中山修一著作集

著作集13 南阿蘇白雲夢想

第四部 日々好々万物流転(随筆集)

第一二話 病窓より

一.救急車に乗せられて

九月五日(火曜日)の午後、いつものように町役場に回覧文書を受け取りに行きました。総務課で用をすませ、庁舎を出て、駐車していた車のところまで歩こうとしたときです、急に歩行に加速度がつき、車まであと一歩というところで、足がもつれ、前に転倒してしまいました。意識はありました。しかし自力では、起き上がることができませんでした。見たら、もっていた役場の封筒の上に、少し血がついていました。どこから出血したのかはわかりません。気づくと、数人の役場の職員に囲まれ、名前などを聞かれたり、どうしたのかを尋ねられたりしました。そのなかのひとりは、以前に町が行なった集団診断で私を担当した保健師の方で、それ以来親しく声を掛け合う間柄で、すぐに私の身元を周りの人たちに紹介する声が聞こえてきました。そのときのみんなの判断は、このまま動かさずに、救急車を呼んだ方がよかろうというものだったようです。まもなくすると、サイレンを鳴らした救急車が到着し、ストレッチャーに乗せられ、車のなかに運び込まれました。かかりつけの病院を聞かれ、それに答えると、連絡されている様子でした。しかし、町内のその病院には、検査機器や入院設備が充実しておらず、そこで、比較的近くで設備が整った、隣り村にある阿蘇立野病院へ直行することになりました。車内にいる私の目には、壁と天井のあいだの窓から、青空がずっと見えていました。その間、いまの暮らしの様子や家族のことが問いただされました。三〇分くらいで病院に到着し、ただちにコロナウイルス感染症とインフルエンザなどの感染症の検査を受け、陰性との報告を受けて、検査室に運ばれました。

検査室では、CTやレントゲンを撮影したように思います。また、検温や血圧も測定され、採血もあったかもしれません。疲れのためか、あるいは病院に到着した安堵感のためか、少し意識が遠のいていたようです。検査室から病室へ移されました。ふたり部屋のひとり使用でした。ポータブルのトイレも、ベッドの横に置かれていました。しばらくすると、主治医の先生が来られました。丁寧にわかりやすく説明をされる方で、信頼を寄せるにふさわしい先生でした。点滴開始。そして、医師の問診と触診がはじまりました。幸いなことに、脳に損傷はなかったようです。また、封筒に付着した血痕は、左目の上の擦り傷からの出血が原因だったようです。病院に到着したとき、四〇度近い熱があったようですが、心当たりがないか尋ねられるも、自分でも理由はわかりませんでした。右足の足首の上が二〇センチくらいの幅でぐるりと赤く腫れ上がっていました。数日前から、痛みを伴う、そうした炎症の症状があることを伝えました。また、右足の膝に痛みがあり、そのことも伝えました。

その夜は、確か食事はありませんでした。提供はあったのかもしれませんが、食べた記憶が残っていません。痛みが激しく、ベッドから自力では起き上がることができず、ナースコールで看護師さんを呼んで、トイレの介助をしてもらいました。なぜ転倒したのか、なぜ高熱が襲ったのか、わからないまま、一夜を馴れないベッドの上で過ごすことになりました。

(二〇二三年九月)

二.一夜が明けて

夜が明けました。看護師さんから、この部屋は二階にあり、窓は東向きで、天気がよければ朝日が入るとの説明を受けました。九時前に回診があり、今日、痛みのある右膝のレントゲンを撮ることが告げられました。また、右足首上部を取り巻くベルト状の皮ふの腫れについては、原因がわからず、とりあえず痛み止めを処方するとのことでした。

夕方また回診があり、レントゲンでヒビが入っていることがわかった旨の報告を受けました。この病院には整形外科がないので、転院の必要があり、これから調整したいとのことでした。まだ、皮ふの痛みも、膝の痛みも、続いていました。これからどうなってゆくのか、少々不安に襲われました。妹夫婦が見舞いに来てくれたのが、一条の光りとなって、この日は終わりました。

次の日は木曜日でした。この病院は週に二回の入浴日が定められていて、今日はその日でした。看護師さんが迎えにこられ、車いすで浴場へ行きました。そこでは、順番に患者を浴室に入れ、介護用のいすに座らせて、介護士さんが頭から背中までシャンプーやボディー石鹸で洗い、そのあとシャワーで洗い流す一連の手順が決められているらしく、非常に手際よい機械的な作業で、数分のうちに完了しました。たとえれば、ベルトコンベアに乗せられて、芋の子を洗う光景でした。

夕方、回診があり、調整がついた整形外科の病院名が告げられました。ここから車で十数分の隣り町の街中にある大津中村整形外科という個人病院です。そこで、先生に申し出て、明日一番にこの病院を退院し、ただちに一度帰宅し、入院道具をそろえたり、生ものの処理をしたりしたうえで、新しい病院に行きたいとの希望を伝えました。こうして、明朝の八時半に退院することが決まり、妹夫婦が迎えにくることになりました。

昨日から病院食がはじまっていました。朝と昼は院内で調理したと思われる料理が提供されますが、夕食は、宅配給食業者によるお弁当でした。人件費の節約なのかもしれませんが、いままでに経験したことのない病院内の食風景でした。

(二〇二三年九月)

三.高熱と転倒の原因が判明

九月八日(金曜日)の早朝、予定どおり、妹夫婦が迎えにきて、一時帰宅しました。生ごみを専用の袋に入れ、一方、入院道具をキャスターのついた旅行用キャリーに詰め込みました。おそらく入院中は時間をもてあますことになることも考えられ、執筆を継続するためパソコンと簡単な資料も、専用のリュックに入れました。痛みはまだありましたが、前日のうちに、家から持ち出す品物のリストをつくっていたため、比較的順調に進みました。郵便物は、前日に電話をし、局留め置きの申請用紙を郵便受けに入れてもらっていましたので、それに記入しました。

いよいよ転院先の大津中村整形外科に向けての出発です。途中、ごみ集積場に寄って、生ごみを捨て、申請用紙をポストに投函し、いつも利用しています自動車の整備工場に立ち寄ってキーを渡し、車を役場の駐車場に取りに行ってもらい、整備のうえ退院まで預かってもらいました。事前に電話で事情を話していたので、これも順調に進みました。こうして、新たに入院する整形外科に到着しました。

紹介状を見ながら、院長である主治医から、今後の治療方針について説明がありました。手術は、この病院では毎週木曜日に行なわれているらしく、一四日(木曜日)に行なわれることがすんなり決まりました。そして、膝下の腫れの原因をはっきりさせたいということで、紹介状をもって近くの皮ふ科に車いすで行くことになりました。病院間で事前に連絡されていたらしく、スムーズに対応してもらいました。腫れた皮ふの様子をつぶさにみながら、これは「丹毒」という病気の症状ですと、担当された医師にいわれました。説明によると、目に見えない小さな傷口からばい菌が入り、皮ふが赤く腫れあがり、次第に高熱を発し、強い虚脱感に襲われることがあるようです。私の高熱と転倒は、この「丹毒」によるものでした。こうしてあっという間に原因が判明し、返事の手紙をもって、最初の整形外科に帰りました。

(二〇二三年九月)

四.膝骨折の接合手術

これまで私の手術歴は、三例ありました。最初は、文部省(現在の文部科学省)の長期在外研究員として一九九五年にイギリス滞在していたときに発症した尿管結石の手術です。手術翌朝に提供された、個室でとるフル・ブレイクファストがとても印象に残っています。あたかも英国の高級ホテルで楽しむルーム・サーヴィスのようでした。

次は、定年退職一年前の二〇一二年のがんによる前立腺の全摘出手術です。これは神戸大学医学部の附属病院で行ないました。執刀されたのは、いま神戸大学の学長をされている藤澤正人先生でした。「神の手」と称されるルネサンスの天才レオナルド・ダ・ヴィンチに因んで命名された最新の医療機器を使っての手術でした。

三番目の例が、二〇一六年四月の熊本地震から一箇月後に発症した心筋梗塞によるステントの留置手術です。これは、救急車で搬送された熊本市内の済生会熊本病院で対応してもらいました。無事に一命を取り留めました。私の住まいのある阿蘇山から昇る朝日を、病室の窓から望むのが日課となっていました。忘れられない思い出です。

いよいよ膝蓋骨の接合手術に向けて、さまざまな角度からレントゲンの撮影がなされ、主治医から施術の説明がありました。横方向にヒビは入っているので、縦に二本の金属のピンを入れて、それを膝の周囲に添ってワイヤーで固定するとのことでした。一方、麻酔医は外部からの訪問医らしく、前日に病室にいらして、麻酔についての説明がありました。そのなかで、親族のなかに麻酔に対して拒否反応を示した者はいないか質問されました。これは、イギリスでの手術のとき麻酔医から受けた質問と同じで、変に親近感を覚えました。しかし、緊張感は次第に増してきました。

当日、手術室に運ばれ、麻酔担当の医師と、一言二言、言葉を交わすと、そのまま眠りにつき、主治医の顔を見ることもなく、気がついたのは、自分の病室に移されたあとのことでした。しばらくして、主治医の先生が来られ、写真を見ながら、無事手術が終わったことが告げられました。消灯のとき、痛み止めの薬を点滴に入れてもらって、最初の夜に向かいました。激しい痛みがあると、事前に聞かされていたので、覚悟はしていたのですが、それほどの痛みはなく、したがって、一度もナースコールを使うこともなく、あっけなく次の朝を迎えることができました。後日そのことを主治医に話をすると、どうやら私の体質は、痛みに鈍感なのかもしれないとのことでした。

(二〇二三年九月)

五.入院生活

さっそく翌日からリハビリがはじまりました。右足が伸び切ったままで、まったく曲げることができません。少しずつマッサージをしながら、曲げ伸ばしの訓練がはじまりました。この段階では、健常な左足と同じ機能を回復することは、想像さえできないことでした。しかし、一日一日、足が動くようになりました。もちろん痛みが伴いますが、それも受け入れ、訓練に励みました。

歩行は、最初は歩行器、次に二本の松葉杖、それから一本の松葉杖、最後に普通の杖に変わってゆきました。病院内の廊下を、日に何度も歩き、病室では、リハビリで教わった訓練を自分で繰り返しました。足が次第に曲げられるようになり、そして、曲げた足を伸ばして、もとの位置にもどすこともできるようになりました。たとえば、ベッドに座るときは、左足は、膝を支点にして九〇度に折り曲げることができるのに対して、右足は、一八〇度に伸びたままで、少しも曲げることはできませんでしたが、それが徐々に曲げることができるようになり、左足と同じように直角に曲げることができたときは、何ともいえぬ感動が沸き上がってきました。

手術から一〇日が過ぎたころ、病室が二階から三階に移りました。四人部屋には変わりないのですが、使用者がふたりとなり、ここで窓側のベッドを使うことになりました。南向きで、阿蘇のある東から朝日が昇り、熊本市内のある西に夕日が沈みます。あるときの夕日は、忘れがたいものになりました。

病窓から望む南数キロ先に、東西に延びる高遊原と呼ばれる台地があります。手前は森林に囲まれ、その奥の様子は直接かいま見ることはできませんが、ここに、阿蘇くまもと空港があります。ときおり飛行機の離着陸時の音響が伝わってきます。

時間があるときはパソコンに向かいました。そのとき著作集14『外輪山春雷秋月』に所収予定の「火の国の女たち」を書いていましたので、旧稿のリメイクで、比較的資料を必要としない、第八章の「中村汀女の句誌『風花』の誕生と青鞜の女たち」と第九章の「志村ふくみの染織家への道を支える富本憲吉・富本一枝夫妻」を執筆しました。それだけではありません。少し前から頭に浮かんでいた、現在の全一五巻に新たに九巻を加えて全二四巻に組み替える構想を、より現実的なものへと一つひとつ検討を進めてゆきました。帰宅できたら、さっそく、ウェブサイト「中山修一著作集」を全二四巻に再編集したいと思います。これも、入院によって思わぬ時間を手にしたおかげによるものであるとするならば、不幸が幸に転じた一瞬とも理解することができます。

病院食はとてもおいしく、入院生活に彩りを添えてくれました。調理の方だけではありません。看護師さん、看護助手の方、清掃担当の方、みなさん親切で、本当に見知らぬ人びとに毎日の生活が支えられていることを実感しました。森のなかで独り生きる私は、すべてのことをひとりでしなければなりませんでした。しかし、入院によって別世界に移され、ここに温かい人の手があることを現実的に知ったのでした。

(二〇二三年九月)

六.一時帰宅と退院

手術からちょうど二週間が経過した九月二八日(木曜日)の午後、妹夫婦の車で一時帰宅しました。今後独りで家で生活ができるかどうかを確かめると同時に、退院に備えて車を病院までもってくることが目的でした。途中、預けていた整備工場に立ち寄り、車を受け取りました。久々に乗る車です。家まで自分で運転して帰りました。車の乗り降り、足の操作に問題がないことがわかりました。家では、杖なしで歩いたり、高い所にあるものや、逆に低い所にあるものを取り出したり、移動したりすることができるかを確認しました。リハビリのおかげで、手術をした右足は、日常生活をするのに支障がないほどに、痛みもなく、それなりに回復していました。

病院へ帰る道すがら、阿蘇の絶景を売り物にするレストランに入り、三人でお茶を楽しみました。それから、車二台を連ねて、病院に帰りました。帰ると、ナースステイションに立ち寄り、退院しても問題なく生活ができることを報告。これで、予定どおり、明日の退院が決定しました。この病院では、退院については主治医が決めるのではなく、患者自身が決めるようになっています。といいますのも、退院後の家庭生活の受け入れ体制が人によって異なるためです。そこで、ある程度回復したら、一人ひとりの家庭の事情に応じて、いつ退院するのが最適かの判断が、患者自身の手にゆだねられているのです。

翌日、朝食のあと、主治医の先生の最後の回診がありました。切開の箇所も問題ないとのことでした。その後、ナースステイションと受付に立ち寄り、事務的な手続きをすませ、車に入院用具を詰め込み、自宅へ向けて出発しました。次回の診察は、一週間後です。今後のリハビリは、自宅近くのリハビリ専門の病院で受けることにし、紹介状を作成してもらいました。転倒から二四日が過ぎていました。いよいよ自宅生活(自宅療養)です。ゆっくりゆっくりと、一歩一歩をかみしめるように、これより日々の暮らしを味わってゆきたいと思います。

(二〇二三年九月)

七.快気祝いの差し入れが届く

退院して三日後、思いもよらぬ快気祝いが届きました。重箱に入ったお赤飯とお惣菜でした。つくってくれたのは、これまでもときどき料理を差し入れてくれていた隣り村にお住いの「お母さん」です。かれこれ八〇歳とのことですので、私より五歳程度年上のお姉さんといったところでしょうか。実際には、まだ一度もお会いしたことはありません。届けてくれるのは、いつもその家のお嫁さんです。

そのお嫁さんの話によると、「お母さん」も半年前に転倒が原因で膝にヒビが入り、しかし、軽微なものだったため、手術はせずに、保存治療で回復したとのことでした。しかし、定期的にリハビリを続けていらっしゃるらしく、病院は、これから私がリハビリを行なおうとしている病院と同じとのことですので、ひょっとしたら、その病院で今後お目にかかる機会があるかもしれません。

足が不自由なため、思いどおりに料理がつくれなかったり、つくれたとしても、いつもの何倍もの時間を要したりの、のろのろ生活者です。手づくりの料理は、本当にありがたく、しみじみと人の思いやりが伝わってきます。前にも母の日のころに、「お母さん」の好きなユリの花を贈ったことがありましたが、近いうちにお礼の気持ちを添えて、またユリの花を届けたいと思っています。

(二〇二三年一〇月)

八.地元でのリハビリ開始、そして退院一週間後の検診

退院時に受け取った紹介状をもって、近所の南郷谷リハビリテーションクリニックへ行きました。この病院には、整形外科、リハビリテーション科、内科の三つの診療科があります。整形外科担当の先生は、他の病院から週に何回か来られる方のようで、事前に電話でアポをとっての初診でした。さっそくレントゲンの撮影をしました。手術は、うまく行なわれているとのことでした。次に、担当される理学療法士の先生からリハビリの進め方の説明があり、さっそく来週からリハビリに入ることになりました。話を聞くと、週二回程度のリハビリで二箇月の見通しになるとのことでした。リハビリに励み、もとの元気な姿で新年を迎えたいと、気持ちを新たにしました。

その翌日が、退院一週間目に当たり、手術をした病院に検診に行きました。ここでもレントゲンを撮りました。先生の説明によると、順調に回復しており、骨が少しくっついてきたようです。また、退院の日に採血した結果が出ており、炎症の程度を示すCRP定量の数値が標準値にもどっているとのことでした。先生から「若いですね」との言葉をかけられ、うれしいやら、はずかしいやら、返答に困りました。この日も採血があり、一箇月後の受診の予約をして、帰宅しました。

いまは、一、二時間机に向かっては、ひと休み、料理をつくっては、ひと休み、皿洗いをしては、ひと休みの生活です。どうしても動作や行動が連続しないのです。加えて、重い物や大きい物の移動はまだできません。庭の掃除も控えています。しかし、痛みも全くなく、おおかたのことはすべて自分できるので、疲れやすくはありますが、日常生活に支障が出ることはありません。ただただ、ひとつの動きに時間を必要とするのです。こちらでは「日にちが薬」という言葉をよく使いますが、日を重ねるごとに、あとは自然と治癒し、回復していくことでしょう。そう願っています。

(二〇二三年一〇月)