中山修一著作集

著作集13 南阿蘇白雲夢想

第四部 日々好々万物流転(随筆集)

第七話 ロシアのウクライナ侵攻を考える

一.ウクライナ考(1)

ロシアがウクライナに侵攻しました。私は、いかなる理由があろうとも、武力による他国の侵略に反対します。

一九世紀は、宗主国が植民地を支配するという、強圧と略奪の時代でした。二〇世紀は、ふたつの世界大戦による軍事力の衝突により、多くの尊いいのちが失われました。そのとき、非人道的な完全破壊兵器である核も使用されました。こうした、この二世紀にわたる近代の世界史的経験を踏まえるならば、一方が一方に攻め入り、支配し、生命と財産を奪う権利は、いかなる国であろうとも、もちえていないことは、明らかなる普遍的原理であると断言できます。

それでは、二一世紀に入った現在、武力による侵攻に対して、私たちは、どのような態度をとるべきなのでしょうか。

決して武力によって立ち向かってはいけません。それは、過去の世紀への立ち返りでしかなく、経験から導かれた英知の発露が遮断されることを意味するからです。それでは、どのような英知の発露があるのでしょうか。それは、対象国へ、それ以外の多くの国々が一致協力して、考えられうるすべての経済制裁を加えることです。これは、レッド・カードを意味します。次に、国連をはじめとして、すべての国や地域の国会や議決機関が、対象国の暴挙を批判する明確な声明を発し、同時に、とりわけ裕福な国は、侵略を受けた国への経済的支援を積極的に行ない、一方で、余儀なく発生した避難民を温かく迎え入れることです。それに加えて、一人ひとりの地球市民は、こぞって、すべてのソーシャル・メディアを駆使して、戦争反対の強固な意志を鮮明にし、あわせて、地球規模での募金活動に参加することです。

このように、多様な非軍事的な手法を結集して、この地球に生きるすべての人間はその強い意思を明確化し、侵攻国に対して、いま行なっている非人道的暴力行為を理性的判断のうちに中止させ、平和裏に生きる道を模索させる状況へと導いていかなければなりません。

二一世紀の時代に必要なことは、さらなる武器の生産や、まして核の開発ではなく、上で述べたような、武器や核に頼らない、地球規模での反戦にかかわる多様な意思形成手法が、さらに手際よく、そしてさらに有効的に展開されてゆかなければならないということにほかなりません。平和を愛する地球世論の不退転の意志の鎖が、経済性においても、実効性においても、蒙昧的で狂信的な軍事力に勝ることに気づかされたとき、そのときこの地球から軍事的侵略や戦争は姿を消すものと思います。私は、そうなる日が訪れることを心から願っています。武力に対抗するのは武力ではありません。そうではなく、それは、グローバルな理性的説得力と熱い批判の声とによる全地球的包囲網であることを確信しています。

いま熊本城の大天守と小天守が青と黄色にライトアップされたとのニュースが届きました。この二色はウクライナ国旗の色です。北と南で、あるいは東と西で、この地球をこのふたつの色に塗り分けられないか。いまこそ、グローバルな連帯と団結が必要とされているのです。

(二〇二二年三月)

二.ウクライナ考(2)

ロシアがウクライナに侵攻して二箇月が立ちました。私は、新聞もテレビも見ませんので、この間の詳しい様子はわかりません。ただ、スマホで読む内容が、唯一の情報を得る手段となっていました。

そもそもロシアがウクライナに侵攻した理由は何だったのでしょうか。伝えられる情報によりますと、もともとウクライナはソ連が解体される以前にあってはソ連の一部の領土であったことを強引にも理由として持ち出し、ロシアはいま、あってはならない武力の行使でもって、現状の変更を企て、ウクライナを自国の領土に編入しようとしているようです。また、ウクライナが欧米に接近する近年の姿は、国境を接するロシアにとっては安全保障上の脅威となり、それを阻止するためにウクライナの国土に無法にも足を踏み入れているようです。一方で、その行為は、一般市民をも虐殺し、公共物を破壊し、資産を略奪するに至り、その非人道ぶりが国際世論からの強い批判の対象となっていることもまた伝えられています。

なぜロシアは、無法な他国侵攻を止めないのでしょうか。どのような状況になれば、虐殺や破壊や略奪といった非人道的な残忍行為を中止するのでしょうか。これらはすべて、犯罪に相当するにちがいありません。それにもかかわらず、世界の多くの国々は、そして世界の多くの人びとは、傍観するしかない状態に立たされているのがいまの現実です。この現実に立ち向かう方途はないのでしょうか。

他方、「武力には武力で」という言葉が飛び交います。また、「第三次世界大戦」を予言する人もいます。果たして世界規模の戦争を望む人が、世界にひとりでもいるのでしょうか。誰ひとりとして地獄と化す大戦を望む人はいないはずです。ところが、誰も望まない、誰の益にもならない死の谷へ向けて、一部の人が奇怪な熱狂に侵されて、夢遊病者の集団のように足並みをそろえて突き進んでいるとすれば、その姿は、誰の目にも、愚かな行進に見えるのではないでしょうか。行進に加わっている一人ひとりが、自分の行為の愚かしさに目覚めるべきです。そのとき、その歩みは止まります。愚行に気づく英知、これが、唯一、戦火と犯罪を招来しない道であると確信します。そのためには、声を上げ続けなければなりません。声が封殺されてはいけません。

(二〇二二年四月)

三.ウクライナ考(3)

ロシアのウクライナ侵攻、そして、それに対するウクライナの自衛のための戦いが、いまなお続いています。その様相を見て、ロシアだけではなく、中国や北朝鮮と接する日本は、いまこそ武力の増強をする必要があると声高に主張する人が目立ってきました。それは、本当に正しい考えなのでしょうか。他方、一般論として、敵対国の戦闘能力に対して同等能力を保有し、均衡を保つことが、安全保障上の要として考えられていることも事実です。しかし、果たしてこれも、正しい考え方なのでしょうか。

しばしば指摘されていることです。敵対国が軍事力を増大すれば、一方の相手国はそれを脅威と受け止め、さらなる増強に走る。ここで均衡が保たれれば、それでいいのですが、一般的にはそれですむことはなく、それを見た敵対国は、それを非難し、いっそうの軍備を企て、それに対して相手国も、それに負けじと軍備の拡大を続ける。こうして、いわゆる脅威と怨念とから成り立つ敵対連鎖は歯止めを失い、いつしかどちらかが発砲し、戦争という悪夢の道が開かれてゆくのです。

そうした的を射た指摘を熟知しながら、そして、「誰も戦争は望まない」と表面上言い繕いながら、今日のわが国の指導者や批評家たちのなかには、ウクライナの現状を巧みに利用して、人びとの不安をうまくあおり、必要以上の軍備拡大という危険な道を選択しようとしている人が少なからず見受けられます。しかしこれは、明らかに、誰も望まない悲惨な戦争へと続く第一歩のように思われます。

それでは、私たちが選択しなければならない道は、どのような道なのでしょうか。いうまでもなくそれは、脅威と怨念による敵対的な負の連鎖を加熱させない道です。換言すれば、それは、反戦の意思と平和の尊さとを、日常的に世界と自分自らに向けて強く語り続けてゆく、強固で地道な道のりにほかなりません。このような主張をすると、絵に描いた理想主義にすぎないとして一蹴されてしまいそうです。しかし私は、そうは思いません。私自身は、これこそ、それ以外に選択肢はない厳格な現実主義であると思っているのです。

戦争によって人の安寧や幸せがもたらされるでしょうか。しかし人は、それがわかっていても、戦争をはじめようとします。それを戒め、その悪夢から目覚めさせるのは、言論しかありません。言論が、人を説得し、人の心を和らげ、人への信頼感を生み、その結果、人びとのあいだに安寧と幸せが醸成されるのです。多額の資金を使って軍事力の増大を図ることよりも、国連などの国際機関の場において、そして各国間のさまざまな外交の場において、言論による平和の維持に向けての日常的な努力こそが、より重要なのではないでしょうか。

人びとのあいだには、相手を憎み、制圧しようとする力だけではなく、相手を慈しみ、手を取り合おうとする力が存在していることを、私たちは決して忘れてはなりません。私たちは、この後者の力の存在を固く信じ、言論でもってこの点に強く訴えかけることによって、前者の邪悪な力を少なからず封じ込めることができるのです。これこそが、私たちが選び取らなければならない、現実主義的な安全保障の礎石である、と私は考えます。

いま一度、以下に、日本国憲法の前文の一部を引用します。この部分を、屈辱的であるとか、自虐的であるとか、受け止める人がいます。しかし、私の目には、人類が共通して永遠に保持すべき誇り高き理念が率直に表出されている、輝く一文のように映ります。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信じる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

私たちは、上に引用した憲法前文のなかのこの文言を、私たち日本国民の崇高な理想としてのみならず、世界市民の全き共通言語となるまで、決して努力を惜しむべきではありません。なぜならば、私は、これこそが、私たちが住むこの地球の安全保障にかかわる第一義の要諦であり、真の抑止力になると信じるからです。武器があっても平和は訪れません。しかし、誠実な言論と説得が展開されている限り、平和は持続します。人びとが求めて止まない平和は、人類の限りない日々の努力のなかにしか息づくことはないということを、改めて肝に銘じたいと思います。

(二〇二二年六月)

四.真の意味での安全保障

ロシアのウクライナ侵攻から四箇月が立ちました。スーパーに行くと、価格の値上がりが日々実感できます。ガソリンも高止まりしています。欧米とは真逆の金融政策に固執する日本政府は、一方で欧米に迎合するかのように、防衛費を二倍にする案を出しています。一度増額すれば、歯止めがかからなくなります。財源はどうするのでしょう。増税か、さもなければ社会保障費の切り捨てしかありません。いつしか消費税が現行の一〇%から二〇%になり、医療費が現行の三割負担から六割負担に変えられ、そして、年金が三割削減されてしまうようなことを想像するならば、防衛費の増額は、国民生活を破綻へと導く愚策としかいいようがありません。防衛費は、これまで国是としてきた必要最小限度に止めるべきです。

他方、国内の状況を見てみますと、海外に部品の供給を依存する国内の製造業は、その生産ラインが一部で止まっています。原油を海外から調達する日本は、猛暑が続くと電力の供給に赤信号がともります。同じく、自給力に欠ける農産物は、世界や相手先の事情によって、すぐさま高騰に結び付いてゆきます。

こうした状況を見て、若い人たちが、日本の行く末に希望が待てず、結婚を諦めたり、子どもをつくることに二の足を踏んだりするのも、当然のことなのかもしれません。総務省の統計予測では、今世紀末には、驚くことに、日本の人口は半分に減少するのです。

日本にとって本当の安全保障とは、何でしょうか。ロシアのウクライナ侵攻で浮足立ち、防衛費の増額を求めるのは、決して適切な安全保障とはいえません。これには、「いざとなったときに備えて」という、不安をあおるような文言がいつもつきまといます。しかし、これには、「武器満ちあふれて、国民死せり」という、見過ごすことができない結果がつきまとうのです。

今日的な安全保障にとって大事なことは、国民生活の本当の意味での自立化と安定化のために、国家としての基本構造を再生させることです。たとえばそれは、二酸化炭素を排出しない自然エネルギー生産への積極的な転換、国内完結型の部品供給網の可及即時的な構築、そして、農産物の生産自給率の飛躍的改善などを意味します。これらの政策はどれもが、生んで育てるのに時間がかかります。「気づいたときには、時すでに遅し」では困ります。勇気をもっていち早く決断し、粘り強く長期にわたって支援してゆかなければなりません。

防衛費を増額し、すぐにもその費用(国民が納める税金)を外国の購入先に支払って、防衛省の倉庫のなかに必要以上の武器弾薬を貯め込むことが、真の意味での安全保障とならないことは明白なように思います。

(二〇二二年七月)

五.改めてウクライナ考

ロシアのウクライナ侵攻から半年以上が立ったいまもなお、戦火が止む気配はありません。この間、多くの死者を出し、多くの人が他国へ逃れ、多くの施設が破壊され、そして、拷問に晒された人も、強制連行された子どもも、たくさんいます。人の苦しみや悲しみは、いかがなものだったでしょうか。もはや言葉さえ失われてしまいます。

ニュースを聞き、現状の一端を知るにつけ、人道に反した数々の行為が日々連続的に積み重なってゆく様子に驚愕します。銃弾に倒れた人の無言の無念さはいうに及ばず、銃口を向け死に至らしめた人の良心の呵責も、重く息苦しく人の奥底に沈殿してゆきます。当然ながら、ここに人間の幸せを見出すことはできません。ここにあるのは、それとは対極に存する、ぬぐいがたい苦痛と罪悪感にあえぐ人間の異様な叫び声のようなものであるにちがいありません。

人が人を殺し合う戦争は、人間の誇りや尊厳を根底から傷つけ、人間の安寧で喜びに満ちた生活を徹底的に破壊します。つまり戦争からは、誰一人として、人間らしい何かひとつのものさえも手にすることはできないのです。

そのことが教えるところは、すぐにも武器を捨て、以前の原状に復帰することです。これこそが、唯一残されている人間らしい英知の輝きであり、いま人間に求められている真の勇気の発露なのです。ウィリアム・モリスと富本憲吉の反戦の思想に倣い、私はそう確信します。

(二〇二二年九月)