中山修一著作集

著作集29 余滴を集めて――石牟礼道子研究  石牟礼道子小伝――「最後の人」との契りから道行きまで

第四部 最晩年の憲三に浴びせられる悪意と悪口の数々

第一〇章 戸田房子の「献身」

「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」を読んで、誤りを指摘するために瀬戸内に手紙を書いた一九七四(昭和四九)年の三月以降の憲三は、心身ともにさらに悪化が進み、一進一退の状態にありました。それから半年後に憲三を訪問した堀場清子は、そのときの様子を、こう描写します。

 朝日評伝選『高群逸枝』の取材のために、鹿野政直と私とが、はじめて橋本氏を訪ねた昭和四十九年九月、氏は「事件」の衝撃の渦中にあった。それ以外のことを聞こうとする私達の質問に対し、氏の答えはいつもその点にたちもどって、少なからず困惑させられた。逸枝との愛の一体化と、女性史の大成とに生涯をかけ、女性一般の未来のために多大の貢献をされた氏の、最晩年での傷つけられ方が、いたましかった

堀場は、訪問当日の憲三の様子について、「『事件』の衝撃の渦中にあった。……最晩年での傷つけられ方が、いたましかった」と、表現しています。しかし、その「いたましさ」は、「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」によってのみもたらされていたというわけではありませんでした。もうひとつの憲三にとっての「いたましさ」が、鹿野と堀場の水俣訪問二箇月前に、すでにもたらされていたのでした。それは、『文學界』に掲載された戸田房子の「献身」と題された小説で、逸枝の臨終の際に起こったある「事件」が主題化されていました。ここでもまた、憲三の認識とは大きく異なる描写が至る所で闊歩していたのです。その物語は、こうしてはじまります。

 昭和三十九年晩春の朝のことである。二人の男が彼女の寝室に入って行き、ベッドの中の綿のはみ出た蒲団と色褪せて毛のすり切れた毛布にくるまっている鷹子を、そっと担架に移した。……門の前に待機していた白い救急車に鷹子を運び入れた。
 鷹子の夫の楠昌之は、萎えた開襟シャツとズボンで担架のあとから歩いていた。彼は七十歳にはまだ間のある年齢であったが、老年に特有の黄ばんだ艶のない顔をして、額と鼻のわきに彫り込んだような皺をつくっていた。……
 彼のあとから、かなりおくれて、坂本滋子が両手に紙バッグと風呂敷包みをさげて、急ぎ足で救急車の方へ近づいて来た

[本城]鷹子が高群逸枝で、楠昌之が橋本憲三、坂本滋子が、市川房枝の側近のひとりの女性、おそらくは画家の高良真木であることは明白で、医師の竹内茂代が発案し参議院議員の市川の紹介で入院が決まった国立東京第二病院に、一九六四(昭和三九)年五月一二日の朝九時過ぎ、逸枝が搬送されるところを描いている場面であることは、その事情を知る者にとっては、これもまた、容易に判断がつくことでした。そして、この物語には、市川房枝と竹内茂代が、脇田さつきと山下照代という仮名で登場しますし、石崎せつ子という婦人が、おそらくは平塚らいてうのことでしょう。

この小説では、全編にわたって、楠昌之つまり橋本憲三は、妻の気持ちを理解しない、横暴で利己主義に凝り固まった、腹黒い風采の上がらない男として描かれています。逸枝が息を引き取ったあとの霊安室での様子についての描写にも、その一例を見ることができます。それは、次のような会話で構成されています。

「実は脇田先生にお願いがあるのですが、お聞きいただけないでしょうか?」
「どういうことでしょう?」
「新聞に妻の死亡広告を出したいのですが、先生にお名前を出していただきたいのです。いかがでしょうか?」……
「新聞広告をするとなれば、二、三十万は覚悟しなければなりませんよ」
「金はいくらかかってもかまいません」
「失礼なことを伺うようですが、ご用意があるのですか?」
「沢山ではありませんが、銀行預金が四百万ございます。亡き妻のために出来る限りのことをしたいと思います」
 女たちはあッという愕きでいっせいに楠昌之に視線を集中した。四百万円! いったいどこから得たお金なのだろう。鷹子の悲惨な生活を見かねて授けつづけてきた女たちは、自分たちにすら縁遠い巨額な金を昌之が持っていたと知って茫然となった

続けて脇田さつきは、こういうのでした。

「私はね、楠さん、そんなにお金をお持ちでいながら、皆さんから金銭的な援助を平気で受けていらしたあなたのお気持ちがわかりません。私は、あなたがたお二人をいままで貧乏だとばかり思っていました。そのように事を運んできました。いま考えますと、貧乏でなかったあなたがたに対して大変失礼なことであったと思います。お詫びいたします。――死亡広告のことは、私の素志と相容れない点がありますので、私の名前を出すのは遠慮いたします。どうかあしからず」

「献身」が『文學界』に発表されたのは、一九七四(昭和四九)年の七月でした。ちょうどそのとき、村上信彦から、一〇月一日刊行予定の『高群逸枝雑誌』第二五号のための「私のなかの高群逸枝8」の原稿が送られてきました。そのなかで村上は、「最近出たモデル小説」という用語を使って、その小説に触れていました。驚いた憲三は、「最近出たモデル小説」の詳細を問い合わせます。すぐにも返信がありました。八月三一日に書かれた村上からの返事は、以下のようなものでした。

 ある雑誌のモデル小説というのは、「文学界」7月号の戸田房子の「献身」です。一読して、市川房枝たちの側からの考えだということが分かります。高群さん入院前后をめぐるあなたと一部の女たちとの対立をえがいたもので、私はあなたから事情を聞いていたのですぐ見当がついたのです。私としては、よむことをおすすめすべきかやめることをすすめるべきか判断がつきません。たゞ、よんだら不快を感ずるだけでしょう

そのあと憲三は、この小説を入手し、取り急ぎ読んだでしょう。もっとも、憲三の読後感は、調べる限り、資料には残されていないようです。しかし、「不快」どころか、実際には、突然背後から鈍器のようなもので頭を殴られたような、激しい衝撃を憲三は感じたにちがいありません。というのも、現に実在する人物が、小説という虚構空間に連れ込まれ、あることないこと、おもしろおかしく、罵倒され中傷されている場面に出くわしたとき、それに怒りを覚えない人はいないと思われるからです。「小説」である限り、そこに描かれている内容に、著者は責任をもつ必要はないかもしれませんが、名誉を棄損された「モデル」は、いかばかりの傷を負うことでしょうか。それにしても、「小説」という隠れ蓑をうまく使って、一〇年前の出来事がなぜいまになって蒸し返されなければならないのでしょうか。発表された時期を考えますと、瀬戸内春美の「日月ふたり」に誘発されたとも考えられます。

逸枝の臨終を主題にした「献身」は、憲三にとりまして、細部の事実関係には承服しがたい箇所が多々含まれていたにしましても、出来事自体は実際にあったことですので、憲三をそう驚かすものではなかったかもしれません。しかし、実際の出来事に事寄せて、個人を攻撃する態度には、憲三は、許しがたく耐えがたいものを感じ取ったにちがいありません。それは、次のような、霊安室での楠昌之と脇田さつきの、死亡広告と金銭を巡る会話をそばで聞いていた坂本滋子の心情を描写した箇所によく表われています。

 坂本滋子は昌之から金の話を聞いた瞬間から、打ちのめされた気持ちになっていた。……
 昌之の行為はずるくきたない。どこまで男らしくない男であろうと、滋子は彼を心の底から軽蔑した。そういう男と半世紀近くも一緒に暮してきた鷹子のことを思うと、だまされつづけた鷹子が可哀想でならない。なぜ昌之との共同生活を解消しなかったのかと、いまさら言ってみても仕方がないが……日常生活をとりしきってくれる便利な男として目をつぶっていた間に、すっかり昌之にしてやられたではないか

しかしここで、高良真木がモデルではないかと思われる坂本滋子や著者の戸田房子を責めることはできません。男性を清算して女性を新生させようとする思考は、もとをただせば、逸枝が創案したともいえるからです。逸枝が主導した無産婦人芸術連盟の標語であった「強権主義否定」「男性清算」「女性新生」を想起すれば十分でしょう。しかしながら、上で引用した、坂本滋子の心情を戸田房子が描いた表現部分、つまり、「だまされつづけた鷹子が」「日常生活をとりしきってくれる便利な男として目をつぶっていた間に、すっかり昌之にしてやられたではないか」の箇所は、明らかに事実とは異なっています。

戸田房子の記述内容が、いかに事実を無視した蒙昧なものであるかを示す一次資料(エヴィデンス)を、以下に五点、引用します。

憲三の仕事からの帰宅を待つ逸枝は、自分が家出をしたとき旅館で渡された憲三からの手紙を読み返していました。そしてそこに、書き込みをします。おそらくこれが、これよりのち死が訪れるまでの、逸枝の憲三に対する偽らざる思いであると考えられます。

 大正十四年十二月十日夜。まだお帰りになりません。今夜もこのお手紙を出して見ました。もう何処にも行きません。あなたに仕えようが足らないとき、私はこのお手紙を出して見るのです。
 私とあなたとがこの地上から去って後もたぶんこのお手紙は残りましょう。私は王様のお姫さまよりなお幸福です。夢と血と愛をえて、天国に行くことができるのですもの。
 あなたも私も地上では貧乏な夫婦でございます。人はみな誤解しています。けれども何一つ私をいまはあなたから裂くものはない上に、私はよろこんであなたとならば死を迎えましょう。私ほどの生の執着をもった女でも、この不可思議な事実を心のなかに確かめうるとは、まあ何て不思議でしょう。愛がはるかに死よりも強いことを今私は知り、この上なく喜んでいます。いつでも もう 死ねますから。このさき幾年生きるでしょう。なるだけおじいさんとおばあさんになるまで生きましょうね。私はまだ仕えかたが足りませぬ。心ゆくまでつくしてからなら、何の思い残すこともない

ここで注目していいのは、「何一つ私をいまはあなたから裂くものはない」や「愛がはるかに死よりも強いことを今私は知り、この上なく喜んでいます」という逸枝の文言でしょう。

次に二点目として、「森の家」での生活をどう感じていたのかを、逸枝が告白した文がありますので、紹介します。

 夫が勤めをやめてからは、毎日たのしく、みちたりてくらした。森の中のあらゆる事件も、異変も、二人でみてきた。私のあらゆる仕事のこと、手紙、何もかもが、すべて二人によって処理された。飽きることのない毎日だったといえる

以下に紹介する三点目が、逸枝が考えていた、自分たちの収入についての見解であり、四点目が、自身が書く著述物に関しての見解です。資産は「徹底的に共有」、著述物は、憲三との「合作」――これが、逸枝が認識するところでした。

 私は、夫の扶養ということを、可能不可能とは全く別にして、生来的に問題にしたことがない。それと同時に、結婚後の同居生活では、近代個人主義とは別に-それは非難しないが-徹底的に共同だった。夫はなんの介意なしに私のえた印税を処理した。夫の収入に対する私の態度も同じだった10


主人のすゝめで、いまの仕事をはじめた時から、私は一身上の娯楽も名利心もすてゝしまい、戸外一歩も出ないで暮しています。主人は私にあらゆることを教え、指導し、また日本にない「女性史」を二人で一生かゝって書き上げようとしているのです。だからこの仕事は、名前は私ですが、主人と私の合作です11

最後に五点目として、以下の文を紹介します。ふたりが会って四五周年になる一九六二(昭和三七)年の七夕前夜に、逸枝と憲三が誓い合った言葉です。逸枝が亡くなる二年前の誓いです。

われらは貧しかったが
二人手をたずさえて
世の風波にたえ
運命の試れんにも克ち
ここまで歩いてきた
これから命が終わる日まで
またたぶん同様だろうことを誓う
そしてその日がきたら
最後の一人が死ぬときこの書を墓場にともない
すべてを土に帰そう12

ふたりの不離の愛を示す幾多の証拠のなかにあって、わずかこの五つの例文を読むだけでも、「だまされつづけた鷹子が」「日常生活をとりしきってくれる便利な男として目をつぶっていた間に、すっかり昌之にしてやられたではないか」という記述が、いかに真実から乖離し、逸枝と憲三の人権を侵害し、ふたりの名誉を毀損しているかがわかります。まさしく犯罪を構成しかねない描写ではないかと思料されます。

それにしても、事実を曲げてまで、男にだまされた女の哀れさという虚構をつくり上げ、その上に立って女性を擁護し男性を断罪するところに、潜在的に定型化されたこの時代の女性の固定的視点がにじみ出ているようにも感じ取れます。果たしてこれが、どうあろうとも男性を悪の化身として措定し、それを標的に闘おうとする、同時代の女性解放運動家たちにとっての日常活動の常套手段というものだったのでしょうか。あるいは、それとの関連が深い女性史やモデル小説(あるいは伝記小説)と呼ばれるものにおける当時の際立つ記述手法のひとつだったのでしょうか。

本人たちには自覚はなかったものと思われますが、結果として「献身」は、市川房枝とその周辺の女性たち自ら、自分たちが、いかに息をするかのようにうそをつく女であるかを、また、一〇年が立っていようともいかに執拗に男を追い回す女であるかを、さらに加えて、秘められた不満と執念とがあればいかに遠慮も会釈もなくそれを文にして世に公表する女であるかを、いとも簡単に表出してしまったのでした。

(1)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、183頁。

(2)戸田房子「献身」『文学界』文藝春秋、1974年7月号、80-81頁。

(3)同「献身」『文学界』、114-115頁。

(4)同「献身」『文学界』、115-116頁。

(5)村上信彦「私のなかの高群逸枝8」『高群逸枝雑誌』第25号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1974年10月1日、21頁。

(6)橋本憲三「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、25頁。

(7)前掲「献身」『文学界』、116-117頁。

(8)橋本憲三「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、21頁。

(9)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、429頁。

(10)同『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、515頁。

(11)前掲『わが高群逸枝 下』、311頁。

(12)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、449頁。