中山修一著作集

著作集29 余滴を集めて――石牟礼道子研究  石牟礼道子小伝――「最後の人」との契りから道行きまで

第二部 橋本憲三の住む「森の家」へ駆け込む

第五章 二度目の滞在で憲三と「寂滅」を確かめ合う

「森の家」へ帰ると憲三は、再び『高群逸枝全集』(全一〇巻)の編集作業にとりかかります。奥付から判断しますと、配本は、以下のように進んでいました。憲三の「森の家」帰着は、九月一六日ですので、おそらくはこのときまでに、第一巻の「母系制の研究」と第九巻の「小説/随筆/日記」の印刷原稿はすでに出版社に渡されており、したがって残る作業は、第六巻「日本婚姻史/恋愛論」と第七巻「評論集・恋愛創生」の原稿の整理と「解題/編者」の執筆だったものと考えられます。

第四巻 女性の歴史一 一九六六年二月
第五巻 女性の歴史二 一九六六年三月
第一〇巻 火の国の女の日記 一九六六年三月か(ただし、奥付は一九六五年六月)
第二巻 招婿婚の研究一 一九六六年五月
第三巻 招婿婚の研究二 一九六六年六月
第八巻 全詩集・日月の上に 一九六六年七月
第一巻 母系制の研究 一九六六年九月
第九巻 小説/随筆/日記 一九六六年一〇月
第六巻 日本婚姻史/恋愛論 一九六七年一月
第七巻 評論集・恋愛創生 一九六七年二月

それではこれより、憲三の編集作業の様子を、道子の文から拾い出してみます。九月二五日に、道子が「森の家」に帰った日、「K氏は全集最終巻の編纂を抱えたまま風邪をひいて、二階書斎のベッドで仰臥のまま、その仕事を続行中である」。そのことから判断すると、第六巻の「日本婚姻史/恋愛論」については、すでにこのときまでに原稿の整理が終わっていたものと考えられます。それから一週間過ぎた一〇月三日の夕方、全集最終巻の第七巻「評論集・恋愛創生」の「解題/編者」の下書きができ上がりました。憲三は道子に、それを読むようにと、手渡します。

しばらく手が出ない。さしのぞくことは越権ではないか。再度の仰せによって読ませていただく。短文であるが、その言葉の深さ(彼女への愛)格調(その心)の高さに胸うたる。どっとかなしくなる。おさびしそうな先生。曇りの空をみる。秋色の庭。時間とは何であるか

さらに、この引用文は、次のように続いてゆきます。

 夜、先生ニンニク食べられて下書きお清書。御苦心の様子。わたしは『美想曲』を読み進む。切々と時間が進む。端正な姿で書いていらっしゃる先生。左の目に左手をあてて。左の目は失明している方の目である

憲三は、自らの不注意により、誤って小さいころ失明していました。道子の目もまた、このころすでに視力の低下がはじまっていました。「このときたまたま私の左眼の視力が、非常に衰えてしまっているのを[憲三]氏に発見されるということがあったりした」のでした。

翌日の一〇月四日、道子は、「静子さんに解題を書かれていること報告の手紙書く」と、六日に、最終配本予定の第七巻「評論集・恋愛創生」の「解題/編者」が整い、ついにここに全集編集のすべての作業が完了したのでした。「比類ない愛の書完成。廃屋、老残、というお言葉がある。むべなるかなと思い、言葉なし。果実酒を黙って献じる。そして彼女の霊前には二粒の栗」。ちょうどそのころ、第九巻の「小説/随筆/日記」が公刊され、一〇月一一日に理論社の編集者が献本五冊を持参。「K氏はそのとき最終回(第七巻)原稿――編者のことばだけをのこして――を渡されたのであった」

それから二日後の一〇月一三日、今度は道子の「空と海のあいだに」の第八回の原稿が完成しました。すでに述べていますように、「空と海のあいだに」は、『熊本風土記』の連載文でした。一九六五年一一月の創刊号に第一回が、最初に憲三と静子が道子の家を訪ねた一九六六(昭和四一)年五月一六日からおよそ二週間後に刊行された六月号(通巻第七号)に第五回が掲載され、その以降、七月号(通巻第八号)に第六回が、八月号(通巻第九号)に第七回が続いていました。今回書き上げた第八回は、「海底の神々 その二」の副題をもち、一九六六年一一月号(通巻第一一号)のためのもので、結果的に、この第八回が連載最後の文となりました。その後、八回にわたる「空と海のあいだに」と、その他の原稿が組み合わされて、一九六九(昭和四四)年に講談社より『苦海浄土 わが水俣病』となって、世に問われることになるのです。

「空と海のあいだに」の第八回の原稿ができたころについて、道子は、こう書き留めています。

……森の家の一室をあたえられて、わたしは『苦海浄土』の‶海石″の一節を執筆中であり、出来上がったものを読んでいただき、その後批評をうかがって、世田谷桜四丁目の郵便局から、「熊本風土記」の編集者に送っていたのである

『苦海浄土』の‶海石″は、『苦海浄土』第四章「天の魚」の第二節に相当する「海石」に対応します。

また、別の箇所では、このときのことを、次のような表現を使って、回想します。

そのとき私は「苦海浄土」の第一稿(原題「空と海のあいだに」)を渡辺京二氏の『熊本風土記』に連載していて、その原稿も「椿の海の記」の半分くらいも憲三先生がまず目を通され、森の家から送ったことが忘れられない

『椿の海の記』は、一九七六(昭和五一)年の一一月に朝日新聞社から発刊されます。憲三が亡くなって半年後のことであり、この本を憲三が手にすることはありませんでした。

他方、この時期について、道子は、このような回顧もしています。

……あの「森の家」の一室で、ノートの標題を「最後の人」と名付けたのだった。
「最後の人としたのですか。なるほど、うん。よい題だな」……
 顔を拭いたタオルを首に巻きつけたまま……橋本憲三氏は、自分で立てた朝のコーヒーを啜られる。……十月も末のある朝だった10

そして憲三は、道子にこういいました。「その、僕が生きている間に、書きあげて、読ませて下さると、ありがたいのですがね」11。憲三は、道子にとっての「最後の人」が自分自身であることを承知していたものと考えられます。

しかし道子は、返事に窮し、内心こう思いました。

この夫妻に関して、これまでわたしが知っていることといえば、昭和二十九年に講談社から出されていた『女性の歴史』上巻……と、全集に組まれる前の『火の国の女の日記』の初稿ゲラ刷を読んでいるだけである。気の遠くなるような勉強が前途に待っている。この師のご存命中にはとても間に合うまい……12

道子は、「森の家」を処分して水俣に帰った憲三を助けて『高群逸枝雑誌』の創刊に加わり、その雑誌に「最後の人」を連載します。しかし、それが単行本としてまとめられ、世に出るのは、「森の家」滞在から四六年が経過した二〇一二(平成二四)年のことでした。「この師のご存命中にはとても間に合うまい」という予感が的中したともいえますし、この間、最後まで「最後の人」に一心不乱に寄り添ったともいえるかもしれません。

九月二五日に道子が「森の家」に帰ってから、ほぼ一箇月が立とうとしていました。水俣に残してきた夫と息子は、道子のことを心配していたでしょうし、道子も、ふたりのことが気になっていたにちがいありません。道子の日記から、以下に、拾い上げてみます。まず、息子の道生に関連して――。

一〇月三一日「帰途ふいに胸騒ぎする。道生にか弘にか、先生にか何かありはせぬか。何もないように祈って帰る」
一一月一日「道生に逢いたいこと切なり」
一一月八日「道子、下のバアチャン、道生に手紙」
一一月一三日「道生から速達、成長した手紙」
一一月一五日「道生へ手紙、よく考えて書く。婚約したという。道生十八歳。昔なら二十歳か。大学卒業したら結婚するという。いやはやしかし、びっくりした。彼の純情をほめて激励の手紙」
一一月一六日「道生にどうしても逢いたいし。泣けてくる」
一一月一七日「道生の手紙また読む」
一一月一八日「道生どうしているかしら」
一一月二十日「道生に逢いたいし、東京に受験に来るのかしら」13

断片的な記述ではありますが、それでも、息子に寄せる母親の切々たる思いが伝わってきます。他方、夫の弘に関しては、記載の量が少なく、次の三点です。

一〇月二五日「石牟礼からお金」
一〇月二八日「道子午前中、弘に手紙」
一一月六日「弘より手紙、ガックリ」14

これだけからは、道子の夫への気持ちは十分に伝わってきませんが、弘が生活費を送金していることから判断しますと、弘は道子を見捨てているわけではないことがわかりますし、受け取った手紙の内容に道子が「ガックリ」と失望しているところから推量しますと、離婚話に弘の態度が否定的だったという状況があったのかもしれません。

道生の文のなかに、家についてと両親について記述した箇所がありますので、ここで紹介します。家については、「祖父の白石亀太郎が主になって造ってくれた家で雨が降ればあちらこちらで漏れてくる暮らしだったが絶えず人が集まる楽しい暮らしだった。小学校の頃まで溺愛されて育ったことを鮮明に覚えている」15と、述べています。両親については、こう書いています。

 母は父の求める妻としては早くにその役目を放棄していた。母と父との思いの違い。両親のそれぞれの葛藤は物心ついたころから目の当たりにしていた。静かで優しい父は黙認するしかなかった。
 ものを思うと取り憑かれたように書き始める母。何を言おうと通じない。囲碁や釣りや庭いじりを好み知人や親戚の面倒や相談にのり人柄の良い学校の先生だった普通で穏やかな父だった。そんな母に距離を置きながらも資金的援助を怠ってはいなかった16

弘は教師として小学校に勤務し、道生は大学受験を控えた高校三年生でした。道子が「森の家」に滞在していたとき、ふたりは水俣でどのような暮らしをしていたのか、調べる限りでは資料に残されておらず、再現することはできませんが、憲三の体調が優れなかったこともあり、「森の家」での炊事洗濯などの家事全般は、ほとんど道子が担っていたようです。それは、書き残されている日記から明らかで、たとえば、一〇月一三日の日記には、こうした一文を見ることができます。

 今朝は牛乳にしましょう。そうしましょう。そして、二度じきでよい。僕はあまり食べたくありません。あなた風邪はなおりましたか。なおったの。そりゃよかったなあ――
 そこで私は、とんとんと二階をおりて、非常に簡単で充分に栄養的な二度じきのための食事をつくりにゆくのである17

読む限り、おそらくどこにでもありそうな夫婦の朝の会話です。献立は、次のようなものでした。

 朝食、味噌汁(豚肉、カボチャ、油揚げ、葱、ラーメンスープ入り)、先生 牛乳、麦飯、ウニ、白菜漬け、フクミ(先生名付ける)昆布、梅干。先生、牛乳。夜、バタ卵とじ(人参、葱)、麦飯、牛乳、蜜柑二個ずつ、ウニ、昆布18

憲三が、最終配本予定の第七巻「評論集・恋愛創生」の原稿の整理を終え、それを理論社の編集者の藤井良に渡し、一方道子が、第八回の「空と海のあいだに」を脱稿し、それを『熊本風土記』の編集者の渡辺京二に郵送すると、いよいよ、「森の家」解体へ向けての本格的な作業がはじまりました。まずは、本の整理です。一〇月一七日、三社のなかで事前に二〇〇万円の最高値をつけていた古賀書店が来訪し、打ち合わせ。さっそくその日から、ふたりは本の整理に取りかかりました。執筆の際に逸枝が参考にした膨大な量の書籍が「森の家」の本棚を埋め尽くしていました。道子は、このように書いています。

 私は世田谷の森の家の内観の威容を感動を持って思い起こすが、そこは見たこともない一大書庫で、水俣の淇水文庫より更に充実した内容のように私にはおもわれた。
……正規の書斎、(応接間)、茶の間はいうにおよばず、湯殿の横の小部屋といわず、化粧部屋といわず、二階書斎(寝室を兼ねる)も張り出しのおどり場も、壁面という壁面はすべて天井までとどく書誌類でことごとく埋まり、書架のしつらえ方の機能的、合理的であることはおどろくべきもので、すべて憲三氏の設計になる手づくり(カンナは大工さんがかけた)であった。
……書物はここでは生き物であり、世俗を断ったこの夫婦の対話者としてそこに居並んでいた19

それでは、どのような書物が「そこに居並んでいた」のでしょうか。道子は、実に克明に記録していました。長くなりますが、貴重な逸枝の蔵書リストですので、以下に再録します。

 古事記伝二巻、古事類苑、古事記大成、国史大系(五十三巻)史料大成(四十二巻)群書類従(二十二巻)故実叢書(三十二巻)日本文学大系(二十三巻)大日本古文書(一巻)大日本古記録、後二条師通記(上・下)世界史(ソビエト科学アカデミー版十巻)親族法(穂積重遠)図説日本文化史体系(九巻)日本庶民生活史(三巻)日本歴史大辞典(二十巻)大百科事典(二十七巻)日本文化史体系(四巻)日本風俗史講座(二十六巻)未開家族の論理と心理(マリノウスキー)御湯殿の上の日記(十巻)六国史(十一巻)国文学講座(十巻)モルガン古代社会(上・下)ミクロネシア民族誌、支那古代社会研究、支那古代経済思想及制度、小右記(小野宮実資)権記(藤原行成)春記(藤原資房)中右記(藤原宗忠)玉葉(藤原兼実)明月記(藤原定家)兵範記(平信範)言継卿記(山科言継)神話伝説体系(十一巻)古琉球、琉球神道記、日本古代共同体の研究、社会思想全集(二十四巻)古典劇体系(十巻)寺領荘園の研究、南方民族の婚姻、新日本歴史講座(五十冊)歴史学研究、日本農業史、大鏡活援、紫式部日記正解、支那原始社会形態、日本上代における社会組織の研究(大田亮)支那の家族制、朝鮮の姓史と同族部落、日本婚姻史論、日本荘園史概説、三宅博士古希祝賀記念論文集(柳田国男、聟入考収録)キュウリー夫人伝、ゴッホ伝、国学院雑誌……20

逸枝の一大蔵書を前にして、道子は、これまでいかに無学であったかに気づくとともに、これからの無限の勉学をあと押しするかのような、大いなる力をそこから感じ取ります。

 いまの中学校程度の学力も持たなかった私にはこれらはまったく想像もつかぬ未知の世界だった。
……私が生まれてこの方、おそすぎる覚醒がおとずれた三十七歳までの無学の時間をすっぽり、この夫妻は系統的な勉強に当て続けていたのだという実感が、取り囲まれている大書架から伝わって来た。……私は、絶望感よりも、この一大書庫に、無限の天地のようなものが広がってゆくのを感じた。……死ぬまで勉強というものをしてよいのだというような啓示と、この天地へのいいようもない慕わしさを感じたのである21

おそらく、勉学心にかかわるこの無限の感覚が、「森の家」滞在の最大の成果であり、この後の道子の作家としての原動力となるものであったにちがいありません。別の箇所で道子は、以下のように語っています。

 勉強しよう! とひとつのせんりつに貫かれながらわたくしはおもう。勉強というものを、晴れてやったことのなかったわたくしにとって、森は、うつつにみる必然である。わたくしは、きっと、はためには突然・・変異を起し、世紀の大脱走を企て、まぼろしの森に逃げこんだのにちがいない。
 いや、森が宿したのがまぼろしであるのかもしれぬのである。この関係性こそ不思議なことであった。余命いくばくもない森が宿している関係性のたまごに対して、わたくしはふかい興味をもつ22

「私を宿したのが幻の森」なのか「森を宿したのが幻の私」なのか、道子は反問しながら、深く煩悶します。しかしそのとき、その旋律は、「勉強しよう!」という深い戦慄となって、道子の心を射抜いたようです。こうして明らかに、道子と森は相互に受胎し、森の聖霊を宿して道子は再生なり、他方で、道子の老残を胚胎した森は死滅の運命をたどるのでした。このことを、さらに別の言葉に置き換えるならば、こうして道子は逸枝の死霊の相続人として復活を遂げ、その一方で、蘇った道子がこれから歩みゆくことになる新たな聖地への道行き同伴者としての役割を必然的に担って、憲三もまた、森の死とともに、生まれ変わったということになるでしょう。したがって、道子が「高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った」という語句は、「後妻」とか「後添い」とかいう現し世の俗言を超えたところに見出される、三つの巴が美しく組み合わされた合体模様を象徴する聖なる予言として受け止めることができるにちがいありません。その意味で、まさに「森の家」は、それを生み出すにふさわしい産所であり霊地だったのです。道子が選んだ巡礼の地「森の家」を出て再び還俗するに当たって、道子は、「寂滅(□□)の言葉はゆうべたしかめあった」23とも書いています。□□にいかなる文字が隠されているのか、それは、憲三と道子のふたりだけが知ることであり、当然ながら、誰にもわかりません。しかしながら、逸枝自身、自著の『孌愛論』のなかで、確かに「寂滅」という語を使っていました。参考のために、以下に、その用例を引用します。

 くりかえしいえば、孌愛は合體(もしくは自己解消)を理想とするものであり、これにたいして生殖は分裂(もしくは自己保存)を意味するものである。これはアミーバの昔から不變の原則なのである。
 では、この兩者の關係は、究極なにを指向するかといえば、……それは人類の無限の増殖よりは、人類の完全な合體――無性化、そして人類の寂滅(もしくはさらに他の新生命への發展)なのであろう24

もし、憲三と道子が、この逸枝の「寂滅」にかかわる言説を前提として、道子が東京を発つ前日の一一月二三日の「ゆうべたしかめあった」のであれば、「生殖」を超えて、「新生命への発展」を確認し合ったことになるのではないでしょうか。こうして憲三と道子のふたりは、最終的に逸枝の予言に従って、新たな生命体としてここに蘇ったのでした。

そう考えますと、「寂滅(□□)の言葉はゆうべたしかめあった」のなかの□□に隠された文字は、おそらく、「再生」ないしは「蘇生」、あるいは「新生」か「復活」の二文字になるものと思料されます。

「森の家」に滞在中の道子の書くもののなかに、「われわれの森はと云えばそれらの中にそびえ立ち、その夕闇の一瞬を司る」25という表現があります。また、別の箇所では、自身の外出からの帰りを「二時、わが家へ。化粧部屋で着替え」26と表現しています。もし、道子と憲三が明白な他人同士であれば、決して「われわれの森」とか、「わが家」とかいった表現は使わず、それぞれにおいて、事実に即して「憲三氏の森はと云えば……」、そして、「二時、憲三氏の家へ。……」という言葉遣いに、止めるのではないでしょうか。「われわれの」という所有格の表現は、これ以外にも散見されます。

また、憲三と自分を主語として書くに当たって道子は、数箇所で「わたくしたちは」という表現を使っています。たとえば、「秋から冬に入ってゆく空の重さを心に抱いて、わたくしたちは馬事公苑へゆく」27という箇所が、その例に相当します。単なる一介の滞在者であるならば、「憲三氏と私は」と書くのが通例でしょう。「わたくしたちは」と書く以上は、ふたりがすでに極めて親密な関係になっていたことを例証します。

それでは以下に、「ゆうべたしかめあった」翌日の道子の離京までの足取りを、短くまとめてみます。

本の整理にふたりは一週間を費やしました。一〇月二四日、庭に出て憲三は、不要となった雑誌や新聞などを焼きました。一方書籍類は、引き取りにきた古賀書店のトラックに運び込まれました。道子は、そのときの様子を、このように描写します。

 昼間の森の中の火と煙と先生の後姿一生忘れがたし。本を積んだトラックが角をまがって行ったとき先生見たら、先生は古賀さんの後姿にていねいにおじぎをされていた。道子門にかけこみ、泪湧く。大型トラック一ぱいの本。競りに出されるとか。
 先生、貴女がいて下さって助かりました、とおっしゃる。握手。おいたわしい28

本の送り出しは、憲三にとっては、俗世を断って森に生きる孤高の学者だった妻逸枝と、その著述を長年編集者として献身的に支えてきた夫である自分とに、別れを告げる瞬間でした。一方、道子にとっては、新たな生を得て復活した文筆家としてこれから立つうえでの勇気と展望とを、逸枝と憲三から確実に相続する一瞬でもありました。このとき、憲三は、見送る愛蔵書に深々と頭を下げ、道子の目からは涙がこぼれ落ち、それからふたりはしっかりと手を握りしめて、互いに互いの存在を重ね合わせるのでした。

分身としての蔵書と別れたあと、次に憲三は、「森の家」そのものと別れなければなりませんでした。以前から世田谷区役所とのあいだで、「森の家」は解体し、公園へと造成することで話が進められていました。一一月一四日、譲渡仮契約書に調印する日が来ました。午後二時ころ、「世田谷区役所公園課長、用地課長、公園課員、桜町会長、杉本哲次(軽部家分家、杉本造園株式会社の社長)」29が訪ねてきました。

 時々、例の先生の高い笑い声、こんな声の時はあまり正常ではない。失調症のようにきこえる。
 いよいよ定まりましたよ、道子さん、印鑑をつかねばなりません。そう言ってタンスの上の紙箱から印鑑を出された。四時頃人々帰り、下りてゆくと、ああ、もういよいよこの家もなくなります。一二月一五日に引きあげですよ。……(彼女の遺影に向かって)……(うん、)いっしょにかえろうね30

同じくこの日、憲三と道子は、水俣に建造する予定の逸枝の墓廟について語り合いました。ヒントになったのは、先日ふたりで訪れていた馬事公苑で見かけた記念碑でした。以下は、そのときの憲三と道子の会話です。

 「三メートルは大きいかな。物々しいかな。しかし小さければ中途半端なものになる。」
 「……石積みは三メートル四方になっても自然の山に入ればそれほど大きくもないと思います。この立方体を石の壁と考えて屋根をおいた形を考えると、つまり石の小屋、お二人と憲平ちゃんの永久のお住いの小屋と考えると、決して大きくなどありません。
 「そうですね! いやそれはすばらしい。石の小屋と考えると実にいいな、そうきめました。」31

「憲平ちゃん」とは、死産で世に出てきた憲三と逸枝の息子のことです。

道子は、この墓廟について、晩年に執筆した自伝のなかで、以下のように触れています。

 ちょうど高群逸枝さんのご夫君、橋本憲三先生が、水俣のご姉妹の所に帰っておられ、お墓というか、記念碑のことを考え中であったので、わたしは、かの祖父の愛弟子さんのことを話した。こうして今、逸枝さんの面影の刻み込まれた石碑が、水俣市役所のすぐ上にのこされている。憲三先生に申しつかって、在京の彫刻家、朝倉響子氏に、「目立たなくともよいが、後世に残るような」特別の墓碑のデザインをお願いしにった。快く引き受けて下さって、石工の吉田一二三さんに頼み、現在の形の石碑がある32

本を売却し、土地と屋敷を譲渡し、墓碑についての案もほぼ確定し、いよいよ水俣へ帰還する日が近づいてきました。一一月一六日のことでした、熱心に新聞を読んでいた憲三が、「突然、道子さんがかわいそうだとおっしゃる。時々先生の顔はキリストのようにみえる時がある。人間は全部カワイソウですね、と申し上げる」33

二日後の一八日から、道子の「森の家」を離れる準備がはじまりました。二三日、離京前日。「道子獅子奮迅の働き、おそうじ。彼女の書斎、便所、階段、茶の間。それから下着洗濯。……形見のお写真いただく。裏にはなむけの毛筆の(前代未聞とのこと)お言葉。胸せまる。明朝、お見送り辞退申し上げる。特別晩餐、食前酒、散らし寿司(マグロ、シイタケ、金糸卵、人参、生姜)お吸物(春菊、卵、チリメンジャコ)」34

そして、当日の二四日を迎えました。

 先生御玄関からお見送り、(その前お茶を――おしまいのお茶――立てて下さる、八時)ていねいにおじぎをする。落葉の道を歩き出す。玄関をしめる音。立ち止まる、二階に上がっていらっしゃる音、やがて窓にお顔が出る。……振り返る。神秘な青い空。……
 音のない時間がどっと私のめぐりを流れ出す。さよなら、森の家よ。寂滅(□□)の言葉はゆうべたしかめあった。先生さようなら。角を曲がる。……八重洲口へ。……霧島乗りこみ、十二時35

帰水後、道子が「橋本静子さんをたずねる」36のは、一一月三〇日のことでした。この間の出来事を静子に報告したものと思われます。「静子さんの全身に漂う詩情。彼女の目美し」37。そして翌日、道子は「憲三氏に手紙書き。速達で出す」38のでした。

堀場清子の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』に断片的に記載されている憲三の「共用日記」に目を向けると、その後の足取りは、おおよそ次のようになります。

一二月二日、引っ越し作業の手伝いのため、静子、水俣を出発。翌日の「11時-12時のあいだに静子来」。次の日の「早朝から荷まとめの作業に従事」、七日に「通運から荷物の下見に加藤雄宏さん」が来て、打ち合わせ。翌八日、「荷積みを加藤さんにたのみおき、2時50分この家を捨てる。はやぶさ(特急)に乗る」。一夜が明け、「瀬戸内海が見えてきたころ」に食堂車へ行き、そこで朝食、そして「14時53分水俣着」39。かくして一九六六(昭和四一)年一二月九日、六九歳の憲三は、すべての作業を終え、肥後火の国の南西部に位置する水俣の地に帰還したのでした。

思い起こすと、最初に逸枝が出京したのは一九二〇(大正九)年で、その後、その地で逸枝と憲三の結婚生活がはじまります。二年前にすでに逸枝は亡くなり、ふたりで生活をともにした思い出の「森の家」も、いまや憲三の手で閉じられました。一方で、憲三が編纂した『高群逸枝全集』(全一〇巻)の配本が続いています。憲三は、実の姉妹が住む家に寄寓します。この土地には、ひと足先に帰郷した道子もいます。こうしたなかにあって、憲三の新しい生活の幕が開くのでした。

(1)石牟礼道子「最後の人2 序章 森の家日記(二)」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、5頁。

(2)同「最後の人2 序章 森の家日記(二)」『高群逸枝雑誌』第2号、9頁。

(3)同「最後の人2 序章 森の家日記(二)」『高群逸枝雑誌』第2号、同頁。

(4)石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、55頁。

(5)前掲「最後の人2 序章 森の家日記(二)」『高群逸枝雑誌』第2号、9頁。

(6)同「最後の人2 序章 森の家日記(二)」『高群逸枝雑誌』第2号、10頁。

(7)石牟礼道子「最後の人3 序章 森の家日記(三)」『高群逸枝雑誌』第3号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年4月1日、27頁。

(8)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、12頁。

(9)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、463頁。

(10)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、8頁。

(11)同「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、10頁。

(12)同「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、11頁。

(13)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、298、301、307、312、317、318、320、321、322頁。

(14)同『最後の人 詩人高群逸枝』、290、294、305頁。

(15)石牟礼道生「母のことそして父のこと」『魂うつれ』第73号、2018年5月、35頁。

(16)同「母のことそして父のこと」『魂うつれ』、36頁。

(17)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、283頁。

(18)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(19)前掲「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」、53-54頁。

(20)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」、54頁。

(21)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」、54-55頁。

(22)石牟礼道子「最後の人 第八回 序章 森の家日記8」『高群逸枝雑誌』第14号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1972年1月1日、35頁。

(23)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、327頁。

(24)高群逸枝『孌愛論』沙羅書房、1948年、9頁。

(25)前掲「最後の人2 序章 森の家日記(二)」『高群逸枝雑誌』第2号、5頁。

(26)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、271頁。

(27)石牟礼道子「最後の人 第九回 序章 森の家日記9」『高群逸枝雑誌』第18号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1973年1月1日、24頁。

(28)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、290頁。

(29)同『最後の人 詩人高群逸枝』、313頁。

(30)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(31)同『最後の人 詩人高群逸枝』、315頁。

(32)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、12-13頁。

(33)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、318頁。

(34)同『最後の人 詩人高群逸枝』、325-326頁。

(35)同『最後の人 詩人高群逸枝』、327頁。

(36)同『最後の人 詩人高群逸枝』、328頁。

(37)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(28)同『最後の人 詩人高群逸枝』、329頁。

(39)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、155頁。