道子が山梨の病院に入院し、その後、イザイホーの祭儀を見学しては、自身の魂を慰めていたころの、一方の静子の胸中は、どうであったでしょうか。加えて藤野は、どう生きていたのでしょうか。それではここで、まずそれを見てゆきたいと思います。
静子は、一九七〇年二月二三日に夫の橋本英雄を亡くしていました。そのときの様子を、生前憲三は、こう書き残しています。
朝食後市立病院に出かけた。妹の静子もあとからやってきた。静子は二月二十三日に夫英雄63歳を失った。英雄はゴルフが唯一の娯楽で一月一日も出水のゴルフ場に出かけてそれをたのしんだのだが翌日発病、たちまち骨髄腫に変じて急逝した。静子はちょうど私が妻を癌性腹膜炎で失った直後とほとんどひとしい状態となり、精密検査しても異常なく、ただ著しく心身の違和感を訴えての病院通いだ。私にも覚えがあることであわれだ1。
憲三の静子をいたわる心情が、逸枝のことと絡み合いながら、次の文へと続きます。
東京第二病院にあなたを見舞いに航空機で飛んできてくれた夫妻、とりわけあなたが愛した静子。あなたの没後、医者通いをしながら自伝「火の国の女の日記」を整理したり、書き継いだりしているひとりぼっちの私をみかねて、二た月のうちの二週間ずつ十回ぐらいやってきて何彼と援助してくれた静子。むろんまだ老齢というのでもないのだからそのうちたちなおるだろう2。
それから六年が立ち、今度は兄の憲三の死を看取ることになりました。すでに引用により紹介していますように、そのときの静子の様子は、道子が記述するところによれば、こうでした。「静子さんこの十日間ほとんどお睡りにならない。……静子さんも佐藤さんも髪ふりみだしている、たぶん私も。徹夜」。いよいよ、病床の身にあった姉の藤野が、母屋を出て憲三の部屋に姿を現わします。「若主人におんぶされておいでになる。そしておんぶされたまま肩越しに、よく透る声で、『憲さぁん、憲さぁん!姉さんが面会に来たばぁい。もう、もの言わんとなあ』とおっしゃる。そのお声の愛情、哀切かぎりなく、先生の寝息と交互に、『おお、思うたより、やせちゃおらんなあ。憲さぁん、うつくしゅうしとるな』」。
道子は、この藤野について、こう書き記しています。
「憲三夫婦はお国のために勉強しているのだから、わたしたちが養うてやらんばならん」とおっしゃって、水俣の店の収入を存分に森の家に送金しておられた由である。…… 姉君は逸枝さんの本は読まれなかったそうだが、「憲三夫婦はお国のために勉強している」というお言葉には、はっとするものがある。人間は何のために勉強するのか、という問題に対して、文字をほとんど読まれなかった方が、「お国のために勉強する」と考えられたとは、深い問いかけをわたしたちに与えずにはいられない。私自身はお国のために勉強するという言葉は思い浮かばなかったけれども、そういう考え方があったのか、と反省させられる。解釈はいろいろあるだろうけれども、深い説得力がある3。
藤野が生まれたのは、一八九四(明治二七)年でした。一九二七(昭和二)年生まれの道子とは、三三歳の開きがありますが、そうしたひとつの世代の生活者たちについて、道子は、こう語ります。
当然ながら、わたしの属している世界の生活者の意識は、活字でものを考える人々のそれとは、ちがう。ここには、生きることを文字で考える作業を、一生しないですます種類の、言語世界が成り立っている。…… 自分の育った世界を今おもえば、『遠野物語』や『今昔物語』に象徴されるような世界だった。それが、文字を通して思考せねば生きられぬ人たちと、別世界をなしているのはなぜだろう。そのことへの不思議が、わたしにとりついていた。無文字世界でもある水俣の意識は、ひょっとして、近代化したといわれているこの列島の意識の、大勢を占めているのではあるまいか4。
「文字をほとんど読まれなかった」藤野が発する、「憲三夫婦はお国のために勉強している」という言葉に、道子は覚醒させられます。「生きることを文字で考える作業を、一生しないですます種類の、言語世界」がここにあるのです。つまり、読まなくても、そこに何が書いてあり、それが何を意味するのかがわかる、藤野が属する言語世界に、道子は驚いているのです。これが「無文字世界でもある水俣の意識」であるとするならば、「近代」という文字世界の大波によって、次第にそれは、消し去られる運命を避けがたく宿すことになります。作家としての石牟礼道子が生涯にわたって書いた文の原理は、本人の意思とは無関係に時代によって消し去られてゆく「無文字世界でもある水俣の意識」の蘇生、広く換言すれば、自分自身も含め、時の凶器によって苦しみと悲しみのなかに身を沈める民たちの存在の再生、まさしくその点にあるように思料されますが、その観点に立てば、藤野は、実に石牟礼文学の楚であり、妣としての役割を担ったのでした。藤野同様に、道子自身もまた、逸枝の著作が読めていませんでした。こう、道子は書いています。
彼女へのわたしの関心は、その業績にふれるには、あまりに無学、晩学で、これから勉強しなければならないけれど、水俣病にかかわっているうちに、最初の予定にはなかった左眼の失明や、残りの視力もおぼつかないので、それには触れられそうもない5。
つまり道子は、藤野に遺る「無文字世界でもある水俣の意識」をいまに継承することにあずかって、実質的な「文盲」の立場から、弱き者たちの消えゆく生の実相を文字の内に代弁し続けた人だったように思われます。
藤野は、文字を読まなかっただけでなく、書くことにも困難を覚えていたものと推察されます。以下は、逸枝が死期迫るなか入院するときの見舞いの手紙の一部です。片仮名で書かれています。しかし、その心根は美しく、人を感動へと導きます。
マイニチカミホトケニ、ネンジテイマス。/ヒヨウノシンパイワ、イリマセン。イクライツテモ、ミナマタカラオクリマス。/ビヨウキニ、マケズ、シツカリキバリナサイ、クンゾ[憲三]モアナタモ、ミナマタデオセワシマスカラ、アンシンシテ、ヨウジヨウヲシテクダサイ/イツエサマ/フジノ/テガフルエテカゝレマセン6。
憲三の死から二年後、藤野も世を去ります。憲三のときと同じく、立ち会ったのは、女医の佐藤千里でした。
「憲さーん、逸枝さーん、もうすぐあたしも往くばーい」 「先生、もう何にも見えまっせんと。そろそろ帰ろうごとある」 こう言いながら昏睡状態に入った橋本ふじのは、昭和五十三年六月十一日、八十四歳でその生涯を閉じた。……裸一貫から大八車を引いて、水俣市の食料品問屋橋本商店の基礎を築いた人でもある。ここ十年余り、腎性高血圧で床に臥っていたが、床の中から家族や従業員の一人一人にまで気を配る様は、憲三がよく口にしていた「家刀自」の呼称がぴったりだった。 ふじのは、殊の他この弟を愛していたらしく、危篤の憲三を、家人の背に負われて見舞った時、「憲さーん、憲さーん、がん張らんばなあ」としぼるような声で呼びかけていた様が、私には昨日のように思い出される7。
二三年前のことでした。一九五五(昭和三〇)年の四月、「森の家」に憲三の兄弟が集まり、兄弟会が開かれました。橋本家には、男四人、女ふたりの六人の兄弟姉妹がいました。そのとき、出席がかなわなかった水俣に住む藤野に感謝状を書くことになり、逸枝が毛筆しました。
感謝状 橋本ふじの様 あなたは、終始父母のために計 りその老後を楽しませること につとめられました。 また私ども兄弟にも絶えず 愛情を頒たれました ここに兄弟会東京開催 にあたり記念品を贈り感謝します。 昭和三十年四月十一日 兄弟会 球磨村 橋本秀吉 東京都 橋本憲三 福岡市 橋本武雄 人吉市 橋本袈義 水俣市 橋本静子8
このとき作成された感謝状を、藤野は、亡くなるまでとても大事に部屋に飾っていました。続けて佐藤は、このように書きます。
眠っているようなふじのの胸に、妹の静子は壁の感謝状を下ろしてそっと抱かせてやった。野辺の送りをすませた後もその感謝状は、勳何等とやらの勲章よりもっとさん然たる光を放って私の目に灼きついている9。
こうして藤野は、深い姉妹愛に抱かれて、一九七八(昭和五三)年六月一一日、逸枝と憲三の待つ世界へと旅立ったのでした。
見てきましたように、静子は、一九七〇(昭和四五)年二月に夫の英雄を、続く一九七六(昭和五一)年五月に兄の憲三を、そして、一九七八(昭和五三)年六月に姉の藤野を亡くします。三人の肉親を立て続けに失った静子。そして、静子を立会人として自身の後半生を逸枝と憲三に誓った道子。このふたりの女性のきずなは決して弱まることはなく、終生続きます。
一方の道子は、憲三を亡くす以前から、水俣病だけではなく、阿蘇近辺の山々へ出かけては、自然とも向き合っていました。一九七七(昭和五二)年発刊の『草のことづて』のなかに、それに関する逸話が登場します。
このところ、阿蘇外輪山とむきあっている形の、九重連山のふところの村々へよく足をのばす。熊本県に生まれながら、阿蘇にのぼったのは、生まれて四〇年すぎてからだったので、以来、このけたはずれに神格のおおきい山を敬愛することつきず、人生の微々たることに吐息をついている10。
「吐息」という用語から判断すると、このころの道子の阿蘇散策は、水俣病闘争の緊張から解放される一瞬の息抜きだったのかもしれません。水俣の海で起こっていることと、「上古からの大自然の神秘」とを、否が応でも、道子は対比していたものと思われます。道子の文は、こう続きます。
上古からの大自然の神秘が、まだこの奥深い山襞の村々に住む人心を清浄ならしめていて、そういう人びとの心意気が、観光資本を斥(しりぞ)けているのかもしれぬ。 そういう思いをめぐらしながら、帰路にはときどき菊池渓谷というところを通ってくる。この渓谷は阿蘇火山帯のいかなる地層を経めぐって湧出するのか、磨き抜かれた鏡のような透明度の高い水を年中たたえている11。
しかし、このころの山歩きが、道子にとってはじめての、「人生の微々たることに吐息をついている」行為ではありませんでした。それは、幼い時期から道子に染みついていた、苦界から別世界へと逃れるための、ひとつの蘇生復活の術(すべ)でもあったようです。道子は、こう書いています。憲三との二度目の同居生活が終わり、水俣に帰る車窓の右手に、有明海が見えてきたときのことです。
玉名のあたりの山の紅葉の美しさ。三池あたりの海岸線の好もしさ。いつかこんな田舎の海岸線をひとりで歩いた気がする。たびたびこんな小さな美しい山や丘にわけ入ったことだった。それはわたしがまだ少女のころである。少女の魂に魅入った山川の霊はまだ私をはなれない。童話のような桑畑の丘12。
さて、「九重連山のふところの村々へよく足をのばす」、そして「帰路にはときどき菊池渓谷というところを通ってくる」、そのころの山歩きから数年後のことではないかと思われます。道子は、熊本市内にある寺社の一室に仕事場を設けます。次の引用は、そこでのある日の様子です。
水俣から出て来て熊本の仕事場に入った。某寺の一隅だが、一夜明けたら境内は落ち葉で埋まっている。……滞在中の食糧を買い出しに、スーパーマーケットにゆく。 出てきた日、銀杏の街路樹はまだ青々としていたのだが、二日経ったばかりというのに……一時にはっとひらいたほど黄ばみはじめ、夕闇近い大地に浮き立っていた。厚みのある曇天だった。……ゆく手に昏れてゆく風景と、心の奥に閉じていた風景がふいに広がり重なって、あの時間の中にまた這入ってしまったとわたしは思う13。
この仕事場で、道子は「心の奥に閉じていた風景」に包まれて、次々に文を生み出してゆきます。あるときは、山梨の病院に入院していたおりに見た、観音像を思い浮かべて、こう書きました。
わたしはなにが言いたくて書くのであろうか。このような情景を壺のようなものにいれて抱き、わたしは大菩薩峠の麓で、目も鼻も口も、耳も手足も、もげ落ちすり切れている観音さま出逢った。火に焙られ、縄をつけられて、川床や池の底をそびき廻されて来た木像の、雨乞いの観音さまだった。火に焙り、そびき廻したのは民衆である。そのような姿にされた観音さまもまた、とおくたどれば、民衆そのものであったろう。観音さまは水俣をも現わしていた。それはうつつに視える形であり、わたしを産んだものたちの系譜と姿でもあった。わたしの言霊が、ふかいところで、身悶えしつづけていた14。
また、あるときは、イザイホーの神事が胸をよぎります。
陽の光が、神女たちの髪に挿したイザイ花の神苑の樹々の上に耀よい、そして翳った。アコウの巨樹が、そのような円舞をおおって枝をさしかけ、天と浜辺をつなぐ柱のように立っていた。 わたしの心の遠い沖に、流竄の神々を乗せた小さな舟の影が、浮かんで消えなかった15。
そしてまた、あるときは、いまは亡き逸枝の幻影が登場します。
水俣病をめぐって、患者さんと加害者であるチッソとの間で、対決を含んだいろいろなやりとりがあったわけですが、それをそばで見ていて、わたしは高群逸枝さんがこのような問題が起こることを予言していたのではないか、と考えるようになりました。彼女自身が求めていた、母性祭祀的な霊能が道徳とされた世界、あるいは庶民が言う「人の道」という世界と、文字というものがどうしても必要な、チッソ側の言うような契約世界とがどうも結び合わない、というようなことが、水俣の問題の中にはっきりと出てきたような気がします16。
この時期道子は、文筆に精を出しながらも、死と向き合う日々を送っていました。といいますのも、一九八四(昭和五九)年の七月、道子は「いのちの切なさ 美しさ」と題して、北海道で講演をしていますが、そこで、このようなことを述べているからです。「自分一人で頑張ってみたり、絶望してみたりで、やっとやっと生きているんですけども、どうかした時に、ああ、今夜はもう死んでしまおうかしら、と思うこともあるんですよ」17。そう述べたあと、道子は、このようなことを話題に取り上げるのでした。
今晩は死んでしまおうかしら、と思ったりする時に、私はちょっと山へ出かけるんです。ここへ来るまでに見たような、景色の所へ車をたのんで連れていってもらうんです。 九州の屋根のようなところがありまして、その屋根の所に行きますとね、いろんな雑草がはえているのです。 そこで、葉っぱが美しいので机の上にでも置こうかしらと思って、なんでもない、そこらへんのその葉っぱを持って帰りました。 最近、あーんなに嬉しかったことがないんですが、見たことのない草だったものですから、山の上から持って帰って来て鉢に植えておきました18。
すると驚いたことに、一週間が過ぎたころ、つぼみが現われ、小さな青紫色の花が咲き出したではありませんか。植物図鑑で調べてみると、その植物はどうやらハナシノブというらしい。続けて道子は、そのときの気持ちをこう語ります。「蕾がだんだんになっていて、どんどん花が咲いていくんですよ。はじめて見たものですから、もう嬉しくて嬉しくて。私が非常に落ち込んでいた時でしたから、今度は『はなしのぶ』という山の花に助けられました。私の場合は、おちこんでいる時に誰か助けてくれる神様『助け神様』が来て下さる――。それは、ある時には、誰か人が見えたり、ある時は草であったりしまして」19。
「助け神様」を求めての山野歩きは、このころの道子の日常でした。次は、一九八六(昭和六一)年一二月刊行の『陽のかなしみ』の「あとがき」のなかの一節です。
そういう友人たちにここ数年機会を作ってもらっては、あちこちの山あいに連れて行ってもらっている。各自の時間や予算のこともあって、今のところは、鹿児島県や宮崎県近くや、多少の越境をして大分県九重高原に入りこんだりしているが、主に熊本県境を巡っているのである。 そのような山々は、たいてい川の源流でもある。川の源流へゆきたくて、山にゆくというのが本当かもしれない。…… 色の調べをあらわすことばがむかしあった。かろうじて、まだその調べの残されている山野をゆく。自分の蘇生のため20。
この引用文からもわかりますように、「自分の蘇生のため」に、この時期道子は、山歩きをしているのです。憲三を亡くした悲しみからの蘇生が、道子をして山歩きに向かわせているのでしょうか。あるいは、『陽のかなしみ』という書題から連想しますと、作家としては太陽の日差しのなかにあれども、こころはいつも闇で閉ざされている、そのような道子の姿が浮かび上がってきます。『陽のかなしみ』が年末に刊行されると、翌年(一九八七年)の三月、道子は六〇歳の還暦を迎えます。
このころのことではないかと思われますが、道子は、のちに自身の主治医となる山本淑子と知り合います。といいますのも、九〇歳で亡くなった道子への追悼文「旅は道連れ」のなかで、山本は、「そんな道子さんと三十年程の間、日常の暮らしの中で、人生の旅路の道すがらの時々を御一緒させて頂いたことは、なによりの幸せであった」21と書いているからです。それでは、「人生の旅路の道すがらの時々」山本が見た道子の素顔の一端を、ここに紹介します。
山本淑子の夫の山本哲郎が、渡辺京二とともに、人間学についての勉強会を自宅で開くようになったときのことです。一、二回が過ぎたころから誘われて山本淑子もそこに加わり、そして一年が立ったころから、道子も時々参加するようになりました。そのときの様子を、山本は、こう描写します
石牟礼さんは前もって本を読んでおられる風では全然なかった。会の終り頃に御意見を求めると、本をただパラパラとめくって閉じて、少し沈黙の後、本の内容に沿った的確なお話が始まるのであった。一を聞いて十を語る人であった22。
この逸話は、すでに引用によって示しています、次の一節を例証します。道子は、こう書いていました。
当然ながら、わたしの属している世界の生活者の意識は、活字でものを考える人々のそれとは、ちがう。ここには、生きることを文字で考える作業を、一生しないですます種類の、言語世界が成り立っている。…… 自分の育った世界を今おもえば、『遠野物語』や『今昔物語』に象徴されるような世界だった。それが、文字を通して思考せねば生きられぬ人たちと、別世界をなしているのはなぜだろう。そのことへの不思議が、わたしにとりついていた。
道子は、「左眼の失明や、残りの視力もおぼつかない」状態にあったとしても、明らかに、「生きることを文字で考える作業を、一生しないですます種類の、言語世界」に生きているのです。道子の書く作品の多くが、過去の文字文献を頼りに引き書きしたものではなく、人からの聞き取りや心象風景の細密描写で成り立っているのも、そこに主たる要因があったのではないでしょうか。
山本は、このような逸話も紹介しています。
勉強会では修学旅行も行なった。山好きのメンバーの案内で矢部や国見岳、島原、倉岳、阿蘇、九重など、川辺川上流のダムに沈んだ村も見に行った。車の中で、「九州山地のどこかに深い湖があって、そこと不知火沖はつながっておるちゅう話で、不知火沖にはきれいな真水がコンコンと湧いとる場所があるそうですよ」「ふーむ、そうですか」私はなま返事をしてばかりだったが、その時、すでに石牟礼さんは、『十六夜橋』や『天湖』のストーリーを発想しながら景色を眺められていたのである23。
すでに道子の文から引用していますように、「そのような山々は、たいてい川の源流でもある。川の源流へゆきたくて、山にゆくというのが本当かもしれない」と書いています。ここに、まず山があって、そこを源流として川が流れ出し、最後に大海に至るという筋書きが見えてきます。道子の目には、東の大阿蘇と西の不知火海をつなぐ、普通の人であれば気に留めることのない地下の水路、あるいは、埋もれた別世界が、見えるのかもしれません。
事物には、「はじめ」があれば「おわり」があり、原因があってはじめて結果が生まれます。そのあいだには、容易に人が見ることができない埋蔵された「過程」が存在します。おそらくこれが、道子が書こうとする物語の全宇宙であり、道子の目に見える、森羅万象の成り立ちの構造だったにちがいありません。
しかし、その一方で、人との出会いにも、「はじめ」と「おわり」があります。道子にとっての「はじめ」は、淇水文庫での逸枝の『女性の歴史』(上巻)との出会いであり、「森の家」での憲三との同居生活にありました。しかし、恩師と仰ぐ憲三もすでに世を去り、服喪の情感のなかにあって「癒し難い心の病」を囲って、道子は、この時期を生きていました。「今晩は死んでしまおうかしら」と書くように、死と向き合う人生が、その人にとっての、「はじめ」と「おわり」に挟まれた「過程」だったのです。しかしながら、「今晩は死んでしまおうかしら」と思えども、もはや分別もなく、いまさら自らのいのちを自らの力で断つことはできません。道子は、「山野をゆく。自分の蘇生のため」と書きます。であるならば、山歩きも、そして執筆活動さえも、死霊のささやきが日々聞こえる道子にしてみれば、「はじめ」と「おわり」をつなぐ、息苦しい「過程」のなかにあっての、つかのまの「吐息」であり、「おわり」を待つあいだの、瞬時瞬間の「蘇生」のための自己療法だったにちがいありません。そうした営為が、憲三没後の道子の生の実際だったのではないかと思われるのです。
それでは、ここで、道子の次の言辞を想起したいと思います。第三章「一度目の滞在で逸枝と憲三に後半生を誓う」に続く、再度の引用になります。
世俗的なさまざまな意味で私の一生は、逸枝先生に御会いする(全集の前の『女性の歴史』)直前にすべて終りました。そして、逸枝先生との出遭いによって私はのっぴきならぬ後半生へと復活させられたといえましょう24。
人には、いつか肉体的な「おわり」が訪れます。そしてそのとき、個人的で内面的な世界も「おわり」を迎えます。道子は、自身の内面世界に息づく魂の「はじめ」と「おわり」を、肉体の「おわり」に先立って描くことを、一方で文を書き、また一方で山を歩きながら、時期は正確に特定できませんが、おそらくこのころ、構想していたのではないかと思料します。
肉体の「おわり」の直前に書かれた、絶筆ともいえる最晩年の作品が、新作能「沖宮」でした。しかしながら、そこに至るまでの道子に、わが魂をさらに傷つけて止まない、幾つもの過酷な災いが降りかかってくるのです。それを、次の第八部「再び苦界に落とされる静子と道子」を構成する三つの章で書き表わしたいと思います。
(1)橋本憲三「題未定――わが終末記 第一回」『高群逸枝雑誌』第8号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1970年7月1日、24-25頁。
(2)同「題未定――わが終末記 第一回」『高群逸枝雑誌』第8号、25頁。
(3)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、275頁。
(4)石牟礼道子「忘れられない本 高群逸枝全集『日月の上に』 奔流をなす現代の予言」『朝日新聞』1978年6月5日、10面。
(5)『石牟礼道子全集・不知火』第六巻/常世の樹・あやはべるの島へほか、藤原書店、2006年、498頁。
(6)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝』(下)朝日新聞社、1981年、350頁。
(7)佐藤千里「高群逸枝・橋本憲三を支えた人 その(一) 橋本ふじの(藤野)」『詩と真實』通巻第350号 8月号、1978年7月、46頁。
(8)同「高群逸枝・橋本憲三を支えた人 その(一) 橋本ふじの(藤野)」『詩と真實』通巻第350号 8月号、47頁。
(9)同「高群逸枝・橋本憲三を支えた人 その(一) 橋本ふじの(藤野)」『詩と真實』通巻第350号 8月号、48頁。
(10)石牟礼道子「水を呑む樹」『草のことづて』筑摩書房、1977年、96頁。
(11)同「水を呑む樹」『草のことづて』、96-97頁。
(12)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、328頁。
(13)石牟礼道子「昏れてゆく風」『陽のかなしみ』朝日新聞社、1986年、269頁。(巻末に付されている「初出紙誌一覧」によると、初出は、『エコノミスト』、1981年12月8日号で、原題は「わたしの中の原風景」。)
(14)同「陽のかなしみ」『陽のかなしみ』、377頁。(巻末に付されている「初出紙誌一覧」によると、初出は、『新沖縄文学』第42号、1979年8月、および、同誌第43号、1979年11月。)
(15)同「海のおもろ」『陽のかなしみ』、428頁。(巻末に付されている「初出紙誌一覧」によると、本稿は、未発表原稿。)
(16)同「女性の中の原宗教――高群逸枝さんのこと」『陽のかなしみ』、229頁。(初出は、『日本人の宗教心』講談社、1983年10月。)
(17)『石牟礼道子全集・不知火』第一六巻/新作能・狂言・歌謡ほか、藤原書店、2013年、433頁。
(18)同『石牟礼道子全集・不知火』第一六巻/新作能・狂言・歌謡ほか、433-434頁。
(19)同『石牟礼道子全集・不知火』第一六巻/新作能・狂言・歌謡ほか、434頁。
(20)前掲『陽のかなしみ』、429-430頁。
(21)山本淑子「旅は道連れ」『道標』第61号、発行所・人間学研究会、2018年、118頁。
(22)同「旅は道連れ」『道標』第61号、117頁。
(23)同「旅は道連れ」『道標』第61号、118頁。
(24)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、248頁。