中山修一著作集

著作集29 余滴を集めて――石牟礼道子研究  石牟礼道子小伝――「最後の人」との契りから道行きまで

第二部 橋本憲三の住む「森の家」へ駆け込む

第四章 憲三と道子が水俣へ一時帰省する

道子は、「七月十二日、熊本平野に入ってはれ。壮大な空。炎のような風」、そして「九月二十五日夕、ふたたび世田谷森の家着」と書いていますが、そのあいだの動静については、何ひとつ記述がありません。一方の憲三の「共用日記」には、九月一五日「出発」、九月二五日「石牟礼さんくれ方ごろに見える」とあるのみです。つまり、別々に上京したことはわかりますが、七月一二日に憲三と道子が到着してから九月一五日に憲三が出立するまでのあいだ、水俣でふたりが、どのような暮らしをしていたのかが全く空白になっているのです。ほかに、そのことを実証するに足る資料(エヴィデンス)も見当たりません。そこで、次のように想像してみたいと思います。この間、事の経緯からして道子は、夫の弘に離婚を申し出たのではないでしょうか。しかし、それが受け入れられず、また、息子の道生の反対にも直面し、道子は完全に居場所を失い、途方に暮れる日々を送っていたものと推測してみます。おそらく、そうした道子の置かれている状態を見かねたのでしょう、憲三と静子が、道子の家を訪ねてきました。その家は、「実家のとなりにあった、にわとり小屋を、かろうじて人間が住めるように父がしてくれた掘っ立て小屋」でした。以下は、このときの来訪について、道子本人が記述するところです。

 その後憲三先生が再度私のところに見えたのは昭和四十一年秋で、家族の理解をとりつけてご一緒することになった

また別の箇所では、道子はこのような描写も試みています。

 その橋本憲三氏と、妹の静子さんが突然我が家にやってこられたのは、秋晴れの美しい日であった。東京の「森の家」、つまりは逸枝さんの研究所の跡を見ておいてくれないかとのことだった。
 突然お見えになられ、いきなりそうおっしゃられて、私は仰天した

上のふたつの引用文を合成しますと、おおよそ次のようになります。「約四箇月前の五月一六日の最初の来訪から数えて二度目に当たる、一九六六(昭和四一)年の美しい秋晴れのある日、突然、橋本憲三氏と妹の静子さんがわが家にいらっしゃって、妻の逸枝さんと長年暮らされた東京の森の家をこれから解体するので、その様子を見ておいてほしい旨のことを申し出られた。私は仰天したが、家族の理解をとりつけて、同道することにした」。もしこの推断が正しいとしますと、ここにはふたつの考慮に入れるべき問題点が介在することになります。ひとつは、「私は仰天した」という語句についてであり、もうひとつは、「家族の理解をとりつけて」という文言に関するものです。そこで、以下に、少し検討しておきたいと思います。

「私は仰天した」という語句には、大事なことが抜け落ちています。実際には、「私はあまりにもうれしくて仰天した」というのが、真実に近いのではないかと推量されます。といいいますのも、さらに別のところで、以下のように道子は、書いているからです。

私事を書かせて頂けば、処女作「苦海浄土」のかなりの部分は東京世田谷の朽ち果ててゆく森の家で、お励ましにうながされて書き進められた。当時そこしか、わたしの身を置く場所はなかった。逸枝の霊に導かれている気持であった。チッソ東京本社座りこみの心の諸準備も森の家でなされた。はじめていうことである

このなかの、「当時そこしか、わたしの身を置く場所はなかった」という一語に注目すれば、道子にとって、いかにこのときの憲三の申し出が自分の意を満たすものであったかがわかります。まさに渡りに船、天の慈雨だったのでした。

次に、道子は、本当に「家族の理解をとりつけて」出京したのか、という点です。息子の道生が後年書いたものに、「母のことそして父のこと」と題された回想文がありますが、次は、そのなかの一節です。

 惜しみなく愛情を注いでくれた幼い日々が過ぎ、私が高校を卒業しこれから進学と言う頃に母は家を出た。目の前で起きている現実を凝視して激しく突き動かされる想いを、言葉に託して伝えたい。次々に寄せ来る感情のたぎりを文章で書き記しておきたい。集中して書ける場所をと言い出した。その衝動と決意は父も私も到底とめられることではなかった

最後の、「集中して書ける場所をと言い出した。その衝動と決意は父も私も到底とめられることではなかった」という語句に目を向けますと、必ずしも円満に「家族の理解をとりつけて」東京行きが決行されたのではなく、どちらかといえば、家族の思いを一方的に断ち切って家を出た構図が浮き上がって見えてきます。憲三と道子の上京の日がずれるのは、せめてもの家族への配慮だったのかもしれません。

こうしていよいよ、憲三は九月一五日に、道子は遅れて九月二四日に水俣を立って、再び「森の家」へと向かうのでした。

(1)石牟礼道子「最後の人1 序章 森の家日記(一)」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、31頁。

(2)石牟礼道子「最後の人2 序章 森の家日記(二)」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、4頁。

(3)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、154頁。

(4)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。

(5)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、464頁。

(6)同『最後の人 詩人高群逸枝』、463頁。

(7)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、271-272頁。

(8)石牟礼道子「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、94頁。

(9)石牟礼道生「母のことそして父のこと」『魂うつれ』第73号、2018年5月、36頁。