中山修一著作集

著作集13 南阿蘇白雲夢想

第四部 日々好々万物流転(随筆集)

第一話 二度の震災に遭って思う

一九九五(平成七)年一月の阪神・淡路大震災から二一年目のこの年、突如として高森町に激震が走り、再び私は巨大地震に遭遇した。

私が南郷谷の東端に位置する高森町をはじめて訪れたのは、高校二年の終わりの春休みのときだった。同級生数名との日帰りのお別れ遠足といった感じだったが、鍋の平キャンプ場に向かい、眼前に広がる根子岳を前にしたとき、私はその凛々しさに圧倒され、これからはじまるであろう受験勉強のことも忘れ、ただただ、いつの日かこの地で暮らしてみたいとの思いに駆られていった。人生における若き日の衝撃というものは、このようなものなのであろうか。五〇年近く前の出来事である。

月日が流れ、一九九二(平成四)年の暮れに、高森町色見地区の牧野道を上った一角に小さな山荘をつくった。すぐ裏手の草原には牛が放牧され、根子岳もスギ林の合間からその力強さを垣間見せていた。夏や春の休みになると、いまだ小さい子どもたちが、野の花や虫たちを求めて庭先を駆け巡った。普段は、熊本市内に住む両親がしばしば好んで訪れ、私たち家族にとってまさにこの地は「地上の天国」であった。

阪神・淡路大震災が私たち家族の住む神戸を襲ったのは、それから数年後のことだった。家族は無事だった。しかし、部屋のなかは本棚も食器棚もテレビも、すべてが倒れ、床には物という物が散乱し、そのかたちをとどめないほどに無残な姿をさらけ出していた。すぐさまマンションの外に出てみた。いつもは静寂で、夏には心地よい涼風が吹き流れる通り道は、両側から家屋が倒壊し、瓦礫で塞がれ、先が見通せない、まさしく「地上の地獄」と化していた。ひと言の言葉も出なかった。思考が停止し、呆然とそこに立ちすくんでしまった。

二晩の避難所生活ののち、歩いて西宮まで行き、空路家族を熊本に住む両親宅に疎開させ、私は、昼間は職場の、夜は自宅の復旧作業にあたった。無我夢中だった。水道、電気が通り、最後のガスが使えるようになったのは、地震発生からおよそ二箇月が立っていた。復興の兆しも少しずつ見えてきた。いつしか季節も、厳しい冬の寒さが幾分和らぎ、穏やかな春の暖かさへと着実に変わろうとしていた。その間子どもたちは、おじいちゃんとおばあちゃんに連れ添われて、この山荘へも出かけ、春のはじめの阿蘇の大自然を満喫した。四月から小学三年生になる息子と小学校に入学する娘のふたりの子どもたちの目には、そのときの神戸と阿蘇との落差がどのように映っていたのだろうか。息子には、私が託麻原小学校の卒業生ということもあり、また、たくましく一生を生き抜いてほしいとの希望もあって「託麻」と名付けた。一方娘は、美しい阿蘇に因む「阿美」という名前をもっている。この音はフランス語で友だちを意味し、生涯よき友に恵まれてほしいという親の願いが込められている。

それからさらに歳月が流れ、二〇一三(平成二五)年の三月、三九年間勤務した神戸大学を定年により退職した。その間ぼんやりと定住を考えていた私は、最初の一年目を、神戸と山荘を行き来しながらの四季を通じてのお試し体験にあてた。ところが一年目が終わろうとする厳寒の二月、何十年ぶりという大雪がこの地を襲った。牧野道が雪で覆われた。町に出るために車は近くの公道沿いに置き、もはや道の姿さえも判別できない一面の銀世界を、コートと帽子と手袋に身を包み、竹の杖を頼りに、数日間この牧野道を歩いて往復した。歩いていると自然と体が温まり、一息ついて振り返ると、そこには長靴の足跡だけが無言のまま長く曲がりくねって残っていた。何か自分のこれまでの人生と重ね合わせるような感傷に浸った瞬間であった。

二年目の夏、ついに意を決して山荘の増築に取り掛かった。神戸の家財道具を入れるためである。すると増築の完成がそこまでに迫った一一月、今度は阿蘇中岳の火山活動が活発化し、それ以来火山灰がこの地区に降り落ちるようになり、重苦しい灰色の世界が広がった。屋根やウッドデッキ、車や庭に火山灰が積もり、窓も開けられない過酷な生活は、これまでに経験はなかった。数箇月間くらい降灰との悪戦苦闘の日々が続いたかと思う。それでも心身をいやしてくれたのは、阿蘇の自然の四季の美しさであり、温泉のぬくもりであった。こうしてやっとのこと、定年後三年目の昨年の夏を過ぎたころから、それまでイメージしていた安堵と静寂に満ちた山荘暮らしが営めるようになった。いよいよ待ち望んでいた新生活のはじまりである。

しかし悲しいかな、それもつかのまのことであった。この四月一四日の夜半、大きな揺れが眠りについていた私の身体を強く揺り動かした。そうでなかったことはあとでわかることになるが、そのときは一瞬、阿蘇が爆発したと思った。夜が明けるとともに、すぐに私は車を走らせた。熊本市内に住む老齢の両親の安否を確認するためである。室内には少々の落下物が散乱していたものの、ふたりとも無事だった。取り急ぎ、割れ落ちた危険物を除去し、安全を確保すると、折り返し山荘にもどり、自宅家屋の損傷の有無を調べ、そのあと、明日再び両親の家に行くために、差し入れの料理をつくった。メニューは、天ぷらと鶏のからあげ、そしてポテトサラダだった。それからそのままベッドに入った。

すると、有無も言わせぬ強い力が再び、私の眠りを破壊した。形容しがたい家のきしむ音、物が落ち割れる音、そしてすべての明かりが奪われた。日が変わった一六日未明のことだった。のちにこれが本震であることがわかったが、完全に生活は無の状態となった。二一年前の神戸での体験の再来であると瞬時に思い、覚悟を決めた。懐中電灯ひとつで不安な数時間を過ごし、外が明るくなるのを待って、とりあえず状況把握のために町役場に向かった。ところが例の牧野道の途中で大小五、六箇の土の塊が崩落し、道を塞いでいた。車を止め、どうにか車が通れる幅まで自分の手で土石の撤去を行なったものの、これは単なる入り口であって、極めて過酷な生活上の困難がこれから待ち受けていることは、すぐさまそこからも読み取ることができた。何とか町役場にたどり着きはしたが、職員は一四日に発生した地震の対応に追われ、さらに新たにいま何が起こって、これからどうなるのかといった見通しを語ってくれる人は、一六日の早朝にはまだ誰もいなかった。そうした、情報のない虚無的空白状態が数日間続いた。外部との連絡は、役場に設置された緊急用の仮設電話だけだった。両親、妹夫婦、子どもたちと連絡がとれたことだけでも、ありがたかった。両親は、余震を恐れ夜は近くの病院のロビーに避難し、日中は妹夫婦の家で過ごしていた。地震の恐怖で体調は思わしくなかった。道路が寸断され、ガソリンも残り少なく、余震や雨も続き、すぐにも熊本市内に入れる状況ではなかった。

しかし、予想していたよりも、高森町の復旧は比較的速かった。高圧発電機車による送電が開始されたのは、三日後の一九日のお昼過ぎのことだった。ガスはプロパンなので最初から問題はなかったが、水も、通電したおかげで地下水を汲み上げるポンプが安定的に作動しはじめた。この日には、情報を得て、高森峠を越えた蘇陽にあるスタンドまで行き、給油することもできた。翌日には仮設の光ケーブルが通じ、これでパソコンが使えるようになった。スーパーでも少量ではあるが、品物が並んだ。頼みの綱とでもいえる携帯も、さらに遅れはしたものの、その数日後には使えるようになった。こうして、私の住む山荘についていえば、一六日の本震からほぼ一週間後には、インフラや通信手段が復旧し、食料、ガソリン等の確保も可能となった。

そのあとすぐに熊本の実家に行った。見ると、外壁の数箇所に亀裂が入り、屋外の給湯器は倒れ、玄関入口周りのタイルが剥がれ落ちていた。室内は、見る影もない無残な姿を露わにしていた。その日からというもの、私は、片づけのために毎日実家通いをすることになった。阿蘇大橋が崩落し、俵山トンネルも落石のため不通となり、熊本市内に入るには、南外輪山を越えるグリーンロードのみが通行可能となっていた。

グリーンロードの地蔵峠を越える手前に展望所がある。そこからの南阿蘇の南郷谷の眺めは、何物にも劣ることはないであろう。誇るべき絶景なのである。しかしいま、目を西端の立野方面に移すと、地滑りの跡と思われる山肌がむきだしになっている【図一】。さらにこのグリーンロードの先には、被害が大きかった西原村と益城町がある。何の手助けをするわけでもなく、連日素通りすることが、ある種の罪悪感めいたものを引き起こす。希望を捨てずに、いましばらく耐えてほしいと、ただ祈るばかりだった。

私が山荘生活を進めるにあたってモットーにしたのは、「あわてず、あせらず、あきらめず」であった。もし、豪雪と降灰と地震が同時に起こったならば、どうなるであろうか。山奥に住む私の命は、暖がなく、食料が途切れ、外との通信もできず、数日ともたないであろう。それでもこの地で生き抜きたいと思う。この間、慰めとなったのは、庭に咲く、白やピンクの大輪のシャクナゲの開花であった【図二】。自然は確かに怖い。しかしその美しさは、いつも人を和ませる。二度の震災に遭遇した私は、自然に対しても人に対しても、抗うことなく、率直に生きることの喜びを感じ取ることができる自分でありたいと、ひたすら願っている。

昨秋の託麻に続いて、五月四日は阿美の結婚式である。この原稿を無事に書き上げ、明日の三日、私は東京へ向けて熊本を発つ。その後は、病身の両親を支え、いままでどおりの自立した生活ができるようになるまで、しばらくは寄り添っていきたいと思っている。定年後の楽しみにしていたウィリアム・モリスと富本憲吉のさらなる研究は、いまだ遮断されたままである。「あわてず、あせらず、あきらめず」、その日が来るのを静かに待たなければならない。


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図1 南外輪山地蔵峠からの南郷谷の眺め。左手に土砂崩れの痕跡が認められる。(4月29日に執筆者撮影)

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図2 地震前日に庭に咲きはじめた山荘のシャクナゲ。(4月13日に執筆者撮影)


【初出:「二度の震災に遭って思う」『KUMAMOTO』No. 15号、くまもと文化振興会、2016年6月、29-33頁。】