父親の一周忌が巡ってきました。納骨堂のある蓮政寺で法要を営みました。参列したのは、数名の身内のみでしたが、いつものように、広い本堂には、親、子、孫の三人の住職が鎮座し、厳かに読経が流れてゆきました。
私は両親のもと長男として生まれました。その四年後に妹が誕生しました。これが、この家族にとっての原形です。その後、子どもが成長し、それぞれに家庭をもつようになり、そこから子どもが生まれ、そしてさらに、その子たちにも子どもが誕生しました。私と妹は、昨年父親を亡くし、母親は、いま高齢者の施設で暮らしています。最初の原形が、七〇数年を経たいま、このような新しい形へと姿を変えたのでした。
明らかに人間も、生命体としてのひとつの種族です。いのちが終わり、新しいいのちがはじまります。それを数百年、数千年の単位で繰り返しています。そこには永久の時間が流れます。そして、その流れをひとつの空間に収めたのが、いま読経が流れている、このような寺院の本堂なのです。改めて、時間と空間の意味に思いを馳せることができました。しかし、その意味は、いまだ私にとって不明です。人は、不明だからこそ、一方の手に数珠をもち、一方の手で焼香をし、口で経文を唱えるのかもしれません。この行為が途絶えることなく、今日まで繰り返されているということは、生命体である人類にとっての時間と空間の本質は、いまだに万人にとって納得し得る正解が得られず、その本質の真の意味は、人類永遠の課題として、これから先も未解決のまま引き継がれてゆくことになるのでしょうか。そのようなことを、読経に耳を傾けながら考えてみました。
(二〇二二年一二月)
私の父親の実家の菩提寺は善行寺(浄土真宗)といい、熊本市の南に隣接した宇土市にあります。一方、母親の実家のお寺は、熊本市内の中心部にあります蓮政寺(日蓮宗)というお寺です。亡くなる前の父親の意向もあり、納骨堂は、この蓮政寺に設けました。一昨年の一二月に父は旅立ち、昨年の祥月命日に一周忌の法要を行ないました。
お寺から案内状が届きました。それによると正月の八日に、開運星祭の法要が行なわれるとのことでした。納骨堂を購入して以来、毎年この案内は届いていたのですが、「この機会に一度」と思って、参加してみました。参加している人は、およそ百人で、父親と子の計四人の住職によって読経が奉じられました。その間、小さなワゴンに乗せられた香炉が、係の人の手によって巡回し、一人ひとり手もとで香を焚きました。お経が読み上げられたあと、最年長である父親の老師住職からお言葉があり、スクリーンに映し出された映像とともに、開祖者の日蓮上人の逸話が紹介されました。帰りには、家内安全のお札とともに、お弁当と、このお寺特製の乾燥麵をお土産にいただきました。
この蓮政寺の創建は一五九八年で、永い歴史を有します。私は、今回はじめて星祭という法要に加わったのですが、長きにわたって開催されてきた行事のようです。日常生活にあって、私は、ついつい今日か明日、長くて数箇月先のことしか考えませんが、こうした法要に参加する人の観念のなかには、数百年に及ぶ時間が静かに流れているのかもしれません。非日常の別次元の空間に身を置いた短いひとときでした。
(二〇二三年一月)
ときどき温泉で会うと、どちらからともなく、よもやま話に興じる、ひとりの若い顔見知りが、突然亡くなりました。温泉仲間からそのことを聞かされたとき、瞬時に心のなかで、「二日前に会って話したのに、なぜ、どうして、まだ若いのに」と、叫ぶ自分がありました。彼は、週に三日、人工透析を受けていました。彼が温泉に来るのは、それ以外の曜日でした。彼の母親は高齢で、施設に入っていました。姉さん家族は、少し離れた別の地域に住んでいました。彼は小さいときのことをよく覚えていて、農家に生まれ、牛を飼って田を耕していたことなどを話していました。彼自身は、すでに農業から離れ、いまや秋になると、業者に頼んで機械で稲刈りをしてもらい、収穫の半分は、いつも姉さんのところに届けていました。そろそろ彼の四十九日が来ます。いまころどうしているだろうか。温泉に足を運んできそうな気もします。改めまして、合掌。
自分より若い人が亡くなった知らせを聞くと、本当につらい思いがします。またひとつ別の訃報が入ってきました。
スマホでニュースをチェックしていたら、高井美紀さんの死亡記事が目に止まりました。驚いたというよりは、一瞬凍りつきました。高井さんは関西の毎日放送のアナウンサーで、そのアナウンス力の確かさと番組進行の適切さは、多くの人が認めるところでした。私自身も神戸にいたころ、夕方の報道番組を担当する高井さんの落ち着いた、そして品のある姿に、いつも見入っていました。高井さんのご家族のお住まいは、私たち家族が住む同じ東灘区の岡本地区にあり、町を歩いていると、ときどき出くわすことがありました。有名人にありがちな、気取った感じは全くない人でした。報道によれば、享年五五歳。あまりにも早すぎる旅立ちでした。テレビを通じて日々その姿に接していた、関西にお住いの人たちのあいだには、何か空白感のようなものが、いま漂っているにちがいありません。惜しまれてなりません。心よりご冥福を祈ります。
(二〇二三年二月)
人の死に接すると、どうしても死を身近なものとして、思い巡らすことになります。最近は、こんなことを夢想することがありました。
思い描く場面は、この南郷谷地区の昔々の姿です。田畑と山林のあいだに連なって続く田舎道を、野良着の人や旅姿の人が、行き交っています。自動車がまだ走っていない時代です。見かけるのは、大八車くらいです。道路もまだ舗装されてはおらず、砂利と土の道です。両脇には、野の花が咲き乱れています。遠く見渡せば、阿蘇中岳の噴火が目に止まります。
よく見ると、路傍の片隅に倒れている人がいます。村人が集まってきました。彼らは、近くの空き地に土を掘り、そっと静かにその亡骸を入れて盛り土をしました。それがすむと、少し大きめの石を見つけてきて墓石とし、何種類もの野草を摘んできては飾りつけます。こうして、いつもながら手厚く、見知らぬ流れ者を遇しました。道行く人は誰もみな、無言で手を合わせます。さわやかな風が流れ、虫たちが鳴いていました。
これが、最近私の脳裏に去来した風景です。人の死が、夢や幻を誘発したようです。しかしながらこれが、潜在的に願う私にとっての理想形なのかもしれません。