水俣病の出現と拡大、『サークル村』の創刊と参加、弟の死、日本共産党への入党と離党――これが、おおまかな一九五〇年代後半における道子の足取りです。労働者をつなぐ「表現」の場として、炭坑のある筑豊の地で谷川雁や上野英信、それに森崎和江らによって創刊された文芸雑誌が『サークル村』でした。谷川雁も同じ水俣の出身でした。この雑誌の創刊は、一九五八(昭和三三)年九月で、その二箇月後の一一月に弟を鉄道事故で亡くします。道子は、自分が置かれているこのころの状況について、こう書きます。
サークル村に参加することと、入党することは、いまだ書かれざる近代思想史がどうであれ、私にとっては突然湧いてきた美学でした。いえ、すべて混沌の内部にいつもいて引き裂け、つぎなる混沌を生みだす民衆のひとりとして私はそこにいました1。
道子はさらに、こうも書いています。
私はサークル村に入っててちょっと書いたり、谷川雁さんがやっておられた大正行動隊に行ってみたりしていました。短歌をやめかかっていたので、別な表現を獲得したかったのです。そのころ、自分を言い表せるものが何にもないと思って、いろいろ悩んでいました。結婚とは何ぞやとか。そして表現とは何かと2。
そこで、道子の足は、図書館へ向かうようになりました。水俣には、淇水(きすい)文庫と呼ばれる、徳富蘇峰が寄贈した図書館がありました。館長の中野普は、本や文献といったものにまるで知識がなかった一家庭婦人に、噛んで含めるように、一から十までを教示しました。最初は郷土史についての古い文献に関心をもつ道子でしたが、しばしば通ってくる道子に対して館長は、特殊資料室の書物を自由に閲覧できるように便宜を図りました。ここに、まさしくひとつの大きな出来事が待ち受けていたのです。道子は、そのときの衝撃を、このように文字にしています。少し長くなりますが、省略することなく、書き写します。
それまでの家庭生活にくらべてあまりに世界がちがうのに圧倒され、特殊資料室の大書架に誘われてたたずむうちに、ふと夕日の射している一隅の、古びた、さして厚味(ママ)のない本の背表紙を見たのである。「女性の歴史・上巻・高群逸枝」とある。われながら説明のつかぬ不可思議な経験というよりほかないが、夏の黄昏のこの大書架の一隅の、背表紙の文字をひと目見ただけで、書物の内容については何の予備知識もないのに、その書物がそのとき光輪を帯びたように感じられた。つよい電流のようなものが身内をつらぬいたのを覚えている。そのため、しばらくその書物を手にとることがためらわれた。ややあって、なにかに操られるような気持ちでそれを手にとるとかすかな埃が立った3。
時は「夏の黄昏」といいます。高群逸枝が亡くなるのが一九六四(昭和三九)年の六月です。であれば、このときの『女性の歴史』(上巻)との出会いは、逸枝が亡くなる前年の、つまりは一九六三(昭和三八)年の夏の出来事ということになります。「ハットして読みふけりましたが、興奮しましてね。かねてから私が思っていることに全部答えてある。それですぐ高群逸枝さんに手紙を書きました。そしたら逸枝さんは一カ月くらいして亡くなられました」4。
道子が逸枝に宛てて手紙を書いたのが、逸枝が亡くなる一箇月ほど前であるとしますと、一九六四(昭和三九)年の四月か五月ころになり、道子は三七歳になっていました。逸枝が、「森の家」に入居し、女性史研究に着手するのも、三七歳のときでした。ふたりの女性の再出発の時期が、偶然でしょうが、重なります。道子の文に、このようなものがあります。
一九六三(ママ)年冬、私は三十七歳でした。 ようやくひとつの象徴化を遂げ終えようとしていました。 象徴化、というのは、――なんと、わたしこそはひとつの混沌体である――という重たい認識に達したのでした。いまや私を産みおとした‶世界″は痕跡そのものであり、かかる幽愁をみごもっている私のおなかこそは地球の深遠というべきでした5。
この一文を、地球の起源に由来する、いまだ混沌体として現存する自分を含めての人間、とりわけ性を司る族母、そして混沌世界を描く文筆家――このことへの道子の自覚の第一歩として読むことも可能かもしれません。逸枝宛ての道子の手紙は、それを象徴するものであったはずなのですが、残念ながら、残されていないようです。後年、本人は、このような内容のものであったと回想します。「ともかく私のふだん思っていること、一番悩んでいること、一番つらいことに、逸枝さんのこの本は全部答えてくださっています、感謝しましたとか……まだお尋ねしたいことがいろいろあるとか、こんな本を読んだのは生まれてはじめて、と書いたと思います」6。道子が記憶するところによれば、憲三は「逸枝と二人で、あなたの話を、ちょこちょこしておりました」7という。これは、このとき出された手紙のことだったかもしれませんが、『詩と眞實』(通巻第百六十四号)に掲載された道子の「石の花」のことだったかもしれません。「石の花」は、「テレビ劇のための試作」という副題がつけられていて、筑豊のボタ山に生きる人たちを扱ったものです。発行日は、一九六二(昭和三七)年一二月二五日です。「石の花」について、道子は、このように書いています。「同じ時期、この夫妻は、ある同人雑誌にはじめて書いて『石の花』と題してのせた、まるでなっていない戯曲のつもりのものを読んで話題にしていられたということだった。その雑誌はわたしがお送りしたものではなく、たぶんその雑誌の発行者が同郷の先人に敬意を表して、森の家に定期的に送っていたものだった」8。
以下の文を読むと、図書館での偶然の邂逅が、いかに強い心的衝撃を道子にもたらしたかがわかります。
そのような出遭いが、水俣病問題とほぼ同じ時期におとづ(ママ)れて、わたしは、自分自身で名状しがたい何ものかに、突然変異を遂げつつあるのではないかという予感がしてこの頃内心異様な戦慄に襲われ続けていたのである。必然の時期が訪れたのだと言えなくもないのだった9。
高群逸枝の書物に遭遇したことは、決して単なる偶然ではなく、道子の生きづらさを感じる深刻な苦悩が引き寄せた結果だったのかもしれません。であれば、確かに道子にとって、生まれ変わって生き直すための、このときが「必然の時期」だったということになるでしょう。それ以降、異様な戦慄を覚えながら道子は、自身が名状しがたい何か別物に大きく変貌するにちがいないという予感を抱き続け、煩悶の時を過ごすのでした。
(1)石牟礼道子「高群逸枝との対話のために(1)まだ覚え書の『最後の人・ノート』から」『無名通信』No. 3、1967年9月、2頁。
(2)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、436-437頁。
(3)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、12頁。
(4)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、439頁。
(5)前掲「高群逸枝との対話のために(1)まだ覚え書の『最後の人・ノート』から」『無名通信』No. 3、1頁。
(6)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、440頁。
(7)同『最後の人 詩人高群逸枝』、439頁。
(8)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、13頁。
(9)同「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、同頁。