは割愛します。一方、この特集に憲三が寄稿したのは、「終焉記」という題の文でした。内容的には、逸枝の最期の入院に至るまでの経緯について、時系列に沿ってその様子が記述されています。さらに、その雑誌が刊行された直後に、今度は「高群追悼特集に添えて」という一文を起草します。擱筆日は、八月一五日です。この文を書かねばならなかった理由について、憲三は、こう記しています。

 『日本談義』(165号)高群追悼特集のなかにみえる一グループと私とのことについて、グループの方では早く志垣氏に申し込んでらいてう家で会見、一方的な談話発表が行われたそうであるが、私はまだ誰にも深くは語っていない。私からみればすでに誤謬だらけといっていい風説が伝えられており、『談義』によっても誤伝をうみそうな危惧があり、この際私からの「真実」を明らかにすることは私のつとめの一つではないかと考えられてきた

この文は、A(市川房枝)、B(浜田糸衛)、C(高良真木)、D(初見の人)、E(市川みさを)と明記したうえで、「終焉記」のなかの論争点となるにちがいない重要な箇所を一つひとつ取り上げ、それについてより具体的に捕捉し釈明したもので、かなりの長文となっています。末尾の一節を、以下に引用します。

 A(市川)は私が当然にも病人の身柄一切に責任を負って個室をとったり、葬儀を正したり、死亡広告を出したりしようとすることを迷惑がっているという実感を私に与え、しばしばあなた(私)はそれでよいだろうが、自分の面目は丸つぶれだという意味のことをいわれるのだが、私はそのつどけげんに思い、考えても見るが氷解できなかった。一つの実例をいえば、私は霊安室で主治医からの解剖希望をことわった。故人は肌身を人目にさらすことを極端にきらっていたから私はそれを尊重したのである。するとA(市川)はあなたはそれでよいだろうが病院にたいして自分の面目は丸つぶれだといったものである。……
私はいま妻の霊前にぬかずいて一切のことがらをかなしく反芻し、彼女の声を聞こうとしている

市川房枝は、希代の女性史学者である高群逸枝の戦前からの後援者のひとりでした。そのため、逸枝の最期の入院に際して市川は、参議院議員という立場から、「清貧の学者」として、つまりは「施療患者」に準じる者として逸枝を受け入れられないか国立東京第二病院と掛け合っていたようです。また、葬儀に要するおおかたの費用についても、自身が負担する心づもりができていたかもしれません。その前提として、市川とその取り巻きには、逸枝と憲三は乞食同然の「貧民」であるというひとつの思い込みが、疑うことなく、長年意識下で形成されていたのでした。ところが憲三の口から、入院や葬儀にかかわる多額の資金が用意されていることを聞かされたのです。かくして、彼女たちがもつ暗黙の「貧民」像が崩れ落ちてしまいました。ここに、市川グループと憲三との反目の原因があったといえます。市川にしてみれば、自身が中心となってこれまで逸枝支援を要請してきた友人たちに対して、そしてまた、自身が仲介の労をとった病院に対して、「自分の面目は丸つぶれ」ということになるのかもしれません。一方の憲三は、自分の妻は、決して市川の飼い犬などではなく、であれば、なぜ自分の自由意思で妻の死に向き合うことができないのかという疑念に、裏を返せば、なぜ妻の死が他人の手によって私物化されなければならないのかという疑念に、そのときさいなまれたものと推量されます。そもそも、憲三が用意していた現金のほとんどは、入院に際して憲三の姉の藤野が、上京する静子にもたせた百万円だったものと思われます。

憲三は、「高群追悼特集に添えて」を書き上げると、この一文を、『日本談義』と一緒に、らいてうに送りました。すると、このような返事が返ってきました。

また本日は追悼号の「日本談義」ならびに委しい解説御送り頂き、早速ルンべを使って、少しずつ拝読しております。今迄一方的にのみきかされてはおりましたが、私なりの解釈、受けとり方はしておりましたが、あなた様から直接いろいろうかがいまして更に深く考えさせられ、遺憾に存じます点も少くありません。私もこんなに弱り込まず、今少し気力が出ましたら高群さんについて、ほんとに書きたいとおもいます。「火の国の女の日記」命あるうちに拝見したいものです

それから一〇年の歳月が流れた一九七四(昭和四九)年の七月、戸田房子の「献身」が突如として『文學界』に出現したのです。一〇年前のらいてう宅が「例の女子連」による「不平談」の場と化したように、今回の「献身」も、さながら彼女たちの怨念の吹き溜まりとなっていました。そこで憲三は、少しでも自身と妻に科せられた、いわれなき汚名を晴らすために、過去に『日本談義』に書いていた「終焉記」のコピーに、未発表のまま手もとに残しておいた「高群逸枝特集に添えて」のコピーを添付し、「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」という題をつけて、みぢかな人に配布したのでした。いまとなっては、どれだけ多くの人が過去のこの出来事を覚えていたか、そこまではわかりません。また、このふたつの文が、どれだけ汚名解消に役立ったか、それも知ることはできません。しかしながら、当時の憲三にしてみれば、一〇年もの時が経過したいまになって、再び受難に遭遇することになった妻の名誉を救い出し、その夫たる自分自身を慰謝する方法は、これ以外に残されていなかったのではないでしょうか。かくして、「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」が、憲三にとっての最後の抗弁となりました。

橋本憲三の主治医は、近所で内科医院を営む女医の佐藤千里でした。佐藤の母の坂崎カオルは、幼き日、高群逸枝と机を並べた仲でした。佐藤は、熊本市内に住む八〇歳になる母親に聞いた話として、次のようなことを書き留めています。

 逸枝さんと私は、久具尋常小學校で机を並べた仲ですたい。正確には私が逸枝さんより一年下級生でしたが、その頃の久具尋常小學校は寄田校とよばれ、一年と二年が一教室、三年と四年が一教室という小さな學校でしたけん。やっぱり机を並べとったわけですなぁ。……
 この小學校の校長が、高群勝太郎氏で、逸枝さんのお父さんに当たる小柄な人でした。……
 それから別れ別れに何年か経ちまして。そして、その頃秀才の男女が進学するといわれた師範學校に逸枝さんも私も入學しました。
……そして一昨年機会があった水俣にある逸枝さんの墓参りをする事ができました。小高い山の山腹にある逸枝さんの墓は、夫君の書斎の窓から朝夕眺められ、ほんとうに逸枝さんらしいよい墓でした。……逸枝さんも生きとられたらもう数え八十一歳にならるっとです

今度は佐藤自身も、逸枝の墓参りをしました。一九七五(昭和五〇)年一〇月刊行の『高群逸枝雑誌』第二九号に、そのときの様子が記されています。墓前に立つ佐藤は、改めて逸枝と憲三の二人の出会いについて考えこんでしまったのでした。

 男と女がひかれ合うということ、これは究極的には最も単純で原始的ともいえる反応ではなかろうかと思うのですが……高群逸枝の観音様のように可愛いい口許や鼻に見とれていますと、あれだけの研究を科學的に積み上げていった天才のもう一つの面、つまり相手に何も要求しないのにしかも身も心もぴったりと夫憲三に寄り添ってしか生きられなかった一人の女性の匂やかさが伝わってくるのでした。……
 森の小動物に還った逸枝は今後も夫憲三の着物の懐で小さな寝息をたてているのではないでしょうか

逸枝が放つ香気に包まれながら、一方で佐藤は、再び二匹の森の小動物となって生きられる日が、そう遠くない時期に訪れるかもしれないことを報告したかもしれません。佐藤が、憲三の死期が迫っていることを最初に告げたのは、憲三の実の妹の橋本静子ではなく、石牟礼道子でした。

すでに第三章「一度目の滞在で逸枝と憲三に後半生を誓う」において詳述していますように、「森の家」において道子は、静子を立会人として、自身の後半生を逸枝と憲三に誓っていました。おそらく佐藤は、そのことを静子から内々に聞き及んでいたものと思われます。道子は、このように書いています。

 最後の逸枝雑誌、三十一号の編集が終ってしばらくした頃、主治医の佐藤千里氏から、私は、もうあまりお互いの持ち時間がないことを具体的に知らされていた。つらいことだったが実妹の静子さんにその状態を理解してもらわねばならなかった。静子さんは東欧旅行を計画されていたが、それを中止された10

医師はその倫理において、人の生死を安易に他人に口外することはありません。それでは、なぜ佐藤は、肉親である静子に先立って、他人であるはずの道子にまず一番に伝えたのでしょうか。それは佐藤が、戸籍上はどうであれ、また、たとえ同居はしていなくとも、道子が実質上の憲三の内縁の妻であることを、これまでの付き合いを通して、すでに知っていたからにほかなりません。「もうあまりお互いの持ち時間がない」という表現に、そのことが十全に凝縮しているように感じられます。

編集作業が終わると、『高群逸枝雑誌』の第三一号が、予定どおり、一九七六(昭和五一)年四月一日に発刊されました。憲三にとってのおそらく最後になるであろう文が、この号の「編集室メモ」に残されました。以下はその文の一部です。

・私は大晦日に寝込んでしまい、一年の最後の食卓にもつけず、元日にも、10日の誕生日(79歳)にも起き上がれず、そのまま今日にいたっている。……雑誌31はこうしたなかで、かろうじて編集のみはできた。発送のことは運を天にまかせるしかない。
・主治医は佐藤千里先生。いつか‶愛鶏日記″に取材した小説を書いて下さると。お医者さまには恵まれている11

佐藤から「もうあまりお互いの持ち時間がないことを具体的に知らされていた」道子でした。憲三の方は、遺言書という公的形式により、通夜や告別式のあり方について、そして自身の遺産の処分の仕方について、さらには逸枝の著作権の継承の方策について、実妹である静子に伝える一方で、同じくその具体的内容について、自分たちの後半生を約していた道子にも口頭で明かし、自分の意思を遺そうとしました。このころ憲三は、道子にこう告げています。

 遺言を静子にしたのですよ、元気なうちにしておいた方がよいのでね。もしや重態になっても誰にも知らせてはならない。旧友たちにも、身内にも。ましてジャーナリズムなどには。葬式などはいっさいしないこと、あなたも香典などもって来てはいけません。これは守って下さい。遺物などどこかに寄贈することも考えられるが、押しつけになるから一切を土に返すこと。それらいっさいを静子に託しました。あれは実行力がありますからね。……12

最後の「……」に、道子に対する重要な遺志内容が、隠されている可能性がありますが、もはやそれは、想像するしかありません。憲三の体に痛みが走ります。「神経痛に似た痛みが襲ってくるのです。こいつがねえ、ゲリラみたいな奴で、どこを襲ってくるやら予想がつかないんです。もう追撃できないんですよ自分では。佐藤さんは本当に助かる。痛みについて、あの人は探求心があるから」13。その佐藤は、「一日に二度くらい招ばれるようになっていた。彼女は逸枝雑誌の会員であり、往診ついでに雑誌の発送を手伝ってくださったりする。痛み止めが使用されているらしかった」14

「もしや重態になっても誰にも知らせてはならない」というのが憲三の意向でした。しかし道子は、悩みながらも、「静子さんには内密で、朝日評伝選に高群逸枝を執筆予定の、鹿野政直、堀場清子夫妻に緊急事態がせまっていることを連絡した」15のでした。道子は、こう記します。「五月十八日、昨夜鹿野夫人二十時二十三分『有明』でおみえ。間にあってよかった。今朝の御面会よい結果であればよいがと思い、時間をずらしてゆく。十一時お見舞い。……五月二二日……朝十時半ごろ、鹿野政直先生もおみえ、間に合われた。ご夫婦で橋本邸へ。おともする。静子さん枕元にいらして先生おめざめ。ちょうど痛みが去っていて、ご夫妻にごあいさつがおできになる」16

そのとき憲三は、ベッドのなかから、こう語りかけました。それは、妻逸枝への最後のメッセージとなるものでした。

「放蕩無類のぼくを(そこでちょっと苦笑して)いや、放蕩はしませんでしたが、よくここまでにして下さいました」
 かたわらから静子さんが、「それはあの、鹿野先生におっしゃったのですか」とたしかめられた。
「いいえ、彼女にいったのです」17

こうした会話もありました。その部分を、鹿野と堀場は、のちに「朝日評伝選一五」として上梓した『高群逸枝』の「あとがき」のなかで、公開しています。

 橋本憲三氏の死にようは、はればれとして、うつくしかった。亡くなる前日の午ごすこし前、私達は氏と長い握手をしてお別れした。死に臨んだ人とはとても思えない、力強い握力が心に残った。その時、こんなやりとりがあった。
「なにもかもおみせしました。『路地裏日記』も、『共用日記』もおみせした。三分の二がたは、ぶちまけた」。
「まあ!まだ三分の一も、とっていらっしゃるんですの?」
 一座の笑い声がひびく中で、氏はいわれた。
「人には誰しも、他人にみせられない恥部があります。……必死の防衛だ」18

他方、そのころ、憲三は道子に対して、こう語りかけています。

 秋晴れのよい日でしたね。あなたの古典的なあのお家にお伺いしたのは。かつてないことでしたが。ちょうど一〇年です。あれから。彼女が出発した頃にうりふたつでしたよ、本棚もなんにもない、しかし、本が二、三冊あって。うっかりすると世間にいれられない孤独な姿で……19

明らかにこのときの憲三の脳裏には、一〇年前の一九六六(昭和四一)年の美しい秋晴れの日の出来事が映し出されています。第四章「憲三と道子の水俣への一時帰省」において言及していますように、これが、静子を同伴させての二度目の石牟礼邸訪問でした。この日憲三は、東京の「森の家」をこれから解体するので、その様子を見ておいてほしい旨のことを申し出たのでした。しかしこれは、居場所を失っていた道子を救い出すための方便でもありました。九月、それぞれにふたりは水俣を出て、「森の家」へと向かいます。

二度にわたる憲三と道子の「森の家」での共同生活は、静子の深い配慮のもとに実現しました。まさしく静子は、洞察力にあふれる縁結びの神女の役を担っているのです。逸枝没後の憲三、道子、静子の三人が共有する秘め事は、おそらくは女医の佐藤を除けば、誰も知ることはなかったものと思われます。臨終に際して憲三は、「うっかりすると世間にいれられない孤独な姿で……」といった言葉で道子を形容していますが、続く「……」に相当する部分の文言を知るのは、道子しかいません。このときふたりは、この間の自分たちにとっての愛と孤独の実相について、問わず語らず、まさしく恥じらいながら、手を重ねるかのようにして、触れて確かめあったにちがいありません。

それでは憲三が鹿野政直と堀場清子に最後に語った「人には誰しも、他人にみせられない恥部があります」の意味は、一体何だったのでしょうか。想像するにそれは、恥ずかしくて人には簡単に話せない、あるいは、話しても容易に理解してもらえそうにない、自分と道子とのあいだに生成した、傷を負った生身の人間の深淵なる再生にかかわる、あまりにも美しいがゆえに秘すべき男女の物語だったのではないかと思料します。他方、憲三が使った「必死の防衛」という言葉は、誰からの詮索も受けず、いわれなき罵声も耳に入れることもなく、ひたすら、悲しくも人が秘めるにふさわしい美しいままの物語の姿で、次の世で待つ逸枝のところへもってゆきたいという願いが表出された響きであるかのように、私には伝わってきます。この推論が正しければ、憲三がそれまでに鹿野と堀場に語っていた三分の二の部分とは、おそらくそのとおり、逸枝についての話であり、残る三分の一は、言わずもがな、道子との人間愛が生み出した内密物語の部分であったということになるのではないでしょうか。鹿野夫妻と憲三との会話を横で聞いていた静子と道子のふたりは、そのことを十分に理解していたものと推量されます。

鹿野と堀場が、部屋を出て、帰路につくと、いよいよその時が迫りました。

「寒椿が」
「はい……」
 それは最後のおことばだった。静子さん上がっていらっしゃる。
 佐藤先生がおみえ。朝日出版局(評伝選の係)の宇佐美さんご到着、五時頃。白菊を持って濡れておいでになる。それで雨が降っているんだなと思う。もう、お話がおできにならない。
 七時頃うすぐらくなり、先生の呼吸、ハーッ、ハーッと深く長くなる。
 静子さんこの十日間ほとんどお睡りにならない。……
 佐藤さん、午後からほとんどつきっきり、いよいよフェルバビタール打たねばならぬようになったようですとおっしゃる。お悩みのご様子。
 先生のお姉さんの藤野さんが、若主人におんぶされておいでになる。そしておんぶされたまま肩越しに、よく透る声で、
 「憲さぁん、憲さぁん!姉さんが面会に来たばぁい。もう、もの言わんとなあ」
 とおっしゃる。そのお声の愛情、哀切かぎりなく、先生の寝息と交互に、
 「おお、思うたより、やせちゃおらんなあ。憲さぁん、うつくしゅうしとるな」
 静子さんも佐藤さんも髪ふりみだしている、たぶん私も。徹夜20

道子の述懐は、続きます。

 五月二十三日、先生こん睡さめやらず。深い呼吸続く。十二時頃ちょっと帰宅、ある予感持ちながら。追っかけるように佐藤さんから電話で、五十分でした。ダメでしたと21

ここで死去の電話を入れたということは、これもまた、道子が実際上の喪主であることを佐藤は承知していたことを例証します。

こうして女三人による懸命なる手厚い看取りのもと、憲三は帰らぬ人となりました。

最期の兄の姿に接しながら、静子は道子に、かくのごとくに心情を吐露します。

 涙も出ないんですよ。この心の底の方にある悲しみは、病気ではないでしょうか。正常なんでしょうか、涙も出ないんですよ。なんという人でしょうねえ、この兄は。こんなにうつくしくなっている人は22

次は、佐藤の回想です。「やっと逸枝のもとに旅立った憲三の両手を組み合わせてやりながら、手の甲に私が無残につけた注射のあとが目にとまったとき、それまで張りつめていた肩の力が、一時にどっと抜けていくのをどうしようもなかった」23

そして、道子の回想も、ここに残しておきます。

 一人の妻に「有頂天になって暮らした」橋本憲三は、死の直前まで、はためにも匂うように若々しく典雅で、その謙虚さと深い人柄は接したものの心を打たずにはいなかった24

憲三、享年七九歳。遺された静子は、六四歳、道子は、四九歳でした。その後のみんなの行動について、後年静子が、次のように語っています。

兄憲三の末期は、妹の私が看取りましたが、私は遺族を代表して服装をととのえて、五社の新聞社のインタビューを受けました。インタビューには、最後を看取ってくださいました佐藤千里様(主治医、「詩と真実」同人)、逸枝のことを調べてくださっていた石牟礼道子様、朝日新聞東京本社宇佐美承様のお介添えをいただきました。
……兄の遺言書の第一條に「葬式ごとは一切しないこと」とあり、前記の御三方と親族が集まりまして、おくりのまつりごとをしました。兄の居室に柩を据え、兄夫婦の写真と献花を飾り、以前に「西日本新聞」でとられている兄夫婦のテープの声を聞きました。……ビールを開けての会食となりました25

一九七六(昭和五一)年五月二四日、『熊本日日新聞』の一五面は、以下のとおり、憲三の死を一報しました。

 橋本憲三氏(高群逸枝雑誌編集責任者)二十三日午後零時五十分高血圧性心不全のため水俣市幸町六-一の自宅で死去。七十九歳。球磨郡球磨村一勝地出身。
 大正八年、「女性史学」の高群逸枝と結婚。彼女の死後(昭和三十九年)に高群逸枝全集(全十巻)を編さんし、昭和四十三年から「高群逸枝雑誌」(季刊)を発行し続けてきた。同雑誌は31号(四月一日発行)で廃刊される。
 葬儀、告別式は本人の遺言で行われない。

続く『熊日』の第二報は、「『高群逸枝雑誌』が終刊 31号 夫・橋本憲三さん死去で」の見出しで、五月二五日四面に現われました。

 同誌は橋本さんが高群女史の死後、四十三年十月から発行している小冊子。……高群女史に一生をささげた橋本さんにとって、雑誌の編集は死後の妻に対する思慕でもあった。そのため発行形式も「有料広告不載、カンパ辞退、不足分は高群著作印税で補う」という純粋さだった。
 わずか三十ページ前後の小冊子だが高群逸枝伝「最後の人」(石牟礼道子)のほか柳田国男と高群女史の比較研究などが掲載され高群研究者にとっては欠かせない雑誌となっていた。発行部数は当初五百部、その後一千部に増やされた。限定版のため、東京などでは同誌の‶海賊版″も出ていた。……
 橋本さんの実妹、橋本静子さん(六四)は「兄の死で終刊になるのはやむを得ません。雑誌は夫婦の愛から生まれたもので、兄の死で終わるのが自然だと思います」と話している。また作家石牟礼道子さんも「ほかの人がやっても意味がありません。終刊するのが遺志に沿ったものだと思います」と言っている。

さらなる続報として、「故高群逸枝さん夫妻の遺稿 水俣市立図書館『淇水文庫』に寄贈」という記事が六月一日の四面を飾ります。

 贈られたのは高群さんのデビュー作「日月の上に」(大正九年、新小説発表)の元原稿をはじめ「女性の歴史」(一-四巻)、『招婿婚の研究』(一-六巻)などの原稿。それに「たっぷりとあまいいのちに身をやつし花と一枝 酒を一壺なり」という高群さんの直筆の書三点やアルバム五冊の計二十六点。……
 橋本さんがさる五月二十ママ日死亡して以来、遺族は残された遺品の処置を検討していた。橋本さん自身の遺言もあって大部分の蔵書は高群さんを研究している早大文学部の鹿野政直教授などの研究者に渡される。

一九六四(昭和三九)年六月七日に亡くなった高群逸枝の一三回忌を前にして、六月五日の『熊日』は、「‶高群時代″にひとつの帰結 逸枝・憲三夫妻を追悼、足跡をたどる」(一〇面)と題して特集を組みました。そのなかに、佐藤千里が寄稿した「激痛のなかでの雄々しく闘病 橋本憲三氏の最期」を見ることができます。

「……貧しさや世間の悪意の前にはくじけずがんばったつもりですが人生の終わりになって肉体の痛みという思わぬ伏兵に襲われてしまって……。僕にもどうか人間の威厳というものを保たせて下さい」
 こう語りかける憲三氏の優しいながらも射るような視線の前で、あの時の私はまったく無能でぶざまな姿をさらしていたように思われるのです。……
 「あなたは僕たち夫婦のことを森の小動物の一目惚(ぼ)れとからかったが、まったく今になってみると、僕は単に運がよかっただけかもしれない」
 この憎らしいほど幸福な男の科白(せりふ)が、結局、憲三氏と私の最後のやりとりになってしまいました。

かくして、「貧しさや世間の悪意の前にはくじけず」、「威厳」を保ちながら、「森の小動物」の残されていた一匹も、先の一体のもとへと隠れたのでした。

亡くなる二日前、憲三は、道子に、こういいました。

コップがふたつありましてね、ひとつの方には生命がはいっているんですけれどね。もうひとつの方に真理をいれようとするんですけど、そいつがね(微笑して)なかなか、うまくはいらないんですよ26

ひとつのコップに「生命がはいっている」とは、自分の死を受け入れたことを意味し、もうひとつのコップに真理が「うまくはいらない」とは、「世間の悪意の前には」どうしても自分の真実が伝わらない、その苦しみを言い表わしているのかもしれません。

憲三が死去すると、新聞や雑誌に、その死を悼む文が多数寄せられました。ここでは、鹿野政直と石牟礼道子の事例を紹介します。

鹿野の追悼文は「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」と題するもので、六月七日の『朝日新聞』夕刊五面に掲載されました。そのなかで鹿野は、憲三をこのように評しました。

 わたくしは橋本氏に会って、氏がじつに編集者的な感覚に富んでいるのを発見したが、有能であったにちがいないその仕事をすてて、妻の仕事のささえ手にまわった。家事を一切ひきうけたばかりでなく、資料さがしにでかけ、生活設計をし、研究の方向に助言をあたえ、妻のかいたものの最初の読者となり批判者となった。さらに、おしよせる世間のまえに、一人でたちはだかった。彼女の作品には、今日ふつうに思われているよりはるかにふかく、その夫がかかわりあっている。橋本氏の編集者的な才能はその妻に向かって集中し、彼女のプロデューサーになった、というのがわたくしの観測である。

そして末尾を、以下の文で締めくくるのでした。

 こういう生涯があったということに、やはりわたくしは、大正期のデモクラシーの機運の一端をみとめずにはいられない。そうして氏は、日本女性史に少なからず貢献をなしとげたのだった。と同時に、もし日本男性史・・・というものが書かれるとしたら、橋本氏は、既成の男性像を身をもって否定した人間として(否定のかたちは、必ずしもそれが唯一ではないにせよ)、いわば「新しい女」にたいする「新しい男」として、位置づけられるのが至当ではなかろうかと、わたくしは、氏をいたむ念とともに夢想する。

この文が『朝日新聞』に載ったのは、奇しくも逸枝の一三回忌に当たる、その日のことでした。二週間前に逸枝のもとに逝った憲三、そして逸枝は、これをどう読んだでしょうか、「氏をいたむ念とともに夢想する」ほかありません。

道子の追悼文は、この年の『婦人公論』一〇月号に現われました。「橋本憲三先生の死」と題されたこの文は、表題のとおり、憲三の臨終の様子を再現する描写によって成り立っています。

じっさいこの先生を見ていれば、ご臨終までの経過には上代的ロマンとでもいうべきものが漂っていた。実妹の静子さんは、
「たのしかったですね、兄の死につきあったことは」
 と美しいまなざしをされる。わたしときたら、ご生前から『最後の人』と題をつけてノートを書きはじめ、見てもらっていた。死に近づいてゆく先生の心理描写がそこにはいっていて、読んでもらったあと、「どんなご感想をお持ちですか」とおききすると、先生は父性的なお顔になられて、
「たいへんにおもしろいなあ」とおっしゃるのであった27

この間道子は、「最後の人」を『高群逸枝雑誌』に、「椿の海の記」を『文芸展望』に、並行して連載していました。憲三が亡くなったことにより、『高群逸枝雑誌』は第三一号をもって終刊となりました。『高群逸枝雑誌』第三一号と「椿の海の記」の最終回が掲載された『文芸展望』第一三号とは、ちょうど同じ、一九七六(昭和五一)年四月一日に発行されます。それは、憲三が死去するおよそ一箇月前のことでした。そのようなわけで憲三は、『高群逸枝雑誌』の第三一号に掲載された「最後の人 第十八回 第四章 川霧1」も、『文芸展望』第一三号に掲載された「椿の海の記(最終回)」も、襲ってくる激痛のなかにあって、何とかともに、目を通すことができたものと思われます。

しかし道子は、「最後の人」をすぐにも単行本にして、世に送り出すことはありませんでした。最後まで大事な「最後の人」を秘して自身の胸にしまい込もうとしたのかもしれません。つまり、一八回にわたり連載されたこの文は、思うに、道子から「最後の人」への密かなる恋文だったようです。「最後の人」が一冊の本になるのは最晩年のことで、このなかで道子は、自身の「最後の人」が橋本憲三であったことを告白するのでした。

(1)村上信彦「私のなかの高群逸枝8」『高群逸枝雑誌』第25号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1974年10月1日、18頁。

(2)同「私のなかの高群逸枝8」『高群逸枝雑誌』第25号、18-19頁。

(3)橋本憲三「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、22頁。

(4)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、同頁。

(5)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、21頁。

(6)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、38-39頁。

(7)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、22頁。

(8)佐藤千里「寄田校の頃〈坂崎カオル聞き書き〉」『高群逸枝雑誌』第24号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1974年7月1日、11-12頁。

(9)佐藤千里「墓参り」『高群逸枝雑誌』第29号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1975年10月1日、15頁。

(10)石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、56頁。

(11)橋本憲三「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』第31号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1976年4月1日、26頁。

(12)前掲「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、56-57頁。

(13)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、59頁。

(14)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、同頁。

(15)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、57頁。

(16)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、61-62頁。

(17)石牟礼道子「橋本憲三先生の死」『婦人公論』第61巻第10号(第725号)、1976年10月、67頁。

(18)鹿野政直・堀場清子『高群逸枝』(朝日評伝選一五)朝日新聞社、1977年、327頁。

(19)前掲「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、62頁。

(20)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、63-64頁。

(21)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、64頁。

(22)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、同頁。

(23)佐藤千里「優しきめぐり会い 逸枝と憲三と私」『西日本新聞』1976年8月5日、11面。

(24)前掲「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、53頁。

(25)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、8頁。

(26)前掲「橋本憲三先生の死」『婦人公論』第61巻第10号(第725号)、67頁。

(27)同「橋本憲三先生の死」『婦人公論』第61巻第10号(第725号)、同頁。