中山修一著作集

著作集13 南阿蘇白雲夢想

第四部 日々好々万物流転(随筆集)

第一〇話 消滅か再生か

一.温泉が消える

私が住む高森町は、現在の人口は約六千人です。年間一〇〇人くらい人口が減っていますので、単純計算しますと、六〇年後には、この町に住む人はいなくなります。それほどまでに人口減少のスピードは速く、この間、学校は廃統合され、商店街はシャッターを閉めた店が目立って多くなりました。

数年前に、私が日々通っていた高森温泉館が閉鎖されました。赤字が続いていたためです。それ以降、私は、お隣りの村にある阿蘇白水温泉瑠璃に通うようになりました。しばらくすると、併設されていた宿泊施設とレストランが廃業となり、何とかいまは、温泉だけが生き延びている状態です。しかし、来月四月から料金が改訂され、四〇〇円が五〇〇円に値上がりします。一方、同じ南阿蘇村にある別の温泉がこの三月末で閉鎖され、高森町の別の温泉も二月から閉じられたままで、再開の見通しは立っていないようです。

もともと、私がこの南阿蘇を定年後の定住の地として決意したのは、その理由のひとつに温泉があることでした。私は退職の前年に前立腺がんを患い、全摘出の手術を受けていました。そこで、術後の健康回復が、私にとって退職後の喫緊の課題となっていたのです。こちらに移住してのちのしばらくは、午前と午後、日に二回温泉に足を運びました。その後一回に減ったものの、おかげで、その効果もあり、徐々に尿のトラブルが改善してゆきました。しかし、喜びもつかのま、今度は心筋梗塞が私を襲いました。いのちは取り留めましたが、退院後の体調管理に、引き続き温泉が欠かせないものになったのでした。

いま、周りの温泉施設が一つ、そしてまたひとつ消えています。もし、いま通う瑠璃温泉がなくなれば、私は行き場を失います。

(二〇二三年三月)

二.店舗の改装と再生

いまこの地にある、ひとつのコンビニとひとつのディスカウントショップが店を閉めています。こちらは閉店ではなく、積極的な営業活動の一環のようです。

この地の国道沿いには、短い区間に五店舗ものコンビニが軒を連ねています。おそらく客を奪い合う競争には激しいものがあるものと想像されます。ある日、私がよく使うコンビニに立ち寄ると、一箇月の休店を知らせる案内が張り出されていました。店の人に事情を聴くと、内装を一新し、品ぞろえを充実さえるためとのことでした。

この国道にはコンビニやスーパーだけでなく、ディスカウントショップも二軒、並んでいます。いまそのうちのひとつが隣接地に新しい店舗を建設しています。どのような内装に変わるのでしょうか。品ぞろえはどうなるのでしょう。そして、値段に何か変化があるのでしょうか。私もよく使う店だけに、幾つもの興味がわいてきます。

(二〇二三年四月)

三.大学の生き残り

人口減少の余波は、こうした小さな村や町だけに留まりません。新年度を迎えるこの時期、しばしば大学のことが話題に上ります。大学の定員割れが続いています。とりわけ女子大において深刻で、報道によりますと、すでに閉校を見越して、今後学生募集を停止する大学もあるようです。

閉校に至らないまでも、いま女子大では、定員確保に向けてさまざまな改革が試みられているようですが、そもそも定員割れは、どのような要因があって引き起こされているのでしょうか。幾つか考えられます。全体としていえることは、人口減に伴う受験者の絶対数が変化していることです。他方で、男女共学へ流れる受験生が多くなったことも、その要因として挙げられます。さらに、教養教育に重きを置く女子大にとっては、それだけではなく、これまで以上に女子の実学志向が強まっていることが、受験生の減少につながっています。

今後、各大学で進められている定員確保へ向けた努力が功を奏すでしょうか。それとも、やむなく閉校へと向かう女子大学の数が増えてゆくのでしょうか。生き残りをかけた厳しい現実に直面しているといえます。

(二〇二三年四月)

四.わが身を振り返れば

閉校になれば、その大学の卒業生の寂しさは、いかばかりのものでしょうか。少し、わが身を振り返ってみます。

私が入学したのは、東京教育大学農学部林学科木材工学専攻でした。当時、筑波移転に関して大学は大きく揺れ動いていました。学生運動の渦中にあって、学生も代々木派と反代々木派に分かれて対立していました。入学はしたものの、校舎は封鎖され、授業もなく、私はヨット部に入ると、千葉県の館山と神奈川県の葉山の地で、延べにして年間一〇〇日くらい合宿生活に明け暮れました。東京にいるときは、もっぱら家庭教師をして、学費と生活費を稼ぎました。そのようなわけで、大学に籍は置いていたものの、本当の学問というものに接することはなく、厄介者が追われるかのようにして、卒業しました。入学式も卒業式も経験することはありませんでした。そこで、学び直しのつもりで、大学院に進むことにしました。そこで新たに学んだのは、「工芸・工業デザイン」という分野でした。院生だったこの二年間は、大学も落ち着きを取り戻し、身の置き場所をやっと得たという感じでした。大学院修了後しばらくして、この大学は、文京区の大塚の地区から筑波の新天地に移転して、名称も筑波大学に変わりました。

大学院を修了すると、幸いなことに私は、神戸大学教育学部の美術科の助手として職を得ることができました。ここで、デザインの実技を教えました。多くの学生は、兵庫県内の中学校の美術の教師となって巣立ってゆきました。しかし、徐々に教師を志す学生が減少し、民間の企業に職を求める人が増える傾向に歯止めをかけることができませんでした。これは、教員養成系学部の機能不全を意味しました。その一方で、私が就職した当時は学部のみでしたが、その後、大学院の修士課程が、さらにその後、博士課程が設置され、私自身の教育と研究に課せられた職務内容も、次第に、実技を中心としたものから理論を中心としたものへと変わってゆきました。こうしたなか、全国的な教養部改組の動きを反映して、神戸大学においては、教育学部が発達科学部になり、教養部が国際文化学部へと衣替えしました。私が退職したのは、それからしばらくしてからのことです。そしていまや、発達科学部と国際文化学部が合併し、国際人間科学部という名称のもとに、新たな発展の道を探ろうとしているのです。

私が学んだ東京教育大学はいまはなく、教鞭を執った神戸大学教育学部も、もはや姿を消しています。その意味で、故郷を失った研究者として、私はいまを生きているのです。寂しくもあり、悲しくもあり、つらくもあります。しかし、現実を受け入れるしか、いまの私には何も残されていません。私に残されているのは、よそ見をすることなく、ひたすら学問を続行することです。しかしながら、よく考えてみますと、こうしているのも、いまは実在しないとはいえ、東京教育大学と神戸大学教育学部の過去の存在のおかげであるのかもしれません。母校はなくとも、この母なる大地がなければ、私の学者としてのいまはないような気がします。最後まで、誰にも頼らず、誰にも迷惑をかけず、流浪の研究者として、学問という険しい荒野を独り歩いてゆきたいと思います。

(二〇二三年四月)